帝国留学編-冬- 7
明日は僕無理なんだよね、とローガン教授は明るく笑った。
ビビアンはほっとする。正体がばれているかもしれない相手に借りを作りたくない。
ところがローガン教授は持ち前のフットワークの軽さを他人に対しても求めてきた。
「だからさ、きみが連れてってあげてよ。ダミアンだけじゃあこの席は入れても貰えない」
「他の伝手はないのですか」
「ないね! だいたいもう劇が変わるだろう。この機会を逃すなんてもったいないもったいない。将来有望な若い子のためにひとつ頼むよ」
ローガン教授はいかにこの劇を逃すともったいないのか前のめりになって熱弁をふるう。
主演だというアデレード・アラムの演技がどれだけ素晴らしいか、彼女以上にふさわしい主演がいるのかと滔々と語った。
頷くまで帰らないと言った熱意にはアラム教授も折れた。
「……ローガン教授たっての依頼とあれば、仕方ありません」
「いや、あなたが無理なら断ってくれ」
「ダミアン! こんな貴重な機会を放棄しないでおくれよ。お願いだから見てきておくれ。そうしてこの老体と劇がいかに素晴らしいか討論をしてくれないかな」
両手を握られて、逃げられないことを悟る。なるほど数学塔の責任者だ。この人が一番厄介で、一番の変人に違いない。
嵐のように去っていったローガン教授を見送って、なんともなしにアラム教授と目を合わせる。疲れきっていた。
「なんか、申し訳ない」
「いやあれはああいう人だ。君も被害者だろう」
「被害者というか、得した面もある」
「君は私が嫌いだ」
「苦手ではある。けれど、一緒に劇に行きたくないというほどでもないかな」
アラム教授の目がすこし開かれる。彼が表情筋を動かすことは滅多になかったから、よっぽど意外だったのだろう。
男の子ってもっと執念深いものだったかなと考えて、女顔じゃないと拗ねていたドミニクを思い出す。普通の男の子はもっと気にするべきなのかもしれない。
まあ今更取り繕っても無駄だろう。
「この一張羅でも劇場には入れる?」
「問題ない。明日は数学塔から直に向かう」
「仕事はローガン教授のせいで休みって言っておく。どうぞよろしく、アラム教授」
「ああ」
それにしても明日。
帝国での観劇マナーも知らないのに明日すぐに帝国劇場へ行くなんて、夢のようだった。どちらかと言えば悪夢よりだけれど。
ダミアンは庶民といった設定だ。帝国では能力と機会があれば庶民でも中流階級に混じって働くことも可能である。多少マナーがなっていなくても、庶民だからと済ませられるだろう。
「お嬢様。お嬢様は王国産の化けの皮をどこへ置いてきてしまったのですか?」
「どうしたんだいルーシー」
寮に帰って、明日は観劇に行くと伝えたところルーシーはほとほと呆れ果てたという表情をする。
ビビアンと言えば、届いた手紙の確認をしていたところだからびっくりしてしまう。そんなにはしたない格好をしていないつもりだし、大学で働き始めたのはだいぶ前なのでルーシーが言っているのは別のことなんだろう。
「既婚の男性と二人きりで観劇なんて、エーリヒ様になんと伝えるのですか」
ぴたっ、とビビアンの動きが止まる。それからぱちりぱちりとゆっくり瞬きを繰り返し、ルーシーの言葉を頭の中に浸透させていく。
明日の観劇のことをルーシーは嘆いている。
既婚の男性というのはアラム教授のことだろう。彼はビビアンを嫌っている。ビビアンはと言えば、ばれているのだろう男装をして出かけるつもりだ。
問題ないだろうと言いかけてロペのことを思い出した。あの時も男装していたけれど、エーリヒは嫉妬したと言っていた。
「なんと伝えるかって? ローガン教授のせいにしとくよ」
「断言します。その答えでは感情が追いつきません。落第です」
強い物言いに、改めて嫉妬というものについて考えてみる。先日男爵令嬢が伯爵の好いた方に嫉妬した話をしたばかりだ。
想像してみるとしよう。エーリヒが年上のきれいな女の人と一緒にいる。二人はえーと、仲睦まじい様子でビビアンに気付かない。気付いてもビビアンをないがしろにする。
ないな、というのが正直な感想だ。まずエーリヒが女の人と楽しそうに話している姿が想像できない。具体的に考えてみようとしても、隣に誰をにおいてもエーリヒはいつも通り澄ました顔をしている。気安く話す姿は偉そうに見えるだろう。
「ルーシー。嫉妬というのはどういう感情だろうね」
「いくらなんでもエーリヒ様が可哀想になってまいりました」
事前連絡を入れるにも劇場に向かうのは明日だ。どんなに早い便でも間に合わない。
大学教授と一緒と言えば許されるかなと考えたところでビビアンは重大なことを思い出す。
「大変だ、ルーシー。わたしエーリヒに大学の話を一切していない」
最近の手紙のやり取りと言ったら主に結婚式のことばかりで、近況報告などすっかり忘れていた。大学で働くのは半分論文につられたようなものだから、興味深い論文の要項と著者のことばかり伝えていた。
男女の違いについては手紙に書けないし、こちらは別紙にまとめておいてあるだけだ。
今度こそルーシーが絶句してしまった。
流石にビビアンも落ち込む。
秘密を作りたくなかったのに、間抜けな理由で隠し事を作ってしまっていたなんて。どう言い訳しよう。
寝る前までずっと考えても怒られる未来しか見えなかった。
朝になればなるようになるだろうと怒られる覚悟が決まった。破談にされる懸念は見て見ぬふりをする。
タウンハウスに寄って着替えコートを羽織ればデートしたときのエーリヒを思い出す。誕生日のプレゼントをくれて珍しく柔らかく微笑んでいた姿を思い出して耳が熱くなった。
これは裏切りになるんだろうか。またしょんぼりとした気分が返ってきて、慌てて首を振る。
ローガン教授が是非にと押し通し、アラム教授が無理を聞いてくれたのだ。ダミアンとしてきっちり男性らしく振舞ってこよう。この際ばれているかいないかは関係ない。与えられた機会を逃すのは好きじゃなかった。
内心でエーリヒに謝りながら大学へ向かう。
アラム教授の部屋をノックすれば、返事もせずに教授はでてきた。
言葉もなく劇場へと向かう。
一歩中に入れば、吹き抜けのエントランスに気圧される。
石造りの建物は大胆な作りに細かな装飾が施されており、古代の神殿と言った雰囲気だった。入口から差し込む光だけでは天井まで見えず、厳かな空気を感じる。
中央に扇形に広がる階段の先には入口があり、それ以外にも上の階に続く階段があるようだ。この建物はどこまで高いのか、外から見た印象よりずっと広く感じる。
人は思ったほど溢れていない。
大人気のはずの公演なのにおかしいなと思いながらもアラム教授の後をついてまわる。ランプがところどころで揺れていた。建物のあちこちをきょろきょろと物珍しさで見回してしまう。
人の形は分かるものの、顔までは見えない。これは嬉しい誤算だ。
「あまり不審な動きをしないでくれ」
「田舎者なのでね、申し訳ない」
密やかな声が反響して消えていく。ビビアンはすっかりこの建物の虜だった。
階段を上り端まで歩いていく。途中で止められたものの、アラム教授がチケットを見せれば綺麗なお辞儀をして通してくれた。
たどり着いたのは二階のボックス席の、舞台のほとんどすぐそばという好条件の席だった。
手すりのそばに立って初めて気が付く。ダミアンじゃ入れないと言われるわけだ。前情報が正しいとしたら、この席欲しさにどれだけの人が争ったのか。周りを見渡せば大観衆がさざめいている。
ビビアンは腹をくくった。
精一杯観劇を楽しもうじゃないか、アラム教授の存在はなかったことにしよう、と。
舞台の幕が上がる。
最初はメイドが身分違いの恋に嘆くシーンから始まる。素直になれない己の性分も嘆いていた。よくある恋愛ものなのだろうか。ほとんど乗り出すようにして目を凝らす。
次のシーンは町の人形師のショーウインドー。椅子に綺麗な男の人が座っている。それに話しかけるのは人形師だ。どうやら椅子に座る人は人形の役らしい。ピクリとも動かず、目を閉じて俯いている。
人形師が退場してからが本番だった。人形にだけ明かりが当たり、上からキラキラと何かが降ってくる。雪のような星のようなそれに気を取られているうちに、人形がゆっくりと目を開ける。
あ、いま魂が入った。
説明されずともそれが分かる。物語は目を覚ました人形に喜んだ人形師が町中に言いふらしたところから加速していく。頼めばなんでもしてくれる人形は町によくなじみ、反発されながらも受け入れられていく。そんな中で冒頭のメイドが人形のほほに触れて、命令する。愛していると囁いて、と。
美しい人形の囁きに町中の女たちは夢中になり、男たちは腹を立てる。人形師は人形を守ろうと走り回り、彼に片思いする針子もまた女たちの目を覚まそうと必死になるものの止められない。騎士はメイドに詰め寄る。なぜそんな馬鹿な真似をしたのか。その人に片思いするメイドは反発してすれ違う。人形師もまた針子が人形を好きだから独占したいのだと勘違いをする。
いざ町の中心で壊される、となったときに人形は勝手に叫びだした。
「愛していると囁いて、と頼まれるのは誰かの代わり。愛していると囁くのも誰かの代わり。ねえ、誰が誰に愛を囁くの? ねえ、誰を見てたの? 誰に愛して欲しかったの? 誰に愛していると言いたかったの?」
狂ったように叫ぶ人形に、町の人は何も言えなくなる。誰もが隠していて、誰もが見ないふりをしていたことだから。
騎士はたまらず声を上げる。メイドに向かって愛していると、人形ではなく私に言わせてくれと懇願する。メイドも驚いて本心を口に出す。それを皮切りに皆それぞれパートナーに近寄っていった。驚く人形師に針子がそっと寄り添う。人形の叫びは唯一人形に頼らなかった彼女のささやかな仕返しだった。あなたに愛していると囁いてほしかったと針子が言う。
こうして二組の恋人同士が舞台に残され、人形はまたひっそりと人形に戻っていく。
舞台上の人形がゆっくりと目を閉じて照明が落とされる。
劇場は拍手と歓声に満たされて、ようやくビビアンは動くことができることを思い出した。鳴りやまない拍手に合わせて手を叩く。
なるほどこれはアデレード・アラムの舞台が評価されるわけだ。膨大過ぎる情報量にぼんやりしながらも納得した。ほとんど人がいなくなってからもビビアンはじっと幕の下りた舞台を見つめている。
「ウィルフリード・アラム様。楽屋へと案内させていただきます」
「必要ない」
「遠慮することはありません。奥方がお待ちでしょう」
裏からすっと入ってきた男は支配人と名乗った。
気を利かせたつもりなのだろう彼に、ため息をついてアラム教授は続いて歩いた。ビビアンもその後をついていく。
アラム教授についてローガン教授から聞いたことを思い出す。家族とはあまりうまくいっていない。
ローガン教授の名前を出して嘘の一つでも付けば嫌そうに楽屋に足を向けるアラム教授を止められる。でもビビアンは止めなかった。
だって、あんな演技をする人と出会えるチャンスを逃したくなかったのだ。