第一話
劇場の照明が落ちる。
真っ暗な舞台が現れる。
暗闇のファスナーを開くように、イントロのメロディが奏でられる。溢れ出す光とともに、歓声が沸き起こる。
「ことりさん、出番です!」
呼ぶ声を聞くが早いか、私の身体は走り出す。
ステージに躍り出る。スカートが翻る。爆発する歓声。
最高の笑顔をつくる直前の、ほんの一瞬だけ、私はいつも泣きそうになる。
たぶん今、私は天国にもっとも近い場所にいる。
「みなさん。今日は水原ことり『パステルファンタジーツアー』東京公演に来てくれて、本当にありがとうございました。次が最後の曲になります」
客席に向かってお辞儀をすると、ええー!という悲鳴に近い歓声が津波のように押し寄せた。私は何度も手を振り、お辞儀をして応える。そのたびに汗の雫が飛び跳ねる。5回の衣装チェンジを含む2時間の公演を終える頃には、全身がびしょ濡れになっているが、ステージにいるあいだは不思議と身体の重みを感じない。
「来月には武道館公演があります。いつも応援してくれる皆さんのおかげです。本当にありがとう! 武道館で会えるのを楽しみにしています。では聴いてください、再来週発売の新曲『恋するアンドロイド』」
間髪いれず、ピコピコとした電子音が響き渡る。赤や黄色や緑のカラフルなライトが、入れ替わりでステージを照らす。全身が照らされる。見えないお盆を持つように右手を曲げて、左手は腰にあてる。瞼を閉じて、宇宙服みたいなデザインの衣装を着たダンサーたちが位置につくのを待つ。始まる。
つま先で床を蹴る。ステップ、ステップ、ステップ、ターン。ポニーテールが揺れ、スパンコールが縫い付けられた白いチュチュドレスの裾がひるがえった。ロボットを意識してカクカクした動きを保ちつつ、足さばきは止めない。楽曲の制作が遅れたせいで、振り付けはわずか3日前に決まったばかりだった。
♪アンドロイド なのに恋してるの
♪アンドロイド だけど夢見てるの
♪この気持ちどうすればいい?
♪スイッチはまだ切らないでね
ポップなサウンドに乗せて、機械の女の子のキュートな恋心を歌う。有名ミュージシャンから提供され、スマートフォンのCMタイアップが決まっているこの曲は、予約数だけでもオリコンチャート初登場1位は確実とのことだった。これで、4曲連続の首位獲得になる見込みだ。
最後に紙吹雪が舞って、色テープが飛び出す。お客さんの笑顔が溢れて、心から安心する。私はできる限り客席に手を振った。だが余韻に浸る間もなく、走って下手へとはける。
ろくに休憩も取らないまま着替えと化粧直しだけ済ますと、控室で関係者への挨拶が始まった。お世話になっているテレビ局や編集部の人たちが集まっている。私はひとりひとりの手を握りながら、わざわざ来てくれたことへの謝辞を述べる。
「今日はコンサートにお越しくださって、ありがとうございました。『Bee』編集部の川上さんですよね。先日の撮影、楽しかったです」
「えっ、憶えててくれたんですか」
驚いた相手に、私はにっこりと微笑む。次は黒いパンツスーツの女性。脳内で名前と顔を一致させて、口を開く。
「山田さん、お久しぶりです。今日はありがとうございます」
「こちらこそお招きいただきありがとう。新曲すっごく良かった! これ、差し入れでーす」
「わぁ、うれしい。ありがとうございます! 新曲、番組で歌わせていただくのが楽しみです。今日は後藤さんは一緒じゃないんですか?」
「そうなの、後藤は出張中でね。ことりちゃんに会いたい会いたいってうるさかったわよ」
「えー」と、口に手をあてて照れ笑いを浮かべる。目の端で、ほころぶ相手の口元を捉える。何と言ってどんな態度を取れば相手が喜ぶのかを、私はこの数年でずっと学んできた。
挨拶の列は続いていたが、マネージャーが割り込んで声を張る。
「皆さま、大変申し訳ありません。ことりは次の仕事がありますので、これにて失礼させていただきます。本日は誠にありがとうございました」
ドアを出る最後の瞬間まで、私はお辞儀を繰り返す。みんなが私を夢みるような瞳でみつめている。綺麗な人なんて見慣れているマスコミ関係者でさえ。
「たった一回、それも20分の取材でしか会ってないのに、ことりちゃんは俺の名前を憶えてたよ」
「コンサート後にまだ仕事するなんて、どんだけ働き者なんだよ~」
誰かの言葉を聞きながら、急いで部屋を後にする。裏手に準備してある車に乗り込んだ。外には出待ちのファンが大勢並んでいる。歓声が車を追いかける。私は振り返って窓越しに手を振る。
次は、閉店後のレコードショップでの広告撮影だった。黒シャツに黄色いエプロンという店員スタイルに着替えると、「似合う~!」とスタッフから声が上がった。
NO MUSIC,NO LIFEと描かれたボードの前でポーズを決める。シャッターが次々と切られるのに合わせて、首の角度や指先の形を変えていく。肩下の長さの黒髪が、さらりと揺れる。ストロボの強い光に負けないようにしつつ、でも自然な表情に見えるように、瞳に入れる力を調整する。
「メイク直し入りまーす!」
目を閉じて、メイクさんの筆が頬に粉をはたくのを待つ。
「ことりちゃんってば、肌が綺麗で助かる~。ベビーパウダーで充分なんだもん。睫毛も自然でこんなに長いなんて」
「ほんと、お人形みたい。あたしたちの仕事なくなっちゃいますよね」
メイクさんとアシスタントのやりとりを、目を閉じたまま聞いていた。余計なことを言わないように、口角をあげる。
ポスター撮影が終わると、流れ作業でコメント撮りに移る。
「こんにちは、水原ことりです! キャンペーンに起用していただいて、ほんっとうに嬉しいです。小さい頃からアイドル好きだった私にとって、CDショップは天国みたいな場所です。今回、特別店長として、ことりセレクトのコーナーを作らせていただきました。オススメのアイドルソングがたーっぷり揃っているので、皆さんぜひ聴いてみてくださいね。私の新曲『恋するアンドロイド』もよろしくお願いします。それでは、これからもますますがんばります! 水原ことりでした」
ビデオカメラに向かって手を振る。
「いや~ばっちり。OKです!」
「お疲れさまです」
花束を渡され、拍手が起きる。最後にショップのブログ用にと、特設コーナーの前で店員さんたちと記念撮影をする。メガネの店員が興奮気味に話しかけてくる。
「自分、普段J‐POP担当で、アイドルソングのコーナーとかも作ってるんですけど、ことりさんのセレクトに感動しました」
「本当ですか? プロの人にそう言っていただけると安心します」
「マジですごいっすよ。ハロプロとかの王道の曲だけじゃなくて、知られざる名曲を押さえてますよね。知念里奈の『BREATH』はマジで名盤じゃないですか。リア・ディゾンもイロモノ扱いされがちですけど、アイドルファンからは結構評価が高くて。「Everything Anything」なんて超可愛い。あと、ともさかりえにキタキマユ。最高!」
「どうも、ありがとうございます」
「ことりさんのアイドル好きは筋金入りですね。ってか、普通17歳でこんなセレクトできないですよ。詳しすぎますよ! 自分アラサーなんですけど、同い年かと思いましたよ」
私は静かに微笑する。
マネージャーに自宅マンションまで送り届けられた頃には、すでに0時を回っていた。
「今日はお疲れさま。明日は朝からグラビア撮影で軽井沢ロケです。夕方には都内に戻って、歌番組の収録。合間に有料サイト用のメッセージ動画の撮影ね。迎えは6時に来るから」
「はい、わかりました」
「あ、そうそう。例の『情熱ランナー』のカメラ、明日から密着だから。よろしくね」
毎回ひとりの人に密着して、感動的なドキュメンタリーに仕上げる日曜23時の番組は、芸能人にとって「もっとも出演したい番組」のひとつだった。出演者選びに強いこだわりがあることでも知られており、17歳のアイドルが抜擢されたことは、異例の快挙といってもよかった。
「緊張しなくていいからね。いつもどおりの水原ことりで大丈夫よ。……って、あなたはいつもが完璧なんだから、特にアドバイスする必要もないわね」
そう言ってマネージャーは車のエンジンをかけた。
エレベーターで高層階へ引っ張られる。鍵を開けて部屋に入る。ドアが閉まった途端に、玄関横のサイドボードに置かれた小箱を奪うように開いた。なかには数種類の薬が入っている。バッグからペットボトルの水を取り出して、一気に飲み込んだ。ごくり、と固形物が喉の奥を流れ落ちていった。唇の端の水滴を拭う。
電気もつけずにリビングの中央に向かって、着ているものを次々と脱いだ。
下着姿で仰向けに横たわる。黒髪が放射線状に広がる。冷たいフローリングが気持ちいい。思わず溜息が洩れた。
顔や指先は冷えているのに、身体の中央――内臓部分が、おそろしく熱を発していた。
オーバーヒートの間隔が短くなっているのだ。
今飲んだ薬が効いて体温が下がるまで、30分はかかるだろう。それまで、もうとても動ける気がしなかった。
しんとした空気が満ちていた。玄関の電球と、家電のデジタル表示だけが、生気のない部屋に薄明りを与えていた。家具らしい家具も、インテリアらしいインテリアもほとんどない、「我が家」と呼ぶにはよそよそしすぎるがらんどうの部屋。私はじっと身体を横たえたまま、天井を見つめた。
こうして天井を見ていると、手術の記憶がよみがえってくる。
「水原ことり」になった日のことを思い出す。
本来の私は17歳ではない。美少女アイドル水原ことりという人間は、戸籍上は存在しない。水原ことりになる前の私は、本当ならば31歳で、名前を相田莉子という。
相田莉子は、水原ことりと何もかも違う。奥二重で、少しぽっちゃりしていて、アニメ声だった。唯一の共通点は、アイドルであることだけ。正確に言えば、アイドルだった。相田莉子は売れないアイドルだった。
中規模の事務所のオーディションに合格して、千葉の片隅から上京した。名前にひっかけて「愛してダーリン」というキャッチコピーと、「りこりこ」という愛称が考えられ、両手で右胸の上にハートマークを作るポーズが持ちネタとなった。デビュー曲のタイトルもそのまま「愛してダーリン」。萌え系アイドルが流行り始めていた時期で、時流に乗ってオリコン初登場54位を記録した。だが、それがそのままキャリアの最高値となった。
CDや写真集を定期的に出せていたのは3年目まで。以降はVシネマの出演や、地方営業といった仕事にシフトしていった。デビュー5年目で事務所を移って、「あいだりこ」と表記を変えた。心機一転のつもりだったけど、世間的にはそんな改名に何のニュースバリューもなかった。大した活動もできないまま、ずるずると年齢だけを重ねた。そうして再び契約が打ち切られたとき、私は20代も終盤に差し掛かっていた。
放り出された私は、派遣業者に登録し、スーパーやショッピングセンターの試食係のバイトを始めることになった。せめて人前に立つ仕事を選んだのは、表に出る感覚を忘れたくなかったからだ。夜や週末には、伝手を辿り、秋葉原や中野のコアなイベントや店に出演させてもらった。
脱がないか、という誘いはあった。だがそれだけは嫌だった。どれだけ高い金額を積まれても、甘い言葉でささやかれても、首を横に振った。アイドルがそんなことをしてはいけない。私はアイドルにこだわりたかった。
“噂”を耳にしたのは、そんな頃だった。
――最先端の美容整形技術を研究する団体が、被験者を募集しているらしい。
教えてくれた人は半笑いだったけど、聞いた瞬間、私にはこれしかないと思った。何をどうやったのか、幽霊みたいな噂をほとんど執念で辿って、ついに“団体”と接触することに成功した。
彼らの説明はこうだった。
その団体では、皮膚の上部にメスを入れるだけでなく、骨格から内臓からまるきり手術し、体内に機械や器具を埋め込む新しい人体整形の研究をしていること。そのために被験者を探していること。手術によって、外見だけでなく、声も望み通りに変えることもできること。別人として生きるための手配は団体が行ってくれること。ただし現在の技術では、もって数年の可能性が高いこと。
「手術後は定期的な検査とケアを行いますが、それでも崩壊は免れないでしょう」
医者は私の身体の調査レポートをめくりながら言った。
「皮膚、骨格、内臓のバランスが崩れ始めると、異常な発汗、発熱などが起こります。さらには細胞、ホルモンに異常をきたします。この頃にはもう、痛みで動けなくなるはずです。精神にも影響が出るかもしれません。最終的には、呼吸するだけの屍のような状態になります」
「でも、好きな外見と声になることができるんですよね。お人形みたいな容姿に、小鳥がさえずるような歌声の女の子に生まれ変わることが」
「できますね。あなたの望むとおりに」
私は契約書にサインをした。手術は成功して、この世界から相田莉子はいなくなった。かわりに水原ことりが出現した。
はじめて鏡に映った新しい自分を見たときの感覚を、誰かにわかってもらえるだろうか。真珠のように白く輝く肌。潤んだ大きな瞳。長い睫毛。すっきりとした鼻。桜色のくちびる。小枝のような手足。
そこにいたのは、実年齢よりずっと年下の見知らぬ美少女だった。森から迷い出てきた小鹿のように、不安そうに鏡をみつめていた。でも同時に、とても理解できた。
ああ、私は、ずっとこの私を待っていたのだと。
そして誓った。次は、絶対に失敗しない。
身体の火照りがようやく収まってきた。
床を這って、投げ出されたバッグに手を伸ばす。ペンと手帳を掴むと、床に直置きしている電気スタンドのスイッチを入れた。暗い部屋と蛍光灯のコントラストに目を細める。私は億劫に手帳を開くと、今日会った人たちの名前と特徴を書き始める。その日のうちに書いて憶えないと、忘れてしまう。頭の中で姿を思い浮かべ、書き、口に出す。
しばらく繰り返していると、急に空腹を感じる。そういえば今日は夕食を食べ損ねていた。それどころか昼も、移動中におにぎりを食べただけだった。
だが、手帳に集中することで、空腹を紛らわせることにする。遅い時間に食べたからといって、太ることはない。そういうふうに手術をしたからだ。だけど私は、17歳のアイドルとして行動することを自分に課していた。17歳のアイドルならば、太ることを恐れて夜食など食べない。17歳のアイドルとして、完璧なプロでいなければならない。
暗い部屋のなか、冷蔵庫のモーター音と私の息だけが聞こえていた。蛍光灯に照らされた白い身体は、深い水槽の底に這いつくばっている奇妙な生き物のようだった。