ChapitreⅡ-B:鳥なき里の蝙蝠
知識は能力となる時に尊い。
中野重治『愛しき者へ』
「で、一つ気になったんですが、どうしてあの門番の方は私をあんな目で見ていたんでしょうか?」
石畳の歩道をベガと並んで歩きながら、スピカはそんなことを言った。十分な広さのある道の両側には、殆ど隙間なく古めかしい住宅が並んでいる。
「よそ者が珍しいからでしょうねぇ。ただでさえこんな僻地にあって出入りの少ない村だもの、誰かがやってくるだけでそういう目で見られるものよ。私みたいに森に食料調達に行くのを除けば多くて年に三人、来ない年もあるわ。いずれも夏に、三日と経たずに出て行く商人さんだけねぇ」
スピカはへぇと声を漏らした。
「……って、そうか、ほとんど籠が空っぽだったのも不審がられた理由かしらねぇ」
「かも知れませんね。でも、そんなに出入りが少ないなら門番を立てる必要もないのでは?」
「まあそうねぇ。今は休戦中だけど、昔は向こうの山に見える龍の集落と争いをしているから、そうもいかないの」
「そういえばここ、鳥の集落なのに飛んでる人がいませんね」
黒服の女性の言葉を真に受けた訳ではないが、翼が本当に飛ぶ為のものなのかという意味で、彼女は何となく訊いてみた。
「そりゃそうよ。だって寒いんだもの。ちょっと飛ぶだけでも冷たい風が吹き付けてくるから、滅多に飛ばないわ。高い壁と家に守られてる地面すれすれは風が防げるからねぇ」
確かに、とスピカは思った。実際、寒さを避けて数百キロ数千キロ移動する渡り鳥もいるのだ。風は体感温度を著しく下げるし、ここは冷たい風の吹く山頂の集落である。飛ぶのであれば、今の彼女の装備でさえ心許ないだろう。
「寒いのが苦手なのにこんな寒いところに村を作るんだから、ご先祖様の考えは分からないわねぇ」
「同感です。もっと暖かいところなら住みやすかったのに……集団で引っ越すこととか考えなかったんですか?」
「そう、それもそうなんだけど、さっきも言ったでしょ? この村を囲う森はかなり深くて迷いやすいし、雪がない夏の間しか麓と行き来はできないからね。物理的に結構難しいの。しかも誰も住んでない土地を探さなきゃいけないしねぇ」
「誰も住んでない土地?」
「当たり前じゃない。どこの集落も仲良くなんてしてくれないわ。それが分かっているから、村長もここを離れることを許さないのかもねぇ」
「あの、訊きづらいんですけど」
「何? スピカ」
「そんな風にいがみ合っているのには、何か訳が?」
その問いに、ベガは黙って答えなかった。
「あの、ごめんなさい、変なこと訊いてしまって」
慌てて謝るスピカに、ベガは構わないのよと言った。
「そんなことを言うってことは、あなたの故郷はそうじゃなかったのね。そう……羨ましいわ。一度で良いから行ってみたいわねぇ。
ここも、というかほとんどの集落は自分たちの種族が一番だって思ってる。だからよそ者が入ってくることを極端に嫌がるのねぇ。
行商人だけはそういうのに干渉しないし利益になるから例外的に許されるけどね。あなたの場合は……例外中の、そのまた例外といったところかしらねぇ」
例外中の例外、というとてつもない特別な扱いを受けていることに、スピカは申し訳なさを感じずにはいられなかった。
「あの……本当に良かったんですか? そんな中に私が入り込んでしまって」
「気にすることはないわ」ベガは陽気に笑っていた。「あなたは誰がどう見ても鳥なんだから、堂々としてればいいのよ。もし何かあれば私が助けてあげるからねぇ」
だが彼女の親切心は、かえってスピカの申し訳ないという思いをふくらませるだけだった。
「ベガさん、親切にして下さるのは嬉しいんですけれど……」
「ん、お節介だったかしら。全部一人で何とかする? それは難しいでしょうけれど?」
「いえ、どうしてそこまでしてくれるのかなって」
するとベガは歩みを止め、スピカに振り返った。そのまま彼女の手を取って言う。
「スピカ、他人の厚意には甘えるものよ。私が協力するのは私がそうしたいから。それに、手伝うのは友達が見つかるまで。そうしたら出て行くでしょ? 雪が降ったら下山出来なくなっちゃうし、誰か手を貸してくれる人がいれば早く見つけられるじゃない。さ、何か問題ある?」
白い翼の少女は何も言い返すことができず、ただ「ありがとうございます」と言いながら深々と頭を下げるだけだった。
彼女が頭を上げた時、ベガはすぐ近くにある木造の、一見すると山小屋のような建物を視線で示していた。石造りの二階建ての住居が並ぶ町並みの中にあるそれは、言い知れぬ違和感を放っていた。正面の扉、その上に掲げられた看板には文字が書かれており、「さかば・はねやすめ」と読めた。
(待って……私、こんな文字見たことない)
美奈は驚愕した。 意識の底にある文字言語の記憶を引っ張り出そうとしてみるが、やはり彼女はその文字に覚えがなかった。だがしかし、現に今彼女はその看板の文字を読み、その意味までをも理解している。知識として知ってはいるがいつ見たのかを忘れてしまったかのような――そんな感覚に似ていた。
「ここに入るわよ、スピカ」
驚くスピカを引っ張って、ベガはその中に入った。
「戻ったわよ」
外観の粗末さからは想像もできない程に、内部は広くこぎれいだった。壁が淡い橙色に塗られ、彼女から見て右手側にカウンター、左側には円テーブルが五つ並んでいた。いずれも座っている人影はない。一人、カウンターの内側にマスターと思しき人物がいるだけだ。ベガの存在に気付き、カウンターに沿って近づいていく。
「あら、早かったじゃないの。ちゃんと採ってきたのかしら」
水色の長髪のマスターは無表情にそう言った。まるで鉄面皮でも貼り付いているかのようだ。そこには凛とした美しさと無骨なたくましさが共存しており、一見しただけでは性別が判断しにくい。しかも黒シャツに薄手の空色の外套一枚という、スピカとは対照的な軽装である。
「あはは、ごめんなさいねぇ。ほっとんどなんにも」
「何をやってたんだろうね?」
「まあまあ。それよりも、すごい物を見つけちゃったのよ」
ベガが背中の籠を下ろすと、それに隠されていたスピカの姿がマスターの目に留まった。
「誰? 見ない顔だけど」
「森の中で迷子になってたのよ。ここにいる友達を捜すために麓から上って来たんだって」
「ふうん?」
「はじめまして。スピカです」
「マーテルよ。よろしくね、スピカちゃん」マスターは、目元口元に薄く化粧をしていた。「友達を捜しに来たって話だけど……ここで間違いないの?」
「はい、確かです」
この確信はあの黒い女性への信用を前提とした、非常に不安定なものだ。もしこれが嘘だったとしたら、スピカはよすがを失ってしまいかねない。その不確かな情報が、彼女の心を平常心につなぎ止める唯一の光だった。
「そう……わざわざこんな僻地に来る物好きがいるとはね」
マーテルはたくさんの瓶が並んだ棚に振り返った。
「スピカちゃんはどういうのが好み?」
何を聞かれたのか分からずに少女は聞き返す。
「甘いのとか、酸っぱいのとか、ちょっと渋いのとか。お代はいらないからね、一見さんだから」
「じゃ甘いので」
するとマーテルは二、三の液体を混ぜてスピカに差し出した。
「ありがとうございます」
「私はここに十何年もいるけど、迷い込んでそのまま住んでるって話は聞いたことがないよ。人が寄りつかない場所だし、行商人は来るけれどすぐに発っていくし」
その言葉は、ただでさえ弱い希望の光を吹き消さんとするイタズラ風のようだ。
スピカは溜め息とともに肩を落とした。一口飲むが、その味は今の彼女には分からなかった。
「何かの偶然で私の耳に入ってないだけってことも十分考えられるし一応聞いておくけど、その子も鳥人?」
スピカは肯定するも、その半分は推察だった。
「そう。じゃあ特徴は?」
「えっと、眼鏡をかけてて」
眼鏡とは何かと尋ねたベガに、スピカは遠くの物を見るために顔に着ける道具だと説明した。
「結構珍しい代物だから、案外簡単に見つかるかも知れないね」とマーテル。「それから?」
「背が高いんです。ちょうど私の頭の天辺が肩の高さぐらいで」
しかし美奈が小柄なので対照して高く見えるだけであり、幸助の身長は平均とさほど代わりはしない程度であった。
「それから……髪の色は黒くて、知的雰囲気があります」
美奈は自分で言ってから、イメージだけでものを語り、彼の実際の頭脳レベルを知り得てないことに気がついた。
「黒い髪……じゃあ翼も同じだよね? 他には?」
スピカは無言で首を振った。自分の変化ぶりを見たら、彼がこの世界でどんな出で立ちをしているかは想像のしようがないからだ。口をついて出た髪の色も、信用出来る情報ではない。現に今彼女の髪は、深い黒から絹のような白へと魔法のように変色している。
「そう……じゃあ名前は?」
マーテルの問いには、明確な答えは出せなかった。
「こうすけって言うんですけど……多分違う名前を使っていると思います」
「探して欲しくないってことなのかしらねぇ? わざわざ偽名まで使うなんて、よっぽどよねぇ、マーテル?」
「そこで何故私に話しかけるのか分からないけど……名前を変えるのって簡単な事じゃないし、かなり個人的な問題だよ。私達がどうこう言うものじゃない」
「ところでその友達はこの村に何をしに来たの?」とベガが問う。
「分かりません。ただ私に分かるのは、友達、がここにいることと偽名を使っていることだけです」
スピカと同じ理由で幸助も偽名を使っていることは想像に難くない。しかも本名を使うと探し出すことが出来なくなるというジレンマをも抱えているので、今の彼女には手の打ちようがないと言っていいだろう。
「そう……夕方から人が集まってくるから、その時にみんなに聞いてみたらどう?」
マーテルがそう提案し、ベガもそれが良いと賛同した。
「はい、じゃあそうします。でも日没まで時間ありますよね?」
特にここは標高が高いので麓に比べ日の出ている時間が長い。とはいえ、微々たる差だが。
「『善は急げ』って言うでしょ。手がかりを探しに町に出るわ。もちろん私と一緒にねぇ」
彼女らが向かったのは人の往来が多く人探しにうってつけである市場だった。だが、スピカにはその光景があまりに奇妙で、鳥に姿を変えた幸助を探すどころではなかった。大きな通りにあふれる人々の姿格好が良く出来た衣装にしか見えない上、取引されているものも見たことがないものばかりだったからだ。用途がよく分からない道具や、食べ物なのかすら疑わしい物体まで様々である。
「こういう場所って初めて?」
「ええ、素敵ですね、こういう賑やかなの」
お金持ってないのが残念だな、と心の片隅で思った。
「じゃあ早く友達を見つけて買い物する時間を作らなきゃねぇ」
とその時、二人に声をかける商人があった。
「やあ、ベガ! 何か買っていかないかい? ただし……」
白いシャツの上に黒いジャケットを羽織った精悍な顔つきの女性だった。年は大体ベガと同じか若干上といったところ。彼女の目の前には、リンゴのような赤い実が置かれていた。どうやら売り物らしい。
「やぁよ、またいつものあれやるんでしょ?」
「あれって何ですか?」
スピカがそう尋ねると、商人の女性が反応した。
「おや、そっちは誰だ? 珍しいじゃないか、ベガが誰かと一緒に市場を歩いてるなんて」
「森の中で迷子になってたのを見つけたの。なんでも、友達を探しに来たんだって。スピカ、この人は何というか……まぁ、長い付き合いの友達ねぇ」
「私の名前はミラ。よろしくね、スピカ」
「スピカです。こちらこそ」
「さて早速だけど、私の出す問題を解いてもらおうかな。正解ならどれでも好きなの持って行って。できなきゃ三倍で買って貰うよ」
いきなり脅迫めいたことを言い出すなんてなんて人だ、とスピカは思った。そもそも自分には身一つしか支払える物がない。断ろうとしたその時、
「一見さんにそんな意地悪しないの!」
とベガが叱咤した。それに怪訝そうな顔をしたミラは彼女と小声で話す。
「この子よそ者ってことだよね? 大丈夫なの?」
「今のところ問題はないわねぇ。一応鳥人だから追い出されるようなことはないと思うし、用が済んだらすぐ出て行くみたいから良いんじゃない?」
「まあ、あんたが一緒なら安心かな。マーテルさんには?」
「会ってきたわ」
「そう」と言うとミラはザルの中から赤い実を十個取り出して台の上に三角形に――ボウリングのピンのようにと言えば分かりやすいだろう――並べた。「さて、ここにアメリの実十個で作った三角形があります。三つだけ動かして三角の向きを逆にして」
「スピカ、止めときなさい。挑戦して失敗したら私が払うのよ?」
スピカはベガが心配する傍らで問題に見入っていた。並んでいる見慣れない実に興味があったのも理由の一つだが、何よりも――問題が簡単過ぎた。
「いえ、分かりますよ、これ」
言うやいなや、彼女は三手で三角形を逆向きにして見せた。驚かれたのは言うまでもない。
「……正解。やるね、スピカ。よし、商人に二言はないよ。どれでも好きなの持っていきな」
「じゃあこれ下さい」問題に使った十個の木の実を指さした。アメリの実という名前らしい。
「それじゃあこの前来た商人から大枚はたいて仕入れたこの問題はどう?」
彼女は十字が書かれた小さな紙を取り出し、台の上にたたきつけた。
「『この紙には交わった二本の線が書かれていて、四つの直角があります』」そして今度は串を取り出して見せ、「『この紙とこの串とで直角を十二個作って下さい』」
さすがに無理だろう、そんな風に得意げに腕を組んで胸を反らすミラ。スピカは困る様子もなく淡々と紙と串を見つめている。対してベガは出来るわけがないわと小さくっている。
「うーん、確かにこれはちょっと難しいですね」
「ちょっとどころじゃないぞ。私が丸一日考え抜いても分からなかった問題なんだから、そう簡単に解かれちゃ困るんだけど」
「正解したら何くれます?」
「好きなだけ持って行って」
「本気にしますよ?」
「その代わり、解けなかったら……」
「いえ、それを考える必要はありません」
そう言ってスピカは紙と串を手に持ち――
*
彼女は果物でいっぱいの深い籠を胸に抱えて歩いていた。両手がその為にふさがっているので食べることはできなかった。
「スピカ、あなた何者? ひょっとして天才?」
「そんなことありません。普通の女の子ですよ」
「そんなことある。ミラの問題を二問も続けて解いたのはあなたが初めてよ――」
紙と串を持ち上げたスピカは、十字の交点の部分に串をまっすぐに突き刺したのだ。
『こうやって立体にすれば十二個できますね』
ミラは唖然とした。そしてスピカがどれを貰おうか品定めしていると、商人は好きなだけ持って行くのにたった一問じゃ釣り合わない、と言って食い下がった。
『商人に二言はないんじゃなかったの?』
『等価交換の原則が優先!』
当のスピカは乗り気で、ミラの挑戦を快諾した。出された問題はこうである。
『今私が考えていることを当ててみて。当てられたら、今度こそ好きなだけ持って行っていいよ』
ベガはずるいずるい言っていたし、ミラもどうせ出来ないだろうとニヤニヤしていたが、スピカは少しの時間考えて見事に正解を出してしまった。
商人はなんと悔しがったことだろう。スピカは持てる限りの量を貰いそこを後にしたのだった。
「――あんな発想、普通の頭脳じゃできないわ」
「本当にそんなことありませんって」
ベガがどんなに褒め称えてもスピカは謙遜するばかりだった。ただし彼女は決してへりくだっているわけではなく、本心から大したことではないと思っている。
「じゃあ、明日学校に行ってはっきりさせましょう。あなたが天才なのか凡人なのか。さ、そろそろ日が暮れるし、マーテルの所に戻りましょうか。いろいろと話したいこともあるしねぇ」
「いろいろ、ですか」
「いろいろ、ねぇ。あ」
とベガは何かに気付いた様子を見せ、スピカを路地へと押しやった。訳が分からず不安そうな彼女にベガはそっと耳打ちする。
「いいから、そのままゆっくり歩いて」
言われたまま、籠を抱えながら薄暗い路地をゆっくりと歩くスピカ。不安になって振り返ると、ベガが鎧を着た人物と話しているのが見えた。背を向けたベガのせいで顔は見えないが、何やら物々しい雰囲気がその背中からは感じられた。関わらない方が吉だと感じると、路地から出てしまわないようにゆっくりと歩き続けた。
*
二人はマーテルの酒場のカウンターに並んで座っていた。その横には籠が置かれている。最初に訪れた時とは違い彼女ら以外にも十人ほど客がいて、皆テーブル席に座っていた。室内を照らし出すロウソクの灯が何とも言えない情緒感を醸し出している。
「それで、私をあんな所に押しこんだのにはどんな理由があったんですか?」
「兵士が来たからよ」
「兵隊さん? 何か問題があるんですか?」
何も悪いことはしていないのだから恐れることなどない――スピカはそう考えていたのだが、ベガは「あなたがよ」と言いながら籠の持ち主を指さした。
「話したと思うけど、よそ者に対する目は結構厳しいの。私たちみたいな市井の鳥人は比較的寛容だけど、少なくとも村長の息がかかってる連中はそうじゃない。
あなたも鳥だから少しはごまかせるかも知れないけれど、真っ白い羽は結構珍しいからよそ者とばれる可能性が高い訳。だからスピカを守るためにはああするしかなかったの。ごめんなさいね」
「いいえそんな、謝られる理由なんてありませんよ。むしろこっちがお礼を言うべきです」
「そう……ねえマーテル、いつものお願い」
「ああ、フランのお酒だね。スピカちゃんは?」
「えっと……」
何がいいと聞かれても、何があるのかという根本的な所が分からずに目が泳いだ。
「じゃあ同じのにする? ちょうどフランの実持ってるでしょ」
「フランの実って何ですか?」
「上が赤っぽくて下が黄色い小さな実。あるでしょ?」
ベガに注文された品を差し出しながら、マーテルはスピカに「それどうしたの?」と尋ねた。
「そうそう聞いてよマーテル。この子ってば天才なんだから! これ全部ミラの問題を解いて貰ったやつなのよ」
「ほぅ、大したもんだね」
スピカがフランの実を見つけ、三つ取り出した。大きさこそ小さいが、色合いや触った感じは桃に似ていた。
「ええ、じゃあお代も含めて三つ貰うよ」
マーテルはカウンターの奥へと消えていく。
「木の実見たことがないの?」ベガが訊いた。
「色や形は私が知っている物と同じなんですが、大きさや名前が少し違うみたいで……」
ベガはふむふむと感心して頷いた。
「へぇ、場所によって呼び方も変わるのね。それは不思議だわ。実際に食べてみた?」
首を振るスピカ。そこへマーテルが戻って来た。
「お待たせ。ね、ミラが出した問題ってどんなのだった?」
スピカは商人が問題を出すのに使ったまさにその実でマーテルに再現してみせた。
「確かにこれは……あ、ちょっとごめん」
テーブル席の方から彼女を呼ぶ声があったのだ。スピカはそちらの方へ視線を投げやる。
「女性ばっかりなんですね」
「そりゃあそうよ。しかもほぼ未婚。既婚者は太陽が出ていない間に外出しちゃいけないっていう奇妙なしきたりのせいでねぇ」
「そのせいで、男の人はここに来る訳にはいかないんですね?」
「そう。だから男が夜外に出ることも殆どないの」
ここで一つ疑問が生じる。
「じゃあ、未婚の男性は?」
「いないわよ、そんなの」
「え? それってどういう……」
木の実で作られた三角形の頂点の一つをつまみ上げながら、スピカをまじまじと眺め、
「そっか、しきたりが違うんだもんね。しょうがないか。これから話すのは、ここでは有名な話よ。
昔はねぇ、と言っても神話の時代の昔だって言われているんだけど、とにかくずっと昔は、どこも男女比がほぼ同じだったらしいのねぇ。それがどういう訳か、ある時に何かがあってそれが極端に狂ってしまったらしいの」
ベガは手にしていた木の実をほおばった。
「何かって……あ、それ」
「あ、思わず食べちゃった。良いわよねぇ、一個くらい。
そう、あくまで『その時に何かが起こった』とだけ言い伝えられていて、具体的に何が起こったとかいう話は残ってないの、少なくとも私が知っている範囲では。それにこの話は余り人の口には上らないらしいの。
古いからっていうのもあるけれど、一番の理由は多分、そんな神がかった力が及ぶ話を恐れて忘れようとしたから。あるかどうかも分からない天罰を怖がるなんて、奇妙な話よねぇ」
スピカにとって、いや美奈という少女にとってこの話は非常に興味深かった。森の中で保護されてから今までの間に、男性らしき人物にはまだ会っていない。それが単なる性別による社会的な住み分けではなく、出生がそもそも狂っているとなれば話が変わる。そこには一体どのような理由が存在しているのか、この謎は彼女の知的好奇心をいたく刺激した。
「へぇ……でもどうしてそんな話を知ってるんですか?」
「聞いたのよ、それを調べてる人から。あれは、そう、六年くらい前の話だったかしらねぇ――」
その人物は、見た目はごく至って普通の行商人だった。行商人をしているのは種族的な都合もあったが、何よりも、この世界について探求しようとするのには、世界中を飛び回れるその肩書きが便利だったのだ。
だからある意味で商売は旅のおまけのような物であり、それ故に商取引については不得手だった。旅の目的は、世界の始まりを知ること――すなわち、この世界が創造された経緯やそれにまつわる神話、亜人種族の起源を探ることであった。
その旅の道中でこの集落に立ち寄ったのが、六年前の夏である。聞けば、隔離されたこの山頂の集落には何か大きな謎が残されているに違いないと、勇み足でやってきたのだそうだ。
だから商人は訪れる全ての村落でそうするように、商取引をする傍らで古い文献が残っている場所や古い伝承を知っている人を訪ね歩いていた。だが機密事項に触れようとするこの商人を芳しく思わない人々がいるのもまた事実である。多くの集落がそうであり、こことて例外ではなかった。
「――私は昔からこの隣にある宿屋兼診療所で働いてるから、その人から話を聞くことができたのねぇ。でも何も言わずにいつの間にか帰ってしまって、一体誰からどんな話を聞いたのか、何が分かったのかを聞くことは叶わなかったの。それがちょっと残念」
ただ、何か核心に触れてしまったから逃げるように帰ったのかも知れない、と彼女は付け加えた。
「なるほど……重大な何かを掴んで、ベガさんに話す前に出て行きたかったんですかね」
「恐らく……ね。原因さえ分かれば、私にもこの世界を変える手伝いができると思ったんだけど」
そこへマーテルが帰ってきた。
「ごめんなさい、ちょっと話し込んじゃって。って、一個足りないみたいだけど?」
「細かいことは気にしない」
「でもこれはある意味でヒントですよ」
「……『ヒント』?」
何やら怪訝そうな顔をするベガを無視し、マーテルは残りの二つの頂点を取りのけた。
「……ってことはああそうか」六角形に並んだ実を見て閃いたようで、マーテルの表情がぱっと明るくなった。「ここと、ここ。それからベガが食べた一つをここに置けば」
「はい、正解です」
「謎解きっていうのは大抵そうだけど、解ける前は難しいって感じていたものでも一度解けてしまうとなんて簡単なんだって思うじゃない? それが醍醐味でもあるんだけど……誰かさんがそれを邪魔してくれちゃった」
マーテルの目は笑っていた。がしかし、見る者には怒っているとしか映らない。
「あはは……」
ベガは苦笑いを浮かべ、そうそう、と新しい話題を切り出した。
「スピカね、今まで誰も解けなかったミラの問題まで解いちゃったのよ!」
「というと、『私が考えてることを当てられたらこれをあげる』っていう?」
ベガがそうだよと言い、二人は視線をスピカに注いだ。
「答えは『私にそれを渡すつもりはない』です。正解なら渡さなければなりませんし、違うなら渡すつもりがあることになります」
二人はおお、と声を上げた。照れくさくなったスピカは目を自分の後ろで飲んでいる人々へと向ける。その時ちょうど酔っ払いの一人と視線がかち合い、立ち上がって向かって来た。
「三人で一体何を盛り上がってんだい?」
「この子が出してくれる問題を解いてたの」とマーテル。
「へえ、こんな可愛らしいお嬢さんが……ん、見ない顔だね? まあいいや、私らにも出しておくれよ、その問題ってのをさ」
その女性はスピカの背中に手を回して立たせる(その際酒臭い息が顔にかかってスピカはしかめっ面をしたが、酔っ払いは気付かなかった)と、そのままぐいぐいと押して無理矢理円卓に着かせてしまった。
それを見ていた二人は、
「ベガ、この実持って行ってあげて。こうして真ん中のを欠けた部分に補えば大丈夫だから」
「そうね」
こうして、スピカ含め五名でのクイズが始まった。スピカはこの酒臭い女達に囲まれているのが嫌で、早く帰るために何度もヒントを出そうとした。が、強情な回答者達はそういう手助けなしに解きたいと言って聞かなかったために彼女はずっとそれに付き合い続けなければならなかった。
手にしたコップの中身はとっくに空になっていたにも関わらず、酔っ払いの呼気により彼女の酔いは回る一方だった。それがしばらく続くと彼女の意識は朦朧とし出して、しまいには気を失って床に倒れてしまった。
酔い潰れたお嬢様を介抱する役はもちろんベガである。彼女がスピカを背負って酒場を出ると、夜の冷気が二人に吹き付けて眠り姫が目を覚ました。
「ベガさん、すみません」風の音にかき消されてしまいそうなか細い声だった。
「いいのよこれくらい。それより気分はどう?」
「最悪です……あ、でも風が気持ちいいですね。下ろして下さい。しばらくここで……」
「ええ、でも冷えるからねぇ」
スピカを入り口の脇に座らせると、ベガは再び酒場へと戻り、すぐ帰ってきた。その手には水が入ったコップと粉の入った小瓶があった。酔い覚ましの薬だと言ってそれを差し出す。
「ありがとう……ございます」
粉を口に含み、水で流し込むスピカ。それを見届けると、ベガはもう一度酒場に入って行った。
スピカはおぼろげな頭で酒場の喧騒を聞いていた。今の彼女にはそれが単なる振動としか感じられず、何故だか眠りを誘う心地よいメロディとなっていて、ベガが再度スピカの元に現れた時彼女は眠りについていた。
「スピカ、こんな所で寝たら風邪……もう、可愛いわねぇ」
ベガに言葉を飲ませたのはあまりに無防備な寝顔だった。酔いが回っているせいで紅潮した頬、顔にかかった髪、僅かに開いた唇から漏れる吐息、傾けられた首、投げ出された四肢、それら全てがベガの中に眠る何かをくすぐった。
「私が男だったら絶対にほっとかないのになぁ」
ベガは、この美しい娘に危険を冒させるほど慕われている彼女の友人を羨み、またこんな健気な娘を置き去りにした、会ったことのないその人物に怒りに似た感情を覚えた。その心を制し、ベガはスピカを抱きかかえて酒場の隣の建物へと入って行く。
そこにはいくつものマットと枕が並べられており、隅には厚手の毛布が積まれていた。スピカを横向きに寝かせ、毛布を二枚掛ける。そこでスピカが目を覚ました。
「……ここは?」
「宿よ。今はゆっくり寝なさい」
するとスピカは水が欲しいと頼み、ベガがコップ一杯の水を持ってきた。
「ありがとうございます。あの、思ったんですけど……さっき話していた商人さん、もしかしたら、解決するところまで全部一人でやるつもりだったんじゃないでしょうか? 多分――それが危険だと分かってしまったから」
「ええ、そうだと思う。だって昔の私なら絶対に、危険だと分かっても聞かなかった。だから、無言で立ち去ったのはあの人なりの優しさだったのかもねぇ。今では感謝してる。神様は敬うものであって、決して近づいてはいけないものなんだから」
スピカからはベガの顔は逆光になっていて見えなかった。スピカは言葉を紡ごうとしたが酒のためか頭が着いていかず、そのまま眠りに落ちた。
出題参考:「頭の体操 第2集」
「頭の体操 第5集」
ともに多湖輝著、光文社刊