白紙の恋 八章
記憶を取り戻してから一週間、僕はいつもの日々を過ごしていた。
あれから何度も言おうとしたが、肝心な一言が音にならずに消えていく。
愛さんをいざ目の当たりにすると、卑怯な自分が顔を出す。
そうやってこの一週間の間、何事もないような顔をして仕事をしていた。
本当に卑怯で情けない男だ。
その情けない僕に、決意させる時間が迫っていた。
「開君、今日は付き合ってもらってごめんね」
申し訳ないという感じで手を前にだし愛さんは謝る。
八月二十日。この日、僕は愛さんに連れられ町に出てきていた。
「いや気にしないでください。どうせ休みは寝てばっかりだし」
「そう言ってくれるならいいけど」
「それでどこに行くんですか?」
「実はね、お墓参りなの」
愛さんは悲しいのか何なのか、自分でもわからないという複雑な表情をしている。
「お墓参りですか?」
僕は何となく返ってくる答えを予想出来たが、恐る恐る愛さんに聞いた。
「ええ。私の婚約者の……。と言っても、何も記憶がないけどね」
一瞬沈黙に包まれたけど、愛さんはいつもの笑顔でその場を誤魔化した。
「そうですか。でも、記憶が無くても喜ぶと思いますよ」
「そうかな?」
愛さんは、そうは思えないという顔をしている。
それから二人とも黙ってしまい、僕は愛さんをまともに見られないまま後を歩いていった。
黙々と歩き始めてか十五分ぐらいして目的地に着いた僕たちは歩みを止める。
「ここの交差点で子供を庇って事故に遭ったらしいの。彼の命と引き換えに子供は助かったそうよ」
愛さんは花束を置きながら言う。
その背中を見ながら僕は言葉を失っていた。
僕の脳裏にはケーキ屋で思い出した光景が浮かぶ。
「ここに来れば記憶が戻るきっかけになるかと思ったのに。私って薄情ね」
自分を責める言葉を吐く表情はとても見ていられなかった。
「そんなことないですよ」
何て言ったらいいかわからず、適当な台詞が口から出る。
「いいえ、薄情よ。医学的には関係ないかもしれないけど、理屈じゃなくて。彼を愛していたら……もっと何か思い出してもいいはずなのに。ここに来ても、写真で顔を見たときも、何一つ思い出せないのよ!」
愛さんは珍しく感情を露にした。
「それは仕方ないことですよ。どんなに愛していても」
愛した相手を奪った張本人が何を言っているんだ。
しばらく涙を流し続けた愛さんは、すっと指で拭って立ち上がる。
「何かごめんね。今日はありがとう付き合ってくれて」
「いや、役に立ってないですけど」
「そんなことない。いてくれるだけで心強いから」
真っ赤になった目の愛さんを見て切なくなる。
「うん、ご飯食べに行こう。よ~し、今日は何でもおごっちゃうから!」
愛さんは僕の手をひっぱり歩き出した。
部屋に戻った僕は旅館を出る準備を始めた。
今まで事実を伝えないことには辞められないと思っていたけど、それこそ自分勝手な気がしてきたのだ。
荷物を纏め終えた僕は座って部屋を見回す。
たった三ヶ月ぐらいだったけど、ここにはたくさん思い出が出来た。
楽しいことばかりで離れるのは寂しい。
だけど、今日の愛さんが見せた顔を思い出すと、とても居たいとは言えなかった。
事実を言って傷つけるなら、自分を臆病者と攻め続けていこう。
楽な道と言われるかもしれないけど、僕にはそれぐらいしか出来ないから。
深夜になり時間がまるで止まっているかのように旅館は静かになっている。
僕は、その中を鞄片手に歩いていく。
「何をしているの?」
心臓が飛び出すかと思うぐらい驚く。
僕は静かに振り返る。
視線の先には女将さんが立っていた。
「いや、その……」
予期しないことに動揺し言葉が続かない。
「ちょっと座りなさい」
その静かな口調に黙って従う。
「事情を説明しなさい。何も知らないまま行かせることは出来ないから」
「はい」
僕は激しく鼓動する心臓を落ち着かせてから話を始めた。
話を聞き終えた女将は静かに口を開いた。
「そうだったのね。あなたが剛の事故と関わっていたなんて」
さすがの女将さんも動揺を隠せないでいる。
「なので、申し訳ないですけど」
「わかった。それが考えた末の答えでしょ?」
「はい。あの、こんなこと言える立場ではないですけど、このことは愛さんには……」
「わかっているわ。あなたがあの子に惹かれているようにあの子もきっとあなたを……。だから、とても言えないわ」
「すいません。僕のことはどんな悪く言ってもかまいませんから。女将さんに全てお任せします。本当に勝手ですみません」
僕は立ち上がり、女将さんに一礼してから玄関へ歩きだす。
「ちょっと開君」
立ち止まり女将さんに体を向ける。
「何ですか?」
「少し待っていなさい」
そう言うと女将さんは事務所へ入って行った。
二、三分ぐらいして戻ってきた女将さんの手には封筒が握られている。
「これ少ないけど」
「いや、これは貰えないです」
「いいの。今月もちゃんと働いてくれたから。これはこれでちゃんと貰いなさい」
「ありがとうございます。ご迷惑ばかり掛けたのに」
つい泣きそうになってしまう。
「今は何て言ったいいのかわからないけど。気をつけて行きなさい」
「本当にありがとうございます。お世話になりました」
僕は深々とお辞儀をし、涙が溜まった目を見られないよう足早に玄関へ歩き出す。
外はまだ真っ暗で、周囲も静寂に包まれていた。
少し歩き旅館がだいぶ小さくなった所で、正面に向き直りお辞儀をして顔を上げる。
これが今出来る精一杯の謝罪だ。
僕は、無心のまま暗闇の中を歩いていった。