4 優しさ
家の前で、斗真は足を止めた。
「今日はゆっくり休め。時間かけてもいいから、いつものお前に戻ってくれ。じゃあ、明日な」
一方的に宣告され、真央が声を掛けようと思った時には、もう斗真の姿は無かった。
買ってもらったワイシャツを抱いて、家に入った。
「ただいま」
返事が無かった。不安になり、リビングへ直行する。テーブルの上に、こんな置手紙があった。
《お父さんと出かけてきます。仕事でトラブルがあったらしくて。夕飯の前には帰って来るわ》
今日に限って誰もいない。心細くなり、また泣きそうになった。その時、斗真の言葉が蘇った。
―――俺は、いつものお前が好きだ。今日のお前は好きじゃない―――
「いつもの自分に戻らなきゃ」
自分に言い聞かせるように呟いた。
部屋に戻り、ベッドに腰掛け携帯を鞄から取り出し、斗真にお礼を伝えようと思いメールを打った。
『今日はありがと。斗真のお蔭で少し元気になった』
送信ボタンを押すと、1分程度ですぐに返信が来た。
『俺ができることは全部した。あとはお前次第だ。じゃあ、明日迎えに行くからな。絶対俺が行くまで家から出るなよ』
斗真のこんな優しさを受けたのは、初めてだった。本当は優しいんだ・・・
真央は了解のメールを送り、携帯を枕元に置いた。そして、ボロボロになったワイシャツを脱ぎ、部屋着として使っているジャージに着替えた。
着替え終わり、ワイシャツをごみ箱に捨てた。もう、二度と見たくない。
「ただいまぁ」
この声は雅紀だ。今日は随分と早い。
真央は部屋を飛び出した。
「おかえり」
真央はリビングに入り、雅紀に声を掛けた。
「おお、帰ってたのか」
雅紀はソファーに座り、テレビを点けた。
「うん」
真央は雅紀の向かいにあるソファーに腰かけ、テレビを見る。
「お前、何かあったのか?」
「・・・え?」
何故わかったのだろう。私って感情が顔に出やすいタイプなのだろうか。
「答えろよ」
雅紀が真央の隣に移動する。
仕方なく、思い出したくないが今朝の事を話す。
「今朝ね、走って学校に行ってたら突然男の人が目の前に出てきて、それから・・・」
「痴漢か?」
その先を制したように雅紀が声を出した。真央は小さく頷き、雅紀に顔を向けた。
「これ、お母さんとお父さんには言わないでほしいの。心配かけたくないから」
2人には迷惑掛けたくない。毎日生きるので精いっぱいなのに、自分の事で余計に負担を掛けるのは嫌だった。
「うーん・・・」
雅紀は腕を組み、唸った。
「分かった。2人には言わない。でも、何かあったら俺に言え。1人で抱え込んでると、生きて行けねーぞ」
その言葉で、再び斗真の事を思い出す。
「うん。でも、斗真がいるから大丈夫だよ。これからは徒歩で学校に行く日は、迎えに来てくれるって」
「それは頼りになる男だな」
雅紀は安心したように息を吐いた。
その時、玄関から音がした。
「ただいま」
父と母が帰ってきたのだ。
2人がリビングに入ってきて、真央と雅紀を見る。真央はなるべく平然を保つ。
「あら、帰ってたのね。夕飯にするわよ」
2人は返事をして、夕飯が出来るのを待った。
「もう、痣だらけ・・・」
湯船につかり、ため息が漏れた。
「ちゃんと治ってくれるかなぁ」
高校のスカートは短いので、足の傷などが目立つ。
ふと、斗真の今日の顔が浮かんだ。いつもと違う、優しそうな目。時には表情を変え、心配そうな顔で真央を見る。いつもは突き放すのに、今日は優しく包み込んでくれた。
「ばぁか」
小さく呟き、風呂を出た。
翌朝、真央は再び1階から聞こえてくる雅紀の声で目を覚ました。目覚ましが鳴っているのに全然気が付かなかった。
「おはよぉ」
目を擦りながらみんなに挨拶し、そのまま洗面所へ向かった。
洗面所で顔を洗い、ぼさぼさの髪をセットしたところで、鏡に雅紀が映った。
「どうしたの?」
真央は鏡に映っている雅紀に問いかけた。
「もう、大丈夫そうか?」
気にしてくれているのは昨日の“痴漢”のことだろう。さすがに1日ではあの地獄は解消されない。だが、昨日よりは大分気が楽になった。
そのことを伝えると、雅紀はそうか、と返事をし、再びリビングに入って行った。
真央も、自分が散らかした道具を片づけてリビングに向かった。
朝食を済ませ、昨日斗真が買ってくれたワイシャツを着てジャケットを羽織り、リビングに学校に持っていく荷物を下ろして、斗真が来るのを待っていた。
「真央、そろそろ行った方がいいんじゃない?」
母親から声がかかるが、真央はうーんと曖昧に返した。
その時、メールの着信音が鳴った。斗真からだ。
『出てこい』
相変わらずの命令口調に少し不満を持つが、そんなことを本人に言ったらその数倍の威力がある言葉で帰って来るに違いない。
携帯を鞄にしまい、まだ家に残っている母親と雅紀に行ってきます、と声を掛けた。父親は真央が起きる前に出勤している。
「行ってらっしゃい」
2人の声を聞き、真央は玄関へ向かい、外へ出た。
「おはよう」
家を出てすぐ正面に斗真は立っていた。
「おはよう。ごめんね、わざわざ」
すると、斗真は真央に近寄り、顔を覗いた。
「な、何?」
真央は若干引きの体制に入った。
「昨日より明るくなったな。安心した」
今日も昨日と変わらない、優しい表情だ。そんな斗真を見て、自然と安心感が生まれた。
「さあ、行くか」
斗真がふいに真央の手を掴んだ。
「あっ」
反射で手を引っ込めてしまった。昨日の後遺症だ。
「・・・ごめん。思い出させちゃったかな」
真央はぶんぶん首を振った。
「そっか」
斗真は先に歩き出した。真央はたまらず声を出した。
「手ぇ・・・つなごう」
これを言うのに、何故か躊躇いが生まれなかった。自分でも何故素直にこの言葉が出て来たのか、よく分からない。
斗真は優しく微笑み、真央の元に戻ってきた。
「怖くないか」
頷くしかなかった。
斗真はそっと真央の手を握った。段々と斗真の力が入っていった。
「離れないように、だ」
そして2人は歩き出した。
何事も無く学校に着いた。だが、1つ気になっていることがある。
「ねえ、手離した方がいいんじゃない?」
門をくぐっても、斗真は真央の手を放そうとはしない。周りの視線が気になる。瞳子や飯田がいたらややこしくなる。
「お前が手繋ごうって言ったんだろうが」
斗真は答えながら、すたすたと玄関へ向かう。
「そうだけど・・・」
もたもたしている間に、玄関に着いた。そこで、ようやく斗真が真央の手を離した。
そして、無言で靴を履きかえる。
「ありがと」
取りあえずお礼を言わねばと思い、少し控えめで声を出した。
「おう」
片手を挙げ、教室へ向かって行く。
真央は斗真の背中を追って、教室へ入った。
「あれまぁ、また2人揃って登校ですか」
席に着いた途端に、頭上から瞳子の声が聞こえた。
「ま、まあね」
隣に斗真がいると話しづらい。
飯田も斗真に話しかける。
「ラブラブじゃねーか」
斗真は飯田の顔をちらっと見て、席を立ち、飯田に合図を出して2人で教室を出て行った。
「あれ?どうしたんだろう」
「さあ。男同士のしょうも無い話なんじゃない?」
それで、と瞳子は話を変えた。
「昨日はどうだったの?」
「どうって・・・」
別に格別楽しかったわけでもない。でも、いつもと違う優しさの斗真と一緒に居れて心が安らいだ。だが、これを言うとまた何を言われるか分からないので、適当に返した。
「別に。制服買ってもらっただけ」
「えっ!制服買ってくれたの!随分と出費したわね。こんな女の子のために」
裏目に出た。真央はため息を吐いた。
「昨日は別にデートって言う感じでもなかったし。ってか、その前に付き合ってないし」
「なーんだ。てっきりどっちかの家に寝泊まりしたのかと思った」
「するわけないでしょ!」
真央がぶんぶん両手を振ると、瞳子は真央の頭にポンと手を乗せた。
「あんた、昨日より元気になったわね。本当に心配したのよ。顔なんか、これから死にます、みたいな顔してたし」
「私、そんな酷い顔してたの?」
「ええ。それはもう頬が削げ落ちた婆さんのようで」
「そんな酷くないでしょ!」
真央に背を向けた。だが、この言い方は瞳子らしい。言い方はきついが、たまに優しさを混ぜる所が、瞳子の魅力だと思っている。
「あら、怒らせちゃったか」
そこで1呼吸置き、話を続けた。
「話変わるけどさ、今日の斗真、顔色悪くない?」
「え?」
ずっと俯きながら歩いていたので、斗真の顔は見ていなかった。
「帰ってきたら聞いてみたら?調子悪いのって」
「うん。分かった」
それから瞳子と世間話をしていると、飯田が帰ってきた。
「じゃあ、聞いておいてね」
瞳子は真央の肩を軽く叩き、席に戻って行った。飯田も席に着く。
隣にいる斗真の顔を窺う。確かに、昨日より元気が無いように見える。気のせいかもしれないが。
「ねえ私、斗真に無理させちゃった?」
斗真が真央の顔を見る。真央は思わず目線を下げた。
「そんな訳ねーだろ。お前が心配する事じゃない」
真央は小さく頷き、再び顔を上げた。
「体調は、悪くない?」
斗真は小さく唸り、こう答えた。
「ちょっと、今朝から頭痛がしてな。一応、薬飲んできたんだけど・・・」
「えっ、大丈夫?」
斗真は小さく微笑み、正面を向いた。先生が来たらしい。
「みんな、おはよう」
斉藤先生は今日も疲れ切った表所で教師へ入ってきた。
いつも通り出欠確認を行い、それから少し明るめの口調で話し始めた。
「明日、浜岡が学校に来る。両親が殺されたから、心の傷も深いだろう。みんな、温かく接してやれ。例えは悪いが、この中にも両親を殺された人は数名いる。その人なら浜岡の気持ちが分かるはずだ」
さり気なく斗真を見た。斗真は真っ直ぐ先生を見ている。だが、表情は悲しそうだった。
「じゃあ、今日も頑張れよ」
そう言って、先生は教室を出て行った。
みんな席を立ち、友達同士で話し始めた。瞳子も、真央の元へやって来た。何故か、飯田は斗真の元へ来ず、頬杖をついて外を眺めている。
斗真は一人で教室を出て行った。
「美代、来れるようになったんだね」
「そうね。でも、立ち直りが早いわね。さすが美代」
「だね」
浜岡美代は気が強く、ポジティブな子なので、泣いている姿など見たことが無い。常に笑顔を意識しているらしい。
「でも、外見では笑顔を振りまいてても、内心では今すぐにでも泣きたいっていう感情に駆られるでしょうね」
瞳子は意味深に呟く。真央も唸る。
「あ、ところでさ、訊いた?」
「ああ、ただの頭痛だって。今朝からの」
「あんたの事を想いすぎて頭痛が・・・」
「うっさい」
頭を抱えてうずくまっている瞳子を、冷ややかな目で見る。
「こういうことはあるのよ、実際に。好きな人の事を想いすぎて熱出しちゃったみたいな」
「どういうのよ、それ」
真央は別に斗真に期待していない。斗真は顔も整っているし、背も高く、自分といるのは勿体ないと思っている。実際に、斗真の隠れファンも多い。
「まあ、これからの展開が楽しみよ」
「何も進展しないから」
そう言いながら、隣の机に視線を落とした。