ぼくと妹
親友にしか教えていないが、ぼくには妹がいる。
ぼくの妹は、何というか気難しい奴だ。まずぼく以外の人間に心を開かない。料理や洗濯といった家事の類は何一つできず、トイレに行く時でさえぼくと一緒に行きたがる。もう十四歳になるというのに兄離れする気配が無い。
妹が兄離れ出来ないのには、ぼくの所為と言うのもまあある。妹は極度のブラコンなのだけれども、実を言うとぼくも、妹に負けないくらいのシスコンなのだ。妹はぼくを愛しているし、ぼくも妹を愛している。こう言うと非常に気持ち悪い兄妹だと思われてしまうかもしれないが、構うものか、ぼくは体裁よりも愛を取る。
愛は何より大切だ。
兄妹であっても、結婚できなくても、愛は素晴らしい。
むしろ子供の頃からずっと共に暮らしているからこそ良質な愛を育めるものだと思う。ぼくと妹は生まれた時から夫婦のような関係なのだ。なればこそ愛が生じるのも必然である。そう思うと、家族同士では結婚できないという法の不合理さに憤りを覚えよう。
勿論ぼくと妹が愛し合っていることを友達に吹聴したりはしない。ぼくと妹が相思相愛である事を知っているのは、今のところぼくの親友一人だけである。兄妹で愛し合っていると言っても常識くらいは弁えているから、声高に吹聴したりしないのだ。
正確にことを言えば、妹の存在そのものをぼくは隠している。それは万が一にも妹萌えであることを悟られたくないからだし、友達の誰かが色目を使ってくるかもしれないと考えると鳥肌が立つのだ。妹が居ないと錯覚してくれれば、ぼくが異常であることも露呈しない。
異常? いや。それは違うか。
ぼくは普通だ。これだけは譲れない。
どちらにしても妹を好きと言うことは世間一般的に観て隠しておいた方がいい事柄である。異常であれ普通であれ声を大きくして主張すべきことではない。だいたい愛していることを必要以上に言って回る輩をぼくは尊敬しない。本当に愛し合っているのなら誰にも言う必要なんてないはずなのだ。それを言って回るということは、要するに自信が無い。真に愛しているのかを不安に思っていて、その不安を上塗りしたいから言って回るのだ。
ぼくらは違う。ぼくらは真に愛し合っている。
ぼくは妹を助けるし、妹はぼくを頼ってくれる。男女間においてこれ以上の理想的関係はあるまい。これぞ愛の理想像である。
さて。
そんなぼくがいま何をしているのかと言えば、愛する妹のために朝食を作っているところのだ。時刻は七時前。先に述べたよう妹は料理することができないので料理当番は常にぼくの仕事である。それを苦に思うことはない。何故ならぼくは妹を愛しているから。愛している人に奉仕できるのだと考えると、面倒なことは何もない。千里も一里である。
「あ」
しまった。卵の殻がフライパンに入ってしまった。何たるイージーミス。
仕方ない。これはぼくが食べよう。妹に殻の入った料理を食わせるわけにはいかないし、じゅうじゅうと焼けているフライパンに手を突っ込むのも危険だ。箸で取るのも難易度が高い。料理を粗末にするわけにはいかないから、捨てるわけにもいかない。必然的にぼくが食べる選択となるわけだ。
まあいいか。ぼくもお腹すいてたし。
しばらくして料理が出来上がり、ぼくは皿を持って妹の部屋の前まで歩いた。
「おーい。ご飯できたぞー。入っていいかー?」
…………。
一秒。二秒。三秒。四秒。五秒。六秒。七秒。八秒。九秒……。
十秒たったのでぼくは扉を開けた。ぼくと妹との決まり事として、入っていいかと問うてから十秒なにも言わなかったら部屋に入っていいというサインになるものと約束している。入って欲しくない時は入るなと言われる。ただこの決まり事には殆ど意味がなく、妹がぼくを拒絶したことは一度としてない。
それでもデリカシーの問題というやつがある。着替えている時に入ったら大変だ。まあ妹なら許してくれるだろうし、そもそも妹に限ってそんなハプニングは有り得ないのであるが。
扉を開ける。
部屋は暗い。
「入った。電気つけるぞ」
暗くてどうしようもなかったから妹の返答を待つまでも無く部屋の電気を付けた。人の部屋の電気を勝手に付けるのはどうかと思うが、兄妹なのでここら辺のやりとりは御座なりになってくるものなのだ。
電気が付いて、明順応。
妹の姿が目に入る。妹はいつもと同じく布団に身を包んだ引きこもり姿だ。ぼくはこのビジュアルに萌えるから見ている分には構わないのだけれど、もう七月に入るというのに暑くはないのだろうかと心配にならなくもない。
「兄さん」
「あー。そこで待ってろ。ぼくが行く」
そう言ってぼくは妹の側へ寄る。妹はベッドの上で座っていたので、ぼくもベッドに座らせてもらった。妹のベッドからは相変わらずいい匂いがする。この匂いを香水にすればきっと飛ぶように売れるだろう。いや売れすぎて麻薬に指定されるかな。
「あーんして」
「あーん」
卵焼きを箸で摘まみ、妹の口に入れる。妹はもぐもぐしてから嚥下し、「おいしい」と聞きなれた感想。ぼくの作った料理を食べる時は必ずおいしいと言うのがぼくの妹である。
二個、三個と食べさせて最後の一個になる時、ぼくは既のところで気付く。
「あ。ごめん。今日は三個しか焼いてない」
「……? いつもは四個なのに?」
「うん。一個だけ殻が入っちゃったんだよ」
「それくらい食べるわよ」
「でもガリッてするぜ?」
「兄さんの作ったものならガリッてしてもいい」
そうかい。嬉しいね。兄冥利に尽きる。
「それじゃあ……、あーん」
「あーん」
最後の卵焼きを食べさせた。もぐもぐと食べる妹の口の中で、ガリッと音が鳴る。瞬間だけ顔をしかめたが、その後は何事もなく嚥下する。どうやら殻まで呑み込んだようだ。
「終わり?」
「終わり」
「ごちそうさま」
「おそまつさま」
ってぼくは食べてないか。
皿を近くの机に置いて、ぼくは妹の体を抱きしめた。布団の上からなので体の感覚は感じられない。
「好き?」
「好き。好き?」
「好き」
それからしばらくスキンシップを取る。布団の中に手を入れたりはしない。布団を全身で揉むようにもふもふとするだけだ。
ん? と気付く。
「汗かいてるぞ」
「どこ?」
「首筋」
「ああ。確かに言われてみれば掻いてるなぁって思ってたの」
「やっぱり暑いんじゃねえの? 誰も見てないんだから布団ぬげばいいのに」
「兄さんが見てる」
「ぼくはいいだろ」
「うーん」
返答に困ったらしく妹は口ごもった。口ごもる妹の姿は可愛いけれども、ちょっと無理強いが過ぎたかもしれないと思うと罪悪感が沸く。
「まあ、好きなようにすればいいよ」
「うん。まだ脱がない。それにこれサウナみたいで美容効果あるかもしれない」
「美容とか何とか言うなら風呂に入ろうぜ。もう三週間は風呂に入ってないだろ?」
「……そうね。そろそろ入らないと臭いかな」
「ぼくは臭いくらいが好きだけどね。ただやっぱり心配にはなる」
妹は悩んだように首を右へ左へ傾げつつ、うーんと唸る。それから「じゃあ今晩はいる」と言って風呂に入る決心を固めてくれた。ぼくは内心で喝采した。何故なら妹が風呂に入るということは、一緒に入るということだからだ。久々に妹の裸を見られると思うと興奮が止まらない。
「こうやって布団に包まれてるとね」
妹は言う。
「安心できるの。暑くて苦しくて辛いけれど、だからこそ生きてるんだって実感できる。暑さで頭がぐわんぐわんしてくると脳味噌が機能してるんだって分かる。それに抱きしめられてるみたい。兄さんが居ないときでも何とかできてる」
「へえ。それってもうぼくは要らないってことかな」
「そうじゃない」
「ごめんごめん」
「兄さんが死んだら私も死ぬ」
「分かってるよ」
ぼくは妹の頭を撫でて、痛いくらいに強く抱きしめた。布団の上からでは圧迫感があっても痛いということは無いだろうけど。
「ん……」
「舐めてもいい?」
「うん」
ぼくは妹の首筋を舐めて、汗をぬぐい取った。妹の吐息が荒くなるのに萌えつつキスもしていく。
ただそれ以上の行為には及びたくなかったので、十秒ほど楽しんだらすぐに舐めるのをやめた。
「ん……ふ……」
「はあ。ずっとこうしていたいな」
「……学校やめれば?」
「ぼくもそうしたい。でも流石にまずいよ。いま学校をやめたら将来がきつい」
「生活保護を受けて生活すればいい」
「それもいいかもね……。でもまだそこまで決断する勇気はないな」
妹は溜め息を吐いた。妹を失望させてしまったらしい。ぼくは死にたくなった。
抱きしめるのをやめて、ぼくは布団から下りる。
「それじゃあそろそろ学校いってくるよ。大人しくしてるんだぞ」
「うん。速く帰って来てね。待ってる」
「あ。水分は大丈夫か? 部屋にあるペットボトルだけで足りる? 学校いく前に何本か持ってこようか?」
「んー。じゃあコーラ三本」
「オーケー。他に何か言うことあるか?」
「無いよ。もう我が儘はない」
「そうか」
ぼくは机に置いておいた皿を拾う。歩いて、妹の扉の前に立つ。
言うべきか言わないべきかを逡巡してから、言いたいという気持ちが勝ったので、部屋を出る前にぼくは言った。
「なあ。久し振りに散歩しないか?」
「…………」
返事は無し。
「朝昼夕は駄目でも深夜ならいけると思うんだよ。前に使った目隠しあるだろ? あれで隠しとけば、誰かに見られてもSMプレイか何かだと思われるだけだと――」
「嫌」
「分かった。ごめん。許して」
妹は何も言わずに背を向けて寝転がった。それは寝るつもりだからでなく。
拒絶? ――いやそうじゃない。これは単にぼくが阿呆なことを口走ったのが原因だ。阿呆なことを口走れば叱られる。だからこれは叱られただけに過ぎない。
妹がぼくを拒絶することなんてない。
「……行ってくる」
朝から死にたい気分だ。でもぼくが死んだら妹も死ぬしなあ。死ぬのも簡単じゃねえや。
扉を閉める間際、声が聞こえた。
「行ってらっしゃい」
妹の声だった。
ぼくは嬉しくて感涙した。
妹には教えていないが、ぼくには友達がいる。
友達にも幾つかの種類があり、ただ顔と名前を見知っただけの仲や友達の友達という微妙な関係の人が多い。それらを除けば精々四人人くらいしか居ない。ただその中の一人とは親友と呼べるくらいに深い関係を築いている。あまり他人と深い関わりを持ちたくないぼくとしては非常に珍しいことだ。
その親友には、ぼくに妹がいることを教えてある。こいつなら内緒を守ってくれるだろうと信頼しての特別待遇だ。妹に手を出さないことを条件にしたのは今でも記憶に新しい。そのために書類を用意までしたのだからぼくも相当なものである。
ぼくは、彼と二人きりで昼休みの弁当を食べていた。彼と学校で飯を食べる時は、南校舎の使われていない空き教室で食べることに決めている。教室どころか廊下さえもが閑散としていて食事するにはぴったりの場所なのだ。
「なあ」
親友は呼びかけた。
「お前、ちゃんと風呂に入ってるか?」
「風呂? 入ってるよ」
「どれくらいの頻度で?」
「三日に一回くらいかな」
「夏の時期にそれは少ないだろ」
彼は眉をひそめた。
ぼくは反感するように言う。
「何だよ。臭いってのか?」
「いや臭いってわけじゃねえんだけどよ……。まあ三日に一回なら別にいいか」
なんだ? 勝手に納得して。
彼は言う。
「じゃあ第二問」
「第二問ってなんだ。クイズかよ」
「お前、ちゃんと寝てる?」
突っ込みを無視された。
お返しに質問を無視してやろうかと思ったが、言われてみれば最近あまり寝られていないことに思い当たったので素直に答えることとする。
「そう言えばあんまり寝てないな」
「第三問」
まだ続くのか。全問正解したらどんな豪華景品が貰えるのやら。
彼は言う。
「最近ストレス溜まってる?」
「ストレス? あー……。それは微妙だな」
「というのは?」
「ぼく感情の起伏が強いからさ、ストレスが溜まってもすぐに発散しちゃうんだよね。新陳代謝がいいって言うのかな。でも溜まってるかどうかって言えば溜まってないと思うよ」
「うーん……。無自覚に溜まってるとは考えられないか?」
「無自覚?」
「お前自身は苛ついてないと思っていても、もしかすれば心の負担となってることがあるかもしれない――そういう事が何かないか?」
「…………」
ぼくは飯を咀嚼しながら記憶を漁った。
心の負担となること――そんなものは、
「無いね」
「本当に?」
「さあ」
「ぶっ飛ばすぞ」
剣呑な言い草だった。
ぼくは水筒のお茶を飲んで、それから言う。
「さっきから何なんだよ。心理テストでもしてんの?」
「心理テストというかは、健康診断だな」
「健康診断?」
「ちょっとそのままにしてろ」
彼はポケットに手を入れてスマートフォンを取り出した。
それをぼくの顔に向ける。
「おい。おい。何する気だ」とぼくは顔の前に手をかざした。
「何って、写メるんだよ」
「やめろよ。写真を撮られたら魂が抜き取られるんだぞ」
「いつの時代の人間だよ」
「ぼくが写真とられるの大嫌いだって知ってるだろ? やめろ。撮るな」
「お前な……」
彼は溜め息を吐き、それからスマートフォンをいじった。
そうしてスマートフォンをぼくに差し出した。
「ほら。鏡代わりに見てみろ」
「?」
ぼくはスマートフォンを手に取り、画面を見る。カメラが起動されていて、画面側を撮るモードになっていたので、スマートフォンの画面にはぼくの顔が映っていた。
見てみるとぼくの顔には、知らない内にどす黒い隈が出来ていた。
「うお……」
「腫れぼったいし、重症だと思うんだよ」
なるほど。彼はこれを心配してぼくに色々と訊いてきたのか。
ぼくは言う。
「あー。でも言われないと気付かないってことは大したことないってことなんじゃない? 見様によっては隈って格好よく見えるしさ」
「見えねえよ。痛々しいだけだ。つーか病的なんだよ」
「病的」
「そう。お前が妹を好きなくらいに病的」
「おいおい。見くびるなよ。ぼくが妹が好きなのと隈の酷さの度合いが一致しているなら、今頃ぼくの顔中は余すところなく真っ黒になってるはずだぜ」
「隈が悪化しても顔は黒くならねえだろ」
彼は牛乳を飲んだ。
それから言う。
「前から黒かったけど最近は本当に酷いぞ。お前たぶん知らないだろうけど、女子からすっげえ怖がられてるぜ」
「あー。それには気付いてた。ぼくが廊下を通ると明らかに女子が避けるもん。モーゼの奇跡みたいに」
「自覚してるなら睡眠とれ」
親友に叱られた。
妹に叱られた時とは違って、嬉しくもなければ悲しくもなかった。
「妹か?」
彼は突然いった。いや病的云々の時から既に言っていたか。
ぼくは訊き直す。
「妹?」
「妹のことでなんか苦労してんのかなって」
「ああ。なるほど」
「妹、失明してからもう二年になるんだろ? 学校にも行ってないって言ってたし」
彼は言った。
そう。ぼくの妹は十二歳のころに失明している。原因は白内障。友達と百物語まがいのことをしていて、その時に悪ふざけで懐中電灯を目の前で照らされたら見えなくなったそうだ。失明したその頃からぼくは妹の目となって支え続けている。ちなみに失明したことが原因で中学校には二日しか通わなかった。現在は不登校であり、今後も復帰する様子は見られない。ぼくも学校なんかには行かなくていいと考えている。
妹の助けをしているためぼくは気苦労を重ねているように見られている。かつて彼は一つの提案として、入院を勧めたことがあった。あるいは介護人を付けさせるべきと勧めた。しかしぼくはそれらの意見を尽く断った。か弱い妹を誰かの手に渡らせるなんて兄として決して看過できない。妹は気難しい性格をしているので、ぼくにしか心を開かないのだ。ぼくが何とかしてやるしか方法が無いのである。それに妹のためとあれば精神的な疲れは無い。残念ながら肉体には疲労が出てしまったようだが。
「大丈夫。こう見えて元気なんだ」
「全然そう思えねえ」
「ははっ」ぼくは笑った。「好きな人のために動くときは疲れなんて関係なくなるんだぜ。そういう経験ない?」
「俺には彼女が出来たことないから分からん。だけどそれにしたってお前は不摂生だ。ふつう精神よりも肉体を重んじるべきだぞ。せっかく体がサインを出してるのに当のお前がそんなんじゃ近いうち絶対に過労で倒れる」
「妹のために過労死できたら本望だなぁ」
「死にたくは無いんだろ?」
「ああ。うん。死にたくはない」
ぼくが死んだら妹も死ぬからね。
流石にその事は伝えてないが、何があっても死にたくないということは言ったことがある。
「お前さ、猫、殺した事あるんだったよな」
「え? あ。うん。あるよ」
彼の唐突な言葉に、曖昧な口調でぼくは返事した。
彼は言う。
「自分の家で飼ってる猫。五匹全員とも殺したんだっけな」
「うん。殺したよ。一年前くらいかな? もっと前だったか」
「お前なんで猫を殺したんだ」
「好奇心」
「嘘付け」
「嘘だよ。でも改めて訊かれるとちょっと答えにくいな……。何せずいぶん前のことだし」
「思い出せ」
「うーん」
何だか今日は真剣だ。
ぼくは真面目に答える。
「まあ、むかついたから」
「むかついたから」
「最初の一匹だけだけどね。後の四匹は流れで殺した。そいつ一匹だけにしようかなって思ってたんだけど、一匹殺しちゃうと何だか全匹殺したくなったんだよ」
「怖いわお前。愛情とか無かったのかよ」
「妹と母親が勝手に飼ったものだからなぁ。そりゃ可愛いと思うときもあるけど、やたら媚びてくるし、テーブルの上に上ってくるし、至るところで爪を研ぐし、そこらじゅうにゲロをぶちまけるし、ツナ缶食べようと思ったら餌と勘違いしてにゃーにゃー鳴くし、鳴き声がうるせえし、老衰してんのに中々死んでくれねえんだもん」
「それでも殺すかよ」
「仕方ないよ。ぼくだって我慢したよ。でも毎日そんなだったらいつかパンクするって」
彼は何を言うでもなく牛乳のストローを啜った。
もう入っていないようで、ずずずという嫌な音だけが聞こえた。
「妹は悲しまなかったのか。妹が飼ってきたんだろ」
「妹は悲しまなかったよ。その時にはもう猫どころじゃなくなってたから」
「お前はどうなんだ。妹が飼ってきたんなら、妹の所有物を奪うみたいだとは考えなかったのか。そういう後ろめたさは無かったのか」
「無いよ。妹と妹の所有物は違う。だいたい生物に所有権は認められないだろ。動物愛護団体に怒られるぜ」
「お前が言うな」
「はい」
お決まりだった。
彼は神妙な顔で言う。
「要するに理性の箍が外れたってとこか」
「かもね」
「その殺意っていうのは常日頃から意識してたもんなのか? それとも無自覚だったのか?」
「あったね。意識的な殺意だった。殺したいって気持ちは常日頃から意識していたよ」
「ふうん……」
やたら深く追求してくるなあ。
ドキュメンタリーでも書くつもりだろうか。
「あくまで仮説ってことで割り切って欲しいんだけど」
彼はそう前置きしてから言った。
「お前、もしかして妹に対してもそう思ってんじゃねえの?」
「は?」
「自覚してないだけでストレスは溜まってる。気付かない内に精神的にも病んでる。猫の時とはまた違った形で苛ついている。愛じゃなくて義務感で動いている。だから自分は妹が好きなんだって暗示していて、本当のところでは妹を殺したいって――」
顔面をぶん殴った。
「っ!」
椅子が倒れて、彼は一メートルほど吹き飛んだ。
鼻に手を当てながら彼は起き上がる。鼻血がぽたぽたと流れ落ちていた。
「ってえ……。仮説だって言っただろ。お前な、ここが無人の教室じゃなけりゃ狂人扱いされていじめられてんぞ」
「うるせえ。ぼくが妹を殺したいなんて思うわけないだろ」
「だったら軽く受け流せ……。痛っ……ぐ、げほっ……」ごばぁっ、と彼は吐血した。「お前……本気で殴りやがったな」
「当たり前だ」
「死ねよ」
「死ねないんだって」
ぺっ、と彼は吐き捨てた。見てみるとそれは前歯だった。
それを見たぼくは、純粋に苛ついた。
「あーもう畜生。保健室いってくる。一ヶ月は話しかけてくんな」
「了解」
「まじで死ね。あと血、片付けとけよ」
忌々しそうに彼はそう言ってよろよろと歩き、教室を出て行った。
ぼくはむしゃくしゃして、椅子を一つ蹴り壊した。
それから教室を出た。面倒だったから血痕はほったらかしにしておいた。
「ただいま。帰ったよ」
「兄さん兄さん兄さん」
部屋を開けるなり妹はいきなりぼくに飛び付いてきた。失明しているといっても二年の歳月が過ぎている。何事にも慣れというものは存在するもので、現在では見えなくても声の音だけで位置が正確に分かるらしいのだ。
いやそれよりもどういうことだ。こんなにべったり甘えてくるなんて珍しいどころではない。嬉しすぎて心臓が止まりそうだ。
「どうしたんだ?」
「ごめんね。兄さんごめんね。私いじわるしちゃったよね。私のことを想って散歩したいって言ってきたんだよね。それなのに私……、ごめんなさい。ごめんなさい」
「謝るなって。泣きそうな声なんてするな。お前は何も悪くない」
「ごめんね。ごめんね」
言っても聞かないので、ぼくは妹を抱きしめてやった。風呂に入ると約束したからなのか今回は布団にくるまっていない。嫋やかな体躯と、それを包んでいる薄い布地のワンピースをぼくは抱きしめる。
久々に目にする妹の体は――白く、細く、病的で芸術的で退廃的でどこまでも美しかった。この手で触れることに罪悪を覚えてしまうほどに儚い。か細い腕は握るだけで骨が折れてしまいそうで、自己投影すると立ちくらみを覚える。だけどもぼくは、そんな妹を強く抱きしめた。それが愛の証明だからだ。
「兄さん。お風呂に入ろ。私の体を洗って」
「積極的だな」
「えへへ」
妹は子供っぽく笑った。映って、ぼくも笑顔になった。
ぼくはお姫様抱っこをする。そうして妹を連れて、部屋を出て、廊下を歩き、風呂場へと赴いた。
脱衣所でまずは自分の服を脱ぐ。次に妹の服を脱がせる。ワンピース一枚だけなので簡単に脱がせられたが、露わになった妹の白い肌を直面すると、ぼくは覚えず興奮する。ブラジャーは元から付けてない。残ったパンツも脱がせる。
脱ぎ終えてバスルームへ移動する。
蛇口を捻って、適温になるのを待つ。適温になったら、風呂椅子に座っている妹の後ろに立って、頭からシャワーを浴びせる。
「温かい……気持ちいい……」
「そうか」
「久々のシャワー」
「そうだな」
「兄さん。お腹をくっ付けて」
「ん」
妹の髪を二手に分けて、自分の腹を妹の背中にくっ付けた。
温かくて、幸せな気持ちになった。
「伝わってるね」
「伝わってるな」
「えへへ」
妹は子供っぽく笑った。屈託のない笑い声だった。後ろに居るので笑顔を見られないのが残念でならない。
――こんな妹を殺したくなる兄がどこにいる? 今ぼくは幸せの極致に居るのだぞ。ここまで自分を受け入れてくれる妹を持っているのだ。最高に愛らしい妹と風呂に入っているのだ。それを壊したいだなんて考えるやつがあるか。
ぼくは幸せだ。
「髪、洗うぞ」
「うん」
ぼくは腹と背中を離して、シャワーを止めて、シャンプーを出して、妹の髪を洗い始めた。尻まで伸びているくせにまったく手入れしてないから洗うとなると大変な労力を要される。手触りもごわごわとしていて決して綺麗とは言えない。だがそこが興奮する。
髪を洗いながらぼくは言う。
「なあ」
「なに?」
「ぼくが猫を殺したこと憶えてるか?」
ぼくの問いに、妹は少しのあいだ黙った。
記憶を探っているのだろう。
それから答えた。
「憶えてるよ」
「五匹全員殺した」
「そうだね」
「どう思ってる?」
「どうって?」
「猫を殺したぼくは、変なのかな」
「……分かんない」
なんだそりゃ。
妹は言う。
「でも怒ったりはしないよ。恨んでもない」
「本当? もしかしてぼくと同じで、お前も清々した?」
「うーん。猫に興味が無くなってたから、あんまり」
「そっか」
頭のてっぺんを重点的に洗う。
妹は言った。
「どうしてそんなことを?」
「何となくね」
「ふうん。まあいいけど」
髪の先端を洗う。
ぼくは言った。
「母さんは怒り狂ってたな」
「そうだね」
「ぼくまでおかしくなったんだって入院させようとしたっけ」
「そうだね」
「とにかくうるさかったよね」
「そうだね」
「黙らせたね」
「そうだね」
「ね」
「ね」
いつのまにか口調が映っていた。
そこでぼくは気付く。
「あ。これシャンプー足りない」
「足りない?」
「まだ洗えてないところがある。このままだと……」
「いいよ。気持ち良かった」
「駄目だ。まだ洗いきれてない」
「これで十分よ」
「あのな、髪ってのはもっと清潔にしとくもんだぞ」
「兄さん、汚いのも好きなんじゃないの?」
「綺麗にしたいときは完璧に綺麗にしたいんだ。汚い時は汚い時。綺麗な時は綺麗な時。そこが違ったら駄目なんだよ」
「我が儘ね」
我が儘?
ぼくの腹に何かが渦巻く。
「我が儘ってことはないだろ。ぼくは正当な主張をしている」
「ふうん。別にどうでもいいけれど、このままじゃどうにもならないよ」
「何だよどうでもいいって。……ちょっとシャンプー買ってくる。そこで待っててくれ」
「待ってよ。このまま置いてくつもり?」
「仕方ないだろ、シャンプー無いんだから」
「いいじゃないそれくらい」
「駄目だ」
「いいの」
「駄目」
「いい」
「駄」
「いーいーの」
妹は、ぼくの言葉を遮って強引に主張してきた。
ぼくは拳を握りしめる。そうして体の中にある何かが壊れたような気がして、視界が暗くなるような錯覚に陥った。そこからはもう燃えるような怒りで沢山だった。
妹は黙る。
ぼくも黙る。
目元が痙攣する。ぴくぴくと微動して仕方ない。隈の所為なのか。それともあいつが変な事を言った所為なのか。
くそったれ。
「なあ。シャンプー……」
「いいって」
はあ。
腹が煮えたぎる。胃に入っているものが逆流してしまいそうだ。喉を通る何かが口にまで達してくる。
ぼくは何も言わない。
ただ妹の首筋を両手で握った。
「兄さん。くすぐったい」
「ああ。待て。すぐにくすぐったくなくなる」
――この感覚をぼくは憶えていた。そうだこの黒々とした感情は、あの時の――
ぼくは自分で何するつもりなのかを分かっている。
ぼくは平常心で、ぼくは異常じゃない。
ちょっとだけ……違うだけだ……誤差の範囲内……。
「はあ……、はあ……」
呼吸が乱れる。
胃が痛い。
視界が首筋にクローズアップされて、そこから目を離せない。
まるで金縛りのように動けない。
手が無意識に痙攣する。
妹の首筋で、指の一本一本が微動する。
触ったり、離したり。
そうして――意識的に握る。
「兄さん――」
ぼくは?
ぼくはぼくはぼくは。
ぼくは妹を殺したいのか? 猫を殺したのと同じ気持ちで妹をも殺したいのか?
ぼくはこいつを愛せていなかったのか?
義務感で妹を支えていただけ? だとすると最初から愛なんてなく、ぼく自身が自分の心を偽っていた? 無意識的にストレスが溜まっていて――
愛なんてなく、憎いだけだった。
「痛い――兄さん――」
「待ってろ……、すぐに、痛くなくなる……」
意識的に手に力を込める。
ぼくは妹の首を絞めている。
完全に絞めている。
絞殺する。
首の筋肉に指が食い込む。
握られた箇所は、押し込まれる。
握られてない箇所は、反動で膨れ上がる。
なんて柔らかいんだ。
握り潰したいくらいに気持ちいい触感じゃないか。
「分かってんだよ……何もかも、ぼくには分かっている。理解できてるんだよ……」
幾年もの思いが込み上がってきて、ぼくは覚えず笑っていた。笑いがこみ上げてくるこの現象は、思い出し笑い。
快感だ。
「兄さん」
声が聞こえる。
「……兄さん」
「――!」
ぼくは妹の手を離して、やにわに立ち上がった。
「うううぅおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっっっっっっ!」
咆哮する。
腹の中にあるものすべてを吐き出すように。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっ! うううわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ! あああああ! あーっ! ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる壊れる。
「ああああああああああああああっ! ああああー! あぁ! あああああああああーっ!」
違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う、違う。
「う……うー、ううぅぅぅ……あ、あ、う、うぅぅぅぅ……」
そうじゃない。そうじゃない。そうじゃ――ない。
ぼくは頭を抱えて蹲った。
途端に恐怖がぼくを襲う。
「う、う、うう。ごめん。ごめん。ごめん。おかしいよ。ぼくはおかしい。変だ。狂ってる。ごめんなさい、ご、……けほっ、……ごめんなさい」
ぼくは普通じゃない。どうしてそんな簡単なことから今まで目を逸らしていたんだ。
ぼくは自分の体を掻き毟った。
二の腕を、太ももを、とにかく肉の厚い部分を掻き毟って、自らの体を削いだ。
爪の間に、ぼくの細胞が溜まる。細胞のカスが溜まる。
「ああああ……。ああああ……。ああ……あ、へ……。うううううううう……」
ぼくは泣いた。涙を流した。嗚咽もした。
死にたい。死にたくて堪らない。死にたい。死にたい。
「死にたい」
「死なないで、兄さん」
妹は言った。
ぼくは聞く。
「兄さん。自分を責めることはないわ。兄さんが苦しむことない」
「…………」
「私の所為で苦しまないで。兄さんが悩むことはない。兄さんは何も悪くない。ぜんぶ私が悪いの」
「ぼくは……」
「兄さんは兄さん。私は私。兄さんは元気でいて」
「……いやだ。そんなのは嫌だ。寂しいじゃないか……。ぼくは苦しみが欲しいんだよ。お前の苦しみをすべて立て替えたい。お前の苦しみをすべて取り込んで、お前の苦しみを零にしたい。ぼくは黒でありたい。だからお前は白であってくれ」
「そうね。でも駄目よ」
「どうして……」
「私もそう思ってるもの。兄さんの苦しみが欲しい」
「…………」
ぼくは――ぼくらの関係は、異常だ。狂い合っている。苦しみ合っている。歪みあっている。
何よりも間違っている。
ぼくはぼく、妹は妹。
ぼくは妹、妹はぼく。
他人じゃないのか。ぼくらは他人じゃないのか。
妹は言う。
「兄さんが死んだら私も死ぬ。同じ死に方で死ぬ。すぐに死ぬ。いちはやく死ぬ。怖くても頑張って死ぬ。痛くても我慢して死ぬ。死ぬ。死ぬ死ぬ死ぬ。兄さんが居なくなったら私は死ぬしかない。だから死ぬ」
「……死んでほしくない。ぼくは、お前に死んでほしくない……」
「うん。だったら生きようよ」
耳から入った言葉が、頭の中で木霊した。
歪んだ精神が書き換えられる。
「兄さんが死ぬなら私も死ぬ――でも出来れば兄さんと一緒に生きていたい」
その言葉を聞いて、ぼくの体は、粉々に壊れたような錯覚を感じた。無限大の光に吸い込まれたようで、自分が変化していく。
「……ああ」
ぼくは――そうだ。
そうだったんだよ。
ぼくは妹の前に行く。
「ごめんな……」
妹の前で跪いて、奴隷のように頭を下げた。
「ぼくは駄目な人間だ。お前の首筋に赤い跡を残してしまった。さっき一瞬だけ目に入った――真っ赤だった」
「いいのよ」
「簡単に許さないでくれ」
「ううん。許す」
「どうして」
「私たち、兄妹じゃない。世界でただ二人だけ、同じDNAを共有する兄妹じゃない」
「…………」
「私たちは他人じゃないんだよ」
優しいな。
優しい。
殺してほしくなるほどに、優しい。
「ぼくなんかでも、お前の兄さんは務まるかな」
「兄さんじゃなきゃ嫌だよ。私、兄さんのことが好きなんだから」
妹は風呂椅子から降りて、ぼくに身を寄せて、力なく抱きしめた。
肌と肌が隙間なく密着する。
ぼくの胸と妹の胸、ぼくの腹と妹の腹、ぼくの頬と妹の頬、それらがくっつく。
体温が伝わる。
温かい。
「兄さん。大好き」
妹は頭を撫でた。
こんなぼくの頭を撫でた。
「う……うううううう……」
「大丈夫。大丈夫」
「ううう……、けほっ、あ、ううう」
「いい子いい子。よく頑張ったね。偉い偉い。兄さんは偉いよ」
涙が溢れて堪らない。
頬を伝って妹の背中に垂れていく。
「よしよし。うん……よしよし。大丈夫だよ。死ぬほど大好きだよ。愛してる。愛してる。兄さんを愛してる」
「ぼくも、ぼくも、愛してる。お前を、ずっと、愛してる」
「ふふ。甘えんぼさん。これからはずっとこうしてあげる。可愛いね。愛してる」
抱きしめる力が強くなる。
苦しくもない――けれども存在を認識されているようで、とても生きている実感があった。
「仲直りしよ」
「うん。ぼくが悪かった。ごめんな」
「いいのよ。兄さん大好き」
「愛してる」
「愛してる」
妹はぼくを離す。
そうさ。そうだったんだよ。
ぼくは――妹を愛せなかったからこそ、妹を愛したかったんだ。
歪んでいたものを矯正したかったんだ。
決して愛していなかったわけじゃない。愛さなかったわけじゃない。愛したくなかったわけじゃない。
ぼくはぼくなりに、妹は妹なりに、愛し合いたくて、愛し合ったんだ。
誰にも分からなくていい。ぼく達だけが分かり合えればいい。
もう死にたいなんて二度と思わない。
これからは二人だけで生きていこう。
――ぼくはそう誓った。
後日、ぼくは親友を殴り殺して、学校を退学させてもらった。