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帝国留学編-冬- 10

 ビビアンはアラム教授がでてくるかもしれないと予想していたので驚かなかった。

 驚いたのはアデレードだ。がたりと席を立ち慌てた様子を隠さない。


「ウィルフリードが帰ってくるなんて」


 あからさまにうろたえた様子にビビアンは小首をかしげる。

 ウィルフリード、とはアラム教授のファーストネームだ。帰ってこないと思ったからこそ客人を招いたとアデレードは言っているように聞こえる。

 数学塔の教授たちが家に帰っているかどうかビビアンは完全に把握しているわけではない。けれどアラム教授は朝ごはんの用意のいらない人だったはずだ。

 かける声もなく食後のお茶を飲んでいると、アラム教授は家令が止めるのも聞かずまっすぐ食堂に向かっているようだった。


「アデレード」


 扉を開けた瞬間に掛けられた声には怒りがこもっていた。落ちくぼんだ緑の瞳でぐるりと見渡すと、ビビアンと目が合った。

 アラム教授の目が開く。

 ダミアンの正体に気が付いたのか、彼はどうするのか。ビビアンは慎重に出方を探る。


「ウィルフリード。お客様が来ているの。失礼のないようにして」

「初めまして、ビビアン・フレイベルクと申します。この度は奥様にお招きいただきありがとうございます」


 立ち上がり、王国式の礼をする。

 アラム教授は勢いをそがれたようにビビアンを上から下まで見た。


「女性か」


 アラム教授は怒気が抜けたのかぽろりと独り言が漏れる。ビビアンの勘違いではなければ安堵したようだった。

 反対に怒り出したのはアデレードだ。


「ウィルフリード。失礼なことを言わないで。彼女は役作りの手伝いをしてくれているのよ。突然帰ってきたりして、一体なんなの」

「家に帰るのに突然も何もないだろう」

「夕食の支度もしてないわ。なにより、お客様に挨拶もなしなんてどうかしている」

「つまらない家だがゆっくりしていってくれ。これでいいだろう」

「あなたのそういうところが!」


 アラム教授との挨拶は終わった。ビビアンは椅子に座り直す。

 アラム夫妻はまだ言い争っていたが、そこはそれ、家庭の事情というものだ。聞かなかったふりをしながらお茶を口にする。


「だいたいいつも帰ってこないのになんで今日に限って」

「勝手に客など呼ぶ君には言われたくない」

「こっちのセリフよ、常識知らずに言われたくないわ。演劇のことに口をださないで」

「出さないとも。勝手にやってくれ、ただし私の領域を犯さない範囲内でだ」

「どこまでが領域なのかもはっきりしないくせに!」


 熱を上げていく夫婦の会話に、家令がどうしていいのかわからずにおろおろとしている。

 ビビアンは彼にお茶のお代わりを頼んだ。


「お嬢様。化けの皮というより面の皮が厚すぎでは?」

「ルーシー。アラム夫妻はいま真剣なお話合いの最中なのよ。それを邪魔しては悪いわ」

「ものも言いようですね」


 ひっそりと話しかけてくるルーシーに答える。

 ビビアンはこの夫婦の会話を止めるつもりもないし、中断して帰るつもりもない。ただじっと嵐が去るのを待っていた。

 アラム教授はいつもよりも口数が多いし、アデレードも感情的になっているのか楽屋で見た穏やかさはない。家令の態度からすると、このような話し合いはとても珍しいようだった。


 ビビアンが男装してアデレードを褒め称えたとき、アラム教授はビビアンに嫉妬していた。

 今日、アラム教授の不在を狙って招かれたとき。アラム教授は客人の性別を間違えており、男性と二人きりになったアデレードに怒っていたように見えた。

 アデレードに冷たく当たるのに、アデレードに恋でもしているようだ。


 アデレードのことはよく分からないが、サナとマリーイヴに聞いた限りでは穏やかで機知に富んだ人という話だった。

 少なくともこのように声を荒げるのは似合わない。

 それからあの羨ましいと言う目。

 アデレードはなにを求めているんだろう。


 大人が二人、恋愛に踊らされているようだった。

 多分、これがアラム教授夫妻に必要なことなのだろう。図らずも切っ掛けになってしまったビビアンとしては結末が気になった。

 二人の話し合いは止めるもののいないまま過熱していく。


「最初からきちんと決めておいたでしょう? お互いの仕事には口をださない、邪魔をしないって!」

「もちろんそのつもりだとも」

「だったら何故いま私の邪魔をしているの!」

「話を止めないのは君の方だ。私はもう用がない」

「用がないと言うならなにしに来たのよ、もう私あなたがさっぱり分からない」


 しん、と沈黙がおりる。頃合いだろう。

 二人にはそろそろ客人としてビビアンが来ていることを思い出してもらわなければならない。


「失礼ながら、お二人は恋愛結婚ではありませんの?」


 初めて気づいたと言わんばかりに二人の視線がビビアンに集中する。

 空になったカップを置いて小首をかしげる。


「帝国では恋愛結婚が当たり前と聞きましたので、少し気になって」

「君には関係ない」

「恋愛結婚ではないわ。契約結婚よ。互いに仕事の邪魔をしないパートナーが欲しかったの」

「まあ、そうでしたの」


 アデレードは余所行きの姿勢を崩した。

 先ほどまでの会話をずっと聞かれていたことを思い出したのかもしれない。取り繕う理由も感じないのだろう。

 ビビアンもそれ以上は追及しない。


「あなたには申し訳ないことをしたわ。まだ聞きたいことがあったのにこんな時間」

「また呼んでくださいな。予定を合わせて駆けつけますわ」

「ありがとう。手紙を出すわ。それから、今日のことは誰にも言わないでくれないかしら」

「ええ、もちろんですとも」


 アデレードは目に見えてほっとしている。アラム教授はこちらにそこまでの興味がないのだろう。ただじっと入口に立ち尽くしていた。

 いまが攻め時だろうとビビアンの勘が囁く。


「もしよろしければ、お二人にお願いをしても?」

「なにかしら?」

「手紙を書いていただきたいのです。お互いに向けて」

「なぜだ」

「わたし、お二人のお話合いの邪魔をしてしまったようですから。素直に話すのには手紙が一番だと父が常々申しておりましたのを思い出しましたの」


 にっこりと、反対意見など出させないように無邪気に笑って見せる。王国で身に着けた処世術をこんなところで使うことになるとは思いもよらなかった。

 アラム夫妻はこの提案にぎょっとしたようだから、畳みかける。


「そうですわね、本日中に5枚以上書いて封蝋で閉じてくださいな。決して明日ではいけません。内容はご自身とお相手のことを。書き上げたらすぐ相手に渡すようにお願いしますわ。読むのもできれば早めに」


 さらさらと条件を上げていくビビアンに、アラム夫妻は口を挟めない。ビビアンはできるだけ自分が愚かに見えるように夢見がちに喋った。まったく、こんな芝居は婚約者を探していたころ以来だ。


「ね、お願いしますわ」


 とどめとばかりにアデレードの瞳を覗き込めば、勢いにつられたのか頷いてくれた。

 もう一人、アラム教授を見やる。


「今夜の会食は本当に楽しみにしておりましたの。まさか夫婦でのお話合いと日が被ってしまったなんて残念ですわ。アラム様にも申し訳ありません。次も同じようになりましたら困りますし、わたしのささやかなお願い事を聞いてくださりますか?」


 あくまでも下手に出ながら、相手の不備を突く。こういうやり方は母に似てきたなあと他人事のように思う。

 アラム教授はなにか反論しようとして押し黙る。


「それで君は黙るのか」


 ビビアンの微笑みが答えだ。

 アラム教授は脅されたと受け取ったかもしれない。

 彼にも切り札はある。ビビアンの男装についてばらせば随分な痛手だ。

 でも、そんな不確定なことはできないだろう。

 だって証拠は一つもない。

 どこへ伝えれば効果的なのかもはっきりしていない。

 相手は数字の悪魔を相手取る教授で、短い付き合いで分かっていることが一つある。アラム教授は不確定なことを言わない。


「分かった」


 ビビアンは満足のいく答えを貰うと早々に退散した。手紙5枚は少なくない量だ。今夜中に書き上げるには時間がいる。家令に辻馬車まで送ってもらい、学園の寮へと帰る。

 事前に学園長を通して連絡してあったため、遅い時間でもあっさりと入れて貰えた。

 コートを脱いで、制服を楽なエプロンドレス姿に着替える。

 お茶を入れてくれたルーシーはようやく一言だけ喋った。


「アラム様は私生活でもお美しい」

「ルーシー。いまわたしは君の新しい面を垣間見て少し驚いている」

「お嬢様。一体なにをなさるつもりですか?」

「切り替えが早いね。アラム夫妻に悪いことはしないよ」


 話しながらビビアンは便箋を物色する。

 ここのところ文房具の補充をルーシーに頼り切りだったのでどんな便箋があるかさっぱりだったのだ。

 よさそうなものを2つ取り出す。水色のシンプルなものと、クリーム色にクローバーを彩ったもの。

 水色の便箋と向き合い書き出しを考えていると、ルーシーが珍しく食い下がった。


「手紙を書かせるなどというお願いは初めて聞きます。不躾ではありませんか?」

「ルーシー。君の主人はいまわたしだよ。それにこの類のお願いは母がよく使うんだ。特に痴話げんかをした夫妻に対してね」

「契約結婚とおっしゃっていました」

「少なくとも片方には恋慕がある。必要なのは、互いの理解だ」


 ルーシーは少し黙り込む。

 今日のアラム夫妻のことを思い出しているんだろう。


「さてルーシー。申し訳ないけれど、わたしも手紙を書かなくてはならないんだ。5枚、いやそれ以上かな」

「分かりました」


 ペン先をインク壺に浸ける。

 思い出すのはピンとはねた黒髪にアイスブルーの瞳。

 エーリヒに謝らなくてはいけないことがある。大学での仕事のこと、結婚式のこと、観劇のこと、連絡が不十分だったこと。これは郵送する手紙ではないから、思うままに書ける。

 シンプルな水色の上に黒い文字を連ねてゆく。


 親愛なるエーリヒへ。

 そこから先は素直な気持ちを全部書いた。

 書きあがる前にビビアンを風呂へと送り出してルーシーは退出し、お嬢様も眠りますようにとだけ言い残していった。ネグリジェに着替えてもビビアンの手は止まらず、書きあがった手紙の枚数は6枚半にも及んだ。

 読み直すのは明日にしようとあくびをしてベッドに沈み込む。

 手紙は夜書くに限る。フレイベルク伯爵の教えである。

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