ChapitreⅡ-A:桎梏
生きて行くことは案外むずかしくないのかもしれない。
武田泰淳『蝮のすえ』
「で、一つ気になったんだけど、もし今の村長が死んだりしたら、よそ者である俺が次の村長になる訳だろ? そのことに問題はないのか?」
「率直に申し上げますと、ございます。しかし、もうそんなことを気にしている余裕がない、という状況なのです」
シオンはそんなことをあっさりと言ってのけた。女中に過ぎない自分には無関係だからか、それとも幸助が現れたことで精神的余裕が出て来たのか。どちらにせよ逼迫した状況で彼のような存在が現れたことは僥倖と言って良い。これにすがらない手はないという事なのだろう。
「ですから、リゲル様、絶対に偽者だとばれないように尽力して頂きます。あなたの代わりを務められる方はございませんから」
「その通りだ」と幸助の正面にいる紫の長髪の男性が言った。「村長がお前を息子の代わりにすると決め、しかもお前がそれを受諾した以上、妥協は許されない。それだけは覚悟しておけ」
刃物を思わせる鋭さを纏った声である。外見年齢は幸助の一回り上くらいだろうか。全身を暗い灰色の服で包み、その腰には二本の黒い刀を差している。
「テルさん、認めたくないのは分かりますがもう少し言い方を考えて下さい」
「村長も村長だが、シオン、お前もお前だな。どうしてこんなどこの馬の骨とも知らない輩をあっさりと受け入れられるんだ」
テル、と呼ばれたその男性は腕組みして仁王立ちしている。その表情はかなり不満げだ。
「……テルさん、もしかしてあなたが村長の椅子を――」
「余計なことは喋るな!」
感情のままに彼は叫んだ。シオンは肩をびくっと震わせる。
「七日だ」とテルは落ち着いて言った。「七日後に、村長の息子としての立ち居振る舞いが出来るかどうか試してやる。シオン、それまでに完璧にしておけ。でないと俺は認めない。それ以前に、不完全な偽者をラザル様が跡継ぎに認めるとも思わないがな」
それだけ言うと、彼は部屋を去っていった。
「……やっぱり、思った通りの展開になったわね」
今度は別の場所から、女性の溜め息混じりの声がした。その主の方向へとリゲルは振り向いた。シオンとは反対側、彼から見て左側の壁に、瑠璃色の髪が印象的な妙齢の女性が貼り付いていた。
「姉さん……」とシオン。
「姉さん?」
全然似てないな、という言葉をリゲルは飲み込む。
「ええ、ただ本当の姉妹ではありません。同じ孤児院で育ったものですから、家族のような関係としてそう呼んでいるんです」
シオンの姉は壁から離れ、リゲルへと向き直った。その時に宝石のような髪がなびき、見る者を圧倒する。髪だけではなく、つり目気味の黒い目もそこに花を添えていた。袖だけが青い黒の上着を羽織り、下には脚にぴったりした白いズボンを穿き、脚線美を強調している。
「初めまして、二代目リゲル様。私はシリウスと申します……何か奇妙な感じが致しますね」
シリウス女はそう言いながら恭しく一礼した。二代目、という言葉が妙に違和感を持って発音された。
「覚えていらっしゃいますか? 私とリゲル様は、塔の上でぶつかったんですよ」
リゲルにはほとんど覚えがなかったが、塔の上でぶつかった、という事だけは何とか思い出せた。
「ああ、あの時の」
死ぬかと思った直前、落下速度が落ちて衝撃と共に気を失ったのだ。彼は朦朧とした意識の中で何者かに運ばれていた感触を思い出した。
「はい、そうです。二人とも無事でいられたのは奇跡みたいなものですよ。あの場所にいたのが私でなかったら今頃二人とも天に召されていたかも知れません」
「……どういう意味ですか?」
「私の腕と羽にはあらゆる衝撃を打ち消す能力があるんですよ」
リゲルはその言葉の意味が理解できず「は?」と声を上げる。
(確かに俺は空を落ちていたはず……でも俺が今こうして無事でいられるのが、この人の言う魔法みたいな力のお陰だって? いや、そうでもなければ理由の説明が付かないし、立場的に彼女が嘘を言うはずはない……あるいは、ここが死後の世界だったりしてな)
リゲルは苦笑して「まさかな」と漏らした。シリウスはそれを誤解し、両手を彼に向けて、「試しに殴ってみて下さい。力いっぱい、手加減なしで」と挑発した。
リゲルは言われるがまま一発軽めに拳骨をシリウスの掌に放つ。別に何ともない、ただ肉の感触があるだけだった。
続けざまにもう一発強めに打ってみた。すると今度は、一発目の時に感じられた手の感触が届いてこない。空気を圧縮するような反発力があった。衝撃が吸収されるだけで跳ね返されはしないが、触れられないのだ。
その理解不能な現象を体感して幸助は驚きを隠せなかった。手品だとしても物理的にあり得ないことだ。自分の置かれた状況が現実だと認識したばかりなのに、もしかしたら本当は夢の中なのか――そんな感覚に彼は囚われた。
「一体どうしてこんな事が……」
「どうしてと仰いましても、それが私の『能力』なのです、としかお答え出来ません。これは母も使えたので、遺伝なのですけどね」
理屈は理解できないにしても、これはこういうものなのだと受け入れるしかないと幸助は悟った。
「羽も試してみますか?」
するとシリウスは体を少しひねって、背中から伸びる藍色の翼を見せた。その形状や質感は鳥のそれとよく似ている。それは普通の人間にはあり得ないものだが、シリウスの態度はそれがあるのがごく普通だと言わんばかりだ。
まさかと思い、幸助は自分の背中側に目をやる。すると自分にも赤みがかった灰色の羽が生えているのが分かった。先程から何か背中に違和感があったが、その正体がこれだったのだと理解した。とはいえ、また不可思議な謎が増えただけだ。
一体何なんだと叫びたくなったが、理性がそれをせき止める。今いるこの世界では彼の常識が機能しないことを悟ったからだ。夢想や虚構で描かれるような、そんな次元の話なのだと、彼は自分を説得するしかなかった。
「いえ、あなたがそれで俺を助けてくれたのはよく分かりました」
半分混乱していて気付けなかったが、村長やテルが出て行く時に見せた背中にも羽のようなものがあったかも知れない、と幸助は考えた。
「ええ、この能力は護衛に向いていますし、戦闘に於いては滅法有利に働きますからね。軍隊の幹部の一人として、今後もお供をすることになるかも知れません」
「軍人なんですか。その若さで幹部とは……人は見かけによりませんね」
「リゲル様、お言葉使いが元に戻っておられますよ」と、シオンが忠告を入れた。
「おっと……でも難しいな、初対面の相手といきなりそんな口を利くなんて」
「慣れて下さい。そうでないと我々が困りますし……」シオンは悲しそうな顔をし「テルさんが怒ります。下手すれば殺されてしまうかも知れません」
物騒な言葉がシオンの口から出たのを聞いた途端、リゲルは身震いした。
「それってさっきの帯刀してた男の事だよな? 誰なんだ?」
「あの人はベテルギウス、みんなテルさんと呼んでいます。彼は村長様直属の軍隊『キャンサー』の隊長です。リゲル様以外で村長様にお仕えしている唯一の男性なので、リゲル様がお隠れになってしまうと、代わって村長の座を継ぐのは彼だと言われていたのですが……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。俺とそのテルって奴以外に男がいないのか? ここには」
「あと村長様を除けば、全員女性ですよ」
「何だってんだ、ここはハーレムかよ……」
リゲルがそう呟くと、シオンは首を傾げた。
「リゲル様、その『はーれむ』とは何なのですか?」
「まあ、分かりやすく言ってしまえば一人の男がたくさんの女を独占する楽園みたいなものだな」
「楽園、ですか?」シオンが不思議そうな顔をして言った。「確かに一人の殿方に多くの妾がいますけど、ここは少なくとも楽園と呼べる場所ではありませんよ」
つまり、シリウスやテルのような軍人、村長の正妻と妾およびその子、その世話をする女中しかいない、とのことだった。
「そうなると俺には腹違いの兄弟が何人もいるってことか?」
「はい。ですが事情が事情でその多くが市街地で暮らしておりまして、現在は妹君に当たるお方がお一人おられるだけです」
「市街地? ああ、この村長の屋敷を出て今は一般市民と同じ場所に住んでるってことか」
「はい、その通りです」
「で、その事情というのは?」
「えと……」
シオンが何やら言いづらそうにどもるので、今度はシリウスの方を見る。が、彼女も同じく俯いており、二人は頑として口を開こうとしなかった。
「訊くなってことなんだな?」
「はい、それは私達の口からは畏れ多く。ですがいずれは……」
「そうか、分かったよ」
彼にとって一番重要なのは生き延びることだ。やや歯切れの悪さは残るが、彼女らは彼には知らせない方が良いと思ったから言わなかった――これは彼女らの優しさだと思い、それ以上は考えないことにした。
シオンは視線を上げたが、その表情は変わっていなかった。
「それで次期村長としてやって頂くことなのですが、明日、女性と面会をして頂きます。目的は……聡明なリゲル様のことですから、申さなくてもお分かりですね?」
「ああ、とりあえず誰かと婚約しておけってことなんだろ?」
「厳密には本妻を選ぶのですよ」その言葉にはシリウスが答えた。「先程申し上げたように村長になったら跡継ぎが必要となります。少なくとも婚約していないとメンツが立ちません。なので本妻を選び、妾と……その……」
どこかで聞いたような話だ、と幸助は思った。
「事情は分かった。それ、急いで決めなきゃならないのか?」
「はい、リゲル様の年齢が年齢ですからね。火急の件です」
「不謹慎な話をしてしまいますけれど、ラザル様がお隠れになってしまう前までには決めて頂かないと……」シリウスは口元に手を添えて囁くように言った。
「姉さん!」
「でも、そう簡単に身罷るようなお方でもないでしょう? 殺されない限りは」
「テルも言ってたけどラザルってのは村長の名前か?」
「ゾディアーク・ラザル=ハーゲン。それが本名です。もっとも、年に一度の霊鳥祭の時ぐらいにしかこの名前は使いませんので、リゲル様がお呼びになる時は……えっと、シオン?」
「基本的には父上、あるいは村長ですね。身内しかいない状況では『親父』とお呼びになっていたようです」
「ああ、やっぱり村長の息子ともなると口の利き方一つとっても色々と品格を問われるんだな」
「はい、ですから口汚く罵るような俗語のある書物はリゲル様はお読みになれません。咄嗟の時に出ないようにするにはどうすればいいのか存じませんけれど」
「まあ、上手くやるよ」
シオンはよろしくお願いしますね、と言って頭を下げた。それから彼女は話すべき事はあらかた終えたので、日が暮れてしまう前に参りましょう、と促した。リゲルがどこにかと尋ねると、彼女は屋敷をぐるりと回ってくるのだと答えた。
リゲルはその前に何か食べさせてくれと要求したかったが、暗くなってからだと何も見えなくなりそうなので我慢することにした。部屋を見た限りでは、明かりが松明しかなさそうだったからだ。
先頭をシオン、殿をシリウスに従えて部屋を出ると、年季の入った木材で造られた廊下とやけに高い天井が目についた。篝火を焚くための台も所々に置いてあった。この世界では明かりは空からの光と火だけのようだ。
(やっぱり文明が遙かに違うんだ……少し厄介かもな)
途中何人もの女性とすれ違ったが、その反応は二種類に大別できる。回復を素直に喜ぶか無愛想にするかだ。前者は事情を知らないから、後者は知っていて彼のことを快く思っていないから、という理由まで想像が付く。比較的前者の方が多かった。
それから三人は階段を登りベランダのような場所に出て、風に晒されながら景色を眺めた。
その光景にリゲルは絶句した。傾き始めた太陽の光が眼下に広がる雲海を淡い橙色に染め上げている。そう、眼下に雲を臨んでいるのだ。その海の中に集落は浮かんでいた。さながら岩にむした苔のように島の周りを鬱蒼とした針葉樹林が取り囲んでいる。その上に石造りの白い集落がそびえている形だ。それから彼は、屋敷から遠くない青い石塔を指してあれは何かと尋ねた。
「私とリゲル様が初めて出会った場所ですよ」シリウスが嬉々として言った。「行かれるのでしたら急ぎましょう。日が暮れてしまう前に」
――自分が初めてこの世界に降り立った場所。根拠がある訳ではないが、そこに行けば何かが分かるような予感がして、リゲルは是非行きたいと答えた。
三人は再び階段を下り、一旦屋敷から外に出てその石塔に近寄った。見上げるとその高さに圧倒され、幸助の脳裏にオベリスクという言葉がよぎった。
一行はその天を貫かんばかりの塔に入った。その中は吹き抜けの螺旋階段で、落下に備えてか一定の高さごとに踊り場が設けられている。あまりに殺風景で、なかなか上がっているような心地がしない。日が暮れないうちに急ごうと言ったのも当然と思えた。この塔は見張りのために作られたのだ、とシリウスが説明した。
「今は休戦していますけどね。頂上に出れば相手がよく見えます」
所々に空いた明かり取りの窓から何度か、村の様子や雲海、もう一つの山が垣間見える。リゲルは階段を上りながら、青みがかった石を積んで造られた冷たい壁面の感触を確かめていた。と同時に、この塔が想像以上に高い技術で建造されたことに驚いていた。
やがて三人は頂上に着いた。開けたその世界はすっかり黄昏色に染まっている。太陽の反対側を見ると、もう夜が迫りつつあった。シオンはその東の方角を指さして説明した。
「あちらが、この村と争いをしている龍の集落です」
向こうも同じように雲の上に頭を出す山の頂上に集落を築いていた。遠目でも見えるのは集落を囲む高い壁と、石造りの町並み。足元に広がるものと殆ど差がないように思われた。
「ここから向こうの出方を監視して襲撃に備えているんです。ここ何年かは小康状態ですね」
「こんな事言っていたら怒られますけど、ただ座っていれば良いので寒ささえ我慢できれば監視は楽な仕事ですよ。空から人が降ってきたのは初めてでしたけど。運命を感じてしまいました。ああ、三年前にお会い出来ていたら、リゲル様にそっくりでなかったら、結婚を申し込んでいたかも知れません」
「そりゃどうも……ところで三年前って?」リゲルは照れながら尋ねた。
「その時までは乙女だったんですよ。さあ、もう帰りましょうか。これ以上お見せするものもございませんし」
直感に従い訪れた塔の頂上だったが、幸助にとって大した発見はなかった。敢えて言うならシリウスの身長が彼より若干高いと分かったことくらいだ。この場所に留まっていても寒いだけなので素直に下りることにした。
階段を下りながら、彼は争いをしている理由について、少ない土地や資源を巡っているのかと尋ねた。
「それもあるかも知れませんが一番大きいのは神様の問題でしょうね」とシオンが返した。
(ああ、宗教戦争か?)
「空の神様に関して言い争っているんです。こちらの村では聖火を操る霊鳥様を、向こうは天空王と称される竜王を、それぞれ空の神様だと主張しているんです」
「つまり鳥と龍の戦い、と」
「はい、昔からこちらの村には霊鳥様と竜王が戦ったという神話が残されています。もっとも、最後には霊鳥様が勝つ話ばかりですけれど」
「なんだ、同じじゃない」突如シリウスが言ったこの言葉は、二人を驚かせた。「向こうにも戦った神話はあるけれど、いつも竜王が勝つ話なのよ」
「姉さん、それって……?」
「言ってなかった? 私、元々向こうの村の出身なの。鳥と龍の血が半分ずつ入ってるから、向こうだと反逆者なんて言われたりして肩身の狭い思いをしていたの。両親が戦死して、私は居場所を求めてこっちに来たってわけ。孤児院に引き取られて以降は、あなたの知る通りよ、シオン」
「そうだったんですか……」
「どうしてしょげるの? あそこではお互いの過去は訊かない、話さない、気にしない、っていう決まりがあったでしょ」
「……二人とも、元々孤児だったのか?」
「はい。この村には三つありまして、私と姉さんはその一つで出会ったんです」
「いずれはこの村をお治めになるなら、このことは是非知っておいて下さい――」
孤児院が設立された理由は(いつの世も大体そうだが)もちろん戦争によるものだった。言うまでもなく鳥と龍とでは圧倒的に後者の方が強い。よってこちらの軍勢は死傷者も多かったのだ。それに比例して孤児も増え、孤児達は大人になるとシオンのように仕事を求めて女中になったり、復讐心から軍人になったりする。
ただしシリウスの場合は復讐ではなく地位を獲得するために軍人になった。兵団キャンサーのトップに立てば村長の傍に控えていることができるし、それなりの発言力も獲得できるからである。上手く振る舞えば、戦争を止めることが出来るかも知れないとも考えていた。
リゲルは、その孤児院に行けないかと尋ねてみた。村長の息子という立場として村の事情を知っておきたい、という建前を掲げて。本音は屋敷の外の世界を見たいという好奇心である。
しかし無念にも二人に否定されてしまった。そこは村の最下層であり、この屋敷に出入りしているような人物が訪れるような場所ではないと叱咤されたのだ。
最下層というのは文字通り、いや見た通り、この山頂の村の一番下、村を囲う壁の際である。頂点に村長の屋敷『オフィユカス』があり、そこより低い位置の家に住んでいる者ほど村の中での位が低い。つまり孤児院と屋敷は社会層の両端という関係にあるのだ。
リゲルはそれを残念がった。この屋敷から出て多くの人と話をすれば少しでも多くの情報が手に入ると思ったからだ。何の情報か、というのはこの村のこと、この世界のこと、それから帰る方法など諸々。
村長がしていることを知ったらなおさら、彼は外に出たくなったのだ。しかし、彼が受諾してしまった立場がそれを許さない。彼は知らず知らずのうちに見えない鎖で縛り付けられていた。
「そういえば、ここ何年かは戦ってないって言ってたけど、何かあったのか?」
「一番の理由は、お互いの損失があまりにも大きくなりすぎたからです」シリウスが、リゲルのほぼ横に並びながら言った。
「先の戦いは、我々の負けで終わるかと思われました。その戦局を一人の兵士が一変させたんです。その人が今のキャンサーの隊長、ベテルギウス。彼は持ち前の素早さと毒をもって、龍の軍勢を壊滅状態にまで陥れました。私達はテルさんという兵器を抱えていながら、それが強力すぎるが故に使えずにいたんです。
そして彼が活躍せざるを得ない状況に追い込まれたことにより、皮肉にも多くの犠牲者と束の間の平和が残されました」
むごい戦争だ、とリゲルは思った。確かにあのテルという男、それだけの事をこともなげにやってしまえそうな雰囲気があった。
「戦死した兵士はまず遺族に弔ってはもらえません。彼のおかげで戦いが終わった次の日、戦場となった森には多くの死体が転がっていました。その中にはかつて私と仲が良かった男の子もいました……彼を家族の元に返そうとするのは自殺行為ですから出来ませんでした。
本当に、どうしてこんな事するんだろうって思いましたね。テルさんも悩んでいたようですし。亡骸はここの庭で焼いて屋敷の地下に埋める習わしになっているのですが、その時に彼が現れることはありませんでした」
この村には死の香りが漂っている。そんな薄ら寒さをリゲルは感じた。
「ところで姉さん、この前来たマチルドさんって方覚えていらっしゃいますか?」
不意にシオンが口を開いた。彼女の高い声は、石の塔の中で良く反響した。
「ええ、金払いは良いけど酒癖の悪い人だって聞いたわ。その人がどうかしたの?」
「その人から聞いた話なんですけど、世の中にはここよりももっと酷い争いをしてるところがあったそうです。長く続く争いの中で大虐殺を行う武器を作り出し、それを使ったことで戦争は終わったそうですが……その代償としてその土地では生きられなくなり、住める場所を求め共に旅することになった、という結末らしいです」
「……出来るならその話、馬鹿みたいって笑い飛ばしたいわね」
似たような逸話ならいくらでもある。しかしそんな他人の話は、直面する現実や感情の前には愚物と見なされている。いや、見なさなければならない。見なすことを強いられている。
親は間違いだと心の底では思いながらも、その子には自らの正当性を証明するためには相手を倒すことが必要であると教えている。他者を認め共生するという考えはこの世界には存在しないと言っていい。人々はどこまでも排他的な考えを捨てきれないのだ。
「なあ、シリウス」
「何ですかリゲル様」
「お前、鳥と龍の間にいる自分が恨めしいと思ったことないか?」
「それはずっと思っている事ですよ。そのせいで私は居場所を失ってしまったのですから」
「でも逆にこう考えられないか? 『両方に所属する自分なら架け橋になれるかも知れない』って。もしかしたら、お前が戦争を止めるのに必要な鍵なんじゃないのかってさ」
しかしシリウスは無理ですよと首を振った。
「そう考えたこともあります。でも向こうに行っても、どうせ私は裏切り者の娘。死にに行くだけなんですよ」
彼ら三人はそのまま無言で屋敷に戻った。
*
夕食は、シオンやシリウス、村長はもちろんのこと、多くの女中や親族と共に行われた。大体はリゲルが見たことのある年老いた顔ぶれだった。
味のない木の実をかじりながら(どうやらこれがこの村での主食らしい)彼は回復を祝う声を聞いたが、まともに聞く気になれるはずもなく、ありとあらゆる視線も不快でならなかった。彼は早く終わって欲しいと、心の内で何度も繰り返し吐いていた。
残念な事にリゲルを取り囲むのは彼の正体を知る者ばかりではないため、幸助は彼らを無視する訳にも行かず、気のない返事と愛想笑いで凌ぐしか方法がなかった。病み上がりで体調がまだ優れない――と言い訳が出来たのがせめてもの救いだったろう。
そうしてリゲルがようやく自分の部屋に戻ることが出来ると、彼は吸い寄せられるように羽毛布団に倒れ込んだ。
「お疲れですか?」シオンがベッド脇のテーブルに燭台を置きながら言った。「無理もありません。私達でさえ、突然の事に混乱しているのですから」
「ああ、悪いけど今は何にもやる気が起きねえ。このまま寝かせてくれ」
「かしこまりました。では」
「ちょっと待った。聞きたい事がある」
「はい、何でしょう?」
「確か、この屋敷にいる男は村長とテルと俺だけだって言ってたよな。でも俺が最初にこの部屋で目を覚ました時と、今の食事の時にも男がいたじゃないか」
「ああ、申し訳ありません、私達の感覚だと当たり前の事ですので……お年を召された方、具体的に申しますと非戦闘員を、私達は男女の別から除外して『ご老体』と一括りにしているのです」
「何のために?」
「子作りが出来ないのに男女を区別する意味がありますか?」
「お前達はそれで良いのか?」
「何が不都合なのでしょう? 夕方お話ししましたように、この村は戦争をしています。戦えなくなるほど年を取るまで生きていられることが珍しいのですよ」
「なるほど……よく分かったよ。今日は眠いからもう寝る」
幸助は彼女の、この村の考え方を酷いとは思わなかった。異を唱えるよりも状況を受け入れる方が楽だと実感し始めていたし、何よりその違和感が異文化の中にいる証拠だったからだ。
「はい、おやすみなさいませ」
侍女は燭台の火を吹き消した。ドア脇の小さなテーブルにそれを置くと、彼女はほとんど音を立てずに壁際を移動していく。背もたれのある肘掛け椅子を持ち上げ、やはり静かに移動し、リゲルが俯せで眠るベッドの横に置いた。そこに座ると彼女はリゲルの方をじっと見つめた。
視線には光とか音とか、五感にに訴えかけるものは何一つとしてない。だがそうではない何か――第六感とでも言えばいいのか――が、リゲルを微睡みの中から引きずり戻してしまった。
「……シオン」彼はうつぶせのまま言った。
「起こしてしまいましたか? 申し訳ありま――」
「いや、それよりもお前は寝ないのか?」
「寝ますよ。ここで」
リゲルは体を起こした。窓から差し込む月明かりが逆光になってシオンの姿はよく見えない。
「ここで、って……その椅子に座ったまま、か?」
「はい。リゲル様をお一人にする訳には参りませんので。それに、見張り役として枕元にお控えするのも女中としての役割です」
「だからって、女の子をそんなところで寝かす訳には……」
「私の事はお構いなく」
「お前が良くても俺が良くない」
「お優しいのですね。しかし夜間にリゲル様を残して退出は出来ません。それが決まりですので。今までもずっとそうでした」
「じゃあお前もここで寝ればいいじゃないか」
さりげなく、さらっと言ったつもりだったが、彼の心臓は激しく鼓動していた。月明かりしかないのが幸いだった。この瞬間、互いの顔は真っ赤になっていてとても見られたものではなかった。
「とと、とんでもない! そんな畏れ多いこと」
「俺がそうしろって言ったんだ。それなら問題はないだろ?」