帝都留学編 6
エーリヒに会いに行くもすげなくされ、男装して過ごす休日が増えた。平日の学校では変わらない腫れもの扱い。打開する策はまだ浮かばない。男装していれば、誰でもない自分になれる。それは随分と気が楽だった。
ビビアンは鏡をのぞいて自問する。わたしは男に生まれた方がよかったのかな、と。鏡の中のドミニクによく似た紳士も浮かない顔でこちらを見る。一連の事は手紙には書けなかった。心配させてしまうかもしれない、いまさらだけど帰ってきた方がいいと言われるかもしれない。一番の理解者であるドミニクにそんな反応をされたら今度こそ辛くなる。
気休めに本を開く。勉強に没頭できる時間だけが救いだった。
本を片手に学校内をうろつく。ふってわいた空き時間に、隠れる場所はないかと教室からでてきたところだった。近頃は誰かに話しかけようという気にならない。
どこまで歩いただろう。ピアノの音がした。名前も知らないカノンが流れるように聞こえてくる。ふらふらとつられるようにその部屋へと足を踏み入れた。
「誰かと思えば編入生の男たらしじゃない」
カノンを弾く手を止めないまま、目でこちらを挑発してきた。栗色の髪をハーフアップにしたこの少女は、クラスメイトだ。でもそれより前に知っている。王国の話を聞く会で唯一こちらに興味を示さない子。そうして思い出したのは学園が始まる前にマリーイヴと喧嘩していた子。サナ・ジャベール。何度か他のクラスメイトと衝突している姿を見たことがある。
「それは、わたしのことなのかしら」
「とぼけちゃって、いい御身分ね。あなたってすっかり悲劇のヒロインなのに」
「それは初耳ですわ。悲劇なんて起きてないのに。とんだ喜劇ですわね」
カノンが途切れる。サナは意味が分からないといった感じで固まっていた。せっかくなのでビビアンはピアノのそばにある椅子に腰かける。ここならのんびりできる、そんな予感がした。
「勉強がしたくても許されなかったんじゃないの?」
「まあそういう国ですし」
「20も年上に嫁がなきゃいけないんでしょ?」
「それは一般的な話ですね。ちなみに実際結婚した友人は幸せそのものって感じでいつものろけてましたわ」
「女の子は家に縛り付けられるって」
「縛り付ける、は言いすぎでしょう。家を守るといいます」
ジャン、とピアノが不協和音を奏でる。
「なにそれ、大ウソつきじゃない!」
「全部きちんと伝えましたわ。なぜかねじ曲がって伝わるのですけど」
どうしてでしょう、ビビアンが小首をかしげるとサナは頭を振った。そのままテンポの速い激しい曲が流れてくる。間近で音が響くのを聞くとサナのピアノのうまさがよくわかる。ささやかに、流れるように、急展開に、大音量で。変幻自在の音にビビアンはため息をついて聞き入った。
ひと段落ついたのだろう。小気味いい音が消え去って、今度はゆったりとしたワルツが始まる。
「あたしの聞いたうわさと全然違う。国から隠れて勉強していたかわいそうな令嬢が婚約者に助けられて帝国に逃げてきて、ようやく勉強できるようになったって言われているのよあなた」
「あらすじだけ聞きますと大体同じですよ。かわいそうなは余分で、逃げてきたわけでもないですけれども」
「どうやらそうみたいね。あなた結構いい性格」
「ありがとうございます」
ワルツが心地いいものだから体をゆすって聞き入る。なんだか一曲踊りたくなって、エーリヒと喧嘩したことを思い出した。
「王国の話を聞く会で、上手に説明ができなくて誤解されておりますの」
「あの茶番? マリーイヴがそういう話好きなのよ。司会なんてまかせるから」
「そういう話?」
「勉強至上主義」
「あら。そんなに過激ですの」
「あたしのピアノにまで口を出すぐらい。ただの従姉妹ってだけなのにね。ピアノする暇があったら勉強なさいって」
「それはもったいないですわ。サナ様はピアノが大変お上手ですもの。練習を怠っては腕が落ちます」
ワルツがとまる。ピアノの方を見れば、顔半分出してサナが覗いていた。なんだか高揚している様子だ。
「本当に? 本当に心からそう思ってくれる?」
「だってわたし、素敵なカノンに惹かれてここに来たんですのよ?」
「あなた勉強好きなんでしょ? 馬鹿にしないの?」
「あら、あなたはピアノが好きなんでしょう? 人の好きなものを否定するなんてありえませんわ」
刺繍の好きな弟を思い出す。あんなに幸せそうに刺繍のことを語る姿を見て、誰が彼の趣味を止められるものか。勉強が好きな自分のことを思う。どうしてこの本を手放せるのか。パトリシアの薔薇好きも可愛らしい。エーリヒの背中を思い出す。好ましい以外のどんな感情があるのか。
「あたし、あなたのこと誤解していたみたい。ね、一緒に街に遊びに行かない?」
「いいのですか?」
「もちろん。あ、様付けは禁止」
「まだ街をまともに見てませんの。楽しみですわ、サナ」
「それじゃ、今週末ね!」
今週末。エーリヒのところへ毎週のように行っていたけれど、約束はしたことがなかった。だったら一度くらい行かなくても気にしないだろう。なにせエーリヒは怒っているらしいのだ。せっかく用意した街歩き用のワンピースだって着てみたい。
空き時間はサナのお喋り付き独奏会で過ぎてしまったものの、ビビアンはすっきりとしていた。
サナに案内された街は、一人で歩いたときとまるで違う街のようだった。あちらこちらで服を見て、おもちゃみたいなアクセサリーを試してみる。手紙用の便箋が切れそうと言えば文房具屋に連れてってくれた。本屋に入りたいといったときはちょっとだけ嫌そうな顔をしたものの、案内してくれる。
「勉強好きってみんな本屋が好きなの?」
「いえ、お土産を見繕うつもりですの。刺繍の好きな子と、薔薇の好きな子がいまして」
「へえ。あ、刺繍図こっち。これとか最近流行りの載ってるみたいよ?」
「あとは伝統柄が……あ、ありました」
「薔薇の好きな子にはお茶とかの方がいいんじゃない? 薔薇の花入っているの人気だし」
「それは素敵ですね、そうしますわ」
サナは新譜が欲しいからと楽曲を専門に売っているお店に寄っていった。ビビアンも一応譜面はよめるものの、小さなお店いっぱいに収納された楽曲の山にはさすがに気圧された。慣れているのだろう、サナはあっさりと譜面を買って来る。
「人と買い物に来るって久しぶり! やっぱ楽しいわ」
「ええ、わたしも初めてですけれども楽しくって」
「こう、ついつい買っちゃいそうになるのよね」
サナおすすめのカフェに入り、ケーキとお茶を頼む。どちらも美味しくてつい舌鼓を打つ。街を歩くなんてと否定的だった声、女学院の先生の姿をとったつつましやかな方のビビアンの声はすっかりと身を隠していた。お喋りを続けるうちに、先日のピアノのそばで話したことの続きになる。
「なんで好きなこと好きなようにしちゃいけないのかしらね」
「サナ」
「だってあなたの国では勉強がダメ、あたしの国では勉強以外ダメ。こんなのおかしいじゃない」
「そうですわね。お隣同士なのにどうしてこんなにちがうのかしら」
「あたし、あなたの国に行ったらモテる?」
「婚約者を探す令嬢はハンターですのよ? なにもしなくて手に入る幸せなんてありえませんわ」
軽く首をすくめて見せれば、サナは大声で笑った。大声で笑うというのはきっと気持ちいいんだろうな、と初めてサナを羨ましく思う。それから、ちかりと見えた光明。サナと話すことはビビアンにとって大いに収穫になる。なによりも楽しい。
「ね、ルーシー。わたしこの国に来て初めて友人ができたかも」
「よかったですね、お嬢様。奇特な方が見つかって」
ドミニクに紹介したいな、ビビアンはごく自然にそう思った。