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なるようになれ、と普段なら言うところだ。
しかし今夜は公爵家主催の夜会である。流石のビビアンも少しばかり緊張していた。
ドレスは今年初めて着る新しいものを。桃色とも紫色ともつかない色は父の推薦で、領地の高山に咲く花をイメージした。肩をぐっと露出して、胸がないぶん大きめの花のコサージュでごまかしている。くるりと回れば広がる刺繍びっしりのすそと縫い付けられたビーズがきらめく。コルセットを限界まで絞ったおかげでウエストの背中側、黒いリボンが引き立っていた。
「どう思う、ドニ」
「どっからどう見ても淑女だよ、ビビ」
ぱちぱちとまばらな拍手を返す弟に改めて向き合う。
普段ならば背広で済ませるところを、旧世紀の遺物のような衣装に身を包んだドミニクが立っていた。今回のドレスコードだ。上着の色はビビアンのドレスと同じ色で、膝までありそうな長さのコート。上着と同色のズボンにクリーム色のベスト。あちらこちらに細かな刺繍が入っている。
「どこからどう見ても紳士だね、ドニ」
「お褒め頂き光栄の至り」
二人で顔を合わせてくすりと笑う。こんなことで気がほぐれるのだから、双子というのは心強い。
「それじゃあ行こうか、ビビアン、ドミニク」
「はい、父様」
「わかったよ、父さん」
尊敬する父にエスコートされて馬車に乗る。2人と一緒に出る夜会は初めてだけれど、自慢の父と弟だ。心配はこれっぽっちもない。
あとはわたしがしっかりと殿方を捕まえるだけ、ビビアンは内心呟いた。
公爵家の周囲は馬車で渋滞しており、久々に父とのんびり話ができた。どうもビビアンの結婚相手には多くを望まないらしい。お前が幸せになれればいいよ、とは恋愛結婚したらしい父の言葉である。幸せに。勉強ができる環境と対等に話せる相手がいればきっと幸せになれるだろう。さて、今回は見つかるだろうか。
会場についても公爵家へのあいさつの列は長かった。あいさつを終えたビビアンはそっと2人から離れてすでにあいさつを済ませたであろう人たちに声をかけてゆく。うわさどおり誠実そうな男性がそろっていたが、話は弾まない。例えば領地の自慢話だとか、例えばどれだけ手柄をたてただとか、昔はこんな無茶をしただとか、一方的に投げられる話題に愛想笑いを返すのみだ。ときおり会話ができる男性もいたが、どうにも話が続かない。
終いには疲れてなじみの友人たちとのおしゃべりを始めてしまった。
「男性を立てなければ、とは思うのですが上手くいかなくて」
ほろりと本音をこぼしてしまえば、わかります、よくありますなど周りは甘やかしてくれて。もう今日はこのままでいいかな、と楽な方へ傾き始めた考えを無理やり立て直す。
会場内をくるりと見渡す。知った顔、知らない顔、苦手な顔、たくさんの顔の中に先日見たばかりの顔が混じっていて、驚いて止まってしまった。
「いかがされました?」
「いえ、たいしたことではないですよ」
友人たちにはばれないように、もう一度そちらへ目をやる。シャンデリアの光を吸い込むような黒髪。立っているところを久しぶりに見た。アイスグレーの瞳はつまらなそうに手元のグラスの中身を見ている。エーリヒだ。深い藍色のコートがよく似合っている。
近寄ろうとして、釘を刺されたことを思い出す。ちらちらと見やるだけにとどめた。
エーリヒの周りには特に人がいない。近寄ってきたと思えば、なにかあいさつのようなものをしたきりしれっとあしらっている。夜会には慣れているのだろう。すり寄ってくる人間にも。
見慣れた金髪がエーリヒに近づいていく。ドミニクは優雅に最上級の礼をしてみせて、エーリヒに嫌そうな顔をされていた。そのままなにかしら話し続ける。ドミニクは気安くエーリヒの肩を叩き、おそらくエーリヒからも毒舌が返されているのだろう。そこにいる2人は随分久方ぶりに会ったはずなのに、長らく仲のいい友人同士のようだった。
あのとき、寂しがるのではなく近寄る、と伝えれば良かった。
急に置いて行かれた子供のような気分になって、ビビアンはそっと友人の輪から抜け出す。そのままテラスから庭園へと走り去った。
あちらこちらで内緒話が囁かれる夜の庭園で、ビビアンはひっそりと頭を冷やす。
ドミニクとエーリヒの仲が良く見えるのは当たり前だ。エーリヒはずっとビビアンをドミニクだと思って対応してきたし、ドミニクにはどんな話をしたとかなんでも話してきた。ドミニクはビビアンの振りをするのなんて簡単だし、エーリヒはそもそも双子に興味がない。
だからビビアンが傷つくことなんてちっともない、はずなんだ。
浮かばない気分のなか、庭園をさまよう。
直線的に整えられた庭園は、我が家の小さな林そのものといった庭とは趣が正反対だ。突き当たるたびに適当に曲がり続けて、窓のそばの明るい方へ帰ってきたとき。すん、すん、と小さく泣く声がした。
そっと覗き込めば、少女がベンチの上で丸くなっていた。周りには誰もいない。
「あの」
「すみません!」
気分でも悪いのですか、そう聞こうとしたのだ。責めるつもりなんてなかった。慌てて駆け寄って、さらに丸くなる少女の背をそっと撫でる。びくりと大きく震える少女に、大丈夫です、大丈夫ですよと話しかければ、すんすんと泣く声はどんどん小さくなっていき、ついには顔を上げてくれた。
おやまあ。普段だったら声を上げていただろう。けれど、今日は公爵家の夜会なのだという事実がなんとか理性を保ってくれた。
縮こまっていたのはまさにその公爵家の三女様だったのだ。
ビビアンは努めて平静なふりをして、会話を試みる。
「もう、大丈夫ですか?」
「はい……。お、お恥ずかしいところを」
「いいえ、そういうときもあります。ちょうど私もそんな気分でしたし」
「え……?」
懐かしい幼馴染をずいぶんと久しぶりに見かけたのに話しかけられなかったんです、とおどけて言ってみれば少女はきょとんとした。自分でもよくわからないのですけれどね、と続けてちょっと弟が羨ましかったことまで話してしまう。口にだせばすっきりするもので、それじゃあこの少女のはなしでも聞いてみようかと気分も上がってきた。
「わたくしは、その。自分が恥ずかしくて」
「まあ。色は分かりかねますが素敵なドレスに髪だって流行りの結い方じゃあありませんか。かわいらしいですよ」
「か、かわいらし……。あり、がとうございます」
消え入りそうな声の少女と話す。ここにいるのはただの少女2人だということで、彼女も少し打ち解けてくれたらしい。うんうんと一所懸命に悩んだ後、秘密の話を始めた。
「あの、軽蔑しないでくださいね。わたくし、その。どうにも惚れっぽい性だったみたいで」
「あら素敵ね」
「からかってます?」
「いえ、わたしその惚れたはれたにはすこーし疎いみたいで」
友人もよくあの方に惚れただのこの方の声が素敵だの言うのだけれど、ビビアンにとってはいまいちピンとこないのだ。だから恋する乙女って素敵だと繰り返し訴えれば、少女はまた話の続きに移った。
「先日、ひとめぼれをしまして。顔は覚えているのですが名前を聞きそこねてしまいお父様にお願いしてこうして夜会を開催していただいているのです」
「へえ!」
「ですが、そのやっぱり見つからなくて。今日もあいさつの途中から自分が馬鹿なことをしているような気持ちでいっぱいになってしまって。俯いていたんです」
「未婚の女性は喜んでいましてよ、この夜会。すでに何組か婚約が成立したとか」
「あ、本当ですか。よかった……。で、俯いているときにその人が来たんです。あの、咲きたての薔薇みたいでお綺麗ですね、って言われてつい舞い上がっちゃって。もうあとはほとんど覚えていないんです」
そういえば今日の少女の装いは緑の段染めのドレスに燃えるような赤毛だった。すそからだんだんと色が明るくなっていく様を薔薇の茎に例えたのか。一歩間違えば棘があるとか近寄りがたいとかマイナスイメージの付きそうなものだけれども、なるほど確かに咲きたての薔薇に似ていた。主にか弱そうな花びらの部分に。
「なにを覚えてらっしゃるの?」
「ええと……夏、とか船とか避暑だとか……そのくらいです」
「顔とかは」
「俯いていたので……ぜんぜんです」
思わぬ単語が出てきて反応が遅れる。どうにもひっかかりを覚えて、頭を巡らす。話し相手は夏、避暑、船。北部の海沿いに関係がありそうだ。そうしてさっきの薔薇の話。わたし前に一度それを聞いている、とビビアンの記憶が囁いている。そう。嫌味のように聞こえかねない美辞麗句をサラッと言ってのける弟の口から。
ビビアンは頭を巡らせて、惚れっぽいという少女に話しかける。
「二人なら、惚れっぽいとは言わないのではなくて?」
「実は、あいさつの後にもうひとり……。ドレスの手直しをして会場へ帰ろうとしたら知らない方に捕まってしまって」
「なんてこと」
「わたくし、びっくりしてしまって止まってしまいましたの。そしたら違う方に声をかけられて」
「その方が助けてくださって?」
少女はこくりと頷く。こちらも顔が分からない方だという。ビビアンは考える。この少女、公爵家の三女様は惚れっぽいというよりは危なっかしいのでは、と。
ビビアンは一人だけ少女の惚れた相手を知っている。身元は確か。未婚である。吊り橋効果の可能性は低い。ここは一番目と三番目の方には遠慮していただいて、ドミニクを紹介しよう。賭けはどうせビビアンの勝ちなのだから。
「わたし、貴女が誰か知っておりました。許してくださるかしら?」
「え、と。今の話……」
「もちろんこの胸ひとつに収めておきますとも」
「じゃあ、その、かまいません。あの……貴女は?」
片方のイヤリングを外して少女に渡す。
「今は内緒ですわ。でも近々我が家に招待させてくださいな。これは誓いの証に」
「いや、でも、こんな……。アクセサリーを外す、なんて」
「片方であれば言い訳も立ちます。どうぞお持ちになって」
もう少し夜風に当たるという少女を残し会場に戻る。
友人たちの輪に戻る前、そっとエーリヒがいた場所へ目を向ければ彼は相変わらずそこにいた。ほんの一瞬目が合った、気がした。
ドミニクが次は自分がエーリヒに書簡を届ける、と言い出したのはその翌日だった。