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白紙の恋 十章


 あの日から一年が過ぎていた。僕は、工場での仕事にも慣れ、記憶も取り戻していた。


 だけど、今の自分が記憶を無くす前の自分とは別の存在のような気もしていた。


「開、早くお風呂に入ってちょうだい」


 台所から母さんの声が聞こえる。


「わかった。すぐに入るよ」


 こんな普通の日常が僕の罪悪感を軽くしてくれていた。


 決して忘れることもないし、忘れてはいけないが、たまには休憩したくなってしまうから。


「ただいま~。あ~、疲れた!」


 騒々しい声を出しながら恵が家に入ってくる。


「あ、お兄ちゃん……」


「どうした?何か変だぞ」


 いつもと違い、僕の顔を見た瞬間に口を閉ざしたので気になって問いかけた。


「あのね……。やっぱりいいや。後で話す」


 本当に普段の妹と違い過ぎて戸惑ってしまい、自分の部屋に入っていくのを止められなかった。


「何だ、あいつ。今日は変だな」


 僕は独り言を言いながら風呂場に向かう。


「は~、旨いわ」


 明日が休みということもあって、僕は風呂上りにビールを飲んでいた。


「あんたは本当に旨そうに飲むわね」


 母さんが嬉しそうに言ってくる。


「いや~たまらないですな」


 僕も取っている行動がありのままの自分であるように感じたので嬉しくなっていた。


 二人とも笑顔で笑っていたが、母さんがふと真顔に戻ったので僕も笑みを止めた。


「どうかした?」


「いやね、恵の様子がおかしいのよ」


「様子がおかしい?」


「うん。いつもなら帰ったらすぐにご飯食べるのに、今日は全然部屋から出てこないのよ」


 僕も帰ったときのことが気になり、恵の部屋に行ってみることにした。


「わかった。俺が話しを聞いてみるよ」


 僕は立ち上がり恵の部屋まで行き、ドアをノックする。


「恵、ちょっといいか?」


 中から返事は聞こえてこない。


 少し待ってみたが、思い切ってドアを開ける。


「悪い、入るぞ」


 部屋に入ると、恵がベッドの上で膝を抱えて座っていた。


「どうした?母さんが心配しているぞ」


「……」


 恵は今までに見たことがない深刻な顔をして何も答えない。


「おい、本当にどうした。何かあったのか?」


「あの事故の人って若女将のお姉さんだったのね」


 その一言に思わず口を閉ざしてしまう。


「実は、今日会ったの」


「会ったって、どうして?」


 動揺しすぎて馬鹿な質問をしてしまった。


「偶然だったの。部活の帰りにあの事故があった場所を通ったら……」


「愛さんがいたわけか」


「うん。それで声を掛けられて。近くの喫茶店で少し話したの」


 思いもしない出来事に僕も動揺していた。


「何か愛さんに言われたか?」


「いや、事故のことで知っていることを聞かれただけだよ」


「そうか」


「でも……」


 恵は言っていいものか迷っているのか口ごもる。


「俺は大丈夫だから」


「わかった」


 恵は一つ深呼吸してから話始めた。


「私が事故のことを話し終わったら、あの人がお兄ちゃんとのことを話し始めたの」


「俺とのこと?」


「そう。お兄ちゃんが働き始めてからあったこと」


 自分の中に旅館での思い出が溢れてきた。


「あの人、お兄ちゃんのこと好きだと思う。でも記憶が戻ってきて、亡くなった婚約者のことが引っ掛かっているって感じだった」


 そうだよな。


 大事な人を奪った男を単純に好きになれるわけがない。


 俺も逃げたわけだし。


「だからつい言っちゃったの」


「言ったって何を?」


「信号は青だったし、死角から飛び出してきたからよけ切れなかったって」



「そんなの愛さんには関係ないだろ」


「でも!お兄ちゃんだってずっと苦しんできたじゃない!毎年事故現場に行って供養もしていたし。私は、私はただ……」


 最後の方は泣いて何を言っているかわからなかった。


 ただ、何を伝えたいのか気持ちは痛いほど響いてきた。


 口に出さないけど、恵も母さんも事故のことで傷ついたのは間違いないのだから。


「わかったよ。ごめんな、お前にそんな辛い思いさせて」


 僕はそっと恵を抱きしめる。


「いいの、気にしないで。お兄ちゃんのこと大好きだから」


「うん。ありがとう」


 しばらくして恵はそっと僕から離れる。


「あの人さ、私の話を聞いた後にありがとうって言ったの。おかげで気づけたって」


「気づけた?」


「そう。自分がどうしたいかってことにだと思う。あと、前を向く勇気も持てたって」


「そうか」


 僕は愛さんが何を言いたいのかわかった気がしたが、自分にはどうすることも出来ないと思った。


 いや、する資格がないと思ったのだ。


「いいの?」


「何が?」


「このままでってことよ」


「お前が気にすることじゃないから忘れろ」


「でも」


「いいからこれ以上言うな!」


 僕はつい大きくなってしまった声を誤魔化すように部屋を素早く出る。


「どうしたの?大きな声出して」


 母が心配して部屋の前に立っている僕に声を掛けてきた。


「いいや、何でもない。ちょっと外に出てくる」


 財布だけ手にして外に出る。


 僕はそのまま朝まで帰らなかった。


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