ChapitreⅩⅩⅢ:メディア
言葉は、もともと魔術でした。言葉は今日でも
昔の魔力をまだ充分に保持しています。
フロイト『精神分析入門』
酒場にシリウスが現れたのは夕方だった。迷っていたのかと思えば、彼女が龍族の村に行ったら二度と戻って来られないと思った人々が必死に止めたからだという。もちろんそれは事実だ。和平交渉に行くつもりだが、裏切り者として殺される危険性や人質として利用される可能性が高いのだ。龍族とはそういう一族なのである。それでも彼女は行かなければならない。
雪の中で一晩を野宿で過ごすのはマチルド一人なら可能だが後の二人には耐えられない。そのため仕方なくベガの宿に一泊し、翌朝の出発ということになった。道のりが長い分、出発は出来るだけ早い方が好都合だからだ。マチルド一人の時に使った戦場を滑り降りる道は、単独行動だからこそ出来た芸当である。最短距離にはなるが斜面が急で危険なのだ。三人と荷車が安全に渡れるルートは、マチルドよりもシリウスの方が詳しく、道案内は彼女の役目になった。
「そういえばシリウスさん、母が鳥で父が龍だって言ってたわよね。お互いに睨み合って戦争してるのに、どうしてそんなことが可能だったの?」
歩きながらマチルドが尋ねた。
「戦場で相対した時に、お互いを見て一瞬で恋に落ちたそうです。母はそのまま嫁入りしました。父のヴィクトールは村で一番の実力者だったので、その決定には誰もが反対しながらも認めざるを得なかったようです」
「なるほど、父親に守られていたのね」
「逆に言えば、父がいてこその命でした」
彼は一人で戦争の中止を要請していたが、貴重な男のくせに鳥を嫁にするという頭のおかしな者の言うことなど、と誰も聞き入れはしなかった。
やがて村長はヴィクトール一家を追放する決定をする。感づいた父は母と娘をなんとか逃がそうとするが、村の総攻撃には耐えられずに捕まる。同じようにして母カペラも捕らえられるが、その二人が稼いだ時間でシリウスは脱出に成功、命からがらゾディアークに非難し、孤児として受け入れられたのだという。彼女の両親は見せしめとして処刑されたに違いない。
「以前は両親が亡くなったから居場所を追われたと話したかも知れませんが、厳密にはこういうことです」
「戦争を止めるのは、お父様の願いでもあったのね」
「はい。私は最初、この生まれと運命を呪いました。しかしアークが、私なら二つの村をつなぐ架け橋になれるかも知れないって言ってくれた時に、父の願いを改めて思い出したんです。戦争を止めたいという願いは、私だけのものではないんだって。私の両親、戦場で倒れた人々、その家族、誰もが、戦争がなければ大切な人が死ななかったって願ったはずなんです」
「とても良いことだけど、どうやって止めるの?」
「まずは話をつけます。龍族が求めているのは食料ですから、それを条件に交渉します。それが出来ないようなら、私が殴って止めましょうか。殺せば私が村長になれるので、そうして強制的に止めることも出来ます。それは、あくまで最後の手段ですが」
「案外、その最後の手段が一番賢い選択かも知れないわよ、シリウスさん」
「どういうことですか?」
「龍の弱点は寒さと燃費の悪さ。だから冬の活動量は極端に落ちるのよ。対して鳥はどう? 寒くても動きが鈍るということはないし、燃費は良いでしょう? それに気づいているのかいないのかは知らないけど、冬に戦う場合は鳥の方が圧倒的に有利よ。今まで夏にしか戦ってなかったから、知らないのかもね」
「そんな手で勝ったって私は……」
シリウスは足を止めた。
「いつか言ったと思うけど、目の前に好機が転がっているならそれを逃す手はないわ。私が村長や他の村人と話した限り、鳥と違って議論が出来る連中じゃなかったわ。話し合いで解決できる相手じゃなさそうね。自分の言っていることは常に正しい、自分が一番偉いと思い込んでる。ああいうのは、殴って傷めつけてどちらが上か教えてあげないと止められないわよ」
マチルドとスピカも同時に立ち止まる。
「そう、ですか」
「どうするかは任せるけど、もし実行に移すならアーク君を取り返してからにしてね。先にいざこざを起こすとこっちの取引に支障が出るから」
「私が村長になればすぐにでも解放させますよ」
「それは不確定要素でしょう。こっちには、少なくとも彼を取り戻すための策があるの。そっちが先」
スピカもシリウスもその策が何なのか気になったが、マチルドは秘密だと言って答えなかった。三人はその場で一旦足を休めることにした。
「ところでマチルドさん、アークを引き取ったらその後どうするんですか? ゾディアークに戻るんですか?」
「彼の状況にもよるけど下山するでしょうね。こんなことになってちゃ、戻るに戻れないし」
「少しの間だけ、お借りしても良いですか? 戦争を止める手伝いをして欲しいんです」
「スピカちゃんがダメって言ってるわ」
見ると、スピカは腕を交差させている。
「ですよね」
「あら、案外あっさり引き下がったわね」
「分かっていたことなんですよ。彼が私のことを何とも思っていなかったことも、村長になるつもりがなかったことも、私なら架け橋になれるっていうのも咄嗟に飛び出した嘘だってことも、本当は私じゃなくてスピカを正妻にしたかっただろうことも」
スピカは首を大きく振って否定した。それから近くの枯れ木の枝を折り、雪の上に文字を書く。
『村長のこと 本当 それ以外 嘘』
「彼は最初から私を正妻にするつもりだったの?」
『分からない』
「でも私は彼に嫌われてたわよ?」
『大切な人 似てる 悪いこと 思い出す』
「大切な人って?」
『言えない でも 助けたい 本当』
「何か複雑な事情があるのね」
『そう』
一陣の冷風が吹き抜けた。周囲を靄に囲まれ、空も翳っている。天気が変わりそうだった。
「まずいわね、こう視界が悪いと、もう道案内も出来ないわ。引き返すのも遠いし、どうしよう」
「大丈夫、霧を払えば……消えるのは一瞬よね。じゃあこの雪から地形図を探って進みましょうか。もう半分くらい来ているわよね?」
「はい、上り坂を見つけられればあと少しです」
「よし、任せて」
マチルドは地面に手を当てると、納得した顔で進路を決めた。道は多少険しくなったものの、山登りの道に入った。ついに雪も降り始めた。
「本降りになる前に、急ぐわよ」
「マチルドさん、一体何者なんです?」
「いろんな能力を持ったただの商人よ」
そうして彼女らはウーラノスに辿り着く。しかし雪が降り始めたからか、門の前には誰も居ない。マチルドが木と鉄の門を壊れる寸前の勢いで叩くと、中から人が現れた。その門番は一行を見て客人への対応を忘れてしまった。この雪の中に訪問者がいること、それがつい二日前に二軒の家を潰したマチルドであること、鳥を嫁にしたことで顰蹙を買ったヴィクトール将軍の娘シリウスがいたこと、見知らぬ鳥の少女がいたこと、これだけの要素が重なっていたからである。兵士は明らかな動揺の色を見せて要件は、と尋ねた。
「村長への謁見。それと、宿と温かいものを」
「今オスカール様は体調を崩されておりまして」
「嫌だと言うなら壁を吹っ飛ばして無理矢理入るわ」
「お、お入り下さい」
兵士は渋々といった様子で三人を迎え入れた。近くの小屋で少し休憩してから、山頂へ一行は再出発する。その休憩中に話が広まったのか、雪が降っているというのに村人は奇妙な三人組を見ようと家の外に出ていた。見ているだけで実際には何もしない。だがスピカにとっては針の筵のような感覚で、マチルドの横に終始くっついていた。
やがて三人は山頂に到着し、村長に謁見する。まずオスカールが尋ねたのは、その要件だった。鳥を連れているというだけで、そこにはただならぬ意味があると感じ取ったからである。
「気になっているでしょうそっちの方は後でじっくり話すと良いわ。まずはこちらの話。あなたが捕らえているというリゲルをこちらに渡して欲しいの」
「戯言を」
「いいえ、必ず手放すことになるわ。もちろんただでとは言わない。ゾディアークの最新情報をまずは教える。その後に判断して」
「聞くだけならただということか」
「そういうことよ」
そしてマチルドは語った。ラザルの息子リゲルが既に死んでいること、そのために影武者を立てたこと、ラザルが殺され、影武者が村長になったがやがて英雄ベテルギウスが取って代わり、影武者が追放されたこと、龍が捕らえたリゲルはその偽者であるということ。
「偽者だと?」
「そうよ。だから今の彼には交渉の道具としての価値はないわ。ラザルには渡せなかったけど、村長はあの手紙をまるで意に介さなかったわよ」
「シリウス、それは本当か」
「本当ですよ。それに私は、彼の妻でもありました」
「ふん、偽者の妻か。お前らしい」
なんと性根の腐った男だと、マチルドは眉を顰めた。シリウスは反論もせず、奥歯を噛み締めていた。
「それで村長、これでリゲルを捕らえておく理由はなくなったでしょう。引き渡してくれないかしら」
「そういうことか。ならせめて食料に――」
その時、屋敷全体に木がたわむ音が響き渡った。見ると、マチルドが片手を上げていた。
「渡してくれないかしら?」
笑顔で脅迫する。答えを決めかねているようなので、天井の梁が歪む程の負荷をかける。木屑や埃が舞った。
「交渉の下手な商人め。最初からそう言わないか」
「何を言っているの? 私は最初から、情報を渡す代わりに彼の身柄を要求しているのよ」
「わ、分かった、取引には応じよう! 今すぐこれを止めるのだ!」
「彼をここに連れてきて。話はそれからよ」
「直ちに人質をここへ!」
「はっ!」
恐怖に駆られると判断能力を失う。生き残るための選択肢を本能的に選ぼうとする。取引を強制的に執行するには時にはこういう脅迫も必要なのだと、行商の世界では教えられている。商人としての立場に著しく反し、村人に行商人へ反感を抱かせると商売相手を減らすことになるから、あまり使うべき手段ではないとされる。しかしここは外界との関わりを好まない龍族の集落である。デメリットは皆無同然だ。
そして、村長の部屋に二人の捕虜が連れて来られる。男の方は、マチルドの顔を見るとぱっと顔を明るくさせて駆け寄る。
「マチルドさん! 来てくれると信じてました!」
「本当、運が良かったわね。こんな時期に私がここに来ていなければ、きっと助からなかったわよ」
気がつけば、屋敷のきしみは聞こえなくなっていた。オスカールはこれで交渉は成立しただろうと言って、五人を追い払おうとする。そこへ、シリウスが進み出てアークの手を取った。
「良かった、無事で」
「シリウス……ごめん、俺、お前に助けられたのに、お前を励ますようなことを言ったのに、結局俺はお前のことを傷つけてばっかりだったよな。ごめん、それと、ありがとう」
「いいんだよ、変な期待をしていた私が悪いんだから。ねえアーク、今から、戦いを止めるために交渉しようと思うの。手伝ってくれないかな」
「悪いけどそれは出来ない相談だ」
そして彼はオスカールに向かって言う。
「村長さん、俺を解放したということは、もう俺の正体を知ってるんですよね」
「ああ、今その商人から聞いた」
「ということはだ、シリウス、俺は何の力にもなれない。交渉のための権力はないし、戦争をしている背景も理由も一部しか俺は知らない。調停をするだけの力は、俺にはないんだよ」
「そう、だよね」
シリウスは手を離し、肩を落とす。
「だから俺が言えることは少ないけど、いくつか言えることがある。まず、互いの戦う理由を明確にすること。そこから、お互い納得の行く結末を導く方法が一つ。次に、戦争の被害を数にすること。戦争で失われた人口と時間を割り出してみて、それでも戦う価値があるのか、確認してみるのも一つ。負けを認めるのも、一つの戦略だ。それでも無理なら、決着がつくまで戦い続けるしかない。どちらかが全滅するまで戦う。そうすれば戦争は間違いなく終わる」
「影武者よ」
不意にオスカールが話しかけた。
「我らは移住の時より戦い続けている。もはや勝つことは意地なのだ。そう簡単に止められるものではないぞ」
「そうやって勝つことそれ自体が目的になっていては、何も得られませんよ、村長。シリウス、悪いけど俺には本当に何も出来ないんだよ。力にはなれない」
「ううん、私こそ無理なお願いをしてたんだよ。こうなって当たり前、私一人で父さんの遺志を継いでいかなくちゃいけなかったんだ」
「ああ、頑張れよ。さあマチルドさん、俺達も行きましょうか――」
ふと彼の目に、黒髪の少女が飛び込んできた。思わず美奈と呼びそうになったのをぐっとこらえる。
「スピカなのか?」
少女は首を縦に振る。
「一体どうしてこんなことに」
「話は別の場所でしましょう。君の後ろにいる女の子も気になるしね。ところで村長さん、またお願いがあるんだけど良い? 寒さがしのげて人が近づかない、そういう家ってないかしら?」
オスカールは嫌そうな顔をしながらも、柱を折られでもしたら敵わないと、空き家を一つ彼らにあてがった。そして彼らは、追い出されるように屋敷を後にした。
彼らに貸し出された家には多少なりとも埃が積もっていて、最初は換気する必要があった。食堂には暖炉があったので、そこに火をおこす。マチルドは一人旅をしているだけあってこの手の技術はお手のものだった。薪には別の部屋にあった家具を壊して利用した。アークは少々机を壊すことをためらったが、もうすぐ無関係になる世界の話だからと割り切れるようになっていた。荷車から刃物を取り出して椅子とテーブルの足を切り、四人の背丈にあった高さにして暖炉の近くに置いた。
「ところでステラ、スピカが喋れなくなってるのはお前のせいか?」
ステラは帽子を被ったまま首肯した。
「戻してやれないのか?」
帽子を押さえながらアークを見上げ、次いでスピカを見る。彼女は無言でスピカに近づいた。
「アーク君、その子ってもしかして……」
「はい、呪いを生んだ魔女の生き残りです。そして、俺とスピカをこの世界に呼んだ張本人。名前はステラ」
「Nir putreim picno verbia vox itunis」
ステラは指先をスピカの額に当てて呪文を唱えた。すると接点が紫色に光り、すぐに消える。
『どう?』
美奈の脳内に、魔女の声が響く。
「ぁ、あ、あー……戻った! やった、戻った!」
少女はアークに抱きついて喜びを表現した。
「良かった、本当に良かった……私、もう二度と喋れなくなるんじゃないかって不安だったんだ。羽は真っ黒になっちゃうし、声は変になっちゃうし、これじゃまるで嘘つきカラスのお話みたいだなって……」
「あのさスピカ、見られてる」
「ごめん!」
スピカは突き飛ばすようにアークから離れた。彼女が落ち着くのを待って、四人で円卓に座る。
「さて、状況を確認しましょうか。新しい人もいるし、自己紹介からね。私の名前はマチルド。行商人をやっている身だけど、魔女伝承に関する調査も行っているわ」
しかしながらステラは、アークとスピカの顔を交互に見るだけで何も言おうとはしなかった。そこでアークはあることに気づく。
「そういえばステラ、お前って俺と二人だけの時以外は全く喋ってないよな。何か理由があるのか?」
ステラノートは口が利けないのではない。そのことは幸助も美奈も知っていた。その訳を尋ねようにも本人は口を閉ざしたままだし、周囲の彼らに推測することなど到底出来なかった。
「……この人はただ知的好奇心で魔女のことを調べてるだけだよ。別に何かを知ったからといって危害を加えるつもりもないってさ」
幸助に考えられるのは、それが限界だった。しかしこのことが功を奏したのである。
「ふうん、じゃあ色々と知ってるの。なら教えてあげましょうか、何故私達魔法使いの一族は滅ぼされなければならなかったか。ねえ二人とも、そこを立って場所を入れ替わってちょうだい」
スピカとアークはその意味が分からなかったが、言われるままに席を交換した。
「これで何になるんだよ?」
アークトゥルスが言うとステラは不敵に笑い、
「今ここで何が起こったのか、その人に語らせてみて」
その人、とはマチルドのことである。青年が魔女の言ったことをそのままに伝えると、
「何って……その魔女がいきなり訳の分からない言葉を言い出して、何を思ったのか二人が場所を交換しただけじゃない。薄気味悪い。何? 二人にはこの子の言ってることが分かるの?」
二人が驚かされないはずはなかった。逆に彼らからすれば、ステラの言葉が分からないマチルドの方が不思議に映るのである。
「これが真実……と言ったところで理解されないんじゃどうしようもないか。あなたにも魔法をかけてあげる必要があるみたいね」
ステラはおもむろに立ち上がると、右の掌をマチルドに近づける。すると行商人は反射的に魔女の右手首を掴み、そのまま引っ張って机の上に体を投げ出させて固定した。押さえつけるマチルドの腕力が強いのかステラが非力なのか、魔女の抵抗は何の効果もなさなかった。
「んっ、放しなさいよ、この!」
「何をするつもり?」
「言葉が通じないから……ってもう、これだから!」
アークには両者の言葉が分かるのだから、この二人の間でだけ通じていないというのは信じられない。しかし今目の前で起こっている現象がそれを証明しているのである。彼はこのままだと話が進まないと思い、やれやれと呟いてから助け船を出した。
「言葉が分かるようにしてくれるそうですよ」
「ああそうなの? なら早く言いなさいよ」
マチルドの言葉が分からないステラにも、この好奇心の塊が謝っていないことはよく分かった。拘束を解かれた魔女は目的通り、マチルドの額に右手を当てて言葉を呟いた。
「Nir putreim picno verbia klat……これで私の言葉が分かるでしょ?」
「え?」
殆ど一瞬のうちに起きた変化に、行商人は驚きを隠せない。
「これが魔女の力なの?」
「ええ、そうよ。仕組みは後で説明するわ」
言うと魔女は、帽子とマントの位置を直しながら元の椅子に座った。
「じゃあ改めてもう一度名乗るわ。私はマチルド。魔女の伝承を調べながら行商人をやっているの」
「ステラノート・レーヴ・ソルシエス。長いからステラで良い。それと……滅ぼされたと言われた魔法使い一族の生き残り」
「本当に?」
「今見せた魔法でもまだ信用してくれないなら、どうすることも出来ない」
「少なくとも、俺をこの世界に連れてきたのは彼女で間違いありませんよ」
スピカもそれに同意する。
「そうなの。なら、話してくれない? あなたがこんなことをしている理由」
「良いわよ。お望みとあらば、魔女の伝承の真実も、呪いをかけた目的も、全部」
ステラはあっさり承諾した。そう簡単には手に入らず、何かを要求されるものだとばかり思っていたマチルドは拍子抜けした。理由を問うと、
「もう隠してもしょうがないから。魔法使いの計画が失敗する直前まで来てるし、伝えてくれる人がいるのなら、それだけでありがたい」
ステラはそう答えた。この失敗という言葉の意味は、真実を知っている二人と知らない二人との間では全く解釈が異なっていた。
「魔女伝承の真実を聞かせてくれるのはありがたいけど、さすがにただって訳にはいかないの、商人として。だから何か欲しい物、して欲しい事があるなら今のうちに言っておいてちょうだい」
「敢えて言うなら、私達がやろうとした事を成就させるために知恵を貸して貰うことと、ここで聞いた事をしばらくは誰にも話さないこと」
「構わないけど、伝えてくれるとありがたいってついさっき言わなかった?」
「少し条件をつける。あと十年くらい経つか、世界に大きな変化が起きたら、今からする話を口頭でも本でも良いから広めて」
「大きな変化って何よ?」
「それもこれから話す。約束できる?」
「ええ、約束するわ」
その時にマチルドの口角がわずかに上がったのを、アークは見逃さなかった。
「ところでステラ、忘れないうちに聞いておきたい事がある」とアークが威圧するような目で言った。「どうしてスピカの声を奪ったんだ?」
それにスピカも質問を続ける。
「理由は分かるよ、私が余計な事を喋ったからでしょ。私はそれより、声が戻っても髪が戻らないのが気になる。連動してたんじゃないの?」
実際、髪が白くなっていく、という現象はまだ見られていなかった。髪が真っ黒だと、天野美奈の姿そのものである。
「そう。あなたに罰として声を出なくさせたのは、本名を言ってはいけないという禁則に抵触しかねないことを彼に言ったから」
「やっぱりあれだったんだね」
「いやちょっと待て。本名の件は嘘だったって俺に言ったじゃないか」
「それは『本名を言うと元の世界に戻せなくなること』が嘘だって意味。本性を明かしてはいけないという禁則があったことには変わりはない。私は別に何もするつもりはなかったけど、クランチの命令だったから」
「クランチって誰?」
「大いなるクランチ=ヴァニタス。魔法使いの魂の集合体で、私を操る存在。私の行動を全て決定づけていると言っても過言ではない。でも今の私にはその束縛はない。だから、もう本名で話をしても構わない」
しかし幸助と美奈は、それでもアークトゥルスとスピカの名前を、この世界にいる限り名乗ることを選んだ。その姿が人間だった時のそれともかけ離れているし、偽名は、この姿とこの世界に残しておきたかった。
「髪の変色はやった覚えがない。クランチが勝手にやったか、声を奪う魔法の副作用だと思う。別に支障はないでしょう?」
「まあ、確かに」
「すみませんマチルドさん、話を脱線させて」
「いいのよ、お陰でかなり面白い事が分かったしね。まさか誘拐された『彼ら』が偽名を名乗っていたなんて知らなかったわ」
「いいえ。偽名を強制したのはこの二人だけ。二人同時に転送したから条件を足した、それだけ」
「ふうん。そろそろ本題に入らない? どうしていつも一人なのに今回は二人だったのか、そして女の子がいるのか、そこら辺も含めてじっくりと聞かせて」
「そうね。全部話すとかなり長くなるけど」
「ところで、呪いを受けた側と掛けた側とでは、一連の事件に関する見方はきっと違うと思うのよ。まずそこを確認しても良いかしら?」
「それもそう」と魔女。「だいたい把握しているつもりだけど、一応聞かせて貰いましょうか」
マチルドは集めた情報をまとめて、一般に広く知れ渡っている魔女と呪いの噂話について語った。
かつて世界には不可思議な術を使う魔法使いと呼ばれる一族がいた。その術を不気味に感じていた他の人々は、魔法使いを怪しみ、恐れていた。だから誰一人として、自らその集落に近づこうという者はいなかったという。それでも魔法使いは誰かに危害を加える存在ではなかったため、手出しをしようとする者もいなかったのである。
ところが人々はある日、魔法使いがふらっと村に現れるのは、村を滅ぼして乗っ取るための下見だったという話が飛び込んでくる。その話はあっという間に伝播し、複数の村が結託して魔法使いを討ち滅ぼす計画を立てた。それに合わせるかのように魔法使いは村から外には出なくなり、怪しげな動きを見せ始める。戦う準備をしているのだろうと誰もが思っていた。その情報は、討伐軍の準備を加速させることになる。数日後、人々は魔法使いの集落を囲うように陣を敷いた。太陽が最も高くなる瞬間を合図に進撃開始。どんな苦戦を強いられるのか、人々は戦々恐々としていたにも関わらず、その戦いは戦いとさえ呼べるものではなく、一方的な虐殺として一瞬のうちに終了した。村をくまなく調べて全滅を確認すると人々はそこを去った。これで平穏な日々を取り戻せる。そう確信していた人々の胸には、一つの疑問が上がっていた。積み上げたはずの死体が、退却時には一つも残っていなかったことである。
それでも人々は、魔法使いの一族を滅ぼしたことによる歓喜で沸き立っていた。奇妙な事件が起き始めたのは、それから百年余りが経ってからのことだ。村から男が減り始め、また、村人が突然失踪する事件が増え始めたのである。当時はまだ村の交流、村を越えての結婚も盛んで、それが世界中で起こっている怪現象だと人々が知るのにそう時間は必要としなかった。魔法使いの討伐をした人々の子孫がそれを聞いて、これは彼らの復讐だと、そう言い出した。複数の村でもそうに違いないという声が上がる。人々は忘れられようとしていた襲撃事件を語り継ぐことにした。魔法使いの村があったところに石碑を建て、祈りを捧げる人が殺到したが、怪現象は止まらなかった。その結果、自分の村から他所へ婿を出すことを躊躇う集落が増え、交流は途絶える。それに従い魔法使いの虐殺を語り継ぐ者はごく一部だけになっていった。その過程で魔法使いの怪現象はいつしか魔女の呪いと呼ばれるようになっていく。
男が生まれにくいのは、滅ぼされた魔女が復讐のために世界に蔓延させた呪いなのだ――今ではそういう形となって、まるでお伽噺のように語り継がれている。




