第三話
ステージの上で、突然皮膚がはがれ落ちる。続けて髪の毛や爪がバラバラと落ちていく。客席から悲鳴があがる。誰もいなくなって、私だけが取り残される。床に落ちた、たくさんフリルのついたピンクの衣装。そののなかに水原ことりの残骸が浮かんで、目玉だけが動いている。
そこで、ハッと我に返った。叫び出す寸前の喉をぎゅっと閉じて、手を握りしめた。
私は木陰のベンチに座っていた。今がCM撮影の待ち時間だったことを思い出す。周りには慌ただしく立ち動いているスタッフがいる。一瞬だけ眠っていたらしい。
悪夢は寝入り端に見ると言うけれど、ふっと睡魔に襲われる瞬間に、最悪の想像が目の前に現れることがある。人前で眠らないように気をつけていても、そういうときがいちばん怖い。たとえば今みたいに。
顔をあげると、カメラのレンズ越しに真山さんと目があった。
「もうちょっとで寝顔が撮れそうだったんですけど、残念」
言いながら、彼はふらりと近づいてきた。
「私、寝てましたか?」
「いや、ほとんど。ずっと狙ってるんですけど、水原さん全然寝ないですよね。めちゃくちゃ働いているはずなのに。どういう体力なんですか?」
「特に何もしてないですけど……」
密着が始まって約1週間。飾らない言葉で質問してくる真山さんの雰囲気が、私はだんだんと心地よくなっていた。アイドルとしてバカ丁寧に、もしくは好奇心丸出しで扱ってくる人たちばかりのなかで、真山さんのフランクな態度はとても新鮮だった。たとえカメラを担ぎながら発せられる言葉だったとしても。
「真山さんこそ、体力ありそうですよ。二の腕、がっちりしてるし」
「いや、僕はもうオッサンなんで。腹なんて見せられたもんじゃないですね。ゼリー状です」
私は小さく声を出して笑う。仕事の場で、誰かとこんな軽口が叩けるようになるなんて、思ってもみなかった。
マネージャーはいちばん近くにいるけど、あくまで仕事の関係だ。スタイリストやヘアメイクは親しく話しかけてくれて、女の子っぽい話をしてみるけど、心を開いているわけじゃない。同業者の友だちなんてもってのほかだ。水原ことりに友だちはいない。
でも真山さんとだけは、同級生と喋ってるような気がした。錯覚でもいい。
皮膚の裏にどろりと貼りついた、夢の嫌な感触が、少しだけまぎれる気がした。
真山さんは毎日密着するわけではなくて、3日連続のときもあれば、5日空くときもあった。
テレビ番組の収録や、雑誌取材や、イベント出演や、CM撮影や、レコーディング。あらゆるシーンで、真山さんはカメラ片手に、シンプルな質問を投げかける。「この曲の聴きどころを教えてください」や「最近ハマっていることは?」などの、普段のインタビューで訊かれる定型的なものではなく、もっと素朴な疑問が多かった。なかには、質問ですらない、独り言のようなものまで。
「可愛い子がわざわざアイドルをやりたがるのって、なんなんですかね?」
事務所主催の新人発掘オーディションの特別プレゼンターとして、会場のステージ袖で出番を待つ私を映しながら、真山さんは言った。今、ステージではファイナリスト12名の最終審査が行われている。
「どういう意味、ですか?」
「水原さんを傍から見てると、アイドルは本当に過酷な仕事だと思いますよ。僕だったら、普通に社会生活を送って、可愛い子としてちやほやされるほうを選びますね。そのほうがよっぽど得です」
「やだ。ことりは、損得なんて考えてませんよー」
マネージャーは苦笑したが、私は黙って真山さんの言ったことを考えていた。
オーディションの最終審査は、水着を着ての自己アピールだった。ステージでは、順番が回ってきたひとりの少女が、ハキハキした声で叫ぶ。
「私は、たくさんの人に夢を与える存在になりたいです!」
カメラを私のほうに固定したまま、真山さんは首だけステージのほうに動かした。そしてもう一度私に向き直った。
「水原さんは? 何故アイドルをやってるんですか?」
「私は……」
私は口ごもった。
普段なら私も「夢を与えたい」と答えるはずだった。でも。緊張した面持ちでステージに立つ幼い少女たちの姿に、私の言葉は奪われる。見た目自体は私とそれほど変わらないはずなのに、圧倒的にまぶしかった。彼女たちには、これから未来が待っている。
数日前から、また体調が悪化していた。薬を飲む間隔が短くなるのに反比例し、異常な発熱がおさまる時間は長引いていた。身体の節々が痛いのも、おそらく筋肉痛だけのせいではないだろう。
「その答えは、宿題にさせてもらってもいいですか」
最終審査が終わり、結果発表になる。番号が読み上げられ、拍手が沸き起きる。大きな花束を渡すため、私はステージへと向かう。私は感じ始めている。
きっと瞬きするよりもはやく、次の少女が現れる。
私は真山さんが来る日を心待ちにするようになっていた。
相変わらずハードスケジュールで、体調も芳しくなかったけど、真山さんに映されていると思うと不思議と力が出た。
真山さんは被写体と、親近感と緊張感の絶妙なバランスを保つのが上手だった。素朴だけど、馴れ馴れしくはない。必要であれば鋭い質問をするけど、無闇に尋ねてくることはない。聞けば、ドキュメンタリーの有名な賞を獲っているのだという。この年齢で『情熱ランナー』のディレクター兼カメラマンを任されるのも異例のことだそうだ。
仲良くなりすぎてはいけない、とわかっていた。でも私はひとつだけ、訊きたい気持ちを抑えられなくなっていた。
その日は地下スタジオで、武道館ライブに向けたダンスレッスンを行っていた。「恋するアンドロイド」以外にも新曲をやるうえ、特別メドレーなども組み込まれているため、早急に新しい振り付けを覚える必要があった。珍しくほかの仕事の予定がない日だったので、講師の先生が帰ったあとも、自主練させてもらっていた。
♪アンドロイド なのに恋してるの
♪アンドロイド だけど夢見てるの
Bメロからサビに繋がる際の動きが、何度やってもしっくりこない。特に腰の動作に納得がいかなかった。前より身体が重く、鈍くなっている気がして、焦りが募っていく。真山さんがカメラを回しているのも気にならないくらい、レッスンに没頭していた。
「写真チェック? 今から1時間以内に? どうして事前にちゃんとアナウンスしてくれないんですか!?」
スタジオの隅で、マネージャーが携帯電話に向かって怒鳴った。続けてパソコンを広げ、舌打ちする。大きな声で私に呼びかけた。
「ことり! 急ぎのメールを受信しなくちゃいけないんだけど、このスタジオ、ネットが繋がってないのよ。ワイファイが拾えるところまで移動するから、ちょっと出てくるわ」
「わかりました。私のことは気にしないで」
「何かあったら連絡して!」
バタバタとマネージャーは出ていった。気づけば、スタジオには私と真山さんだけが残されていた。私は休憩するふりをして、ペットボトルの水を飲みながら、タイミングを伺った。生放送に出るときよりドキドキしていた。新しいペットボトルを掴むと、椅子に座っている真山さんへ歩み寄る。
「あの……、よかったら」
「ああ、どうも」
蓋を開ける真山さんの横に、自然に見えるように座った。しばらく黙っていた。ボーカルのない曲だけが、延々と流れ続けていた。
「真山さんは、アメリカに行かれてたんですよね」
出来る限りの勇気を振り絞って、私は口を開いた。
「そうですけど」
「それはどうしてですか? 日本ではそれまで何をしていたんですか? 日本に未練はなかったんですか? 向こうは楽しかったですか?」
聞きたいことがすべて口から数珠つなぎに溢れだしていた。真山さんは水を飲む手を止め、きょとんとしたのち、ぷっと噴き出した。
「そんなに一気に言われても」
「ご、ごめんなさい」
みるみるうちに頬が赤くなる。私はペットボトルを頬に押し当てた。
「アメリカ留学にちょっと興味があって。ショウビズの本場だし、新しいことが学べるかなって、思っていて」
適当な嘘を並べ立てる。真山さんは足を組み直した。
「アメリカに行ってたって言っても、そんな大したもんじゃないですけどね。大学卒業してから、普通にバイトとか、まあ、フリーターみたいなことをしてました。映像を撮る人間になりたいなあっていうのはあったんですけど、思うばっかりで……。夢を口に出せないくせに、不満ばっかり溜まったんですよね。シャイだったと言えば聞こえはいいけど、要は行動する勇気がなかった」
私はかつての真山さんを思い浮かべる。寡黙で、いつもどこか居心地の悪そうにしていた同い年の男の子を。
「そんな自分と決別するつもりで、20代中盤で一念発起して、有り金かき集めて渡米しました。当初は辛かったですよ。英語はしゃべれねーし、技術もないし。でも失うものが何もなかったのが逆によかったというか。運よく有名なスタジオに弟子入りさせてもらうこともできて、なんとか真っ当になれました。身体もだいぶゴツくなりましたしね」
真山さんはTシャツの肩の部分を引っ張った。その仕草が、とても親しいもののように思えてドキッとする。私はもっと訊きたい衝動を抑えられなくなった。
「こないだの逆質問ですけど、真山さんはどうして今の仕事をしているんですか?」
「うーん、なんでだろうなあ。楽しいから、がいちばんですかね。どんな人にも絶対ドラマはある。それを掘り進めていくのは、すごくスリリングです。むしろ普通っぽい人のほうが、面白かったりして」
「だからアイドルとかには興味ないんですか」
言ってしまって、まずいと思った。私はあわてて付け加えた。
「ごめんなさい。変な意味じゃなくて……。最初にお会いしたとき、芸能人に詳しくないっておっしゃってたから」
「あ、そんなこと言いましたっけ」
真山さんが私に向き直る。
「すみません。これから密着するっていうのに、失礼っすよね。俺、そういう気遣いが抜けてるところがあって」
「いえ、全然怒ってるとかじゃなくて」
否定しながらも、真山さんの一人称が俺になったことに、私の耳は反応していた。何故だかとてもうれしかった。
「芸能人っていうと、実はひとり、会ってみたい人がいたんですよね。プロになったら撮りたいなって思っていた人が」
彼は遠くを眺めるように目を細めた。とっさに胸がざわめく。
「その、会いたい人って……」
刹那、身体に突き上げるような激痛が走った。脂汗が噴き出し、呼吸が荒くなる。お腹を押さえたけど、何の役にも立たなかった。内臓がねじれるような、破かれるような、圧倒的に暴力的な痛み。まるで悪魔がお腹を突き破って出てこようとしているようだった。
座っていることすらできなくて、私は身体を抱きしめたまま、ごろりと床に転がり落ちた。
「水原さん!?」
真山さんの声が頭上に降ってくる。あまりの痛みに、目を開けることすらできない。それでもなんとか薄目を開いて、かすれた声で訴えた。
「きゅ、救急車は呼ばないで。タクシーを。お願い……します」
「でも」
「だい、じょうぶです。騒ぎにな、るとよくな、いから……」
ショックを受けているのと呆れたのと怒っているのを混ぜたような表情で、真山さんは私を見下ろしていた。次の瞬間、入口へ走り出した。
「タクシー、つかまえてきます!」
芋虫のようにごろりと転がって、なんとか仰向けになる。世界が遠く感じられるのに、ぜぇぜぇと自分の息だけがやけに大きく響いた。その間も痛みは絶えず内臓を蹂躙し続けた。内臓を破って出た悪魔が手を伸ばして、喉の先まで届きそう。目がかすむ。私はこのまま死ぬかもしれない。
「一定ポイントを超えましたね」
買い物のスタンプカードについて話すみたいに、あっさりと医者は言った。もちろん、“団体”の人間だ。
気づいたら私は病室のベッドにいた。どれだけ眠ってしまったのかと慌てたが、彼曰く、搬送されてからまだ2時間ほどとのことだった。
「倒れたとき、誰かそばにいた人は?」
「……ひとりいますが、単に居合わせて、タクシーを呼んでもらっただけです。行き先や事情のことは知りません」
ぼんやりと記憶が甦る。一緒にタクシーに乗り込もうとした真山さんを制して、絶対に誰にも言わないでと念押しした。軽い持病の発作で、行きつけの病院に行くから心配いらない。マネージャーには自分から連絡する、としつこく繰り返して、なんとか振り切った。
「それはよかった。あなたには守秘義務がありますからね」
医者はそう言ったあと、私の身体の状況を淡々と告げた。
自力で動ける時期の最終段階まで来ている。今日のような発作は今後頻発するだろう。それがなくとも、微熱やだるさ、筋肉痛、関節痛といったものが恒常的に続く。今までの薬ではもう対処できない。本格的な身体の崩壊は、時間の問題である。
私はじっと横たわったまま、その話を聞いていた。
「本当ならば、今すぐ収容したいところですが」
収容、という言葉を聞いて、私はああ、と思う。けして「入院」ではないのだ。
「来週末に大事なイベントがあるんです。それまでは、耐えます」
「だいぶご活躍されているようですが、そろそろ限界です。無理をするともっとひどいことになりますよ」
それはわかっている。私はぎゅっと目をつむった。わかっているからこそ、武道館公演までは絶対にやりぬきたい。
静かな声で医者は言った。
「相田莉子さん。あなたの支払った対価は、得られましたか?」
すっかり夜になっていた。車が行きかう大通りを、私は気配を消して歩いた。オレンジ色の街灯が長い影を作る。その影を引きずりながら歩く。
医者に処置されたとはいえ、身体はだるく、頭はぼうっとしていた。携帯電話の留守電にはマネージャーからの着信が30件以上入っていた。少し熱が出ただけで大したことはない、明日はいつもどおり仕事に出る、とだけ告げて一方的に通話を切り、電源も切った。
肩に引っかけたバッグが、皮膚をちぎりそうに重い。大したものは入っていないから、これも症状のひとつなのだろう。
聞き覚えのあるメロディが流れてくる。コンビニの有線で、「恋するアンドロイド」がかかっている。通りに面したガラスの壁には、雑誌がずらりと並んでいる。女性誌、男性誌、マンガ誌、テレビ誌。あらゆるところで、水原ことりが笑っている。
コンビニの入口横手に、公衆電話が設置してあるのが目に入った。私は操られるように引き寄せられていく。受話器をあげ、財布にあった100円玉をすべて投入した。心臓の鼓動がはやくなる。震える指先で、0470から始まる番号をゆっくりと押した。
長いコール音。祈るような気持ちで受話器を握りしめる。回線の向こうで、音がした。
「はい、相田ですが」
声を聞いた瞬間、叫びそうになるのを必死にこらえる。意味もなく目頭が熱くなる。ずるりと、倒れるように身体を壁に預けた。
「もしもし?」
相手は不審そうな声を出した。私は懐かしさに動けない。ずっと会っていなかったけど、2歳下の妹の声に違いなかった。
「あの、切りますよ?」
話したいのは山々だった。でも、私はもう相田莉子の声を持っていない。この喉から発せられるのは、アイドル水原ことりの声だ。息をひそめて、受話器に耳を押し付けながら、もう少しだけ長く、と念じる。
「……お姉ちゃん?」
妹がハッとしたように叫んだ。
「お姉ちゃん、お姉ちゃんでしょ!? 何やってるのお姉ちゃん、どこにいるの! なんで連絡よこさないの!」
怒声が爆発した。
「今なにしてるの!? みんながどれだけ心配してると思ってんの。事務所との契約は切れたはずでしょ。どこにいるの。こないだ口座にお金振り込んだのもお姉ちゃんでしょ? なんなのよあの大金。変なことに手を染めてるんじゃないの!」
私は何も言い返せない。ただ、すがるように妹の言葉を聞く。
「お母さんは1年前に倒れて、それ以来すっかり寝込みがちになっちゃった。お父さんも口には出さないけど、お姉ちゃんのこと気に病んでる。そんなだから、あたし、うちの近所に住んでくれる人と結婚したんだよ」
私は目を見開いた。妹が結婚したなんて、ひとつも知らなかった。ショックだった。でも言われてみれば、年齢的にはごく普通のことだった。
「お姉ちゃん、まだアイドルの夢見てんの? いい加減にしなよ。もう大人なんだから、目をさましなよ」
張りつめていた妹の声が、急に涙声になった。
「うちに、帰って来てよ……」
それ以上耐えられなくて、私は受話器を置いた。お釣りがぶつかりあって落ちる音がしたけど、取り出す気力もなかった。
灯りに集まる蛾とは反対に、コンビニの光を避けるように、私はふらふらと夜の闇へ逃れた。抜け殻のように歩く。
妹の言っていることは正しかった。圧倒的に正しかった。
身体も、生活も、家族もすべて犠牲にして、私は何を追い求めているのか。相田莉子を殺してまで、得るべきものは本当にあるのか。たぶん、妹の言うとおりだった。私は夢を見過ぎている。今の私は少女のゾンビと化している。
でも、私にはそれしかなかった。ほかに選べなかった。どうしようもなく欲しかった。
この気持ちを、誰かに洗いざらい聞いてもらいたい。わかって欲しい。
真山さん。
真山さんならわかってくれるんじゃないか。いいや、それは都合のいい幻想だ。私は彼の連絡先すら知らない。私と真山さんは被写体とカメラマンの関係でしかない。
そもそも相田莉子と水原ことりが同一人物なんて、理解されるわけがない。そんなこと誰も信じない。気でも狂ったと思われるだろう。
それとも、もうずっと前から狂っていたのだろうか。
立ち止まって天を仰いだ。星のない空を見る。
まばたきすると、睫毛と睫毛が触れ合って、小さな音がした。奥二重だった相田莉子とは似ても似つかぬ大きな目。水原ことりの目。
そう、相田莉子はもういないのだ。
アイドルに感傷はいらない。そんな暇があったら、歌とダンスの練習をしたほうがいい。どちらにしろ終焉は近づいている。
私は再び歩き始める。
私は水原ことり。17歳のプロのアイドル。
プロのアイドルに甘えはゆるされない。