白紙の恋 五章
花火大会から数日が経っていた。
あれから二人きりになることがなく、特に進展はしていない。
会っても挨拶か、仕事のことだけで特別な会話はなかった。
そんな数日だったわけだが、今日は大手商社の団体客が宿泊するので、慌しく全員が動いている。
「開、団体様の部屋の用意できているか?」
文太さんが部屋割りを見ながら声を掛けてきた。
「はい大丈夫です」
念の為、僕も自分の書類に目を通す。
初めて団体様の担当を任され、僕は責任と嬉しさを感じていた。
「大変だと思うが、人数が多いだけと思って気楽にやれよ」
「ありがとうございます。精一杯頑張ります」
「そう気張るなよ。ほら!肩の力抜け」
文太さんに軽く背中を叩かれる。
「はあ……」
頭に手をやりながらぎこちなく笑う。
「さあ時間だぞ!」
「はい。よしやるぞ!」
僕は珍しく自分に気合を入れる。
「おお気合入ってる~」
後ろから明るい声が聞こえてきた。
僕が振り返ろうとしたら、軽く背中に体当たりされた。
「開さん!リラックスですよ」
「なんだ、楓ちゃんか」
「なんだとは何ですか!」
「ごめん、ごめん」
「おい!楓ちゃんにからかわれるようじゃ不安だな」
文太さんもからかってくる。
「も~文太さんまでひどいな」
楓ちゃんが頬をふくらませながら言う。
「ありがとう楓ちゃん。おかげでリラックス出来たよ」
「そう?ならよかった。じゃあ、頑張りましょうね」
「おう!任せとけ!」
「お!頼もしいな。開、頑張れよ」
「はい。大丈夫です」
まだ記憶は戻ってないが、僕はそんなに悩んでいなかった。
それが、居心地がいいせいか、愛さんがいるからか、何が理由なのかわからない。
とりあえず楽しくやっている。
一時間後、団体客が到着した。
「いらっしゃいませ。『春風』女将の新田愛と申します。どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ」
こうやって挨拶している愛さんを見ると、改めて女将だと実感する。
「こちらこそ、大人数でお手数かけますが、よろしくお願いします。幹事の真島琴美です」
清楚な感じの女性が挨拶を返してきた。
「では皆様。それぞれのお部屋にご案内します」
愛さんや仲居さんたちに案内されお客さんたちが移動していく。
僕も宴会の準備をする為に事務室に移動しようとしたら、さっきの女性が近づいて来た。
「どうかしましたか?」
ちょっとドキドキしながら聞く。
「久しぶりだね。開、元気だった?」
不意に自分の名前を口に出され動揺する。
「すみません。僕を知っているんですか?」
「え?どういうこと?」
「それは……」
「琴美!行くよ」
同僚の女性が彼女に呼びかける。
「すぐ行くから」
「ごめん。後でまた話そうね」
そう言うと、彼女は早歩きで同僚たちを追いかけていく。どうやら僕のことを知っているらしい。
「やけに親しそうだったわね?」
「え!あ、愛さん」
「何をそんな慌てているの?怪しいな」
「いや怪しいも何も。覚えてないですし」
「そうね、ごめんなさい」
一瞬気まずい空気が流れる。
「すみません。気にしないでください」
「わかった。だけど、あんな美人の知り合いがいるなんて隅に置けないわ
ね。よ!この色男!」
愛さんはいつもの笑顔で機嫌良さそうに僕の背中を叩く。
「って!ちょっと愛さん。馬鹿言ってないで準備しますよ。そもそも、僕が
あんな美人と何かあるわけないでしょ」
「へ~やっぱり美人だと思っているのね」
「ええ、そうですね」
わざと怒ったように言う。
「そんなに怒らないの!でも、開君って嘘つけなくてかわいい」
くすっと笑いながら愛さんは挨拶回りに向かって行った。
「ふ~。愛さんには敵わないな」
でも、冗談じゃなくあの子と一度話さないと。
記憶が戻るきっかになるかもしれないからな。
無事に部屋への案内も終え、宴会の準備でいろいろ歩き回っていたら正面からさっきの女性が歩いてきた。
「あ!開。ちょっといいかな?」
僕は歩みを止め彼女と向かい合う。
「はい。何でしょう?」
どういう関係かわからなかったので、従業員として応える。
「さっきもだけど、何でそんなに余所余所しいの?」
「それは……」
僕はロビーにある長椅子に彼女と座り、記憶が無くなってからの経緯を簡単に説明した。
「そうだったの。ごめんね、何も知らなくて。」
「気にしないでください。見ただけじゃわからないですから」
「ねえ、記憶はないかもしれないけど、敬語はやめてくれないかな?」
彼女は寂しい顔をしながら聞いてくる。
「ごめん。じゃあさ、僕と君の関係を教えてくれないかな?」
「関係ねえ。初恋で初めての男かな」
聞いた瞬間に咳き込んでしまう。
「ははは。記憶が無くても開は開ね」
「何だかな。俺って、からかわれてばっかりだな」
「そうなの?」
「ああ。ここの若女将の愛さんっていう人が特にさ。いつも俺をからかうんだよ。でもさ、年上なのに何か世話したくなるっていうか。そうだな、落ち着きが無い男の子みたいな人でさ」
僕がふっと彼女を見ると、彼女はそっと言葉を発した。
「ほんと開ってわかりやすい。記憶が無くても変わらないわね」
何だかさっきよりも彼女の顔が悲しく見えた。
「何が?」
「それを聞くのが開らしいけど、たまにそれが、相手をすごく辛くさせるのよ」
「え?どういうこと?」
彼女がぼそっと言ったことを聞き返す。
「ううん。気にしないで。つまらない思い出だから」
「わかった。それで……。失礼だと思うけど、いつまで付き合っていたのかな?」
「ええとね。高校一年から三年前までだから、大体七年ぐらいかな」
「じゃあ、最近は会ってなかった?」
「そうね。私は、たぶん開も、仕事で会う暇なんてなかったし。それに会う理由も特になかったから」
「そうだよな。別れたらなかなか会うことはないか」
「正確には会えない理由の方が大きかったんだけど」
「会えない理由?」
「うん。他にもあるけど、それがきっかけかな」
「嫌な思い出だと思うけど、俺に教えてくれないか?」
「……。忘れたままが開にとっていいと思うけど。そうだよね、自分を忘れたままは辛いよね」
「ああ。少しでも自分を取り戻したいんだ」
「わかった。私たちの別れた理由は……」
「開さん!文太さんが探していましたよ」
琴美さんの言葉にかぶせて楓ちゃんが声を掛けてきた。
「わかった。ごめん、夜に時間があったら話そう」
「うん。仕事頑張って」
「ああ。そっちは温泉でゆっくり休んで」
僕は、話の続きが記憶に大きく関係していそうですごく気になったが、仕方がなく仕事に戻った。
夜、団体客の大広間での宴会が始まっていた。苦労して準備した甲斐あって無事に進行している。
料理も問題ない。そう安心しているときに問題が起こった。
「おい幹事!芸者とか、かくし芸とか用意しとらんのか」
重役らしき中年男性が叫んでいる。かなり酔っているようだ。
「すいません。そこまで予算がなかったもので」
琴美が恐縮した様子で謝っている。
「じゃあ、お前が何か芸をやらんか!」
男性はしつこく怒鳴ってくる。
周囲の社員たちは明らかに顔をしかめている。
「私ですか……」
琴美は戸惑いながらも考えている。
「ほら!さっさとせんか!そうだ、何がしのアイドルみたいに腰振ってダンスでもしたらどうだ!」
本当に最低な奴だな。
酒癖が悪いにも程があるだろエロ親父!
だが、さすがに僕が一喝するわけにもいかない。
僕がそうやって思案していたら、いつのまにか琴美が壇上に上がっていた。
「おお、ついにやるか!」
それを見た瞬間、僕は壇上に上がっていた。
会場は一気に静まる。
僕は気づくと、彼女と向き合っていた。
振り返って何か言おうとしたら、目の前に文太さんが立っていた。
「おい!お前ら何だ!」
「いや~申し訳ございません。私共の気が利きませんで。ですので、今日の所は我が旅館自慢の美人女将による舞でご辛抱くださいませ」
文太さんの言葉を聞き舞台袖を見ると、愛さんがこっちに合図を送っている。
僕は急いで琴美を連れて舞台袖に避ける。
愛さんは入れ替りに舞台に出て行く。
僕たちが袖に着くと、音楽が流れてきた。
愛さんは見事に音楽に合わせて舞を踊っていて、普段と違う美しさを放っている。
その見事な舞に、さっきまで怒鳴っていたエロ親父も口をぽかんと開けてアホ面全開だ。
舞が終わると、宴会場は拍手喝采となった。
一時間後、宴会場はすっかり片付けが終わろうとしていた。
あの後、エロ親父は機嫌が良くなり、しばらく飲んだ後に会を終わらせた。
そのおかげで琴美は芸をしなくても済んだのだ。
僕は、片付けのチェックをしている愛さんの元に近づいて行った。
「愛さん。さっきはすみませんでした」
「え?何が?」
愛さんは、あっけらかんと答える。
「いや、宴会で琴美が芸をやらされそうになったときのことで……」
予想と反する態度に僕は戸惑う。
「あ~、あれね。気にしないで。だって開君は、あの女性を守ろうとしただけでしょ。だけど、次からは考えて行動しないとね。それで、何で名前知っているの?それも呼び捨て」
気のせいか愛さんは少し怒っているような。
僕は指摘されてハッとなる。
琴美のことを無意識に呼び捨てにしていた。
琴美に関しても、過去の記憶も一切戻っていないのに。
「あの~。ええと」
僕は落ち着いて琴美とのことを話した。
「そう、良かったわね。これで記憶が戻るきっかけが出来たじゃない」
「ありがとうございます」
と言っても、あまり気は晴れていなかった。
「どうかした?」
「いえ別に」
僕は、愛さんに対しての気まずさと、琴美との記憶が自分にとって辛いもののような気がして不安だった。
「ならいいけど。ほら、さっさと終わらせるわよ」
「はい!」
無理やり気を引き締め、作業に戻った。
だけど、作業をしながら琴美とちゃんと話さないといけないと考え事もしてしまっていた。
たとえ琴美との記憶に辛いことがあっても、僕である為には乗り越えないといけないことなのだから。
翌日、複雑な感情を持って仕事に取り組んでいた。琴美のこと、記憶のこと、そして愛さんのことが頭をぐるぐる回っている。
「おはよう。昨日はありがとう」
噂をすればではないが、いつのまにか後ろに琴美が立っていた。
「お、おはよう。昨日は大丈夫だったか?」
「ええ。ここの女将さんのおかげで専務の機嫌も直ったし。ここに来て正解だったわ」
「なら良かった」
「ねえ、今度の週末会えない?」
「……わかった。土曜でいいか?」
「うん大丈夫。じゃあ後でメールする」
「ああ」
琴美は何度か笑顔を見せながら去って行った。
「あ~。開さんが浮気している~」
「お!びっくりした。いつからいたの?楓ちゃん」
目線の先にはふふふと笑っている楓ちゃんがいた。
「へ~そんな夢中になるほどなんですね」
「いや、そういうわけじゃ……」
「冗談ですよ。開さんをからかうのおもしろいな」
「こら!本当に怒るからな」
「べ~だ!恐くないもん。ていうか開さん」
「何?」
「愛さんに知られたら大変だよ~」
「だからそうじゃないんだよ」
「言い訳は私じゃなく愛さんにしないとね」
「そもそも、何で愛さんに言い訳しないといけないんだよ」
「また~開さんたら。もろばれだし愛さんを好きだって」
「な、何のこと?」
「ほら怪しい!開さん誘導尋問ってやつに弱いよね」
「楓ちゃんには敵わないな」
「やっとわかったのね。大丈夫!これからは楓様も協力してあげるから」
「はいはい。期待はしないけどね」
「え~。楓様の力を見くびると痛い目に遭うよ」
「へいへい。胆に銘じます」
「わかればよろしい」
楓ちゃんはどうだ!と、言わんばかりに腰に手を当てて満足そうな様子だ。
「こら!二人そろって無駄話?」
「お!びっくりした~。なんだ、愛さんか」
言う割に楓ちゃんは驚いていない。
「何だ、じゃないわよ」
てか、さっきから来る人皆、気配消しすぎて心臓に悪いよ。
「すみません。楓ちゃん仕事に戻るよ」
「よし。わかればよろしい。さあ、今日もがんばろう」
「イエッサー」
僕と楓ちゃんはそろって返事する。
「よ~し、いってらっしゃい」
僕たちはそそくさと仕事に戻って行った。
夕方の休憩に携帯を開いたらメールが届いていた。
『ごめん、仕事だよね?帰ってから開の家によってみたの。ちょうど開のお母さんがいてさ、事故の話をもう一度聞きました。朝話したとおり、今度の土曜でいいよね?時間はお昼頃がいいんだけど都合はどう?』
僕は『大丈夫』と返事のメールを送信した。
これで記憶が少しでも戻るといいけど。
「どうしたの?浮かない顔をして」
「え?ああ女将さん。お疲れ様です」
「お疲れ様」
女将さんは近くの長椅子に座ると、袖から煙草を取り出し、火をつけた。
「座りなさい。話聞くから」
僕は少し距離を開けて隣に座る。
「ええと。実は……」
僕は琴美が旅館に来たこと、彼女との関係を簡単に説明した。
「そんなことがあったの。水臭いわね。親代わりのつもりで君を預かっているから、何かあったら相談しなさい」
女将さんの一言が心を落ち着かせる。
「ありがとうございます。だいぶ楽になりました」
「そう。少しは役に立てたなら良かったわ」
顔は愛さんにそっくりだが、別の美しさがある。何だろう?色気?いや、儚いというか哀愁があるというのかな。
愛さんも歳を重ねたら女将さんみたいになるかもしれない。
「本当に大丈夫?」
女将さんにしては珍しく不安な表情で聞いてきた。
「はい!大丈夫です」
本当はから元気だが、明るい笑顔を見せた。
「まあ無理しないでやりなさい」
「わかりました。自分なりにやってみます」
「よし!それでよろしい」
気がつくと元気にさせるところは親子そっくりだな。
「じゃあ私は仕事に戻るかな」
女将さんは煙草を消し事務所に戻って行った。
このときの僕は予想もしていなかった。
消えた記憶にある事実がどんなものか。
それがとてつもなく重大な罪だということも。