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「賭けの決着をつけよう」
そう言ってドミニクはエーリヒに会いに行った。ビビアンにとっては結果の見えた勝負。どっちだと思っているかなんて確認すれば、もうエーリヒの部屋へは行けなくなるだろう。
どのみちこの先はお茶会と夜会と舞踏会で忙殺されるし丁度いい。会いに行けないのは憂鬱だけれど、ずっと彼を騙していたのだ。絶縁されないで、できれば外で会った時には友人の姉として会話ができるといい。
虫のいい話だと自嘲して、空色のエプロンドレスをひるがえし借りた本を片手に裏庭へと向かった。
季節は春、なんともうららかな日だった。裏庭の一番いい席に腰掛けて、いつも通り勉強に励む。これから新しい本をどうやって手に入れようか。ちらりと不安がよぎるものの、そのときはドミニクに掛け合えばいい。まずは目の前の本へと集中しよう。
どれくらいたっただろう。すっかり冷めたお茶を飲み干す。外はまだ肌寒い。おかわりでも貰いに行こうかと考えたとき、馬のいななきが聞こえてきた。
父か弟か、それとも別の方か。誰にせよ表に出ない方がいいだろうと浮かせた腰を落とす。どたどたと歩く音が大きくなってきて、小首をかしげる。弟はこんなに無作法な子だっただろうか。
「ビビ! ビビアン!」
「おい離せドミニク!」
想定外の声がした。エーリヒだ。ドミニクがエーリヒを連れてきた。しかもこちらに来るらしい。慌てて本を閉じ貴族名鑑を上に乗せる。淑女の読んでいい本なんてこれくらいだ。気分転換にと持ってきたものが役に立った。
「ビビ!」
「どうかしたの、ドニ」
「聞いて、聞いてよビビ! エーリヒがひどいんだ!」
「どっちがだ誘拐犯め」
これでもかというくらい混乱したドミニクに、ビビアンは目を瞬かせる。それから無理やり連れてこられたらしい眉間にしわをよせたエーリヒを見て、まずは弟をなだめる作業に取り掛かる。
「ドニ、少し落ち着いて。話はちゃんと聞きますから、そこへ座って。ね?」
「でも!」
「座って。エーリヒ様、弟が失礼いたしました。申し訳ありませんが、どうかもう少しだけお付き合いいただけませんか?」
「……いいだろう」
何事かと追いかけてきた家令にお茶の支度を頼み、ビビアンは改めて二人と向き合う。うずうずと口を開きたそうにしているドミニクと、反対にむっすりと黙り切ったエーリヒ。必要なのは時間だ。弟は聡い。少し時間を置けば、きちんと筋道立ててしゃべることができるだろう。
運ばれてきたお茶を一口飲んで、ビビアンは切り出した。
「それで、エーリヒ様。ドニはなぜこんな状態に?」
「分からん。いつも通り書簡を貰って、放っておこうとしたら声をかけられてな。少し話したらこれだ」
「それは……。重ね重ね失礼いたしました」
「そんな薄情者に頭を下げることないよ」
ほほをいっぱいに膨らめたドミニクが横から口をはさむ。アイコンタクトで黙ってと伝えたものの、ドミニクはそれを無視した。
「ビビはさ、紳士クラブって知ってる? おれあるクラブの常連なんだけど」
「男性の社交の場でしょう? 貴方が常連なんて知らなかったわ」
「そこ、エーリヒもよく来るんだ」
「まあ」
ビビは目を見開く。隠し事のない双子だと思っていたけれども、ドミニクはドミニクですでに自分の人脈づくりを始めていたらしい。そういえば、お茶会の内容はドミニクには伝えないものな、と自分のことをかえりみる。
そして、暗にエーリヒと会っていた、という言葉。こちらの方がずっと衝撃的だった。どうりでドミニクは妙な賭け方をした訳だ。彼は自分が知らないエーリヒを知っていて、書簡を届けるビビアンとの違いを暗にほのめかしていたのだろう。この場に及んでひとつ疑問が解ける。そうして彼がエーリヒに腹を立てている、ということはつまり。
「エーリヒとはたまに喋るしさ、おれ仲良くやってると思ってたよ」
「それについては特に異存はないな。書簡も届けて貰っているし何が気に障ったんだ」
「そこだよ!」
ドミニクはばらしてしまうつもりだとビビアンには分かった。双子で間違えられることはビビアンには嬉しかったのだけれども、ドミニクにとっては苦痛だったのだろうか。だとしたら、ずっと悪いことをしていた。
「ドニ、ドミニク。見ていただいた方が早いわ」
「ビビ?」
「エーリヒ様。少々お待ちくださいね。弟が腹を立てているわけをお教えします」
席を立ち、一礼して自室に戻る。
しゅるりと上げた髪をおろし、リボンでひとつにくくる。普段着ならひとりで着替えられる。エプロンドレスから弟そっくりの紳士服に身をつつみ、鏡の前で笑う。ひどい顔だ。誰にも言えない内緒の話はもう終わり。分かっていたでしょうビビアン・フレイベルグ、鏡にそっと話しかける。魔法はとけた。後はネタ晴らしをすれば、彼らの友情は守られるだろう。
重い足取りで裏庭へと向かう。
「ごめんごめん、待たせたねエーリヒ」
紳士らしく一礼して見せれば、彼は切れ長の目を思い切り開いた。そうして横に座るドミニクと、男装したビビアンとを何度も比べ見る。ドミニクはと言えば相変わらずほほを膨らめたまま、いじけて手元の貴族名鑑を閉じたり開いたりしていた。
「お前は……」
「そう、フレイベルグ伯爵家のものだよ。君の蔵書に目がくらんだうつけものとも言う」
「ビビは別に悪くないよ」
「ドニ。それからエーリヒ。この件に関しては一切がわたしのワガママによる不敬なんだ」
呆然とするエーリヒを前にして、過去どうやって彼の部屋までたどり着いたのかを述べる。幼年女学校、エーリヒが留学している間、帰ってきて書簡を届けること。彼の前でドミニクとしてふるまった事実を淡々と告げていく。
「君の経歴に傷をつけるような真似をしてすまない、エーリヒ」
「……そこまでして、何故」
「君の部屋があまりにも魅力的だったから」
「ビビは勉強が本当に好きなんだ、おれと違って。だからエーリヒは気付いていると思ってた」
ふてくされたドミニクがそっと補足をしてくれる。ビビアンは苦笑いをして、再び頭を下げた。
「できることならなんでもしよう。それで償いになるというのなら」
「本当に、俺の部屋に来ていたのはおまえだったのか」
「ああ。どうしたら証明できるだろうね。でもね、あの本に征服された部屋で勉強していたのは確かに私なんだ、エーリヒ」
「ルドシャーク帝国の話は覚えているか?」
「もちろん! 国境をこえた花嫁という道が開けたのはあの瞬間だ」
「まってそれおれ聞いていない!」
エーリヒはじっとこちらを見定めている。ビビアンもじっと見つめ返す。騒ぐドミニクには外国へ嫁ぐ道を考えていると言ってなかったかな、と思うものの後でいいかと流した。
夜明け前の冬の海みたいなアイスグレーの瞳が好きだった。朝日を浴びてなお暗い、ピンとはねる黒髪が好きだった。カリカリと響くペンの音、時々髪をかきむしる仕草。そびえたつ知識の壁から決して逃げない背中。ああ、そうか。ビビアンはようやく気が付く。あの楽園みたいな部屋で一等好きになったのは、エーリヒの存在そのものだったんだ。
気付いた瞬間失恋するというのはずっと騙していた罰だろうか。ビビアンはひっそりと自嘲する。
「……外で会うときと部屋に来るとき、少し雰囲気が違うとは気付いていた」
これはビビアンにとって少々驚きだった。エーリヒはゆっくりとうつむく。
「しかし外面がいいのだとばかり思っていた。さっきの話も、弟から聞いたとすれば俺の部屋に来たと証明するすべはないな」
「そう、ないんだ」
フレイベルグ家の双子は字もそっくりで、声のトーンを下げたビビアンと常に高いトーンでしゃべるドミニクの声を聴き分けるのは困難だ。見た目は言わずもがな。紳士クラブで会っていたエーリヒが間違えるくらいにはよく似ている。
「でもこれでおしまいだ。これから君に書簡を届ける役目は正しくドミニクが行うよ」
「そう、か」
「長らく騙して済まなかった」
「ひとつ聞いていいか」
もう一度顔をあげたエーリヒのアイスグレーの瞳が揺れる。
「おまえは俺の、なんだ?」
「わたしは君の、友人の姉だよ」
初恋の終わる音が確かに聞こえた。再び礼をして、今度こそ部屋へと帰る。本は後で回収しよう。今は休息が欲しかった。