ChapitreⅩⅩⅣ:壁の向こう側
力なき正義は無能であり、正義なき力は圧制である。
力なき正義は反抗を受け、正義なき力は弾劾を受ける。
それ故正義と力を結合せねばならない。
パスカル
「こんなところかしらね」
語るだけ語って、マチルドは満足そうだった。様々な集落から聞き取り調査をして得た多くの情報を、明らかに嘘と見えるものは除外して、筋の通った物語に再構成したのが今語られた伝承である。しかしながら、この物語に登場する魔法使いの村がどこにあったのか、その石碑が今どこにあるのかは、未だに謎だった。
「その話は、少し変なところもあるけれど限りなく真実に近い。村人の失踪は私達とは無関係だけど、石碑があったのは事実。ただ、盗賊に破壊されてしまった。探してもそれが魔法使いの石碑だとは思えないでしょうね」
「ということは、場所は分かるのね」
「でもここから歩くと何日かかるか分からない」
「何日かかろうとも行くわ」
「本気?」
「そのために私は今まで生きてきたんだもの」
「行っても何もないのに」
「何もなくても行くわ」
「案内するとは言ってない」
「冷たいのね」
「そんなの当たり前のこと。ところで、あなた達の先祖がどうして、私達が開発していた術を怪しいものだと思い、恐れたのか分かる? 私は祖父母や両親、他の家の魔法使いが魔法を使ったり研究したりしている姿を間近で見てきたわ。彼らのやっていたことは、干ばつや山火事に悩まされている人のために雨を降らせたり、逆に大雨や日光不足に悩む人のために雲を晴らしたり、他にも暴風雨を止めるもの、怪我や病気を治すもの、石や金属の形を変えるもの、火を起こすもの、盗賊から身を守るためのもの……これでもほんの一部よ。魔法使いがやろうとしていたことが何だったのか分かる?」
彼女の問いかけに、三人は絶句するほかなかった。少なくともステラが嘘を吐いているようには見えない。その半分泣きかけの声と抑揚は、決して偽りによって作り出せる代物ではなかった。誰も答えないので、生き残りの少女は一人続ける。
「私達が魔法を研究した目的は、生活をより良いものにすることと、そのための技術を全ての生き物のために活用することだったのよ! 実際、有能な魔法使いは旅に出てあちこちで術を振る舞い、人を救っていたの。私達の村は何もしなくても天候に恵まれる場所だったから、天気を操る術なんか開発したって意味なかった。自分の身を守る魔法が使えなければ、旅に出て無傷で村に戻ってくることはあり得なかったもの」
「そんな」これを聞いたマチルドは、まるで世界の終わりを目にしてでもいるような表情になっていた。「魔法使いはそんな良心的な一族だったの?」
「そうよ!」ステラは叫びながら立ち上がった。しかしその顔は下を向き、帽子の鍔で隠されていて、彼女が今どんな顔でいるのかは分からなかった。ただその声だけが、彼女の怒りと悲しみがない交ぜになった感情を切実に投げかけている。
「私達は誰かを傷つけることなんて何一つ考えていなかった! ましてや戦いに使う魔法なんて! だから簡単に滅ぼされちゃったのよ……」
確かに魔法使いは結託した人々からの攻撃を受けた時、呆気なくすぐにやられてしまったとマチルドは語った。少なくとも、魔法使い側の抗戦があって戦いが長引いたという話は伝わってはいない。一連の事件が戦争ではなく、襲撃や討伐と表現されるのはこのためである。
そこで、一つの疑問が浮上してくる。――恐ろしいと思われていながらその実は慈愛に満ちた一族であった魔法使いの一族だというのに、何故他の種族との間に軋轢を生じさせ、一方的に攻撃されるような事態を引き起こしてしまったのか? ――この問いを投げかけたのはマチルドだった。
「まさかあなたの口からその疑問が出てくるとは思わなかったわ」
ステラは顔を上げた。帽子の広い鍔の下から覗いた彼女の瞳は、確かに怒りの色を示していた。
「どういう意味かしら」
「とぼけないでちょうだい。あなたがついさっき私にしたことを忘れたの?」
この二人の間で行われたこと。問う、答える、語る、自己紹介をする。これとは別に、一つだけ、異質な行動が存在した。
「ねえ、私に敵意を見せたのはどうして?」
「それは――」
マチルドがそこまで言いかけて、場の空気が凍り付いた。知の探求者も、誘拐の被害者も、魔女の言わんとすることをほぼ同時に理解したからである。
「――言葉が通じなかったからだと言うの?」
「そう。私達が使う言葉は他の集落では全く通用しなかった。でも逆に、言葉が違うからこそ独自の術を開発することが出来たのかも知れない。一族の中には外の言葉を解読しようと試みた人もいた」
さらに彼女は椅子に落ち着いてから話を進めた。確かに魔法使いは、自分達の魔法を他人のために役立てようと動いていた。しかし視点を逆にすれば、病人がいるところに言葉の通じない人物がやってきて、病気を治してそこを去っていくのだ。あるいは天気を操り、あるいは道具を与える。ありがたく思うのは確かだが、それは不気味さと表裏一体の感謝である。
「しかもこれは、個人の『特性』や『能力』と呼ばれるものが存在していなかった時代の話。今だったら知らない人が雨や雪を降らしたり素手で木をなぎ倒したりしても、その人だけが持つ力で助けてくれたんだと思うだけ。でも当時そんなことをした魔法使いは、相当気味悪がられたことでしょう」
ステラはマチルドの反応を待っているらしく、目を合わせたままじっと黙り込んでいる。
「スピカ、この話どう思う?」
左右から飛んでくる言葉に耳を傾けるばかりだったアークが、正面のスピカに問いかけた。
「言葉が通じなかったから恐怖を感じた、という話は分かるよ。通訳できる人がいなかったならなおさらだね。でも……ステラの言葉がマチルドさんに通じない、通じていなかった、というのが正直信じられないかな。だって今まで村のみんなとも、ステラとも言葉の壁なんてなかったし」
「これは……どうやって説明すればいいかしら」
数秒考え込んだ後、ステラは顔をスピカの方に向け、口を動かさずに話し始めた。
『あなた達には何度かこうやって話しかけたうけど……こうしていたなんて分からなかったでしょう。今ならあなたにも聞こえるはず』
マチルドは「ええ」とだけ答えた。
『常識的に考えたら、声を使わずに会話することなんて出来ない。でもそれを可能にするのがこの魔法「クラート」なの。これにはこうやって意識だけで直接話せるようにするだけじゃなくて、言葉を翻訳して飛ばす、というおまけがついているの。だから私は三人の声は耳から聞くと分からない。けれど、声に出すことは同じ言葉を頭の中で再生するのと同じことだから、私はその言葉を魔法で拾うことで理解できる。私はそれに魔法で訳された言葉で返すから、通じていたように見えた』
これに対しアークがちょっと待て、と反論する。
「そんな魔法が使えるなら、言葉が通じなかったから襲われたっていう話と矛盾しないか?」
『残念ながらこれ、私一人になってから、翻訳を研究していた仲間の成果を元に開発した魔法でね。それに各人に魔法を掛けないと使えない未完成品。本当は私自身の頭にそれを施して言葉が通じるように出来れば良いんだけど、どうしてか、個人を対象にした魔法は自分自身に対しては使えない。だから今も、帽子に掛けた術を利用してようやく話が出来ているに過ぎないって訳』
「魔法って言っても何でも出来る訳じゃないのか」
するとステラはふう、と息を吐いてから今度はちゃんと口を動かして話す。
「……不可能がないなら、私は、私達一族は、今こんな状態には絶対なかった」
「それもそうだな」
「ちなみに、この魔法とほぼ同時にこの世界に誘拐される人間が言葉に困らないようにする魔法も開発したの。それを二人の頭に直接かけてるわ」
「だから見たことのない文字の読み書きが出来たのか」
これは、スピカが話せなくなった直後にアークが実験して確かめられたものである。
「俺にはそれが出来なかったのはどうしてだ?」
「あなたの時は、直後に彼女を連れてくる必要があったからそっちまで手が回らなかっただけ。今ならこっちの言葉の読み書きができるはず」
「もういらない知識だけどな」
それより、と彼は思う。ステラは何か理由があるのか分からないが一度も人の名前を口にしていない。知らないということはないだろう。監視していたのなら覚えていないということもないはずだ。だが、今はそれを気にしている場合ではない。
「今度はそっちの番よ。何故異世界からニンゲンの男の子をこっちに連れてきて戻しているのか、その目的、聞かせて貰うわ」
するとステラはため息を吐いた。
「どうした?」とアーク。
「ついこの前話したばかりのことをもう一度話すなんて面倒。ねえあなた、代わりに話して」
「代わりにって、おい」
「違うところがあったら口出しするから覚えている範囲で話して」
「あのなあ」
幸助は嫌々ながらも、記憶の糸を手繰り寄せながら魔女の村に起きた悲劇について話す。一部はマチルドが言った内容と重複するので飛ばし気味に。肝心なのは、襲撃を予知してからの魔法使いの行動だ。
未来を見る魔法で滅びの運命が変えられないと知った彼らは、加害者に何らかの形で復讐しようと考えていた。そこで思いついたのが、異世界人の研究を活かし、男女比を狂わせるというもの。その時点では未完成で、滅ぼされた後に魔法を完成させる役割を与えられたのがステラである。呪いが完成すると、魔法使いが復活し、世の中には男が生まれなくなり、男を異世界から呼び出すことの出来る魔法使いは、支配者として君臨することになる。これが魔法使いの復讐。
これにステラが補足をする。
「付け加えるとしたら、魔法使いは滅ぼされたのではなくて、復活の時のために狭間の世界に逃げて封印されているに過ぎないってこと。私以外は。呪いが完成したら元の肉体を失っている私は恐らく消える。復活できる人数を少しでも増やすために、全ての役割が私一人に一任されたんだと思う」
「面白い話だわ。でも分からないことがある。比率を下げて生まれなくさせるのを女にした方が、異世界から呼び出すという形ではより強く支配できるんじゃないかしら? 繁栄に必要なのは女なのだし」
「もちろん、呪いを組み上げる時にそういう話もあった。でも男ばかりの世界になると出生数は急激に減り戦いが増える。支配者になることが復讐なのだから、滅びたら私達が困る。どんな夫婦でも基本的に生まれてくる子は母親の特徴を受け継ぐ、この性質を考えたら、減らすのは男が良いと判断した。それに、呪いが完成した後でも呼び出した男はいずれ戻すつもり。人間の世界への影響を最小限にして、支配構造を維持できるから」
「なら、男女比を崩すのも、ニンゲンを誘拐するのも、呪いを完成させる前の予行演習ってこと?」
マチルドが問う。
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」
ステラが目配せをして、アークが続ける。
今世界中にかかっている男女比の魔法は呪いが完成したら消され、今度は男が生まれなくなる魔法を再びかけるから、そちらは予行演習ではない。それはむしろ誘拐の件の方だ。魔法を使うためのエネルギーは、この世界の住人の感情の変化によって生まれるものだという。異界に人間の少年を送り込んで戻す、そのことによって人々は大いに嘆き悲しむ。それこそが誘拐事件の目的だった。
「突然現れて、村に受け入れられてから忽然と姿を消す……あれはそういうことだったのね」
「別れの悲しみが大きくなるまで待っていた。あまり長くいさせると、今度は少年の方に問題が発生する。元の世界に戻りたくないって思うようになったら、元に戻してからも支障が出ることが分かった。時機を見極める必要もあるの」
マチルドが感想を漏らし、ステラが解説する。通常は対象にしない少女を誘拐したのは単なる気まぐれだったと付け加えた。
「気まぐれって」
「そうだ、もう一つ言うべきことがあるの」
ステラはなおも続ける。
「この世界で『能力』と呼ばれている不思議な力のこと。これがいつ備わったかっていう伝承はある?」
「聞いたことはないわね」
「そう。驚くなかれ、それ、どうやら呪いの副作用だったらしい」
「どういうことよ」
「私は、狭間の世界に一族全員が逃げ込んでから最初の呪いを発動した。一人一人に呪いがかかるその過程で、魔法の力の一部が勝手に流れ込んでいることを確認した。だから『能力』と呼ばれているものは全て、私達が平和利用目的で開発した魔法とほぼ同じ。つまり、呪いを完成させたらそれが全て消えることになる。さっき言った世界の大きな変化というのはそれ。それが、呪い完成の合図だと思ってくれて良い。これで納得した部分もあるでしょう? 他の亜人とは子孫を残せない行商人の一族には、男が生まれにくくなるという呪いそれ自体は全く効かなかった。代わりに能力の流入だけが行われ、行商人は他の種族よりも強い能力を持つことになった」
マチルドは顔を青ざめさせていた。
「もしこの『能力』に依存している一族があったら、呪い完成後はそのためだけに魔法使いを呼び出すことになる。それに対する報酬もあてに出来るでしょう。そうすることで圧倒的に優位に立てる。力を失った人の絶望……素晴らしい復讐の完成が楽しみよね」
「もし、もしそんなことになったら、行商人の役割は崩壊するわ!」
「所詮その程度だったんでしょう。私達が与えた力を自分の力と勘違いして、その力をあてにして一人で行商が出来ていた、それだけで幸せなはず。『能力』を失っただけで機能しなくなる役割なら、私達が支配者になる世界には不要。もっとも、その時に私はいないけど」
「そんなに考え方が歪んでいるのは、一族を皆殺しにされた恨みからかしら」
「そう。平和を願っていた罪のない私達を、ただの敵としか見なさなかった人々には、安息や平穏は与えない。恐怖と隷属、それだけで十分」
「それは止められないのかしら」
何とか説得しようとするマチルドに、ステラは取り付く島もない。もしこの場でステラを殺せば、魔法使いによる独裁は回避できる。しかし、それでも『能力』を失うという未来は避けられない訳で、手出しのしようがないというのが現実だった。そもそも、アークとスピカが元の世界に戻るまでは手出しをしてはいけない。
「私達は奪われたものを取り戻したいのでも、謝罪を求めているのでもない。許すつもりはチリほどもない。求めるのはただ復讐、支配による復讐! それさえ出来るなら、私は何でもするわ!」
「ステラ……」
スピカが呟くように言った。ステラにはそれが気に食わなかったようで、彼女を睨みつける。
「可愛そうだ、なんて思った? 同情なんて求めていないの。私が何年、この年を取らない体で魔法を完成させるために動いてきたか、想像できる? 最初の襲撃から千年近く経ってるの! たかだか二十年しか生きていない小娘が偉そうに!」
「でもお前のマントの下は俺達のところじゃ十五歳の少女が着る服だぞ?」
アークがからかうようにステラのマントをまくり上げる。その下からは、長袖のセーラー服が覗いた。
「やめて!」
魔女は顔を真赤にしてアークを睨む。
「なんだ、そんな顔も出来るじゃないか。ずっと一人で心が成長しないから、お前だって見た目相応の小娘なんじゃないのか」
「うるさいわね」
「ねえステラ、どうして私が二十歳だって分かったの?」
「相手の思考や記憶を読む魔法があるからよ。最初に連れてきた時も、この秘密を知られたくなければ本名を明かすなって脅したでしょ?」
「ああ、そういえば。もしかしてそれを自分から話したから声を奪ったの?」
「そういう解釈も出来るわね」
「せっかくだからセーラー服をマチルドさんに見せてやりなよ。珍しい異世界の服だって」
「嫌よ。それより今はもっと考えるべきことがあるでしょうに。今のままじゃ、元の世界に戻ることさえ出来ないのよ」
場の空気が凍りつく。
「……どういうことなの」
スピカが震える声で言う。その正面にいるアークは、返す言葉が見つからずうなだれる。
「ごめんスピカ、俺のせいだ」
「誰のせいでもいいから、理由を話してよ。どうして帰れないの?」
「この世界と、あなた達の世界、それから魔法使いが逃げ込んだ狭間の世界の三つがある。これは良い?」
魔女が確認するように言って、スピカが首肯する。
「世界を行き来するには、狭間の世界を通らなければならない。でもそこは存在が不安定で、発見も進入も容易ではない。けれど、狭間からは安定した二つの世界へ道を開くことは容易なの。だから私はいつもそこにいて、二つの世界を見ていた。でも例えば、あなた達を誘拐した時のように外に出なければいけない時もある。そういう時は、場所を見失わないように魔法をかけてから外に出て、送り込む時や帰る時はその魔法が出す信号を頼りに空間に穴を開ける。そういう仕組みなの」
そこまで言ってからステラは、俯いたままのアークを据わった目で見やる。
「でもこの男は、この世界にもう一度連れて来る時に、私を巻き込んだのよ。だから私は今こうしてあなた達の眼の前にいる。逃げることも隠れることも出来ない状態でね。ええ、もう分かったでしょう? 無理矢理私をこの世界に引きずり出したから、場所を探知するための魔法は使っていない。だから、今の私には狭間の世界へ帰る手段がないの。それはつまり、あなた達二人を含めた四人の人間がこの世界に取り残されることになる。私も魔法使いの復讐を果たせないまま、この世界で朽ち果てることになる。私の体は不老不死だけど、存在がひどく不安定だからいずれは崩壊するでしょうね。十年ももてば良い方でしょう。私が本当の意味で死んだら、その時は呪いが消えて元の世界の姿を取り戻すだけ」
「……え?」
美奈は事態が飲み込めなかった。新しい情報が雨霰と降り注ぎ、そこに帰れないという絶望的な状況が加わったことで、もはや彼女は何も考えられなくなっていた。
「どうするのよ、それ」
この場にいる全員がいずれ起こる悲劇の被害者になる中で、比較的傷が浅くて済むマチルドが言った。逆に言えば、誘拐された青年らが帰れようが帰れまいが、行商人に対して降りかかる被害は変わらないのである。
「どうにかするしかないでしょう。このままじゃ全員が泣くだけよ。知恵を貸して」
一人屋敷に残ったシリウスは、村長のオスカールと対峙していた。既に年老いたとはいえ龍族である、油断も出来ない。武装した兵士が二人壁際に控えており、青いフードを被った側近もいる。
「さてシリウスよ。よくのこのこと帰れたものだ。お前の居場所など、もはやここにはない」
「承知の上です」
彼女の凛とした声が響き渡る。
「私は何も、居場所が欲しくて戻ったのではありません。交渉のために参上しました」
「交渉だと? まさか、ヴィクトールの奴のように戦争をやめようなどと言い出すのか」
「そうです」
「たわけた事を。それは不可能だ」
「いいえ、父の姿を見ていたのなら、可能だと分かるはずです」
「それは奴が愚かだったからに過ぎない」
「愚かなのはあなたの方です、オスカール様」
彼女の背後で、何者かが動く音がした。兵士が武器を構えたのである。
「早まるな。せっかく来たのだ、話くらいは聞いてやろう。そのくらいの価値はある」
兵士が一歩引いて元の位置に戻る。
「いいえ、戦っても良いのですよ。二人なら難なく倒してみせます」
「ほう、言ったな?」
オスカールはその場を動かず、シリウスの背後にいた兵士に合図を出し、戦闘態勢に入らせた。鳥の淑女は村長の左右を見やってから振り向いた。その瞬間、向かって右の兵士が槍を振り上げていた。斬撃を彼女の『能力』で弾き返すと、がら空きになった腹へ跳び膝蹴りを放ち、首元にある鎧の隙間に突きを入れる。倍近い体格差があるにも関わらず、兵士はよろめいた。だが倒れない。
シリウスが突きの攻撃を入れて着地した瞬間を狙い、もう一人の兵士が槍を構えて突進した。顔に向かう刃をシリウスは咄嗟に腕でかばうと、槍の先端部が折れて木屑が舞った。こうなることを予想していたのか、攻撃の手を緩めずに兵士は右フックを放つ。いくら女性とはいえ巨体で鱗に覆われた拳は巨石並みの破壊力がある。シリウスがそれをしゃがんで回避すると、拳はもう一人の兵士の腹部に直撃した。鎧を着けているとはいえ急所である、その瞬間に一人が戦闘不能になった。しゃがみこんだ状態からの勢いをつけて、シリウスは肘関節にアッパーを入れる。そうして出来た隙に必殺の一撃を、と構えたところで兵士はバックステップで距離を取った。そして、腹に一撃を食らった方は音を立てて倒れた。
「さすがヴィクトール様の娘。強さはそのままかい」
燃えるような赤い髪の兵士は、負傷した右腕を庇うように斜めに構え、ただの棒きれと化した槍を向ける。
仕掛けたのはシリウスだった。横薙ぎにされる棒を跳躍して躱し、その勢いで左肩に乗る。その場所から顔を蹴り飛ばす。リーチ的に膝を当てることにはなるが、それでも鼻に直撃するので十分だ。兵士が痛む右手で左肩を打った時には、既に鳥は飛び降りて尻尾を踏みつけていた。続けて彼女は膝裏に爪先の一撃を入れると、兵士はバランスを崩し横たわった。
シリウスは巨体を跳び越えて、再びオスカールに向き合う。彼女はこの狭い部屋で二人の龍族の戦士を相手に一撃も食らわずに倒してしまったのだ。
「オスカール様、もうやめにしませんか」
村長はあまりの早業に目を白黒させていた。最初の一撃で気絶、それを回避しても連携でもう一人が叩きのめす、そのくらいのことを想像していただけに、この圧倒的な力の差はただの脅威でしかなかった。
「馬鹿な、鳥に、鳥ごときにそんな力が備わるはずは ……本当にヴィクトールの力を受け継いだというのか」
「私が戦場に出ていることを、どうやらご存じないようですね。私はゾディアークの村長直属の兵団キャンサーの……今は指揮官です。これが出来たのも、父さんのお陰です」
「馬鹿な! 毒の悪魔ベテルギウスといい、今のお前の力といい、鳥にそれだけの力があるなら我々を滅ぼすことなど容易であろう!」
オスカールは、顔を青ざめさせながらシリウスを指さして叫んだ。騒ぎを聞きつけた他の兵士が、倒れた兵士を部屋の外へ引きずっていく。
「そうかも知れませんね。でも私もテルも、戦場では本気を出さないんです。テルは誰かを傷つけるのが嫌で、私は同胞である龍族と戦いたくないからなのです」
「龍を侮っているからであろう」
「いいえ、本当は誰もが戦いたくないからなのです。力の上では確かに龍族に勝る種族はいないでしょう。しかし、それでも本気を出していない鳥の兵団にも勝てていない。いいえ、引き分けに持ち込まれている。つまりあなたは勝てないんです。テルは夏になったら全軍をもってここを攻めるべく準備を始めています。長年続いた戦いに終止符を打つつもりなのです。もちろん私も参加します。そうなったら、勝つのはどちらでしょうか。互いに多くの犠牲を出さないためにも、戦争をやめるべきなのです」
「詭弁には応じぬ! 虚仮威しは通じぬ! やはり考えが甘かったようだ。今まで全力を出すまでもない相手と見くびっていたのが愚かだった。ならば、全ての誇りと兵力をもって、今宣戦布告をしようではないか。準備が整う前に全軍で攻め入る。我々を侮った報いを与えてくれようぞ!」
「お待ち下さい、話を聞いて下さい!」
「いいやシリウス、儂はもう我慢の限界だ。鳥どもにそんなに舐められていたと知っては、もう皆殺しにするまで怒りが収まらん!」
「全滅させたら食料を得る方法も失われてしまいます! 鳥の村が持つ食料の知恵は、きっとこの村にも役に立つはずです!」
シリウスが必死で訴える。その悲痛な叫びは、屋敷のあらゆる区画にまで響き渡るかのようだった。そしてその言葉に、オスカールも僅かながら冷静さを取り戻す。
「お前はそれを知っているのか」
「いえ、私は兵士として育てられましたので」
「そうか、奴隷として食料を作らせる必要もある。ならば、殺し過ぎるとかえって不都合ということか」
村長は椅子に腰掛けたまま、ふむふむと何かを考える。
「ならば、目標は村長ただ一人で良かろう。他の雑魚には目もくれず、ただ村長を討ち取ることで戦に勝利する。今までのただ力を見せつけるだけの戦いは必要なくなるだろう」
そしてオスカールは全ての村人に集合を呼びかけた。
迎撃するキャンサーの一団を全て無視し、ただ一直線に村長を狙うのだとすれば、ゾディアークの構造はあまりにも脆い。石を積み上げて作った壁は、龍ならば一人が足場になるだけで簡単に乗り越えられる。その中にある防御策はオフィユカスを囲う壁のみ。正面の門から屋敷までは一直線である。今まで一度も近くまで攻められたことがなく、暮らしを優先して壁の補強や増築をしてこなかったことが仇となる。このままでは、間違いなくテルは殺されてしまう。兵士数は少ないとはいえいずれも精鋭、それが一斉に一人を狙うとなれば、さすがに耐え切れるとは思えない。
結局シリウスの説得には応じず、村人には三日後の決戦を通達した。そしてシリウスには、テルに宣戦布告の手紙を届ける任務が言い渡された。
「奇襲を仕掛けても良いが、それで勝つのは卑怯というもの。迎撃する準備時間くらいは与えてやる。それでこその勝利だ」
既に外は日が暮れている。一刻も早くゾディアークに知らせるには、危険を承知で今すぐに発たなければならない。その前に彼女は、とある場所に立ち寄った。その民家のドアをノックする。中からマチルドが出てきた。
「あら、どうしたの」
彼女を招き入れて、行商人は言った。
「アーク、いますか」
「いるけど今は寝てるから用があるなら明日にして。私が伝えておくから。用事は何?」
「大変なことになったんです」
彼女はマチルドに、村長への交渉が失敗し、三日後にはゾディアークへテルを殺しに進軍すること、その宣戦布告の手紙を託されたことを話した。
「残念だけど、私達には力になれそうもないわ。教えてくれたことには感謝するけど」
「そうですか」
「いよいよ最終決戦という訳ね。それにしても、こんな雪の中戦うなんて馬鹿よね。鳥は恒温動物で、龍、つまり爬虫類は変温動物。その力を持っているということは、朝も言ったけど、冬場の動きにかなりの差が出るわ。夏に戦って今まで互角、冬では素早さの落ちた龍と変わらない鳥、どちらが有利になるのかしら」
「ゾディアークの勝ちでしょう」
「だから、あなたがその手紙を届ければ鳥の勝ち、届けなければ龍の勝ち。そういうことね」
「そんな……」




