帝国留学編-冬- 5
もう何度目かになる大学への訪問で、まず真っ先に朝食を届ける。
たいてい配るだけで終わるけれど、一人ばかり変わり者がいた。喋りながら食べるのが好きという教授にビビアンは朝と昼どちらも付き合うことにしている。話の内容は研究が主でビビアンには半分程度しか理解できないものの、実に楽しそうに語るものだからお茶を勝手に注いで飲んで聞く。
今日は珍しく研究内容ではないようだ。
「こないだ助手のやつが、ああ君じゃない助手だ。勝手に白紙を持っていくんだ。放置されているから必要ないのかと言い出してな」
「おや、それは困るな。思い付きを書くのに白紙とペンは欠かせない」
「君は話が早い。とにかく使うんだと言っても分かってくれなくて癇癪はやめてくれと言われてた。悪いのはどう考えても向こうだろう」
それから日頃の愚痴が始まる。
勝手にものを動かされるだとか、考えている最中にどいてくれと邪険に扱われるだとか、いままでの不満が噴出してきていた。
ふむふむと相槌を打ちながらビビアンはひとつ納得する。
ここで派遣されている助手の一人には、教授の行動は非効率的でみっともない、きちんとされるべきだと言う信念があるように感じた。どこか引っかかる話だな、とビビアンは内心で小首をかしげる。
「君はもっと来れないのかい? 女性にはうんざりだ」
「全部の女性がそうとは限らないさ。その人と教授との相性が悪すぎるだけだよ。ローガン教授には言っとく」
「うむ。私が直接言ってもあの人には通じないみたいでな」
「ローガン教授は自室に助手を入れないから分からないだけだ。あなたような不満を抱えている人は他にもいるさ」
話はローガン教授がいかにずるいか、という流れになった。
どうやらビビアンはこの教授にとっては愚痴を言うに値する相手だと認められたらしい。7人のうちの一人。ローガン教授と結んだ契約の最低限の糸口は見つかった。ローガン教授の部屋で先ほどの教授の訴えを紙にしたためる。これだけではまだ少ない。もう数人の話が聞きたいところだ。
次の愚痴は意外なところから集まった。7人のうちでもっとも癖が強そうな教授だ。
常に黒板の前に立っていて、書いては消してを繰り返すものだから黒板の下は粉だらけだと言う変わり者だ。
ここの掃除は気を遣う。
ビビアンは掃除用具を部屋の隅に用意して、宣言の後で窓を開ける。それからお茶を準備。教授が手を止めて窓に目をやったタイミングで、お茶が入ったと声をかける。椅子に座ったのところで茶を出し、黒板の下の粉を全部拭きとってしまう。
いつも通りの作業を終えて掃除道具を片づけて窓を閉じると、教授がビビアンを見ていた。
「あんたは見事に私の邪魔をするな」
「思考の邪魔になった?」
「いや、丁度行き詰ったところだ。いつも行き詰ったところで茶が出てくる。思うに君は3種類のステップを踏んでいるね。窓を開け、お茶を入れ、私の意識が緩んだところで掃除をする」
「残念。もう1ステップ踏んでるよ。掃除道具を先に用意してあるから」
ああなるほど、教授はのんびりと返す。普段の鬼気迫るチョークさばきとは別人のようだった。
ビビアンもどうやったら彼を黒板から離せられるか頭を悩ましたものだ。
「ここにくる助手は私の研究の邪魔ばかりをする。よりにもよって黒板と私を引きはがそうとするんだ。がみがみと小うるさいか、泣きまねをして見せるか。厄介者ばかりだ」
「それが仕事なものだからね。なんなら他の助手にもやり方を伝えよう」
「それがいい。そうしてくれ」
せっかく話せたのだから、もう少し不満がないかを聞いてみる。
窓くらいでいちいち声をかけなくてもいい、というお許しから始まって、助手たちがいかにやかましく勝手なことをするのかとつとつと話してくれた。どうやら彼は机に置いたはずの飲み物を勝手に捨てられるのがとても嫌だったようだ。
通ううちに他の教授からもぽろりと愚痴を聞く機会が訪れるようになった。
あの教授は言うことを聞いてくれるのにどうしてあなたは聞いてくれないのか、と他の教授と比較され続けてついにはその教授のことが苦手になってしまった話。会うとつい嫌味を言ってしまうと嘆いていた。
最も多いのは集中力を途切れさせられる話。どうして天気なんて気にするのかと本気で聞いてきた。たぶん彼女らなりに打ち解けようとした結果なのだろう。普通の人ならこれだけでも会話は続く。教授たちは普通ではないので続かないけれど。
ものを移動させられる話も多かった。中でも最悪なのが、勝手に移動させられた挙句乱雑に積まれていた話。これをしたのは几帳面な教授で、あんな目に合わせられて本も可哀想だと真剣に語っていた。これにはビビアンも同意した。
「ダミアン、調子はどうだい?」
「やあローガン教授。どうにか話をしてくれるようになったよ」
「それはよかった。やっぱり助手は男性の方が向いているのかい?」
「それはどうだろう。女性が絶対ダメってわけでもないみたいに思えるよ」
ローガン教授の部屋にあるビビアンの教授研究ノートには次々に彼らの不満が集められていった。
教授たちは女性が大学に入ることについては特に興味がない。
これは来てすぐに気づいたことだ。
彼らにとって大切なのはいかに自分の研究を進めるかであって、男女平等女性進出など研究対象外、興味の外にある。女性の生徒や教授が誕生しないのにはもっと大きな、体制的な理由だろう。
では何が不満なのか。ビビアンは最初に朝ごはんと共に語られた愚痴からある出来事を思い出していた。幼年女学校の先生たちだ。先生たちにとっての効率を重視して、少女たちが何に興味を持っているかなんて気にしない。刺繍に没頭していたルームメイトがよく愚痴を漏らしていた。
一番うまくいっているときにやってきて私の都合は全部無視すると拗ねた仕草が、なぜだかいい年をした教授たちに重なる。
ここでは、助手と教授の力関係が逆転しているふしがあるのだ。
週末に入ってすぐ、中間報告と称してまとめなおした方のノートをローガン教授に見せる。一通り目を通した教授は笑っていた。
「皆がね、君のことを囁きの人形のようだと言うわけがよーく分かったよ」
「囁きの人形?」
「芝居の題目さ。都合のいい人形の話。そうそう、ここに載っていないアラム君の奥方が今ちょうど主演をしているはずだよ」
囁きの人形と呼ばれる訳は分かったような分からないようなものの、アラム教授のことはすぐに思い至った。
ここの7人の教授のうち、唯一ビビアンが苦手とする教授だ。部屋に入るとじっとこちらを観察してくる目がついて回る。なにかもの言いたげで、それでいて何も言わず愚痴も言わない。
結婚していたことすら気が付かなかった。
他の助手たちはアラム教授相手では特に困ったことはないらしい。
「アラム君もひょっとしたら何か不満を抱えているかもしれない。ダミアン、きみの役目は分かっているね?」
「もちろん、ローガン教授の仰せの通りに?」
「ふふふ。きみが来てから数学塔は元通りに回り始めている。あとはアラム君の研究の遅れが解消されれば大きな問題は減るだろうね」
「おや、助手からの人気は高いのでは?」
「そこが不思議なところできみの出番さ。頑張ってくれたまえよ」
弾むように笑ってノートを返される。
なるほどローガン教授はずるい。問題点ははっきりしているのに直接言わずに助手にすべてを任せるのだから。助手とうまくやっているのなら契約外じゃないだろうかと思いながらも、アラム教授を気にかけることにした。
次の日は掃除の順序を入れ替えて、最後にアラム教授のところへ行くことにした。ゆっくりと話ができるかもしれない。ことさら丁寧に掃除をしていると、やはり視線が気にかかる。
ビビアンは自分で作ったルールを破って自分から話しかけることにした。
「教授。そんなに見られると作業がし辛いんだけれど」
「気のせいだろう」
「いいや、気のせいなんかじゃないね。ここにくるとどうにも自分は居心地が悪くなる」
「それなら願ったりだ」
アラム教授が助手とうまくやっていると言ったのは誰だったか。ローガン教授だ。安請け合いした自分を恨めしく思えてくる。
せいせいすると言わんばかりに吐き捨てられた言葉はどう受け取っても真実で、頬杖をついた教授は普段通りの態度を示している。
ビビアンは改めてアラム教授と向き合う。茶色の髪は後ろに撫でつけられており、一筋だけはらりと落ちてきている。緑の目は若干落ちくぼんでいて、痩せこけた頬と合わせるとどうにも食事が足りていないのではと思わせる。肩幅はしっかりしたもののひょろりと薄い体をしていた。
数学塔で一番若いらしいが、いくつなのかさっぱり分からない。
「だいたい君、なんでそんな格好でうろついている」
「一張羅だ。他に大学にふさわしい服なんてない」
「他の助手は違う服を着ている」
「それ以上侮辱するなら怒るぞ」
勢いで大声を上げたものの、内心では心臓が飛び出しそうだった。
いま現在数学塔で働く助手は女性ばかりと聞いている。他の助手と同じ服を着ろと言うのは、ビビアンに元の性別で来いと言っているようなものだ。そしてダミアンとしては女装しろと言われていることになる。
「おかしいのは君の方だ」
「自分はおかしくなんてない。最初に言った通り、見た目のことは、一切口出ししないでくれ。充分な仕事はしているだろう」
「ああ、働きは充分だ」
「なら構わないだろう。なにがあなたをそこまで言わせる」
「その格好が気に障るからだ」
話し合いは平行線で、アラム教授はビビアンの格好がおかしいと主張を崩さない。
ビビアンは精一杯男の子らしく見た目で馬鹿にされまいと怒って見せた。
直感で分かる。
なんど繰り返しても主張を変えず真顔を崩さないアラム教授はビビアンの抱えた秘密に感づいている。そうしてそれを直接的には言ってこない。
これはどうにも厄介なことになったようだ。