第二話
「おはようございます!」
翌朝8時、私は軽井沢にいた。澄んだ朝の空気が気持ちいい。今日はレトロな洋館を借り切ってのグラビア撮影が行われる。来月発売の有名女性誌の、表紙と巻頭を飾るのだ。
「水原ことりさん、入られました~!」
入口で待っていた編集者が声をあげた。メイクルームへと誘導されながら、集められたスタッフに挨拶する。
「ことりちゃん、おひさしぶり」
「谷丸先生、おはようございます。今日はご一緒できてうれしいです」
「何言ってんの、天下のスーパーアイドルが。君ならスタッフも選びたい放題じゃない」
「編集者さんが選んでくださった方々に、身を委ねるのが楽しいんですよ」
「ハハ、相変わらず隙のない受け答えだねえ」
カメラマンの谷丸先生、スタイリストの宇賀さん、ヘアメイクの中野さん……皆、業界ではトップクラスの人ばかり。アイドルなら、誰でも彼らと仕事したいと思うはずだ。水原ことりとしてデビューして2年。自分がここまで来られた歓びを、私は静かに噛みしめる。
ふと、部屋の端でカメラを回している人に気づいた。マネージャーが私を手招きする。
「ことり、紹介するわ。彼が『情熱ランナー』の」
その人がカメラを肩からおろす。現れた顔を見て、私は立ちつくした。
「どうも、今日からお世話になります。ディレクター兼カメラマンの」
真山、だ。
私は知っている。この人の名前は真山。
「真山といいます。そちらの仕事には差し支えないようにしますんで。来月の武道館公演まで、ちょこちょこ密着させてもらいます」
そう言って彼は軽く会釈した。Tシャツにデニム、不精髭という姿は、いかにもテレビマンらしくラフだった。年齢は確か、相田莉子と同じ31歳。最後に見たときからだいぶ逞しくなっていたけど、紛れもなく私の知っている真山という男だった。
「ことり?」
言葉を発しない私を、マネージャーが不審そうに見る。
「は、はじめまして。水原ことりです。よろしくお願いします」
「へー、『情熱ランナー』に出るんだ。ことりちゃん、すごいじゃん」
カメラマンの谷丸先生が話に入ってくる。
「真山さんだっけ? 水原ことりに密着なんて、ファンから刺されそうだねえ」
「それがね谷丸先生、真山さんって数年間アメリカにいたとかで、ことりのことを知らなかったらしいんですよ」
マネージャーがはしゃいだ声で話す。
「詳しくない人のほうが面白いだろうってことで、『情熱ランナー』の統括プロデューサーの松岡さんが、あえて真山さんを指名したとかで」
「松岡さん、そういう遊び好きだもんねえ。へえ君、アメリカにいたの」
谷丸先生が楽しそうに訊いた。
「はい、今年の頭まで。今はフリーで」
「こんな可愛い子、アメリカにもいなかったでしょ」
「あまり、芸能人には詳しくなくて」
真山さんはそう答えると、カメラを担ぎ直してレンズを覗いた。
「芸能人には詳しくない」という言葉に、私の心はさらにざわついた。だが、こちらからは彼の表情が見えないのに、私はレンズ越しに見られている。武器を取られて晒されているようで、落ちつかなくなる。
「というわけで、みなさんご協力よろしくお願いしますねー。『完璧美少女・水原ことりの知られざる素顔』っていう切り口で、武道館公演の翌週オンエア予定です。話題になりますよ!」
盛り上がっているマネージャーたちから離れて、ひとりメイクルームに入った。密着カメラは、とりあえずこの中には来ないらしい。椅子に座る。大きな鏡に、水原ことりが映る。いつも以上に真っ白な顔をしていた。
真山さんと最後に会ったのは、あいだりこ時代に秋葉原で行われた、イメージDVDの発売イベントだった。
相田莉子は、あまり物覚えがいい人間ではなかった。グルメ番組のちょっとしたレポートでも、途中で忘れて噛んでしまうことがあった。
それでも、彼のことは憶えている。デビュー曲のイベントから見に来てくれて何度かサインした熱心なファンを、忘れられるわけがない。最初の握手会で順番がきたとき、彼はうつむいたままぼそりと「同い年なんです」と言った。
「えぇ~、ほんとですかあ。りこりこ嬉しい!」
大袈裟に喜んで、名前を聞いてサインをした。それからも、必ずというほどではないけど、イベントにはたまに足を運んでくれた。アイドルファンの熱気のなかで、普通の大学生みたいな風貌の彼が、どこか居心地悪そうにしているのが印象的だった。
古参のファンがどんどん離れていくなか、彼の姿をみつけると安堵したものだ。しかし、彼もまたいなくなった。新しい若い女の子をみつけたのだと思っていた。そもそも、その頃はイベントに出る機会すら激減していたのだけど。
なのにまさか、こんな形で再会するなんて。
撮影のテーマは“白と黒の反響”。白い衣装と黒い衣装の2パターンで、前者は少女の無垢さを、後者は少女の魔性を表現したいのだ、と編集者は説明した。
「特に黒い衣装のほうは、水原ことりの新たな魅力を引き出したいんです」と彼は力説した。「衝撃グラビア」と銘打って、可愛らしいアイドルではない、目の肥えた女性読者にも受ける大人な水原ことりを出していきたいのだと。
先に白いワンピースでの撮影が始まる。窓辺にたたずみ、笑みを浮かべて、連続するシャッター音を受ける。
カシャッ カシャッ カシャッ
純粋さ、無垢さといったイメージは、水原ことりの得意技と言ってもいい。黒い衣装に比べると、心配する必要ない撮影のはずだった。
だが頭の片隅では、『情熱ランナー』のカメラを常に意識してしまう。真山さんにどう見られているかを気にしている。口の表情に、目の表情が一瞬遅れるのが、自分でもわかる。
谷丸先生の撮影時間が心なしかいつもより長い。私は焦り始めていた。よりにもよって、こんな大事な撮影の日に――。
「少し休憩しようか」
谷丸先生がカメラをおろした。
「だ、大丈夫です。続けられます」
「いや、いったん止めよう」
青ざめかけた私を、谷丸先生は笑顔で制した。
「私の気が変わったんだ。白い衣装のカットはいったん置いて、先に黒い衣装が撮りたくなってね。心配しないでいいよ」
谷丸先生が「あれ、持ってきてくれる?」と指示を出すと、スタイリストの宇賀さんが、ラックの中からハンガーにかかった衣装を取り出してきた。
「先生、ご所望のセットですよ」
「いや~、いいね! さすが宇賀くん」
宇賀さんが掲げてみせたのは、黒地に金の緻密な刺繍がなされた闘牛士風ジャケットと、ミニ丈の黒のビスチェドレス。
「ジャケットはヴィンテージです。男物だけど、あえて少し大きめのほうが、この撮影には合うんじゃないかと」
「女闘牛士のイメージってやってみたかったんだよねえ。メトロポリタン美術館でマネの絵を見たときは興奮したなー」
どう反応していいかわからず、私は控えめに尋ねた。
「挑発的な感じの写真にする、ということでしょうか」
「いや。むしろね、抑えている感情を撮りたいんだよね」
谷丸先生は楽しそうに言う。
「抑えている感情……?」
「一回着てみればわかるから。中野さん、メイクお願い~」
メイクルームに連れて行かれる。不安が先に立つ。そんな私を、真山さんのカメラは黙って映し続けている。
スモーキーなアイメイクを施され、髪の毛をゆるく巻いて流される。ビスチェドレスが心地よく身体を締め付けた。ジャケットを肩に羽織り、ルブタンのハイヒールに足を滑り込ませる。
鏡を見て、驚いた。
ビスチェドレスのセクシーさを、ジャケットがモードに昇華している。ヘアメイクは大人っぽいけど、決して不健康ではなく、品格と強さを備えていた。細い身体と衣装の絶妙なアンバランスさは、独特の危うい魅力を放っていた。我ながら、見たことのない水原ことりだった。
スタジオに現れた途端、スタッフが息を呑むのがわかる。谷丸先生が満足そうにうなずいた。
「予想以上。宇賀くんも中野さんも、いい仕事でありがたいね。ことりちゃん、さっき私が言った意味、ちょっと伝わったかな?」
引いた位置から、真山さんのカメラが私たちの様子を撮っている。
「黒=小悪魔、っていう単純な図式じゃなくてね。女の子が感情や情熱を、内面で御している姿がセクシーだなと思うわけ」
アンティークのシャンデリアの下に立つ。いつの間にか撮影が始まる。谷丸先生が、カメラを構えたまま言葉を投げかけてくる。
「水原ことりの心にも、赤い布があるだろう。頂点に立つ者なら当然に。それが見たいんだ」
さっきまでとは違って、身体が勝手に動く。顔と手足だけではなく、首も胴も腰も、身体全体が即座に反応する。もう恐れはなかった。シャッターのリズムに合わせて膝立ちになる。左手で頭を抱えるようにし、くしゃくしゃになった髪のあいだから、右目だけでカメラを見据える。
「そのポーズ、いいね!」
シャッターのスピードが加速していく。競り負けないように、私も呼応する。カメラを睨んだり、目をそらしたり、斜に構えたり、どんどん表現が沸いてくる。谷丸先生の言っていることが、心から理解できた。
もっと見られたい。もっといい仕事がしたい。もっと高みへ行きたい。もっと、もっと、もっと。
少女の皮を一枚剥げば、うごめく肉壁のあいだに、猛り狂う獣がいる。
予定を変更したにもかかわらず、撮影は巻きで終了した。
あれからはあっという間で、黒の衣装を2ポーズと、休憩して白の衣装を3ポーズ撮ったけど、集中力が途切れることはなかった。
後半の白の衣装でのポージングも変わった。純粋無垢は、ただのいい子という意味じゃない。サマーニットの編み目やシャツワンピースの袖口に白痴美の毒を染み込ませて、私は微笑んだ。
「すごくいい写真が撮れたよ。ありがとう」
すべてのカットを撮り切った谷丸先生に、右手を差し出されたときの達成感といったらなかった。スタッフから拍手が起こる。珍しく頬が高揚した。
真山さんはずっと、淡々とカメラを回し続けていた。私に直接話しかけてくることはなかったが、マネージャーやヘアメイクさんとは気軽に喋っていた。かつての印象よりも、今の彼はずっと明るく健康的なようだった。
動揺していた気持ちも、そのうち落ちついて、撮られている状態に慣れてきていた。大丈夫、いつもどおりにしていればいい。私は見られることに慣れているのだし。それに、まさかバレるわけがない。水原ことりと相田莉子が同一人物だなんて。
夕方に都内に戻ったあとは、テレビ局で歌番組の収録だった。歌うのはもちろん「恋するアンドロイド」だ。リハーサルの出来はばっちりだった。今日はかなり調子がいい。体調も安定している。
収録の待ち時間に休憩スペースへ飲み物を買いに行く。誰かが置き忘れていったスポーツ新聞があった。一面の見出しが飛び込んでくる。
「水原ことり『正体不明』のナゾ 年齢詐称&整形疑惑が噴出」
“大人気のアイドル、水原ことり(17)。ソロアイドル氷河期時代に風穴をあけ、歌にCMに写真集にと大活躍中の彼女だが、年齢詐称と整形手術の噂がささやかれている。というのも、プライベートの情報が徹底して伏せられているのだ。デビュー前の情報を隠す芸能人は多いとはいえ、このご時世ではインターネットなどから漏れてくるものだが、彼女の場合は出身校なども一切不明。事務所内部ですら、水原ことりの素性を知るのはごく一部だという。”
思わず記事を目で追っていると、「ご自分のそういう記事、読むんですか」と話しかけられた。振り返ると、カメラを担いだ真山さんだった。周りには誰もいない。
私は笑顔を浮かべる。
「はい、目に入れば」
「読んで、腹は立ちませんか?」
「むしろ、笑っちゃいました。面白いですよね」
真山さんは次々とラフに質問を投げかけてくる。私はあくまで、なんてことのないふうに回答した。
「自分のことが書きたてられるのは、どういう気持ちですか」
「書いていただけるうちが華だと思っています」
それは本心だった。書かれなくなることは、芸能人にとっては死に等しい。自分のことが書かれた古い記事の切れ端を握ったまま、時代に埋もれていくことになるのだ。
「でも、なかにはいわれのない中傷もありますよね。反論したいと思いますか?」
「いいえ。それはアイドルのすべきことじゃないから」
私は即答した。真山さんの表情に、少し驚いた色が浮かんだ。今の言い方は、ちょっと年相応じゃなさすぎただろうか。慌てて、笑っておどけたふうに付け加える。
「もしかして、私、そんなに老けて見えます?」
私は小首をかしげ、スカートの裾を片手で持って、膝を折り曲げたポーズを作った。唇で自然なアヒル口を作る。カメラが私の全身を辿るように見る。
映してみなさいよ、と私は思う。『情熱ランナー』のカメラに対してというより、私以外の世界すべてに対してそう思った。映してみればいい。私が全身全霊で手に入れてきた美少女の姿を、否定できるならしてみればいい。
ややあって、真山さんがつぶやいた。
「いや……。どう見ても、17歳っすね」
いつのまにかカメラは外され、彼は放心したように私を見ていた。
「あの?」
「あ、すみません。ぼうっとしました」
声をかけると、真山さんはあたふたと姿勢を正した。今のはおそらく、私に見とれていたのだ。自分で言うのはおこがましいけど、事実だった。ドキュメンタリーのディレクターではなく、素の真山さんが垣間見えた気がして、私は嬉しくなった。そして、ちょっぴり強気になった。
「真山さんはおいくつですか」
知っているくせに私は尋ねた。逆質問されたことを意外そうにしながら、彼は「31です」と答えた。
「でも、僕が17~18のときは、水原さんよりずっとガキでしたよ」
私は微笑んだ。確かにそうだった。私は当時のあなたのことを知っている。そう、私はあなたのことを知っているの。
収録の迎えがきて、会話はそこで終わった。せわしなく移動しながら、ちらりと振り返ると、カメラを構えた真山さんの姿が目の端に映る。口許がほんの少しだけゆるんだ。もっと真山さんと話がしたい。そう思っていた。