白紙の恋 一章
自分の中に自分がいない。
そんな環境になったとき、人は意外と落ち着いている。
いや、いざ自分がそんな状態になったら何も考えられなくなるらしい。
僕はなぜかベッドに横になっていた。
というか、横になっている理由だけでなく自分が誰かもわからない。
漠然と天井を眺めていると、誰か入ってきた。
「白井さん。お加減いかがですか?」
白井?僕のことか?
「えーと。白井さん?」
「僕のことですか?」
「そうですよ。ご自分のことわかりませんか?」
僕が戸惑った顔をしていると、その看護師は少し考えて話し始めた。
「実はですね。白井さんは交通事故に遭われてしまいまして。記憶がないのは、恐らく事故の後遺症だと思われます」
「事故ですか?」
「はい。赤信号なのに交差点に入ってしまったようですよ」
なんでそんな場所にいたんだ?全く覚えていない。
「どうして僕の名前が?」
「ああ。免許証です」
看護師は免許証を差し出す。そこには白井開と書かれている。
「そうだ、ごめんなさい。ちょっと待っていてくださいね。先生連れてきますから」
看護師はそう言い残し病室を出て行く。
僕がまた天井を見ていると、隣から声を掛けられた。
「あの、あなたも事故で?」
「ええ。交差点でトラックに巻き込まれたらしいです。運良く軽傷で済んだようだけど。何が何やら」
「私も。理由はわからないけど、交差点近くの電柱にしゃがみ込んでいたらしいの。全然思い出せないけど」
こんなときに不謹慎だけど、綺麗な顔立ちの彼女につい見とれてしまう。
「あのどうかしましたか?」
「いえ。状況を掴めなくて」
「そうですよね。私も、ついさっきまでの自分が頭から消えたのが信じられなくて」
あなたに見とれていましたなんて言えず黙っていたら、彼女は窓際に近づき外を眺め始めた。
「記憶はないけど、この街に吹く風が好きだった気がする」
「そうなんですか」
言われれば心地よい風だ。僕も好きだったのかな。
「幸い免許証があったから自分が誰なのかはわかったけど」
「ああ、僕もそうです」
「そうなの?そうだ、自己紹介もしていなかったわね。私は新田愛よ」
「僕は白井開です」
体を起こし握手を交わした瞬間、喪服で泣く彼女が浮かんだ。
「どうかした?」
「いいえ別に」
「でも顔色がさっきより悪いわよ」
「すいません。……横になります」
「ごめんなさい。目覚めたばっかりなのに話しすぎたわね」
「いえ気にしないでください」
僕はこの人を知っているのか?
駄目だ、思い出せない。
でも、すごく遠くから見ていた気がする。
ということは、そんな親しいわけではなかったのか。
自問自答を繰り返していたら、さっきの看護師が医者らしき男性と部屋に入って来た。
「失礼します。主治医の牟田です」
「よろしくお願いします」
「ええと、さっそく症状のお話をしますね。白井さんは、事故に遭われたときの衝撃で脳に強いダメージを負っています」
「ダメージ?」
「ええ。ただ、記憶がなくなっているのはそれだけではないみたいです」
「どういうことですか?」
「あくまで仮定ですが。あなたは意識が混濁されているときに、ずっと謝っておられまして」
「謝る?」
「はい。あくまでですが、白井さんは、過去に罪悪感を持ってしまう何かがあった。それが原因で記憶まで消えたのではないかと」
「記憶は戻らないんですか?」
「いえ、戻る可能性はあります。ただ、思い出せても、白井さん自身が過去に向き合うことが出来なければ、何かしら精神に問題がおきるかも。まだ何も確証はないですが」
「そうですか」
「そう悲観しないでください。あくまで原因だと考えられるということですから。それに外傷は少ないので、一週間ぐらいで退院しても大丈夫です。以後の治療に関しては、通院しながら慌てずやっていきましょう」
「はい。よろしくお願いします」
話が終わると、牟田先生は新田さんのベッドに近づいていった。
「新田さん、落ち着かれましたか?」
「ええ」
彼女が答えると、牟田先生は症状に対して話し始めた。
「新田さん。外傷は軽いのですが、気持ちの問題で記憶が思い出せないと思います」
「気持ちですか?」
「はい。何が原因かはわかりませんが、過去にあった出来事が事故をきっかけに記憶を消すほどの重圧になったのではないかと」
「そんなことがあるんですか?」
「ええ。人間の脳はまだ理解できないことが多いですから」
「あのやっぱり、記憶が戻ったら辛いことも一緒に思い出しますよね」
「恐らく。それが記憶を取り戻す鍵だと思いますし。ですが、少しずつ治療していきましょう。」
「わかりました」
「ではまた」
説明を終えると牟田先生たちは部屋を出て行った。
「何か似たような状態ね」
声を掛けられ僕は適当に答える。
「そうですね」
「これからどうなるのかしら」
彼女の声はひどく弱かった。
無理もないか、記憶がないのだから。
僕も人を心配している場合ではないけど。
その日は、彼女の一言で終わった。
僕は、たぶん彼女も、新しく始まった時間に気持ちがついていってなかった。
一週間後、僕は退院の準備をしていた。
「お兄ちゃん。つめ忘れたものない?」
「ああ大丈夫」
記憶はないから実感はないけど、僕の妹らしい。
名前は恵。
ここで目覚めた日に会いに来てくれた。
「じゃあ行こう」
恵はさっさと部屋を出て行く。
「退院なのね。お元気で」
新田さんが上体を起こしながら挨拶してきた。
「ええ。新田さんもお元気で」
「ありがとう。またどこかで会えたらいいわね」
「そうですね。じゃあ、また」
僕は挨拶を終えると部屋を出た。
記憶が戻るかで不安ばかりだった僕は、彼女との間にあんなつながりがあるなんて思いもしなかった。