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夢路のつぶり(三十と一夜の短篇第5回)

作者: カラスウリ

Special Thanks:しあさん

 △▽「P:D」▽△ 赤啄木鳥アカゲラ


 名のない渓谷にボクはいる。

 えぐられた。深い谷を挟む左右の崖からは、無数の板が渡されている。


 随分丈夫な板もある。

 虫に喰われ、穴だらけの板もある。

 細いもの。太いもの。

 薄いもの。厚いもの。

 たわんだもの。しっかりとしたもの。


 谷を渡る無数の板は、まっすぐに。時に交差し。谷の上空に張り巡らされている。

 遥か下の谷底は、はっきりと底が見えぬ程深い。

 ここでは、ただもう底からごうごうと、風が吹き上げてくるばかりである。

 そんなところにボクはいる。


 遠くから見たら、さぞや奇妙な光景なのだろう。

 板の上にいるのは、ボクだけではない。


 きまって何人かのこども達がいる。谷底から吹き上げてくる風を、こども達は全身に受けている。

 幾人かは躯を丸め。

 或は体育座りをし。なかには気楽な格好で、足を空中でぶらぶらと遊ばせている者までいる。

 赤子はいない。

 下は四、五歳くらいから。上は高校生くらい。それ以上大きなひとを、この渓谷でボクは知らない。


 こども達は何をするではなく、ただ板のうえにいる。

 一枚の板に、時には三人程のこどもが、等間隔で並んでいる。

 誰ひとりこどもがいない板もある。

 逆に大勢のこどもがまたがり、大きくしなっている板もある。


 余程の新参者でない限り、板のうえのこども達は怖がらない。

 板のうえを移動して、崖の向こうへ渡ろうとする者もいない。皆大人しく。大きく目を見開いて、ぼうとしているばかりだ。


 風の音だけが、辺りを支配している。

 そのなかで、決まってボクを呼ぶ少女がいる。

 どんな季節でも、冬のセーラー服姿で彼女はいる。

 ひだスカートからすらりと伸びる両の足には、紺のハイソックスと焦茶のローファーを履いている。艶のある黒のおかっぱ頭を風にたなびかせている。


 きまって遠くに彼女はいる。その為顔はぼんやりとして、よくは見えない。

 ボクを見つけると、澄んだ迷いのない声でボクを呼ぶ。そうしてから、緩慢な動作でボクに向かって右手を差し出す。

 彼女がボクを呼ぶ声は美しい。

 けれどそれはボクの名ではない。

 なので最初は何の事なのか、さっぱり分からなかった。けれどいつも彼女はボクをまっすぐ見て言う。


赤啄木鳥アカゲラ


 それが板の上の、ボクの呼び名だ。



 ▲▼「R:D」▽△ 雑木林の迷子


 ボクは今よりずっと小さな頃。学校の帰り道で迷子になった。

 小学校三年生の冬だった。


 通学路を外れ、仲の良かった年上の伊藤くんと、雑木林で遊んでいたのだ。

 雑木林と言っても、極ちいさな規模のものである。学校のちかくにある造園会社「かすみ園」が所有している林だ。

 立ち入り禁止の立て看板があったが、入り口に柵はなく、ボクらは気にせず度々ここを訪れていた。いたずらをするわけでもなく、樹々の間を抜けるように歩き、虫を探したりするのが好きだった。


 伊藤くんとは学校の図書室で出会った。

「トコ」

 伊藤くんは、ボクをそう呼んだ。

 ボクの苗字である、炭床(すみとこ)の床を縮めてそう呼んだ。


 その日は十一月の。

 初冬であるのが、にわかには信じられぬ程、ほんのりと暖かな日であった。五時間目を終えたボク等には、家路に着く前の自由な時間がたんと残っていた。

 学習塾もなく。部活もなく。せいぜい習い事といえば、伊藤くんが週二回のそろばん。

 ボクが週に一度。遊び半分で通っている、おるがん教室があるくらいであった。


 僕らは背中のランドセルを、がしゃがしゃ言わせ、どちらからともなく雑木林へ入り込んだ。

 葉をすっかり落とし、裸の枝ばかりを伸ばした雑木林は、灰がかった明るさのなかで随分しんとしていた。時折枝の間をスズメやシジュウカラなどの小鳥達が、リズミカルに渡っていく。樹々の間で、「キョッ。キョッ」と鳥が鳴く。あれはキツツキだ。と伊藤くんがせんにボクに教えてくれた。声はするけど、姿を見たことはない。

 ボクと伊藤くんは特に決まり事もせずに、枯れた下草の間を、好き勝手に歩き回っていた。


 雑木林の端から端まで。小学生の足でも十分もかからない。どれだけ出鱈目に歩き回っても、迷子になりようがないくらい狭い林だ。しかも葉を落とした樹々の間は、大層見通しが良い。

 それなのに。伊藤くんが顔をあげ、「トコ」とボクを呼んだ時には、ボクは林の中からいなくなっていたそうだ。


 ボクの迷子生活は六日間。

 この間の記憶はボクには余りない。

 七日目に、「ただいま」とボクは家に帰り着いた。青ざめた母がボクを抱きしめ、大層苦しく思った。

 ボクは迷子になった間の記憶を失っていた。

 この日現れたボクは、以前のボクとは変わってしまっていた。



 △▽「P:D」▽△ 谷底


 板のうえから、谷底をのぞく。

 ぼんやりとしか見えない谷底に、ぼやぼやとあるのは、灰茶色をした石ころばかりだ。


 もう(せん)に。「ボク。全然怖かないや!」そう言って、板から飛び降りたこどもがいた。

 まだ幼い。五歳くらいのおとこの子だった。

 飛び降りて、随分ゆっくりと落ちていった。まるで谷底から吹き上げる風に、押し戻されているかのように。ゆっくり。ゆっくりと落ちていった。

 けれど最後にはとうとう底へ着き。ぐしゃりと手足が、曲がっていたかのようになっていたのを覚えている。



 ▲▼「R:D」▽△ 伊藤くんとカステイラと手紙


「トコの影も形もなくなって。本当に途方にくれた」


 後日お見舞いに来てくれた伊藤くんは、ボクにそう言って、ひっそりと笑ってみせた。

 ボクはもう随分前から、山間やまあいの療養所に居る。


 伊藤くんの笑い方は、どこか寂しげで。居心地の悪そうな笑い方であった。優しくて、おっとりしている伊藤くんの事だから、年下の友人がいなくなり相当焦った事だろう。


「ごめんね」

 ボクがそう言うと、

「ううん。ちっとも」

 大仰な動作で伊藤くんは、前に突き出した右手を振る。


 帰り際。「忘れていたよ」そう言って、そっと大ぶりの箱をボクに手渡した。

 病室の外の廊下では、伊藤くんのお母さんとお父さんが心配そうな顔をして立っている。多分ボクから病気が感染しないか、心配なのだろう。

 それなのにお見舞いに来てくれた伊藤くんは、やっぱり優しい。ボクはベットの上から伊藤くんに、「バイバイ」と、手を降った。


 箱の中身はカステイラだった。カステイラは、ボクじゃなくて伊藤くんの好物だ。

 箱の蓋には、「お見舞い」と印刷された細長い紙が貼られている。

 のしという物だ。のしを剥がすと、裏側に鉛筆で書かれている文字があった。見間違いでなければ、伊藤くんの文字だ。

 ボクはこの奇妙な手紙を三度読みかえし、千切ちぎってトイレに流して捨てた。


 伊藤くんは高校一年生。

 ボクは十五歳になっていた。



 △▽「P:D」▽△ キンポウゲ


 彼女がボクを呼ぶ。

 か細い。澄んだ声で呼ぶ。


赤啄木鳥アカゲラ


 名も知らぬボクを、勝手な名で呼ぶ。

 違和感はない。嫌悪感もない。

 だからボクも、彼女を勝手な名で呼ぶ事とした。


「キンポウゲ」


 キンポウゲは初夏に咲く、ちいさな黄色の花だ。野っ原なんかに、ざくざくと咲いているたくましい野草だ。

 キンポウゲの別名は馬の足形という。

 療養所の図書室で調べた。

 別名の由来は、葉っぱの形からついたとされている。けれど実際の葉っぱを見ると、馬の足形とは全然似ていない。どちらかと言えば、鳥の足形に似ている。

 だからボクは彼女を「キンポウゲ」と、呼ぶ。ボクに鳥の名前をかんした彼女へ贈るには、ぴったりの名だ。


 板のうえに今日もこども達はいる。

 たくさんのこどもがいる。

 そのなかでキンポウゲだけが、光りをまとっているように、ボクの目を射る。



 ▲▼「R:D」▽△ ひだりの(つぶり)


 しゃり かり しゃり。

 耳の奥で音がする。これは「ひだりのつぶり」の発する、食事をする微かなる音だ。


 ボクの耳奥には、ひだりの(つぶり)が住み着いている。

 ひだりの螺は、舞舞螺(まいまいつぶり)の一種である。

 普通の舞舞螺は、みぎ巻きのカタツムリであるが、ひだりの螺はその名の通り、ひだり巻きである。但し。単なるひだり巻きではなく、巻きの頂点に、肉眼では確認できない程の穴が開いているらしい。

 ひだりのつぶりは、この穴からひだを伸ばして、寄生した宿主の夢を吸い取っている。


 迷子になった六日間で、どうやらボクはひだりの螺に寄生されたらしい。


 ※ ※ ※

 ひだりの螺に取りつかれてから、白昼夢をよく見ます。

 例えば中学校の教室で。

 例えば電停のベンチに座ったまま。


 ボクの意識は、突然途切れます。


 途切れた意識は夢路を辿り、ひだりの螺の穴に吸い込まれていくのです。吸い込まれていく時のぞぞぞ。とした感覚は結構気持ちの良いものです。ボクの躯の内側から、余計なものがすっかり絞りとられる様な、実にスッキリとした気分になるのです。

 ですが実際は、全くもって迷惑な話しです。


 ボクが授業中居眠りをしても、教師は黙認します。

 試験の最中でも、ボクを起こす者はいません。

 部活などもってのほかで、周りの人たちは遠巻きにボクに接するのみです。


 ひだりの螺に取りつかれた「ひだりの螺 乖離症(かいりしょう)」は病気です。

 治療法が確立されていない難病です。

 皆同情のこもった目で見ても、ボクと関わり合いになろうとはしません。

 孤独は感じますが、致し方ないとも思えます。諦めているわけではないのです。

 一人でいるのに、慣れたからです。

 ※ ※ ※


「君は孤独な夢を見る」


 ボクの病室の細長い窓を背に、白衣姿の杉先生が言う。

 今年四十九歳になる杉先生の声は、耳に心地よい。ゆっくりと、外耳から内耳へと染み渡り、躯の奥そこに溶けていく様な、深みのある声をしている。

 さぞかし歌わせたら見事なのだろうと、一度強請った事がある。

 すると一緒にいた看護婦さんが吹き出した。先生は度が外れた音痴であるらしい。


「だからわたしは医師になったのだがね」

 音痴でなければ、迷わず先生は歌手を目指していたという。

 だとしたら、先生の音階に対する才能をねじ曲げた遺伝子に、ボクは少なからず感謝をしなければならない。


「孤独ではありません」


 ボクは窓から差し込む日差しに、目を細める。

 壁の白。白衣の白。逆行を背負った先生の姿は眩しくてたまらない。


「しかし君は、こう書いているじゃあないか」


 そう言って光りを背負った先生が、右手に持ったノートをめくる。

 ノートは療養所の売店で買ったものだ。表紙が日焼けで少しだけ色あせていたから、売店の智子さんが十円引いてくれたものだ。

 ボクはノートに日記をつける。記憶をしっかりと持っている為に必要な処置だと、先生に勧められたからだ。


「教室で、君は一人だ。級友も。教師も、君を気にはかけている。しかし積極的に関わりあいになろうとはしない。これを人は孤独という」


 ボクにはよく分からない。一人でいる事に慣れすぎているのかもしれない。


「よく分かりません」

 ボクは首を傾げて、杉先生に正直に言う。

 本当のことを言えば。教室での出来事は、全部ぼんやりとした古い映画やドラマのように思えてきてならない。


「考えると、頭のてっぺんが、すうすうします」

 ボクの返答に、先生はひっそりとした笑みを口元に浮かべる。困ったような笑みは、伊藤くんを思いださせる。教室の同級生を思いださせる。

 ひだりの螺に寄生されているボクは、皆を困惑させるばかりだ。


 先生の診察が終わり、ボクはひとつ息を吐く。

 それから枕カバーのなかに隠している、のしをそっと取り出した。

 のしはすっかり皺しわになっている。

 皺の間をぬうように、伊藤くんの字で、「注意!杉せんせいは嘘つきだ。この世界は嘘つきだ」そう書かれている。


 でも待てよ?ボクは先日読んだ後に、のしを千切って捨てたんじゃなかったっけ?

 千切った紙が、トイレの水に吸い込まれていったのを、確かにボクは記憶している。

 ではこれは何だ?

 ボクはのしを折り畳むと、枕カバーにそっと戻した。

 枕に頭をつけると、眠気がどっと押し寄せてくる。あらがえない程の、強い眠気であった。

 眠りのはざまで、鳥が鳴く。

 キョッ。キョッ。キョッ。


「トコ、ほら!キツツキだよ!」 

 夢のなかで朗らかに叫ぶ伊藤くんは、小学生の姿になっている。



 △▽「P:D」▽△ ふたりでひとつ。そして握手


「ボクが孤独だって、杉先生は言うんだ」


 風が鳴く。おうおうと鳴く。

 板のうえで、不安定に座り込んでいるボク等の躯をなぶっていく。

 けれどボクは平気だ。コワくない。落ちたりしない。

 ボクのひだり側には、ほんのりと暖かな体温がある。

 そこにはひだスカートを、両手で抑えて座るキンポウゲがいる。


 キンポウゲはボクをずっと呼んでいた。

 右手を差し伸べて、ボクを呼んでいた。けれどボクの方には、来てくれない。だからボクから近寄った。


 簡単なことじゃあなかった。

 不安定な板のうえを、ゆっくりゆっくり歩いて行く。

 幅の狭い板は四つん這いになって、這って行く。

 座っているこどもがいれば、またぐ。

 大抵はボクに無関心だけど、なかにはあからさまに顔をしかめる子もいた。意地悪で、またぐ足をつねってくる子もいた。けれどボクは諦めなかった。迷路のように、谷の上空に張り巡らされている板のうえを進んで行った。

 どうにかして彼女の側にたどり着きたかった。

 ボクが近づいていく度に、キンポウゲは微笑みを深くしていった。皆がボクに浮かべる、困ったような笑みではない。

 顔全体が輝くような、満面の微笑みだった。


 最後のさいご。

 彼女の目前までたどり着き、さてどう声をかけたら良いのかと、ボクは立ち止まった。

 遠くで見ている時は分からなかったけど、キンポウゲは話しかけるのを躊躇ためらうくらいに、可愛らしい女の子だった。もたもたしているボクに、彼女が手を差し伸べた。


「来て。赤啄木鳥」


 ボクは彼女の右手を握った。

 ボクらは手を取り合って、一枚の板のうえに並んで座った。それからずっとボクのひだり側には、ほのかな温かさがある。

 いつ来ても、彼女は常にボクの隣に腰かけている。


 色々なこどもがいて。様々な板がある。

 この世界のなかで、同じこどもと毎回同じ板で会う事は滅多にない。けれどキンポウゲは常にいる。


「だからボクはもう孤独じゃあない。杉先生がそう言っても、ボクは孤独なんかじゃない」

 ボクが言うと、キンポウゲがボクの左手を、自分の右手できゅっと力強く握ってくれる。


「赤啄木鳥はちっとも孤独なんかじゃない。杉先生は間違っている」

「うん。杉先生は間違っている」


 ボクはボクの秘密を、すっかりキンポウゲに話したくなる。こんなにも気分が浮き立つのは久しぶりだった。

 キンポウゲと話していると、ボクのなかは、すうすうと風がよく通る。


「伊藤くんは杉先生が嘘つきだって言う」

「うん」

「それにボクのいる世界も嘘だって」

「それは……分からない」

 途端キンポウゲが眉を寄せ、唇を尖らせる。


「いいんだ。いいんだ。どっちが嘘かなんて、ここのボクには関係ないんだから」

「そうなの?」

「うん」

「ならいい。ここで、わたし達はずっと仲の良いお友達でいられる」

「うん」

「二人でいれば、寂しくない」

「うん」

「二人で、ひとつだ」

「うん」


 ボクらは互いに見つめ合った。

 ボクの視界いっぱいに彼女の顔がある。

 彼女の真っ黒いまるい瞳に、ボクが映っている。

 風が吹く。

 ばたばたとキンポウゲのセーラーカラーが上下にたなびく。


「凄い風。ね。凄いわね?」

 キンポウゲが笑い声をあげる。楽しげな声が谷にこだまする。

「うん、凄い」

 ボクは幸せな気持ちで、おおきく頷く。


 二人でひとつ。

 ここにいれば、ボクはとっても幸せだ。



 ▲▼「R:」▼▲ ホワイトボードに跳ねる光に目を開ける


「ひだりのつぶりが原因で起こる、この病の決定的な治療法は今だ確立されていません。手術も無理です」


 初めて杉先生に引き合わされたのは、五年生になった春。螺に取りつかれてから、一年半が過ぎていた。

 ボクは両親と、療養所を訪れていた。


 療養所は山の中腹にある。とても涼しくて、良い風が吹く。

 けれどあんまり風が強い日など樹々が一斉にしなりだし、ちょっと怖いくらいだ。


 先生とボクら家族は、電気を落とした薄暗い部屋にいた。

 目の前のホワイトボードに、プロジェクターからの映像が、ほのかな明かりを滲ませている。

 先生の説明は淡々と続く。


「宿主に取りついたひだりの螺は、耳奥から脳内へとヒダを張り巡らせます。外科手術が無理なほど、宿主とひだりの螺はぴったりと結びつき、離れがたくなるのです。純也くんが六日間行方不明になった期間は、俗に螺の誘惑と呼ばれる、宿主と螺が融合する為の期間です」


 先生の持っている指し棒が、ホワイトボードに映し出された、人間の頭部のイラストをぐりぐりと指し示す。そこにあるのは記憶を司る海馬だ。

 ひだりの螺は、まずそこを制圧する。

 今もボクに取りついたひだりの螺は、伸ばしたヒダからボクの記憶を。次に夢をちゅうちゅう啜っているはずだ。

 そう考えると、イラストの海馬がまるで自分の脳みそそのものに思えてきて、ボクは気分が悪くなってしまう。

 母さんがボクの隣の席で、しずかに泣いている。震える肩を父さんが抱いている。


「純也はもう目覚めないんでしょうか」

 父さんが先生へ質問をする。

 先生は一瞬間を開け、それから父さんの目をしっかりと見て告げた。


「目を開け、辺りを認識する。そういった意味であれば、目覚めはします。今だって」


 そう言って、プロジェクターの画面を進める。かちり。かちりと、ホワイトボードのうえで画面が切り替わっていく。しろいひかりが、ちかちかと揺らめく。


「暗闇のなかの光りに、純也くんは反応します。目を開けます」

「純也。じゅんちゃん」

 母さんが泣きながら、ボクを覗き込む。

 うん、母さん、ボクにはちゃんと分かっているよ。ちゃんと見えているよ。


「光りと音。この二つの刺激で、患者は目を開けます。けれど自ら話したり、行動したりはしません。では何の為に目を開けるのか、理由は解明されてはいません。解釈の一つですが、現実世界を眺めることで、より夢の世界を豊かに感じるためではないか。そう唱える研究者はいます」


 かちり。プロジェクターの画面が切り替わる。ボクの黒目がぎょろんと、ひかりを追う。

 躯はベットのうえから動けない。


 ボクはここ一年半、食事から排泄まで全てを両親に介護されて生きてきた。母さんはもう限界だ。奇麗だった黒髪の半分が白髪になった。髪もとかさず。お化粧もお洒落もなしだ。


 寝たきりになった息子の意識が戻る事を願って、母さんは真摯しんしにボクの面倒をみてくれた。

 だから大丈夫。ボクはきちんと母さんの優しさを覚えておけるから。

 頑固で、厳しくて、時々お茶目な父さんのことも。伊藤くんの事も。

 全部ぜんぶ忘れない。忘れさせてもらえない。宿主の嬉しい記憶は、ひだりの螺の大好物だ。


「完治する可能性はないのですか」

 堅い声で父さんが質問をする。


 分かり切った質問だ。けれど医師から言ってもらわなければ、きっと決心がつかないんだ。先生、ボクはすっかり分かっているから、大丈夫。だから最終宣告をしてあげて。


「残念ながら、今の医学では無理です」

 母さんが椅子から床へと泣き崩れる。


「ですが、苦痛はほとんどありません。純也くんの一日の大半は、夢うつつです。一日中、彼は現実と夢の世界を行ったり来たりしています。ひだりの螺に取りつかれた患者さん達は、大抵が穏やかな眠りのなかにいます。悪夢ではないはずです」


 悪い夢なんて見たことない。

 ひだりの螺はいつだって、楽しい。けど少しだけ物悲しい夢をボクに運んで来る。ひだりの螺の夢で、ボクは傷つかない。

 夢のなかは、ささやかな安寧あんねいの場所だ。

 しゃり しょり しゃり。夢をむ音がする。頭のなかから、音がする。



 △▽「P:D」▽△ 夢路のつぶり


「ねえ。キンポウゲ」

 ボクはひだり隣に座る彼女に尋ねる。ずっと聞きたかった事だ。


「なんでボクを赤啄木鳥アカゲラって呼ぶの?」

「あら」

 何でいまさら。そう言った感じで、キンポウゲが可笑しそうに口元をたわめる。


「だって初めて会った時。まっ赤な体育帽子に、まっ黒のランドセルを背負っていたもの。赤い帽子に、黒い背中。ほら。赤啄木鳥そっくり」

 ふふふ。キンポウゲが笑う。おかっぱ頭も揺れる。


「そうなの?」

「そうなの」

「けど……」

 そんなの変だよ。

 ボクは言葉を飲み込んだ。

 それはボクが行方不明になった。小学生の時の格好だ。

 ここにいる、一五のボクは体育帽子なんてかぶらない。ランドセルだって持っていない。


 風が吹く。パジャマのポケットの中の紙が、かさこそと鳴るので、どきりとする。

 そこには細長いのしが、たたんで入っている。いつの間に入っているのか、分からない。

 トイレに千切って捨てて。

 枕カバーのなかに押し込んで。

 今度はパジャマのポケットに、入り込んでいる。

 手紙をくれたのは、本当は誰だったんだろう?


 ボクはパジャマのズボンから、にゅっと突き出した裸足の足をじっと見つめる。外の光りに当たっていない、生白い足はまるで自分のものじゃないみたいだ。



 ▲▼「R:」▼▲ 野鳥図鑑


 アカゲラ

  キツツキ目キツツキ科の鳥類

  アカゲラ。オオアカゲラ。コアゲラなどがいる。

  白、黒、赤の三色。雄の頭頂部は赤い。キョッキョッと鳴く。



 △▽「P:R」▽△ 君はまぼろし


 ボクの足の先には谷底がある。

 今迄は見えなかったはずなのに、今のボクにはそっくり見える。

 谷底一面にいるのは石ころなんかじゃない。

 全て舞舞螺だ。距離があるから、このなかにひだりの螺が、いるかどうかなんて分からない。


 無数に蠢く舞舞螺の殻がこすり合い、風音とは別の音をたてる。

 かしゃ しゃり かしゃ


 似た音は、ボクの耳の奥からも聞こえてくる。

 しゃり かり しゃり しゃり

 

 音はボクのひだり隣からも聞こえてくる。


 ボクはボクのポケットのなか。心臓の真上の秘密を、そっと右手で抑える。

 のしの文面を、ボクは口中でそっと呟く。


「キンポウゲは幻だ。この世界は幻だ」


 風が吹く。

 谷底では舞舞螺が誘うように、動いている。



 ▲▼「R:」▼▲ レポート/杉 僚一


『ひだりの螺に取りつかれた患者は得てしてふたつの夢を観る。

 ひとつは現実世界に良く似た夢である。

 それは現実世界で生活しているかの様に、リアルな夢である。夢に登場する人物全ては、患者が目を開けた時に認識している実在の人物である。


 もうひとつ。現実世界の夢のなかで、患者はさらにもうひとつの夢を観る。この夢は全てが完璧な造りもの。まがいもの。ファンタジーの世界である。

 ファンタジーの世界には、患者の造りだしたイマジナリーフレンドが登場する。イマジナリーフレンドの多くは、患者に寄生しているひだりの螺の仮想姿であるケースが多い。

 ふたつの夢路を、患者は交互に行き来する。

 ふたつの夢の間を、ひだりの螺のひだは、行き来する。

 どちらかひとつの夢のみを辿ろうとすると、患者の意識が戻ってこれなくなるという研究報告があるが、現段階で確証はない』



『304号室。炭床純也。一五歳 / 目覚める見込み、今だナシ』



                           完


この物語を、「いなくなった友人。しあさん」へ勝手に贈ります。


シークレットお題を元に短篇を書くのは楽しい。

けれど時にして苦しい。だって短篇だ。これが長篇ならば誤摩化しようもある。お茶を濁して、「ハハハ」と有耶無耶にだってできる。しかしあにはからんや。短篇だ。起承転結をもってして、「お題」を消化しなければならない。義務ではない。投稿は毎月自由だ。会を立ち上げた錫さんは決して無理強いをする鬼畜ではない。優しい人柄の方だ。会員は皆自由参加だ。

ではなぜ毎月参加するのか?お前はMっ気でもあるのか?追い込まれるのが好きなのか?正直に言おう。多少その気はある。いやそもそも言葉を綴っている者など、皆似たり寄ったりのMっ気の集まりであろう。一銭の得にもならず。認められず。褒められず。何を糧に日々書くのだ?書かなくとも良いのだ。それを毎月まいつき、頭を掻きむしって、カレンダーを睨みながらネタを煮詰める綱渡り生活。ボツネタ、ボツ作品を量産し、その先に何があるというのだ。ーーなにもない。

残るのは短篇一作のみと、書いたという自己満足だ。

だが書いた。理由のひとつに、しあさんが居た。『三十と一夜の短篇』の会にはしあさんがいた。しあさんが共にお題を書くのだ。下手な作品などだせまい。怖いからではない。切磋琢磨し、認められたいからだ。

しあさんに「ううむ。こうきたか。カラスウリの分際で生意気な」そう思わせたかったからだ。子供っぽい見栄だ。だが原動力であった。それがどうだ。ある日。突然しあさんは居なくなってしまった。こちらはもう茫然自失だ。(勝手な)ライバル認定仲間がいなくなってしまった。

もう書けません!!そう喚いて泣きたかったが、子供ではない。分別をもったかなり良い年の大人だ。だから今日も書く。書くしかない。今心が折れれば、書けなくなってしまう気さえする。


今迄の感謝を込めて贈ります。読んで心温まる物語ではありません。楽しい物語でもありません。いつものシュールで暗いカラスウリ作品です。これが今の精一杯です。返却不可ですよ!!しあさん!どこかで読んでいて下さい。

(注意/しあさんは他のWEB世界でぴんぴんしています。きっと今日も元気です)


原稿用紙換算枚数 約28枚

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― 新着の感想 ―
[一言]  拝読しました。  まさに白昼夢のような読み心地でした。  いずれにしろこの先は、定まっている。「ボク。全然怖かないや!」と飛び降りた子供が象徴するように、随分ゆっくり落ちていって、最後はぐ…
[一言] ネタバレ感想になりますので、気をつけてください。 最初に世界が大きく分岐しており、それぞれの説明もよくのみ込めなかったため、少し不安になりました。 しかし、そのまま流れに身を任せて読み…
2017/02/28 11:36 退会済み
管理
[一言] こんばんは。つぶり祭りの活報をみて、これは読まねばと、馳せ参じました。 凄く好きです……! ノスタルジックで、どこか甘美ですね。 夢とうつつのあわいを行ったりきたりする話がもともと好きなので…
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