白紙の恋 二章
退院してから二週間、バイトをくびになった僕は途方にくれながら街を歩いていた。
仕事には、生活もあるのですぐに復帰した。だが、経験が頭から消えていたから失敗ばかり。
当然の如く数日間で解雇を言い渡されたのだ。
そんなお先真っ暗な状態で歩いていたら、思いっきり誰かにぶつかってしまった。
「いたた……。すみません大丈夫ですか」
手を伸ばした先には見たことがある顔。
「わたしこそすみません。そちらこそ大丈夫ですか?」
「僕は大丈夫です」
「ならよかった。あれ、あなたは病院で同じ部屋だった方よね?」
やっぱりあのときの彼女だ。
言い出せなかったのは、彼女の服装のせいで確信がなかったからだ。
「今日は和服なんですね」
「ええ。これでも若女将らしいから」
「若女将ですか」
「まあ小さい旅館だけど」
「お元気そうで」
すると、彼女は僕の顔を覗き込む。
「あなたは調子わるそうね」
「いえそんなことは」
「これも何かの縁だし。話してみて」
「実は……」
僕は仕事をクビなったこと、なかなか仕事が見つからないことを話した。
「そう。じゃあうちで働かない?」
「え?新田さんの旅館ですか?」
「そう!ていうか新田さんはよそよそしいから愛でいいわよ」
そう言われ、僕はたどたどしく名前を呼んだ。
「じゃあ愛……さんで」
「なんかぎこちないけどいいわ。よろしく、開君」
「よろしくお願いします」
「じゃあ行きましょうか」
「これからですか?」
「そうよ。善は急げ、って言うじゃない」
「わかりました」
よくわからないけど、彼女といると元気になってくる。
三十分後、彼女に連れられた僕は、旅館『春風』を訪れていた。
記憶を無くしたわりには慣れた感じで中に入りながら愛さんは手招きする。
「さあ!そんなところに立ってないで入りなさいよ」
「はあ、おじゃまします」
僕が靴を脱ぐのを確認したら、愛さんはとっとと中に入っていく。
「こっちに事務所があるから付いてきて」
見た目と違って強引なリードの愛さん。
そんな彼女に圧倒されながら後ろをついていく。
思っていたより広い中をしばらく歩いていると事務所が見えてきた。
愛さんは突然足を止め、僕に向かって振り返る。
「実はね、父は私が五歳の頃に亡くなっているらしくて、経営は母が一人でやってきたらしいの」
「そうなんですか」
「だけど、幸せだったと思う。記憶がないからどんな人生だったかはわからない。けれど、この二週間でなんとなく感じたの」
そう言っている顔は穏やかで、ほんとに愛情を感じたのだとわかった。
「さあ入るわよ」
中に入ると、愛さんそっくりな女性がデスクで作業していた。
「母さん。少し話ししたいんだけど大丈夫?」
「ああ帰ったのね。何?手短にね」
「ええとね。まず、この人が母の新田望。女将兼社長です。こちらは白井開君」
「白井開です。はじめまして」
緊張しながら頭を下げる。
「何なの突然。彼は誰?」
鋭い眼光が僕に向けられた。
愛さんは、病院での出会いから僕の事情まで簡潔に説明した。
話を聞き終えると、女将さんは立ち上がり僕に近づいてきた。
「ふ~ん。顔はいいし、体力もありそうね。まあいいでしょ」
「じゃあいいのね、母さん」
「ええ。白井君だっけ?あなたも記憶なくして大変だとは思うけど、仕事を真面目にやってくれれば文句はないから。頑張ってちょうだい!」言いながらパン!と僕の背中を叩く。
さっきの鋭さとは真逆の優しい顔も、愛さんとそっくりで美しい。
「よし!じゃあ決まりってことで。開君、行きましょうか。またね母さん」
そう言って僕たちは部屋を出て行く。
「でも似ていますね。お母さんも綺麗だし、男勝りだし」
「それって褒めている?貶している? それとも遠まわしに口説いている?」
「え?いや、すいません」
「冗談よ。慌てちゃってかわいい」
「勘弁してくださいよ」
顔が真っ赤になっている僕を見て愛さんは涙目になりながら笑っている。
「そういえば開君っていくつだっけ?私より年下だよね?」
「僕は二十五歳です」
「ということは私より四つ年下か」
「ご指導お願い致します、お姉さま」
「おお任せたまえ弟君よ」
そんなやり取りをしていたら従業員の控え室に着いていた。
「お昼休みで皆いると思うから、紹介した後に更衣室に案内するわ」
愛さんに続いて部屋に入ると、女性の仲居が数人と年配の男性とがいた。
「お帰りなさい、愛さん」
一番若そうな仲居が話しかけてきた。
「ただいま楓ちゃん」
僕が軽く挨拶をして、愛さんにそれぞれ紹介を受ける。
山本楓ちゃん、思った通り最年少らしい。
年配の男性は、三年前から働いている女将の古くからの友人で門倉文太さん。
あとはベテランの仲居さんたち五人。
「な~んだ、てっきり愛さんが新しい彼氏連れてきたのかと思った」
「こら!何言っているのよ」
そう言いながら愛さんが冗談っぽく拳骨を振りかぶる。
「えへへ、ごめんなさい」
楓ちゃんも舌を出しながら笑う。
「まあ冗談はこれぐらいにして。文太さん、開君のこと任せてもいい?」
「わかりました若女将」
「じゃあ開君、あと頑張って」
「はい。ありがとうございます」
僕は皆にもう一度挨拶をして、文太さんと更衣室に向かった。
「ええとこれでいいか。ほい、これに着替えて。荷物はそこのロッカーに入れて大丈夫だから」
文太さんは、ビニールに包まれた刺繍入りの羽織を僕に手渡す。
「ありがとうございます」
僕はお礼を言いながら着替えて荷物をロッカーにしまう。
「じゃあついてきて」
見た目も渋いが、性格も口数が少ない昔ながらの男性だなと思いつつ一緒に部屋を出る。
「基本は朝が六時から夜は九時まで。二交代で大体八、九時間ぐらいの勤務になるから」
「はい大丈夫です」
「君も記憶なくして大変だとは思うが頑張ってくれ」
「はい。体力はあるので、よろしくお願いします」
「まあ無理せずやってくれ」
見た目は恐そうだがいい人そうだ
僕は文太さんに館内を案内してもらいながら業務の流れを教えてもらった。
「まあざっと説明はこれぐらいだ。男性スタッフには力仕事を主にやってもらうから。一つ一つ覚えていってくれ」
「はい。いろいろありがとうございます」
「おお。じゃあ玄関の掃除やっといてくれ。一時間ぐらいしたら戻るから」
「わかりました」
そして一時間ぐらい掃除をしていたら文太さんが戻ってきた。
「おおご苦労さん。白井君、今日はこれぐらいであがっていいぞ」
「もういいですか?」
「ああ初日だしな。でも、女将が話したいそうだから事務所に寄ってから着替えに行ってくれ」
「わかりました。お疲れ様です」
「お疲れ様」
僕は掃除用具を片付けて事務所へ向かった。
「失礼します」
「お疲れ様。そこに掛けて」
「はい。失礼します」
女将は手を止めて僕の向かいに座る。
「仕事のことだけど、出来たら住み込みで働いてもらえると助かるのよね」
「住み込みですか?」
僕は少し困った顔をしてしまう。
「そう住み込み。夜に警備も兼ねて男性にいてもらえると助かるの。男は文太さんだけだし。来たばかりの君に頼むのは心配でもあるけど、愛が信用しているから」
この言葉に、愛さんと女将さんの親子の絆みたいなものを感じた。
「一週間時間もらえますか?家族にも伝えないといけないですし。荷物もあるので」
「ええ大丈夫よ。無理しなくていいから」
「ありがとうございます。でも住み込みは大丈夫ですから」
「こちらこそありがとう。じゃあ明日からもお願いね」
「よろしくお願いします。じゃあ今日はお先に失礼します」
部屋を出て一息つく。
住み込みか。
恵たちだけで大丈夫かな。
帰って母さんとも相談しないと。
帰宅すると母が台所で夕食を作っていた。
「おかえり。どうだった?いい仕事見つかった?」
「ただいま。実はさ、母さん」
僕は、旅館での仕事や住み込みのことを話した。
「開がやりたいならいいと思うわ。大丈夫、家のことは任せなさい」
「わかった。こまめに連絡するから」
「じゃあ早く準備しないとね」
「無理しないようにがんばるわ」
「いろいろ迷惑かけると思うけど」
「気にしなくていいわよ。とりあえずお風呂は入りなさい」
僕は少し休んでから、用意をして風呂場へ向かう。
はあ~今日はいろいろあったな。飯食ったら寝よう。
ゆっくり湯船でくつろいでいたら、ドスドスと走ってくる音が近づいてきてドアの前で止まった。
「お兄ちゃん出ていくの?」
恵がいきなり風呂場に入ってきた。
「お前なあ。一応俺も男だぞ」
「ごめん。ごめん」
こいつ全然悪びれてないな。
記憶ないけど、付き合い方は思い出してきた気がする。
「そんなことより、本当に出ていくの?」
「ああ。新しい仕事が住み込みなんだ。すぐ近くだから、たまには帰ってくるよ」
「ふ~ん、ならいいけど。あの綺麗な人の家でしょ。駄目よ、変なことしたら」
「馬鹿言うなよ。旅館のお嬢さんだぞ」
いけない、いけない。
つい慌ててしまった。
「冗談よ。お兄ちゃんがそんなこと出来ると思ってないわよ」
「あのな~。もういいよ、出て行ってくれ。落ち着いて入れないから」
「はいはい。わかったわよ」
本当にいいようにからかわれているわ、俺。とりあえず仕事見つかってよかった。
二週間後、僕は住み込みのために多めの荷物を持って家を出ようとしていた。
「おにいちゃん。忘れ物ない?」
「大丈夫だよ。まあ何かあっても近いから」
「そうだけど。そんな用件で返って来ていたら無駄でしょ」
台所から母さんが顔を出す。
「開、残りの荷物はいつでもいいの?」
「ああ。事務所の人が受け取ってくれるから」
「わかったわ。気をつけていきなさい」
「ありがとう。たまには帰ってくるから」
「お兄ちゃん。いってらっしゃい」
「いってきます。お前も母さんに迷惑かけるなよ」
「わかっているわよ。口うるさい人がいなくなってせいせいするわ」
「悪かったな!口うるさくて」
「ああ~。もういいから行きなさいよ」
ふて腐れながら恵は自分の部屋に入っていった。
「何だかんだ言って、開がいなくなるのが寂しいのよ」
「ああ。母さんも体気をつけて」
「ええ、ありがとう。開も無理しないでね」
「うん。いってきます」
「いってらっしゃい」
家を出て、僕は振り返る。
記憶はまだ戻っていない。
でも、二人といると落ち着けた。
気がつくと、自然に会話出来ている。
それが、僕の毎日に温かい愛情が側にあったことを感じさせた。