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帝国留学編-冬- 9

 アデレードから夕食への招待状が届いたのは週末の直前だった。指定された日は来週の真ん中。喜んで、と返事を返す。

 今回のことをアラム教授は知っているのだろうか。そもそも同席するのだろうか。

 疑問は尽きないものの、週末にはいつも通りローガン教授のタウンハウスへと向かう。


「ビビアンとしてアデレード・アラムの招待を受けました。ですからもう本当におしまい」

「なんてことだ。断れなかったのかい? きみほどの人材を失うのは惜しいんだ」

「わたしも研究論文雑誌を惜しく思ってますとも。でも何事も引き時が肝心です。わたしは王国の名を貶めるわけにはいかない」

「うんうん。分かるよ。でもなあ、うーん、良くなってきたところなんだよ? あとはアラム教授だけで」

「アラム教授は助手からの人気はあります。それなら進捗が悪いのは数学塔の責任者の管轄でしょう?だから駄目ですよ」


 うっ、とローガン教授が大げさに胸に手を当てる。おおかた便利な助手に任せて自分は研究に没頭していようとしていたのだろう。

 アラム教授の問題はビビアンがどうにかできるものではない。なにせいまだ打ち解けたとは言い難いのだから。

 数学塔の教授たちはいつも通りで、アラム教授の不躾な視線もいつも通りだ。けれど、アラム教授の家へビビアンとしておもむけばダミアンの正体はすっかりばれてしまう。

 ビビアンは明日が終わればもう来ないつもりで仕事に打ち込む。

 休憩時間に書き綴ったノートと助手たちの不満の詰まったノートを持ち帰った。ローガン教授のタウンハウスで教授たちの扱い方についてまとめていく。


「お嬢様。お茶を変えますね」

「悪いねルーシー。頼むよ」


 ひとつ、教授の部屋は彼の城である。ここでは教授の言うことを聞くこと。

 ひとつ、教授は繊細なので何かをするときには声をかけること。

 ひとつ、教授がじっとしているときには話しかけない。動いた隙に話しかけること。

 ひとつ、教授によっては雑談を好まない。教授毎の注意参照のこと。

 ひとつ、教授同士を比べない。


 この調子で数学塔の教授たち全体の注意と、個々の注意を書き上げていく。

 一度まとめたことがあるとはいえ、この作業には午後いっぱいかかった。出来上がった注意の束はローガン教授に渡した。


「これが成果になります」

「受け取らなきゃダメかい?」

「これが欲しかったのでしょう、教授。駄目ですよ」

「うん、うん、そうなんだけどねえ」


 次の朝も数学塔の掃除をする。順番はすっかり固定されていて、アラム教授は最後だ。

 不躾な目線にはすっかり慣れてしまった。いつか味わった嫉妬の目のほうがずっと居心地が悪かったからだ。


「仕事を辞めるかもしれないと聞いた」

「ローガン教授? あの人もお喋りだなあ」

「劇が目的だったのか」

「劇? いや、違うよ。もともと条件があって、それが欠けそうだから辞めるだけ。せいせいするだろう?」


 どうしてここで劇がでてくるのか本気で分からなかったものの、アラム教授にとって自分は目障りなのだろうからそう笑って見せる。


「いや、そうは思わない」

「どうして? アラム教授は自分が嫌いだろう。気に障るってはっきり言っていたじゃないか」

「気に障るのは格好だ。……劇に連れていくぐらいには嫌いではない」


 いつかの問答を繰り返されて、ビビアンは驚く。

 アラム教授の不躾な視線は非友好的なものとばかり思っていたけれど、本当は違うようだ。どうもアラム教授はビビアンの格好が嫌だと言っているらしい。アラム教授の認識としては、女の子が男装をして男と偽ってい働いている、ということになるのだろう。

 男装の麗人であるアデレードを奥さんを持ちながら、男装を嫌う。奥さんの真似をしていると思われたのかもしれない。それか単純に男装が嫌いなのか嘘が嫌いなのか。


「それはなにより。いまなら助手に対する要望を聞くよ。もともとそのために雇われたんだ」

「まともな格好で、きちんと働くのなら問題ない」

「教授のハードルは低いね。分かった、ローガン教授に伝えておくよ」


 仕事を終えて少し寂しい気分になりながらもローガン教授のタウンハウスに戻る。

 ローガン教授は昨日とは打って変わって笑いながらビビアンを迎え入れた。

 数学塔の教授たちの注意点を並べた成果は、ローガン教授のお気に召したらしい。まるでペットへの注意事項のようだねと褒めているんだかいないんだか分からない感想を述べる。

 ひと通り笑い飛ばした後に、ローガン教授は真面目な顔をする。


「僕はね、まだきみを諦めちゃいないよ。いつでも迎え入れるから気が変わったら言ってくれ。それから、研究論文雑誌はこれからも好きにに読んでいい。若い子にチャンスを回すのは老人の役目だからね」

「お心遣いありがとうございます。まだしばらくは教え子として通わせてもらいますわ」

「うんうん。タウンハウスもちゃんと人を増やした。きみの侍女にも給金を払わないといけないね」


 ルーシーが慌てるものの、そこはきちんと受け取るようにと言い添えた。

 こうしてビビアンの、数学塔での助手という仕事は終わりとなる。さみしさ半分、これから待ち構えているであろう試練に憂鬱半分だ。

 さて、アデレード・アラムはビビアンの秘密を守ってくれる人間か。優しい人と秘密を守る人は違う。彼女はどうだろう。




 エーリヒからの手紙はまだ届かない。

 先日送ったばかりだし、帝都と王都では距離がある。返事が遅くなるのは当たり前だ。

 このままだと返事は春になるかもしれない。

 雪のモチーフは夏だし駄目かもしれないとちょっとだけ残念に思う。


 アラム夫妻のことについてエーリヒと話がしたい。ドミニクでは駄目だ、一緒に混乱してしまうか振り切れてしまう。エーリヒならビビアンの悩んでいる部分をばしっと当ててくる。痛いところを突かれるだろうが、いま必要なのは客観的な意見だ。エーリヒならそれをくれる、そういう確信がある。


「ビビアン? どうしたのぼーっとして」

「サナ。マリーイヴも。ちょっと緊張してしまいまして」

「あなたが、緊張? なにが起こるの?」

「アデレード・アラムに夕食に招待されましたの。王国のことが知りたいそうですわ」


 サナとマリーイヴの目が丸くなる。そうだろう、ルーシーも同じような反応をしていた。

 アデレード・アラムは手の届かない憧れの的だ。普通なら会うことだって難しい。しかしビビアンは王国からの留学生である。忘れていたけれど珍しい存在なのだ。特に女性の留学生は。


「すごいわビビアン!」

「ビビアン。サイン、は駄目よね」

「私的なことですから、どうぞ今話したことも内密にお願いしますわ」


 二人は声を潜めて喋りだす。

 どれだけ帝都の人にアデレード・アラムが愛されているか。ルーシーだけじゃなくてこの二人もファンだったのかとビビアンは驚く。直接会うわけでもないのに熱に浮かされている。

 帝都の人間がどれだけ愛しているか聞いている最中に、ビビアンはアデレードの寂しそうな瞳を思い出す。

 愛されて幸せに満ちた人の顔とは違って見えた。


 自分の結婚式となるとどうにも決められないものの、ビビアンは決して結婚式が嫌いなわけではない。友人が結婚したと聞けばできる限り参列したし、幸せそうに笑う人々の中にいるのは好きだ。王都の友人から届いた手紙の中で語られる結婚式は、苦労した裏話がたくさんあったもののどれも輝いて見えた。

 アデレードはそういった思い出とは無縁の諦めきった顔をしていた。

 あの夫婦はいったいなんなんだろうか。




 夕食へは制服で向かうことにした。

 ワンピースでは軽すぎるし、ドレスでは重すぎる。制服も正装の一種だとルーシーに教えられ、すぐに決めた。ドレスコードが分からないとこういう時に辛い。

 アデレードに手紙で伺い、ルーシーも連れていく。

 ルーシーは恐れ多いと全力で拒否した。しかし彼女は帝国で育ちでひと夏とはいえ王国で働いた女性である。ビビアンの至らない部分を補ってほしいと伝えれば、力になれるとは思えませんが、と了承した。

 憧れが勝ったらしい。

 アデレード・アラムの家はローガン教授のタウンハウスとそう遠くない位置にあった。家の規模こそ大きくないものの、家令が出迎えてくれる。


「初めまして、ビビアン・フレイベルクと申します。本日はお招きいただきありがとうございます」


 案内された食堂で、アデレードに向き合い王国式の礼を見せる。

 今日のアデレードはドレスを着ていた。金色の髪がワインレッドによく映える。

 アデレードは驚いて声もでないようだ。

 どうして、と目が言っている。

 声のトーンを低くしていない状態でもビビアンが誰なのかはっきりと分かったらしい。


「こちらはわたしの侍女であるルーシー。共にカタルセン王国のことについて、知る限りのことを精一杯伝えさせていただきます。どうぞよろしくお願いしますわ」

「え、ええ。無理なお願いを聞いてくれてありがとう」


 正気に戻ったのだろう。アデレードが席に座るように促す。

 お言葉に甘えてアデレードの正面に座る。

 ルーシーは後ろに控えさせた。先に食事をとらせたので問題ないだろう。


「王国のことを知っていただけるのはわたしにとっても喜びです。アデレード様にお会いできると友人に内緒話をしましたら、随分と羨ましがられました。とても人気があるのですね、不勉強で申し訳ないですわ」

「私は一介の役者です。そんな大層なものではありません」


 ビビアンの発言をしらじらしいとルーシーは思っているだろう。

 アデレードはいまだに混乱しているようだった。無理もない。夫の職場の下働きが王国からの令嬢だったのだ。それでもそこには触れずに上手に話してくれる。この人は秘密を守る人だ。


「友人から色々聞いておりまして。なんでも男装の麗人だとか」

「男装して舞台に立つのは私くらいのものですから、珍しいのでしょう。実はビビアン様を招いたのも次回の劇のことで聞きたいことがありまして。百年位前の帝国は王国とそっくりだったという話はご存じで?」

「ええ、双子のようだったと聞いております。それから帝国が変革を遂げて、王国にだけ当時の伝統が残ったと」

「そこなんです。次回の舞台が百年前の帝国ですので当時の雰囲気を出したくて、王国のお話を聞ければとお願いいたしました」

「なるほど。お力になれるよう頑張りますね」


 食事をしながら王国の、主に男性の仕草について語る。

 ルーシーはおおいに役立った。

 帝国で見たことのない仕草をルーシーが挙げれば、ビビアンがそれに補足して意味や印象を語る。アデレードに質問されれば具体的な例を挙げながらどういった行動をするのか説明する。

 アデレードは演劇に集中したのだろう。食事会は穏やかに過ぎていった。


「おかえりなさいませ、旦那様」


 遠くからそんな声が聞こえてくるまでは。

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