死にたがりヒーローとその銀の弾丸
芽依子は、今日も今日とて半泣きだった。
辺りには崩れたコンクリート片。体に悪そうな砂煙が舞い、建物の内側にあるはずの鉄棒がむきだしになって折れ曲がっている。灰色の壁に、大穴。
しっかりと巻き付けられたロープが制服の生地を擦り食い込んでいる。しかし芽依子が今なにより怖いのは、身動きがとれないことでも拳銃を持った覆面の男でも重機もないのに壊れた銀行の壁でもない。
眉間にこれでもかと皺を寄せ、まっすぐに芽依子を見る男、その人だ。屈強な体躯は怒りに震え、壁に空いた大穴から銀行に入ると、量産品のスニーカーがざりりと汚れた床を踏みにじる。警官もすっかり顔なじみになってしまって、遠巻きに見るだけ。
突然の闖入者に我を取り戻すのは、犯人が早かった。それでも混乱した様子で手の拳銃を男に向ける。何度か発砲していたので、外の人間にもそれが本物であることはわかっていた。しかし「近寄れば撃つ!」と叫ぶ覆面に、男はちらりとも視線を向けない。
そのぞんざいな対応に、犯人はためらうのをやめた。引き金に指が掛かる。銃口は男に向いていた。
警官は一言も発しなかった。人質が震えて息を飲む。
芽依子は、黙ったままふるふると小刻みに震えていた。小心者なのだ。非日常の雰囲気に、いつまでたっても慣れない。
再三告げられる警告に男は一切耳を傾けなかった。細めた目には怒りが滲み、視界に入っている芽依子に並んだ他の人質が身を竦ませる。
男が緩慢に口を開くのと、銀行強盗が発砲したのは同時。銃弾は男を逸れ、足下を抉った。男は足を止めなかった。
「…………おい」
押し殺すような声は、男のものだった。地獄から響くような低音に、全員が息を飲み、芽依子の目には堪えきれぬ涙が浮かぶ。銀行強盗は思わず指に力を込めて、もう一発を放つ。男の腿を掠めた。
男は芽依子だけを見つめていた。
人質たちもその視線に気付く。芽依子はこの場にいる誰よりも震え、怯えていた。
近くの進学校の、落ち着いたモスグリーンの制服。茶色味がかった髪は右側でひとつにまとめられ、愛嬌のある顔立ちは小動物を思わせる。
かわいらしいが、ふつうの少女。それなのに、この悪鬼めいた眼光の男はどうして彼女に注目するのか。異様な雰囲気に、銀行強盗よりも男の動向が注視されていた。
かけられた声に、芽依子は答えない。
答えられなかった。
銀行強盗なんて恐ろしい事件に巻き込まれ、息を吐く暇もなくまっすぐに悪鬼が迫ってくる。こわい。ふるふると震え、とうとう涙がぼろりと落ちた。
「言ったよな、俺は?」
ことさらゆっくりと紡がれる言葉に、爆発寸前の怒りが押さえ込まれている。
芽依子は、男を知っていた。もう両手の指はとっくに超えるくらいには顔を合わせている。男は会う度にこうやって芽依子をねめつけ、怒りを湛え、
「俺を殺す前に死にそうになってんじゃ、ねえッ!」
────意味の分からないことを、怒鳴るのだ。
***
芽依子と男の出会いは一年前まで遡る。
昔からトラブルに巻き込まれやすい彼女は、ニュースで報道される事件事故の大半を体験しているなんて噂がまことしやかに囁かれるほど。しかし運は悪くなく、人質に捕らえられてもほとんど怪我をしないできたし、くじもよく当たる。景品が旅行の時は確実になにかしらのトラブルに遭うので人にあげてしまうのだが。
物心付いたときにはすでに事件や事故に遭遇していたというのに、芽依子はそれらに決して慣れない。いつだってこわい。ロープで縛られるのにもガムテープで口をふさがれるのにも手錠をかけられるのにも、ずっとこわいままだ。たまにトラブルメイカーなんて呼ばれもしたが、芽依子が事件のきっかけを起こしたことなんて一度だってない。ふつうに、至ってふつうに生活しているだけ。芽依子の周りで勝手に事件が起きるのだ。
さて、いくら対処法を学んでも一切有効活用されずにきた彼女だが、一年ほど前にめでたく高校生になった。第一志望の公立高校は受験の朝に脱走したワニの捕り物劇で道が封鎖されたりバスジャックに遭ったりして不合格だったが、第二志望の私立は無事に受験できた。男とはじめて会ったのは、第二志望合格が決まったあとの春休み。休日にショッピングモールに出かけた日のことだ。
そこで起きたのは爆弾事件。犯行声明が出されて、複数仕掛けられたらしいそれらはいくつか爆発もした。芽依子は、たったひとりがれきに囲われていた。
道が塞がれ、火の手が迫る。追いつめられた状況にいつものように死を覚悟して芽依子は泣いた。男が現れたのはそんなときだった。
赤い髪の強面が、火の海をものともせずに歩いてくる。破壊神さながらのその姿がとっさにヒーローに見え、助けられたときには間違いないと思った。しかし感謝を伝えようと口を開いたとき、襲いかかったのはヒーローに似ても似つかない怒声。
「俺を殺す前に勝手に死にそうになってんじゃねえ!」と叱責され、さっぱり理解が出来ずに涙が止まってしまった。彼は火の中を歩いて焼けたはずの肌を気にするそぶりも見せなかった。
今でも芽依子にはよくわかっていないが、男は彼女に殺されたいらしい。
そしてもっと意味の分からないことに、男は不死身だった。火傷しても切られても撃たれてもすぐに完治し、普通の人よりずっと丈夫で、なかなか怪我もしない。年は20の中頃に見えるが、不老だともいっていたのでよくわからない。しかしそんなに長く生きてはいないだろうと芽依子は思う、だってあんなに怒りっぽい。
そんな不死身の男が芽依子に殺されたがる理由はひとつ、芽依子にしか殺せないからだ。この世に嫌気がさして死にたくても、自殺もできなければ老衰もしない。芽依子はつまりこの男に唯一効く武器、銀の弾丸だった。
もちろん臆病な芽依子に人を殺すなんてできるはずもないが、男が死ぬには芽依子が必要。だから守る、と、一年前から男は芽依子を助けてきた。男にも別の生活があるらしく、護衛のようにぴったり一緒にいたりはしない。もしも常から同行するようになったら芽依子は怯えて涙が枯れるだろう。
だから芽依子が男と顔を合わせるのは芽依子がなにかに巻き込まれたときばかり。始めのように事あるごと「俺を殺せ」と言われなくなっただけ落ち着いていられるが、「俺を殺す前に死にそうになるな」と心配の欠片もなくまっすぐ向けられる理不尽な怒りはいつもなにより怖かった。
***
男は銀行強盗を無視し、芽依子を縛るロープだけを断ち切って、彼女を担いで帰路につく。この一年で慣れた警察は、わざわざ呼び止めて男の神経を逆撫でしたりはしない。
芽依子は災難が降りかかるたび「今度こそ死ぬ」と思うので、助けてくれることには心から感謝していた。横抱きなんて優しい持ち方ではなくいつも肩に担がれるが、これも帰路の安全のために送ってくれているのだ。腹部に衝撃はあるが、家まで死ぬ不安がないことはとてもありがたかった。
それでもお礼を言いたくない気持ちが強いのは、彼が怖いからばかりでない。
だって。
お礼を言うと。
男は猛獣が獲物をいたぶるような残忍な顔でにやりと笑って、言うのだ。
「感謝しているなら、俺を殺せ」と。
ガツガツと肩が腹部にくいこむので、芽依子は男に担がれる道中ひとことも発しない。男もむっつりと黙るので、いつも芽依子は緊張して息が詰まる空気を感じていた。
しかし、今日はめずらしく男が口を開いていた。
「お前はいつもなんでそんなに油断してんだ、ていうかもっと家に居ろ、なんでフラフラ出歩くんだ。外に出たらなんかに巻き込まれることくらいわかってるだろうが。宝くじに当たるより交通事故に巻き込まれる確率のが高いとか言うけどお前は三千円当たるより事件に巻き込まれる率のが高いだろ、それをいちいち助けに行く苦労がわかるか? こっちは毎回間に合うかどうか戦々恐々として走ってるんだ。銀行強盗やらならまだ場所がわかるだけいいが、誘拐なんてなったら居場所探しからだぞ。事故ならもっとひでえ、死にそうになるタイミングがわかんねえからな。お前は死にたくないだろうが、それならなんで死なないように行動できねえんだ。お前が死んだら俺が死ねないんだぞ、わかるか! ったく、俺はただ死にたいだけだってのに! 俺が死んだって犯罪にはなんねえんだぞクソ、なんで殺さねえんだよ、殺さねえくせに死にそうになりやがって」
この男がこんなりおしゃべりなのは初めて見た。
舌を噛むので言わないが、大きな勘違いをしている、と芽依子は思った。家からでなければ何にも巻き込まれないというなら、芽依子だって家族だってひきこもりになるほうを選ぶ。
芽依子が家に居れば突発的な雹で窓硝子が割れ空き巣に遭遇し買ってきた食品に異物が混入している。ガス管が破裂することもあるし、家電製品から火花が出もする。家にいてひとり命の危険に怯えるよりは、外で巻き込まれたほうが警察に気付いてもらえるぶん安全なのだ。それに、プライバシーより安全を求めた芽依子はGPS発信器を持ち歩いており、誘拐事件に巻き込まれたときにはすぐに居場所が割り出せるはずである。何度も娘の命を助けられ、男に深く感謝している芽依子の両親はそろそろこの男に受信機を渡そうとしているらしい。やめてほしい。
あと、芽依子はけっこう宝くじにも当たっている。些少ながら利益だって出るくらい当たる。交通事故よりは確率が高いはずだ。
それに、と思ったが、歩きも小言につられて荒っぽくなっていたので考えるのをやめた。なのに男は黙ったままの芽依子が気にくわないのか、歩みを止める。
「なんか言え。」
トンッと肩の上で跳ねさせられて、言おうと思ってもいない「ぐえ」という声が出た。
「なんか言うか俺を殺せ。」
「い、いやですよ!」
「じゃあなんか言え。」
反射的にいやがってしまって、はっと口をつぐむ。しかし特に気に障った様子もなかったのでほっとして、男に対して初めて気が楽になったような気がした。男はとても怖いけれど、芽依子に危害を加えることはないとふっと気付いたからかもしれないし、一番怖い鋭い目つきがこちらを向いていないからかもしれない。
初めてまともに会話をしたことで、ほんのすこし、相手に気を許せたような気がする。
「オラ黙んな、言うことがないなら殺せ」
「こ、殺しません、よ」
「じゃあホラ。」
「ほらって……」
男は今度はゆっくりと歩き出した。
他に言うことが思いつかなくて「自衛はいくらか試して”何もしないのが一番安全”とわかったんです」と言って、それからほんの少し迷って、あと、と続けた。
「なんで犯罪にならないのかわかんないですけど、だからって人を殺したりなんてできないです。罪に問われるとか問われないとか、そんな問題じゃあないです。」
包丁でも拳銃でも、向けられて恐ろしいと思うものを人に向けられる性格をしていない。それに、法律で罪に問われないことは、芽依子にとってちっとも良いことではなかった。人を殺して誰にも責められないままなんて、想像だけでも罪悪感に耐えられない。
男は芽依子の言うことが腑に落ちない様子だったが、質問はしてこなかった。彼は芽依子が普段どうして過ごしていて、どういう考え方をするのか知らない。芽依子も同じだ。会話らしい会話なんてしていないから、一年経っても互いに名前も名乗っていない。知っているのは男が不死身で芽依子にしか殺せなくて、死にたがっていることくらい。なんで死にたいのか想像もつかない。
会話をしないということは、相手を知りたいと思っていないということ。少なくとも芽依子はそうだった。それなのに、思って芽依子は自然に口に乗せた。
「なんで今日こんなに話すんですか」
「お前は気付いてないだろうが、今日の銀行強盗でお前を助けた回数が百になった。わかるか? お前は週に二度も死にかけてるんだぞ! それなのに、死にたがってる俺が死にかけた回数は? そう、ゼロだ。ゼロ! 銃弾を受けて崖から飛び降りてライオンと対峙して、それなのにゼロ! なんなんだこれは!」
無口なのかと思っていたけれど、話し出すと一言が長い。というか、なんなんだと言われても、男の体験は普通の人間だったら何度だって死んでいる。当人の体質なのにこちらに文句をいわれても困る、と芽依子は思った。身体が丈夫な人間に「インフルエンザで休めてずるい」と言われているようなものだ、命がかかっているぶんもっと深刻な話ではあるが。
それよりも、自分は週に二回も死にかけているのかと芽依子は驚いた。一ヶ月なにもないときもあれば一日五回巻き込まれたこともあるので、あまり実感は湧かなかった。ただ、百回とキリの良い数字を言われると、ちょっと祝いたくなってしまう。百回も生き延びられた祝いである。
しばらく言っていなかったが、せっかくなのでと芽依子は男の背に手をつっぱって頭を上げた。
「あの、いつも助けてくださって、ありがとうございます。」
どうせ返事は「じゃあ礼に殺せ」あたりだろうと見当をつけて、困ります、いやです、殺人なんてしたくないです、と答えを用意した。それなのに返ってきたのは溜息で、芽依子は拍子抜けして瞬きをひとつ。怒ってるか脅してくるかしか知らない男の溜息なんて。先ほどまでの怒りの気配も消えている。急に怖くなくなった怖い相手に理解が追いつかないまま、男の赤い後頭部を見つめた。
「俺のいない所で死なれたらと思うと、気が気じゃない。」
コンクリートに砂が擦り付けられて足音に変わる。呟くような、力の籠もらない声にほんの少しどきりとして、芽依子はかぶりを振った。これは心配ではないし、たとえ心配だとしても自分が死ねなくなることに対してであって私に向けてじゃない。男にとって自分はただ死ぬために必要な道具というだけで、人間だとも思われてはいないのだ。ときめいたりなんかしていない。ちょっと心が動いたのは、不良が雨の日に子猫を撫でていたのを見かけたのと同じ気持ちだ。不良は猫を拾わないし、男が芽依子を心配することもない。
言い聞かすように思って、芽依子は無理な体勢を戻して肩に担がれるままに戻った。もうじき家につくはずだ。今日はもう何も起きないだろう────そう思った瞬間、男がチッと舌打ちをした。
何事か、訊ねるより先に男の拘束が強くなり、後ろに飛ぶ。
爆発音。
そして、芽依子の頭に砂埃が被った。どうやら百回の生還を祝うより先に百一回目の危機がやってきたらしい。芽依子ははふんと息を吐いた。
なんでだか、さっきの銀行強盗よりは怖くない。その理由に腹部に食い込む肩の主があるとは思いたくなかったけれど、この意味のわからない男がいれば大丈夫だと、どうしても思ってしまうのだった。
現代っぽいけど悪の組織が出てきたり宇宙人が攻めてきたり地底人が現れたりする世界観です。
せっかくなのでなろうコン大賞キーワード追加してみました。
小話まとめ http://ncode.syosetu.com/n3417cl/ におまけがあります。