ChapitreⅢ-A:第一歩
結局この世で最も大切なことは、一身の安全を計ることに在るのか?
中島敦『弟子』
いつか見た景色、目の前には黒い海、背後には黒い森、紫めいた黒の空には星が輝き、足元は崖――彼はそこに立っていた。空から声が響く。
「どう? この世界、やって行けそうかしら?」
彼は溜め息混じりに返答する。
「村長の息子の身代わりにされたから、まず死ぬことはないのは確実に安心だな」
「それは良かったわね」
「もしかして、俺を連れてきたのはリゲルにそっくりだったからなのか?」
「さあねえ? 私は亜人の種族と集落を選んで送り込んだだけよ」
「なあ、その『亜人』って一体何なんだよ」
一拍の、不自然な空白。
「言ってなかったかしら? この世界に住む人々の総称、あなたの世界で言う『人間』みたいなものよ。一番違うのは、それぞれが特殊な能力を、自然の力を体に宿していること。あなたが迷い込んだのは鳥の集落だから、彼らは飛ばないだけでみんな飛べるのよ。あなただって飛ぼうとすれば飛べる……出来るかどうかは別問題だけどね」
翌朝、日が昇ってすぐの頃、リゲルの部屋を訪れる者があった。まず三回ノックをして、準備は出来ましたか、と扉越しに尋ねてきた。
「その声シリウスだろ? まあとにかく入ってくれよ、どうしたものか困ってさ」
失礼します、と言ってシリウスは部屋に入る。まず目についたのはリゲルだが、彼女は部屋の光景を見渡して唖然となった。
「どうしてシオンがそこで寝ているのです?」
リゲルが事情をかくかくしかじかと説明すると、シリウスは溜め息を吐いた。
「お心遣いは嬉しいのですが、我々はあなたにお仕えする者。決して友人やその類のようにはお思いにならないで下さい。本来ならこの時間、シオンがリゲル様を起こしてお身繕いを手伝い、朝のご挨拶に出る準備を済ませていなければならないのです。色々事情もありますので今日は私が呼びに参る役目を買いましたからいいものの、今後はこのようなことはなさらないで下さいね」
最後に腰に手を当てて分かりましたね、と付け加えた。まるで姉が弟に諭すような顔だった。
「ああ、分かったよ……怒ってないのか?」
「ここに来たばかりのリゲル様ですから、こういう事は起こって当然です。いきなり我々の慣習を押しつけているのですからね。それに……シオンを温かいベッドの上で寝かせてあげたいとお思いになったのでしょう? 妹を気遣ってくれたのに、どうして怒ることが出来ましょうか?」
彼女はぐっすりと眠っているシオンを起こす。それから寝ぼけ眼の女中と二人がかりで身繕いを済ませると、部屋を後にした。
「で、俺はこれから何をすれば良いんだ?」
「これから広間でラザル様のお言葉を聞くだけですので、そう身構える必要はありません」と寝坊した女中が答えた。
程なく広間に到着した。そこではざっと見ても百人ばかりの人々が八列に並んで立っていた。それでもかなりの余裕があるのだからその大きさが思い知れ、平らな天井との間にはいくつも円柱が立ち並んでいる。壁や梁は木がむき出しで、装飾はない簡素な作りだった。
シリウスは人々の列の後方に向かい、リゲルはシオンに引っ張られ最前列の中央へ。言葉を発することがはばかられる厳かな雰囲気の中、彼女は目で『そこがあなたの場所ですよ』と語っていた。リゲルの左隣に彼女は並び、一方右隣にはテルがいた。互いに無言の牽制をし合っているようで、二人とも落ち着かない。
そうこうしていると、彼らの面前、数段床が高くなっているところの奥から黒い影が姿を現した。この村の長、ラザルその人である。途端、部屋の空気がより一層緊張感を増す。
「諸君、おはよう」
皆が一斉に挨拶を返す。
「シオンの予報によれば、あと五日で雪が降り始める。銘々、冬支度を急ぎ、来る霊鳥祭に備えるように。ただ、祭の準備で油断している隙を龍どもに狙われる可能性を忘れてはならん。十分警戒して欲しい。それと――」
村長は一拍置いてリゲルを見、
「――リゲルがこの朝礼に参加できるまでに回復した。実に喜ばしい、例年通り祭が出来そうだ。しかし、まだ病み上がりの身ゆえ、無理はさせぬように。挨拶は以上だ。各自、仕事にとりかかってくれ給え」
ラザルを除いた全員がその場で一礼する。村長が踵を返すと、それが合図であったかのようにそれぞれが散っていく。最後には、リゲルとシオンだけが残された。
*
「霊鳥様というのは私達の守り神であり、霊鳥祭はそれを称えるお祭りですね。神聖なる炎を操る霊鳥様のお力を借りて、冬を無事に越せるように願う儀式なのです」
リゲルは部屋に戻って、シオンから今後行われる行事について講釈を受けていた。
「ああ、昨日塔の上から見たけどすごい高さにあるもんな。やっぱり雪すごいのか?」
「はい。雪かきしないと道が埋もれてしまいますし、それまでに多くの燃料と食料をかき集めねばなりません。それでこの時期は誰もが一番働くんですよ。我々が炎を操れたなら話は別だったんでしょうけど、炎を使える鳥は神様ばかりですからね。薪に頼るしかないんです」
「炎を操るって何のことだ? 見た限りでは普通に火を使ってるようだけど」
「火起こしの技術を使わなくても自身の体から炎を生み出すことが出来る種族の事です。しかし、そういう人々にとってもこの土地は住みにくいですから」
リゲルはその言葉に驚愕した。この世界にはどうやらそんな魔法のような力を使える存在がいるらしい。
その時不意に今朝の夢の言葉がよぎった。『この世界の人々は自然の力を体に宿している』と。風を利用して空を飛ぶのも、炎を操るのも、自然の力を駆使するという点では同じだ。だからリゲルは、この目の前にいる少女シオンが何かの能力を持っているのかと疑りたくなった。
「そうか……火は使えなくても他の能力で何とか出来ないか?」
「私に出来るのは、夢で未来を予知することだけです。ただ、これは意図的に使うことの出来ない厄介な代物でして。しかも十数日先の天気だとか次に生まれてくる子が男か女かとか、そんな些細な事しか分からないんですけどね」
「それだけでも大したもんだよ」
「恐縮です。さてリゲル様。テルさんが提示した期限まであと五日です。それまでに、影武者としてばれないようにするために色々としなければなりませんので、お付き合い下さい」
シオンはそう言うと退室し、しばらくしてから多くの本を持ち込んで再び現れた。
「これは?」
「この村『ゾディアーク』の歴史と法律、祭祀資料です。まずはこれを覚えよ、とのことでした」
「これが次期村長になるために必要なのか?」
「村長は村で起こるもめ事に裁きを下す役目を持っており、前例と規律をもって法とするのでこれらが欠かせません。それから年に二回ある祭りの行司でもありますから、そのお役目をきちんと果たすためにも必要でして……」
リゲルは逃げ出したくなった。そのまま元の世界に逃げ帰ることが出来ればどんなに良いか――と、幸助は改めてこの世界で生きていくことの難しさを感じ始めていた。
*
途中に何度も休憩を挟みつつ、リゲルの教育は空が赤みを帯びる頃に終わった。今日彼が学んだのは歴史や法律ではなく、住人の精神を根本から形作る寓話、霊鳥の神話であった。空を支配するに至る過程――その中には龍と戦った記録もある――が高らかに語られ、鳥の王となり、空に近い地上にその楽園を築いた、という話が格調高くつづられている。霊鳥の楽園はこの集落であり、村長家は神の血を継ぐ家系なのだという。現在鳥の王は空の統治のため不在だと書かれている。
「私たちは、物心ついた時からこのお話を聞かされて育ってきました。これを知らないことには我々のことも理解しては貰えないでしょうと思い、まずここから始めさせて頂きました」
シオンはそう説明した。この神話は彼女にとってなじみ深いものであったはずだが、今改めてリゲルのために読んでみて、彼女でさえ新しい発見があったと語った。
その時誰かが扉を叩いた。どうぞとシオンが答えると、シリウスが入って来た。
「リゲル様、これから大事なお仕事がありますので、応接間までおいで下さい」
「ちょうど良いですね、こちらもたった今終わったところです。それではリゲル様、参りましょう」
仕事についてリゲルがシリウスに尋ねると、
「以前お話したと思いますが、正妻を選んで頂くのですよ。すでに候補はこちらに到着していますので、彼女らと会食して頂きます」
それに異を唱えたのはシオンだった。
「早くはありませんか? まだ二日しか経っていないのに?」
火急の事態である理由も、シリウスが説明した。村長の息子は十五歳を迎えた年の霊鳥祭の夜に、村民の前で正妻との結婚を宣言するしきたりになっているという。しかし祭が近づいても本物のリゲルは乗り気でなかった上、病気に罹った(そして亡くなった)ためにここまで延びてしまったのだ。
「つまり、選ぶ時間は殆どないと」
これはあまりにも予想外だった。生き延びるために周りの状況に迎合した幸助ではあったが、結婚相手をそんな急に選ぶとなれば悩んでいる暇もない。そもそも彼には最初から結婚する気などない。結婚という契約は、彼をこの地に縫い止めてしまうほどに大きなものなのである。
いつかはここを去らなければならない以上、その話はうやむやにしてごまかすつもりだった。しかしそれを今すぐに決めなければならないとなれば話は別だ。強引に無視することも不可能ではないが、それは恐らく得策ではない。
「はい、もっと早く言っておけばよろしかったのですが」とシオンが申し訳なさそうに言う。
「いいよ。それよりも、見合いの相手っていうのはもしかして腹違いの姉妹だったり?」
「いえ、そこには厳しい戒律がありまして、共通の親を持っている者同士での結婚は認められないのです。しかし、村長の家系の血を少しでも濃く残すため、ラザル様の姉君や妹君の娘をお連れしています。つまり従姉妹ですね」
従姉妹と結婚できるという事実に、若干現実に引き戻されたような心地がした。しかし、一つ気がかりがある。
「共通の親から生まれた子がダメなら、村長の腹違いの姉妹と結婚するのは……」
「可能です。ただ、多くの場合年齢的によろしくないのでは……と」
「それもそうだ。それに大体既婚者だろうしな」
「リゲル様の故郷では結婚は一人一回という掟があったのですか?」
*
応接間と言って連れてこられたのは、屋敷の西庭にあるこぢんまりした離れだった。シオンがそこの戸を開け「お連れしました」と言った。
「うむ、ご苦労」
と中にいたラザルが答えた。
そこは思ったよりも狭い小部屋だった。真ん中に長方形のテーブルが置かれ、長い一辺に四人の娘が並んで座っていた。この部屋には、人がようやく通れるだけの余裕しかない。
村長はリゲルと入れ替わりで部屋を後にする。その時彼は偽の息子に何か言葉をかけたが、言われた本人はその言葉を聞き取れなかった。
「シオン」
「何でしょうか」
「候補って言うからてっきり一人ずつかと思ってたけど……四人一度に?」
「その方が効率的でしょう?」
考え方の違いを感じた瞬間だった。
「効率的って……」
しかし、一対一で話し合うよりは様々な点で有利に働くだろう――彼はそう結論づけた。
「それでは、我々はしばらく近づきませんので、ごゆっくりとお過ごし下さい」
「なんだ、監視はないのか」
「若い男と女の逢瀬ですもの、邪魔をしては野暮でしょう。私がいないと不安ですか?」
彼女にその気はないのだが、その言葉はリゲルにバカにされたような感情を起こさせた。
「いなくていい」
「では私はこれで失礼します。何かありましたらお呼び立て下さい」
それからシオンはゆっくりと退室した。
リゲルは改めて部屋を見る。狭い上に、明かりが足りず薄暗い。テーブルの上には、五人分の食事があった。自分のであろう一つの前に彼は座る。
呼び出された四人の娘は暗さの為に顔も服装もはっきりと見えなかった。彼女らは名乗りこそしたが、幸助にとっては彼女らの名前は耳に慣れず、とても覚えられない。どちらにせよ彼女らを追い返すつもりなのでまともに聞いてはいなかった。それからリゲルが名乗ると、娘の一人が驚いた様子を見せた。
「リゲル様、ご回復されたようで何よりです。何か雰囲気が変わったようにお見受けしますが、ご病気のせいでしょうか?」
『あら、妙なこともあるものね』明らかに目の前の四人ではない誰かの声が、リゲルの頭に響いた。すでに何度か耳にした黒服の女の声だ。『実の親でさえ認めたのに、何も知らない市民が違和感に気付くなんてね。ほら、病み上がりなんだから咳の一つや二つして見せなさいよ』
「……ふざけてるのか?」
「リゲル様、どうかされたのですか?」
「病み上がりでご気分が優れないのでは?」
「いや、何でもないよ。それより訊きたいことがあるんだ」
「はい、何でもどうぞ」
「君達は、親父の……村長の姪なんだよな?」
「はい、そうです」
「でもこの屋敷で暮らしてる訳じゃない、と」
「はい、ここに住めるのは村長の奥方とご息女、それにご子息だけ。そういう決まりですから」
つまり、村長が代替わりすればこの屋敷オフィユカスに住む人々が入れ替わる。厳密には妾とその娘らが追い出される構図だ。屋敷を出た彼女らの行く末は場合場合で異なるが、ほとんどは実家に帰るらしい。
「じゃあ、君達はここの外から来たんだね?」
「はい、ですが……リゲル様、どうしてそんなことをお尋ねになるのです?」
四人が一斉にリゲルを見た。誰もがそんな違和感を抱いていたからだろう。彼はむしろ、これはチャンスかも知れないと考えた。
「その前にちょっと質問させて欲しい。最近まで村長の息子はどうなってるって伝わってた?」
「病にかかって倒れられたと」
「回復したって話は?」
「つい今朝、兵士がうちにやってきた時に初めて知らされました」
「そうか……死んだことは誰も知らないのか」
「リゲル様、何をおっしゃっているのです? 今私達の目の前におられるのが――」
「変だと思わなかったかってことだよ」
娘達は互いを見合った。言葉の意味をかみしめようとしている様子が、リゲルには見て取れた。
「確かに妙だとは思いました。しばらく容態を告げられることもなくなり、どうされたのかと思っていたところ、突然今朝の知らせですからね。いつの間に回復されたのかと……」
今しかない、そう思った。
「実は、本当のリゲルは既に他界しているんだ」
「では、あなたは?」
「偽者だよ。迷って近くを歩いてたら無理矢理に連れてこられて、代わりをしろって。それがつい昨日の事だよ。逃げたらどうなるか分かったものじゃない」
「確かに、知らせがなかったのもそれである程度説明がつきますが……」
「ご冗談を……おっしゃっているようには見えませんね。その話は本当なのですか?」
問題はそこだ。本物の証明ならまだしも、偽者の証明は難しい。この村の常識を知らないというだけでは信用に値しない。本物の死体や関係者の証言があれば確実だが、事実を知る者はこれをひた隠しにしようとしているので助力を得ることは出来ない。
「本物に出来なくて偽者にだけ出来ること……いや、一つだけあるな。村長、名前なんだっけ?」
「ラザル=ハーゲン様です」
「そうそれ。そのラザルのジジイだけどさ、態度は傲慢だわ人前で帽子は脱がないわ失礼の極みじゃないか、アレ」
「リゲル様!」
「ラザル様をジジイやアレ呼ばわりだなんて!」
「ましてや侮辱なさるなんて!」
娘達はリゲルの言葉に激昂し、立ち上がって上から言葉を浴びせかける。しかしリゲルは落ち着き払ってこう答えた。
「いやあ大した忠誠心だ、感服するよ。でも考えてもみなよ、本物が村長をバカにするなんて絶対に出来ないはずだ。これで証明になったんじゃないか? 俺が、偽者だって」
これには納得せざるを得なかった。しんみりした妙な空気になったところ、リゲルが食事に手を付けることを促した。
目の前の男が偽者と分かるやいなや、娘達は態度を一変させた。敬う必要がないと分かったからというのもあるが、リゲルがそれを勧めたのも大きい。酒が回ったのか、果てには愚痴がこぼれるまでになった。
*
五人が離れから出て来た時、空はとっぷりと暗くなり、欠けた月が空にかかっていた。シオンはリゲルに駆け寄り、彼にマフラーを巻いた。懐で温めていたのか、巻いた直後から温かかった。
「お嬢様方も、母屋へどうぞ。すぐに迎えを差し向けますので」
リゲルは四人とは別の部屋に通された。シオンは熱いお茶を渡しながら尋ねる。
「だいぶご歓談されていたようですね。声がこちらまで聞こえてきましたよ。それで、どなたかお気に召したお方はいらっしゃいましたか?」
するとリゲルは俯きがちにみんな帰してくれと言った。シオンは反論もせず了承するとそのまま部屋を出て行った。彼女が戻ってくると二人でそのまま寝室に向かう。
「シオン、明日はお前以外、面会謝絶にしてくれないか。一人で考えたいことがあるんだ」
「はい、ではそのように」
やはり彼女は何も訊かなかった。
*
翌朝。いつもの朝礼の後、ラザルはシオンを呼びつけた。用件はもちろん参列しなかったリゲルについてである。シオンは素直に、昨晩彼から言われたことをそのまま告げた。
「一人で考え事? 一体何を考えることがあると言うのだ。昨晩娘を帰したことと何か関係があるのか……シオン、他に何か聞いておらんか」
「いいえ、私は何も。自分が突然置かれた環境に思い悩んでいるのではないでしょうか」
「ベテルギウス、お前はどう考える?」
「私も同意見です。娘達と何を話されたのかはともかく、次期村長という役職の責任の重さを感じ始めているのでは」
すると村長はふむ、と頷く。
「見知らぬ土地に来たゆえ、慣れぬ環境に戸惑いを感じているのだろう。慣れるまで好きにさせておこう。まずはそこからだ」
放置するというこの対応に、テルは多少の反感を抱いた。正体不明の来訪者を次期村長に仕立て上げるという方針にさえ異を唱えたい彼である、もっと注意すべき点があると考えているのだ。
例えば、自分では「それはともかく」と切り捨てた昨晩の離れでの会話だ。そこでもし、偽者であることがばれていたら? 協力して良からぬ事を企てているとしたら? そして今朝になっての一日面会謝絶。テルには、リゲルがこのまま大人しく従うようになるとは思えなかった。
話し声が村長に聞こえないくらい離れたところで、テルはシオンに切り出した。
「シオン、気を付けろ。あの偽者のリゲル、絶対何か企んでいる。昨日どんな話をしていたのか、何か聞いていないか。もしくは夢で見た事でも、何でも構わない」
「離れでの逢瀬は、決して覗いたり聞き耳を立てたりしてはいけない決まり。ですから私は何も。いえ、全くではなく、一回怒鳴り声が聞こえましたね」
「怒鳴り声? それは誰の声だった?」
「客人のでした。しかしそれっきりで、しばらくしたら笑い声が聞こえてきましたよ。リゲル様は相手方について特に何も仰らなかったので気に留めなかったのですが……何か問題でしょうか?」
「いいや、何でもない。それより予知夢の方はどうだ。ラザル様には申せない夢でも、俺に言えるって事ならあるだろう」
「……テルさん、あなたは誰の味方なのですか?」
「俺の立場は知っての通りだ。敵も味方も何も、そもそもこの屋敷にはラザル様の味方しかいないだろう。わざわざそんな風に訊くってことは、何か予知したんだな? 聞かせろ」
周りに人がいないのを良いことに、テルは曲がり角にシオンを追い詰めて腰の武器に手をかけていた。
「はっきりと見えた訳ではないのですが――」
*
「つまりあなたは、今は亡きリゲル様の代理としてここにいるわけなのですね?」
もうその場に、最大限の敬意を払うものはいなかった。
「厳密には違うけど大体そう」
「では村長を継ぐのですか?」
「まさか。出来ることなら断りたいよ。元いた場所に帰りたいからな」
「教えて下さい! あなたがかつて暮らしていた場所のこと」
幸助は「ああ、いいよ」と返答し、自分の過去のこと、友人のことなどを話して聞かせた。
「楽しそうな所ですね! あまり大声では言えませんが、ここで一生を終えるよりはそちらで過ごす方がよっぽど良いと思います」
「そりゃまたどうして?」
「この村は、父系の血を絶やさないことと、兵力を強くすることばかりを考えているからです」
「ここにいたくないなら逃げればいいじゃないか」
「たとえ逃げても生きていく術がありません。種族の血を重んじる排他的な世の中なので、村を出ても受け入れてくれる集落がありません。かといって誰もいない場所でひっそりと暮らすのは、盗賊や悪い行商人に襲われる危険があります」
「厳しい環境だな……で、他に不満は?」
「何もかもが村長優位で、収穫の半分近くが税に徴収されます。さらには徴兵、戦闘訓練が義務づけられているのです。もう戦いは必要ないはずなのに!」
「そういえば、私達がこうしてここにいるのも不満の種だわ。兵隊が私達を無理矢理連れて来て、妻や妾にするために審査するんだから」
「無理矢理?」リゲルが尋ねた。
「若い娘を見繕って、誰彼構わずね。一応村長の姪っ子ということになってはいるけれど、実際はそんなのお構いなし。それで選ばれたら村長が代替わりするまでは帰ってこないんだから、本当に困ったもんね。どうしてそこまで男にこだわるのかしら。ただでさえ男が生まれにくいっていうのに」
「男が生まれにくい?」
「あっ」
「こら」
「何か問題あるのか? 良いから話してくれよ」
「……これもあまり大きな声では言えないのですが、だいぶ昔から男が生まれる確率が低くなっているそうなのです。詳しくは知りませんが魔女の呪いと言われていて……魔女がどこで聞いているか分からないので、口に出してはいけないのです」
「……魔女、呪い……男が少ない……? あ、ごめん何でもない、ただの独り言だから」
「そうですか……で、それのせいで『娘狩り』が度々行われているのですよ」
「そんなに不満があるなら、村長を倒そうって勢力の一つや二つあるんじゃないのか?」
「ありますよ。水面下の活動しかしていませんけど、近々動き出すつもりだとかで……」