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書簡を届けるという役目がなくなった今、ビビアンの男装セットはクロゼットの奥にしまいこまれた。勉強は継続しているものの、ドミニクのチョイスはビビアンにとって一歩物足りないものが多い。いっそ国立図書館へと思うものの、弟の知り合いと会ったら面倒なことになるだろうからできない。ドミニクもビビアンと間違えられるのは嫌なようだし。先日のことを思い出してすっと心が冷える。
賭けはビビアンの勝ち。ドミニクもそれには納得した。それから紳士クラブではエーリヒとどんな話をしたのか教えてもらった。ドミニクらしく、勉強の話は一切しなかったらしい。ただ流行り物の話や留学先、ルドシャーク帝国での生活などをよく聞いていたそうだ。それからビビアンの話。なるべく淑女らしいところだけだけど、とドミニクまだ納得のいかない顔をしている。その顔を見るとビビアンは少しばかり気が晴れた。
ちくりと刺さる棘はあるけれど、いつまでもかまけてはいられないと空元気を出す。
「ねえ、ドニ。賭けはわたしの勝ちだね」
「何度も言わなくても分かってるよ。お見合いなんて勧めない」
「逆だよ、ドニ。わたしがドニに勧めるんだ」
「おれ!?」
よっぽど自信があったのだろう、心底驚いたという顔をしている。ふふっと笑いがこぼれた。
「だって男性の適齢期は35、6歳だって」
「いま紹介したいんだ。会うくらいいいだろう? なにせ人生のチャンスだし」
「確かにそう言ったけど」
「じゃあ決まり。先方と調整するから今度の休みを教えて?」
ドミニクのスケジュールを確認して、お見合いの準備をすすめる。お見合いとはいうものの、未婚の女性にそんな大げさなことはできない。せいぜいお茶会と称して相手を呼ぶくらいだ。そこで偶然いた弟を紹介する、というシナリオである。
持っているレターセットの中から一等いいものを選ぶ。先日のお礼などを述べ、お茶会への招待状を書き上げる。それから片方しかないイヤリングを同封してクラッグ公爵家へ届けるように家令に言いつけた。乗ってくれるかどうかは相手次第。つれなくされても仕方のない身分差であるが、多分あの少女は断れないだろう。いいところの令嬢なのにイヤリング片方で戸惑っていた彼女なら。
数日して届いた返事は、可愛らしい薔薇模様のレターセットに楽しみにしていますの文字があった。お茶会用の特別な茶葉とお菓子を取り寄せたかいがある。ドミニクにも手紙を出して、確かに帰ってくるようにと伝える。庭師には裏庭でお茶会を開く旨を伝えて、いつも以上に庭を美しく保つようにお願いした。あとは昼用のドレスを見繕うだけだ。
当日まではあっという間だった。軽く昼飯をつまみ、緑のドレスに身を包む。コルセットとペチコートのお陰でふんわりとしたラインが出来上がった。化粧をしてつばの大きな帽子をかぶり、来客に備える。ドミニクには来客後適当な時間に裏庭にくるように告げてある。準備は完璧だ。
時間より少し前に少女は訪れた。お付きの女性は親族だろうか。おなじ燃えるような赤髪でも、おどおどとした少女と違い堂々として少しきつめの印象を受ける。
「本日は、お招きいただきましてありがとうございます」
「よくいらしてくださいました。こちらへどうぞ、パトリシア様」
公爵家の三女、パトリシアは今日はクリーム色に薔薇色の刺繍の入ったドレスを着ていた。色が被らなくて内心ほっとする。
裏庭の木陰にあつらえられた一番いい席に案内する。お付きの方は少し離れたベンチに腰掛けて、優雅に扇子を広げてた。
いつも刺繍道具や勉強道具に占拠されていた机にはテーブルクロスが引かれ、様々な菓子が並べられていた。侍女が一礼してお茶を注ぐ。パトリシアの仕草はお手本のように洗練されていて、ビビアンは内心感心した。
「あの、本日は、二人だけなのでしょうか?」
「ええ。お手紙で伝えた通り、内緒のお茶会です。たまにはいいでしょう?」
ね、と笑いかければパトリシアはあからさまにほっとしたようだった。伯爵家と公爵家では付き合いの幅も相手も違う。下手に人を呼んでこの少女と会話できなくなるのは嫌だったので、先だって伝えておいたのだ。
しばらくはお茶がおいしいとか珍しいお菓子の話題など当たり障りのない話をした。消え入りそうな声で話す少女の発言をゆっくり聞いて、合いの手を適度に入れているうちに緊張がほぐれたらしい。
「ここのお庭は素敵ですね」
「ありがとうございます。嬉しいですわ」
「うちの庭とはまた雰囲気が違って……どう言えばいいのでしょう?」
「ここはなるべく自然に近づけた雰囲気を心がけておりますの。お爺様が領地を恋しくなって作らせた庭なんです」
「まあ……!」
少女ぽかんと口を開けたのがなんとなくわかる。タウンハウスでこういった庭は珍しいだろう。公爵家にあるような理路整然とした庭の方が好まれるのは知っているものの、我が家にはこの庭しかない。そしてビビアンは、この庭だって充分魅力的だと信じている。
「もしよろしければ、一緒に歩いてみませんか? のばらが咲きはじめですの」
「のばら、ですか?」
「お嫌いかしら?」
「まさか! 大好きです」
ビビアンは心の中でガッツポーズをとる。薔薇のようだと褒められて喜び、薔薇模様のレターセットを使う少女。おそらく好きだろうとあたりを付けて探しておいたのが役に立った。お茶会はホストがどれだけお客様を喜ばせられるかが勝負だ。そっと手を取って、のばらを見に行く。お付きの人は動かない。そのくらいなら許される、らしい。
「パトリシア様、わたしひとつ黙っていたことがありますの」
「なんでしょう?」
「今日、弟が帰っていまして。ご挨拶に参ります」
ひゅっと息をのむ音が聞こえた。パトリシアが予想外のことに弱い、というのはなんとなく分かっていた。だけどこれは招待状には書けないこと。だからこうして心構えをしてもらうのだ。
「驚かせて申し訳ありません。ですが、一度は出会った相手です。大丈夫、あなたを傷つけたりはしない子です」
「あ、あの……わたくし、急なことでどうしていいか」
「なにもしなくていいですよ。ただ、顔だけは見ておいてください」
「お顔を……?」
「きっとびっくりしますわ」
フレイベルグの双子を見てびっくりしない相手は少ない。公爵家の三女様は扇子で顔を隠してうつむいていらっしゃったから分からないだろうけれど、ちょっとしたいたずらのようなものだ。
テーブルに戻り椅子に座れば、侍女がまたお茶を注いでくれた。そろそろだろうか。パトリシアがそわそわとしているのが分かる。そっと横に座り直し、扇子で口元を隠す。
「若い子ですから、婚約などはまだまだ先と考えていますの。ですから、珍しいものを見たと思っておいてくださいな」
「は、はい」
「それから他言無用と先に言っておりますから、本当にダメなら逃げても大丈夫ですのよ」
「いえ、その。ちょっとだけ見てみたいな、って」
「ありがとうございます」
にこりと笑えば硬いながらも笑い返してくれる。小動物みたいだな、と改めて思う。
さく、さく、と短い草をかき分けて歩いてくる音がする。ドミニクは言いつけ通り紳士服をまといこちらへと向かってきた。
パトリシアが小さく悲鳴をのみこむ音が聞こえる。慌ててドミニクにジェスチャーで止まれ、と合図をする。弟は小首をかしげながらもその場で歩みを止めた。
「あの、あの、ビビアン様。わたくし、あの」
「落ち着いて、パトリシア様。ダメそうなら下がらせるから大丈夫よ」
「いえ、いえ。呼んでください。お願いします」
「え、ええ。そうおっしゃるのなら」
ドミニクがどうしたのだろう。顔なら同じものがここにあるからびっくりするのは分かる。でもパトリシアの動揺はそれ以上のものだった。
ドミニクにおいで、と合図する。ゆっくりと歩いてくるドミニクを見て、パトリシアはどんどん扇子のかげに隠れていく。それでも目だけはしっかりとドミニクをとらえているようだった。
テーブルの反対側、2、3歩離れたところからドミニクが声をかける。
「先日ぶりですね、パトリシア嬢。フレイベルグのドミニクです。今日はまた可憐な格好をしていらっしゃる。そちらもよくお似合いですね」
「ひゃ、ひゃい。パトリシアです……」
どうにも会話にならない。ビビアンはあわてて口元を扇子で隠し、パトリシアに話しかける。
「弟が何かいたしました?」
「いえ、その。あの、前に話した一番目の方です……」
一番目の。さっと記憶をひっくり返す。短期間に惚れたという一番目の人についてはほとんど情報がない。なにを聞いたのか考えているうちにパトリシアが勇気を振り絞った。声も若干裏返っていた。
「先日は、助けていただいて、ありがとうございます」
「いえ、紳士たるもの当然ですよ」
今度はビビアンがきょとんとする番だった。弟に目線をやれば、心得たものでもう少し情報を出してくれる。
「公爵家主催の夜会でもあのような失礼な方がいらっしゃるのですね。パトリシア嬢はあまりひとりで行動しないほうがよろしいかと」
「え、あ、はい」
パトリシアが口ごもる。それじゃない、と心当たりのないと言わんばかりの態度にビビアンが助け舟を出す。
「あら、ドミニクったらいつの間に騎士様の真似をしたの? 教えてくれてもよかったじゃない」
「こんなこと、うわさにでもなったら公爵家にもパトリシア嬢にも失礼でしょう? それにしても、名乗らなかったのによく私だと分かりましたね」
「い、いえその、」
ビビアンはようやくひらめく。三番目に惚れたという方。ドミニクのことだったのか。慌ててパトリシアに伝えれば、金色の瞳がこぼれそうなくらい大きく開いた。
「声が、同じでしたので」
なんとか辻褄を合わせて、弟との面会を終わらせた。ドミニクはと言えば始終不思議そうな顔をしていたのだけれども、挨拶も終えたのだし、もう少し女同士で話があるのと言えばあっさりと下がった。パトリシアは真っ赤になった顔を扇子で一所懸命に冷ましている。どうしても気になって、ビビアンはパトリシアに声をかける。
「あの、弟はどこであなたを?」
「街の市場で助けていただいたことがあるのです……その時に、刺繍を褒めてくださって」
また赤くなるパトリシアの話に、あったなあそんなこと、とビビアンは自分の所業を思い出す。あのときはエーリヒのところへ行った帰りで男装をしていた。助けた少女は服装から中流階級あたりの子だとばかり思っていた。まさかこんな偶然が重なるとは。ドミニクごめん、ビビアンは内心で弟に謝り倒す。そうしてパトリシアに内緒にしたまま、もうひとつの事実を告げる。
「あの、パトリシア様……。驚くな、というほうが無理な話をいたしますね」
「わたくし、もうこれ以上驚けませんわ」
「いえ、その。先日の夜会で咲きたての薔薇みたいと貴女を褒めたの、うちのドミニクですの」
今度こそパトリシアの悲鳴が上がった。