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見えない翼  作者: 桑名 銀天
第一部 変異編
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ChapitreⅠ-A:偽られた御子

 自分は初め眼を信じなかった。次に、これは夢に違いないと考えた。夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を、自分はそれまでに見たことがあったから。どうしても夢でないと悟らねばならなかった時、自分は茫然とした。

中島敦『山月記』


 彼は黒い穴に落ちた――厳密に言うなら落とされた――直後に気を失った。空中に投げ出されたはずであったのにも関わらず、何故だか暖かくて柔らかい何か、例えるならゆりかごのような物にくるまれているような、そんな感覚が彼を包んでいた。


 ようやくそんな無意識に感じる懐かしい感覚から解放されたかと思えば、全身の浮遊感はそのままだった。その次に感じたのは、全身に吹き付ける激しい風だった。いや、激しいなどという言葉で表せるような生ぬるい物ではない。暴力的な風とそれが生み出す轟音が彼を襲っていた。


 風があまりにも強い為呼吸が出来ず目もを開けられない。うっすらと開けた目から覗けた世界は真っ白だった。それだけでは自分の置かれた状況が分からない。目を薄く開けたままでいると、突然真っ白な世界が緑と茶色の世界に塗り替えられた。


 首を少し傾けてみると、今度は青と白で埋め尽くされた。そこで彼は浮遊感の正体に気付く。自分は空に投げ出され、落下している最中なのだと。命の危機を自覚しながらも彼は不思議とどうにかしようと慌てることはなかった。生身の人間に何かが出来るとも思わないし、酸欠のせいか思考も朧気になっていたからだろう。


(俺、死ぬのかな……いや、それとも死んだのかな)


 ――これが夢なら夢で良い、地面に激突する直前には覚めるだろうから。また現実なら現実で、死を受け入れる以外にはどうしようもないから。


 しかし、風の感触、風の音、標高による寒さ……これらの悪夢のような痛みが異様な現実味を伴って、これが夢ではないのだと彼に実感させる。しかしそうして現実側に傾いても、そこにあるのは無力な自分だけだ。


『困ったわね。飛べる?』


 遠くなっていく意識の中、風の音とは別に女性の声が聞こえた。耳から物理的に入ってくる音とは違い、頭の中に直接響くような、そんな不思議な声だった。


(飛ぶ……?)


 返事をしようと声を出してみるが、それは風にかき消される。そして再び声が響く。


『あなたは飛べる。あなたには翼がある。さあ、羽ばたいてみて』


(飛べる……? 翼が……? 一体、何の……)


 混乱している間にも、地上にみるみる接近していく。それに従って、山頂に築かれた集落が見えてきた。人里を避け、村を囲う森の中に落ちようと体を傾けてみる。ゆっくりと旋回を始めたが、突如吹いてきた横風に流され、バランスを失ってしまった。周りに遮る物がない場所故に、こういう場所に吹く風は強いのだ。


『さすがに無理ね……仕方ない、今回は特別! Nir――』


 そんな声が聞こえたかと思うと落下速度がふっと緩んだ。彼の体は風に流されながら落ちていき、やがて山頂の屋敷、そこから潜望鏡のように伸びた石造りの塔に激突した――いや、正確に言うならその頂上にいた一人の女性にぶつかったのだ。衝撃で二人ともその場に倒れてしまう。


 不審な物音を聞きつけた一人の茶髪の女性が塔の屋上、その床からひょっこりと顔を出した。独房くらいの広さがある円形の床に、男と女が倒れている。意識はないようだ。生死は不明。男が上に覆い被さって、ちょうど女の胸の上にその顔があった。


 子どものように小柄なその女性は目の前の状況にいろんな意味で驚き、立っていた石の階段から足を滑らせ少し下にある踊り場まで転がり落ちた。


「どうした! 何があった!」


 塔の下の方から声がした。密閉された空間なのでよく反響している。


「大変です! 大変なお方が倒れています!」


「不審者か! 今すぐ引っ捕らえろ!」


 その声の主は階段を駆け上がり少しずつ頂上に近づいている。


「いえ、動かないので問題はありません! それよりも……」


「それよりも……何だ?」


「『耳より目を信じよ』と言うでしょう。くちばしで説明するよりご覧になった方が早いです!」


 女性が屋上に戻った時、男女は相変わらず重なり合ったままだった。よく観察してみると、二人とも確かに息をしている。


 やがて先程その女性と会話していた勇ましい風貌の若い女性が駆けつけた。袖口と裾だけが黒く塗られた真っ白い服を纏った白髪の女性である。水色の帽子を被り、胸元には黄色いリボンを付け、腰には黄色いポーチを提げていた。


 彼女は二人を見た途端に顔を真っ赤にしたが、それは長い階段を急いで登ってきたからだけではないだろう。


「な、何とふしだらな! 我らがシリウス様に対してこのような事……」


 俯いて、拳を真っ白になるくらいに、震えるくらいに強く握り締めた。それから握り拳をほどいて腰に帯びた剣に手を伸ばす。


「罰を与えてやろう!」


「お待ち下さい!」


 銀色の刀身が現れる前に部下の女性がそれを制止した。


「こちらの殿方のお顔をご覧になって下さい」


 意味ありげなその言葉で落ち着きを取り戻し、上司はその男の顔をしげしげと眺める。途端に驚き言葉を失った。


「あのぅ……いかがなさいましょうか?」


「いかがも何もあるか! ここは私が何とかする。お前は今すぐ報告に参れ!」


「りょ、了解でありますっ」


 部下はびっと敬礼をしてから、階段を駆け下りていく。慌てて階段を踏み外したり転びかけたりしているのだろう、短い悲鳴のような奇声が何度か頂上に届いた。


 屋上に留まった方は、慎重な足取りで倒れている二人に近づく。それから男を女の上からどけてその横に寝かせると、再びその姿をまじまじと眺めた。


 上着は上から下にかけてグレーのグラデーション模様、だぶついたズボンは黄色みがかったオレンジ色。髪の色は焦げ茶で一部が跳ねており、先端だけが白っぽい前髪など、一見地味な風貌でありながらそこにはある種の凛々しさがあった。


 目立つ傷も、争ったような形跡もない。特に異常はなく、ただ眠っているようにしか見えない。


「顔だけは良く似ているな……これは偶然なのか? それとも」


 ぽつりと呟くと、全身が毛羽立つようなおぞましい風が吹き抜けた。思わず身をすごめて辺りを見回す。しかし妙な気配の正体は分からなかった。


「今のは……?」


 男をまたぎ、倒れている女性の方へと歩み寄る。宝石のように澄んだ青い髪が目を引く、目鼻立ちの整った美しい女性だ。着ているロングコートは袖が青く、襟元が黒で生地が毛羽立っていた。


「シリウス様、お気を確かに! 大丈夫ですか!」


 シリウスと呼ばれたその女性の上体を起こして声をかける。男と同じで、彼女の方にも目立った外傷は見られなかった。


「ん……」


 シリウスはわずかに顔をしかめさせた後、薄目を開けた。


「シリウス様!」


「あれ……私どうなって……あ、ピース?」


「ご無事で何よりです」


 ピースと呼ばれた白髪の女性は目に涙を浮かべていた。


「ええ、私は平気。それよりもどうして泣いてるの?」


「シリウス様、あなたが無事だったのが嬉しいからですよ」


「私の身に何かあったのね?」


 ピースは言葉では答えず、傍らで眠る青年を見た。シリウスもそちらを見ると、何かを思い出したかのようにはっとなった。


「ああ、思い出した。この人がいきなり空から降ってきたの」


「は?」


 ピースが思考停止したのも無理はない。そもそも空から人が降ってくることなどどう考えても起こりえない。況んやここは雲の高さにある山頂の集落、それより高い場所を飛んでいたものが落ちてくるなどとは想像できようはずもない。


「上の方から声が聞こえてそっちを見たら、この人がこちらに落ちてくるのが見えてね。私の能力で受け止めようとはしたんだけど、いやはや力及ばず」シリウスは自分の額をなでた。


「そんな事はございません。大した怪我がなかったのは大変素晴らしい事です」


「それよりもこちらの……殿方は大丈夫かしらね?」


 シリウスはピースの腕の中から優雅にふわりと立ち上がると青年を抱き起こした。その頬を小気味よく叩きながら呼びかける。


「もしもし? 大丈夫ですか?」


 青年は依然として意識を取り戻す様子はなかった。もしや、と不安を抱きながら自分の耳を青年の口元へと持って行く。すると、温かい風が感じられた。その弱い風が、彼女の不安を吹き飛ばした。


「息はあるようね、良かった……あら、この方はもしかして」


 まるで同意を求めているかのように、ピースを見上げる。真剣な顔で頷きながら、


「やはり、そう思われますか」


「リゲル様……なのでしょうか」


 シリウスは腕の中で眠っている男の胸元に触れてみた。女性特有の『柔らかいもの』がそこにはなかったので、男であるという事実を確信した。


「殿方であるのは間違いないね。となると私にも秘密にしている影武者の可能性は低いか」


「シリウス様、まずはこの方を村長のところに連れて行くとしましょう」


「そうね。よいしょっ……と。やっぱり男の人は重いね」


 シリウスは男の肩と膝に腕を回して一息に持ち上げた。


「シリウス様、それなら私が!」


「一番に見つけたのは私。連れて行く責務があるのも私。違う?」


「は。では、お供します」


「ありがとう」


 二人は、いや三人は、ゆっくりと石の塔の階段を下りていった。


     *


 青年は柵のない崖の先端に立っていた。頭上の月のない夜空では星が瞬き、目前に広がる海は不気味なくらい真っ黒である。後ろを振り返ると、真っ黒い木々がびっしりと立っている。波の音も風の音もない、無音の世界だった。


 この寂れた感じ、あの崖にどこか似ている――青年はふとそう思った。


「似てはいるが……全然違う場所だな、ここは」


「そうよ。よく分かったわね」


 不意にどこかから聞こえた女性の声に青年は辺りを見回す。


「誰だ!」


「無駄よ、どんなに探しても私の姿は見えないわ。この空も海も地面も森も全て私なのだから」


 声が聞こえてくる方向を特定出来ない。神経をとがらせてみてもあちこちから気配がする。どうやら声の言っていることに間違いはないようだ。


「……それで、俺はどうしてこんな場所にいるんだ」


「あなたにちょっと頼みたい事があるの。拒否権はないわ」


 物理的な音声と言うより、記憶の中にある音声を再生しているかのように聞こえる、奇妙な声だった。


「一方的だな……」


「簡単な事よ。これから連れて行く村で生き延びて欲しいだけ」


「断る」間髪を入れずに彼は即答した。「連れてこられたとしてもすぐに帰らせて貰うぞ」


「残念だけど、どんなに歩いたり泳いだりしても帰ることの出来ない場所に連れて行くの。ここがそうであるようにね」


「一体何だよそれ?」


「心配しなくても時期が来たら迎えに来てあげる。それまでしっかり生き延びてちょうだいね」


 まるで、子どもに留守番を命じる母親のようだ。だが言っている内容と背景状況は、それとは全く別の次元である。


「何だってそんな事を……」


「あなたみたいな幸せ者には分からないでしょうね。相手を慕って自分の命を顧みないなんて、そうそう出来る事じゃないわ」


「一体何の事だよ」


「あら、心当たりがないの? あなたを慕うあの女の子、あなたを追いかけて来たのよ?」


 考えるまでもなかった。自分を慕っている女の子と言われて思い浮かぶのは、たった一人。


「……美奈もここにいるのか?」


 彼の声は、わずかだが震えていた。それが怒りから来るものなのか、はたまた別の何かがそうさせているのか、彼には分からなかった。


「会おうとすれば会えるし、邪魔をするつもりもない。だけどね、その世界ではたった一つだけ約束を守ってもらうわ」


 その先の言葉の恐ろしさを予感して、幸助は唾を飲み込んだ。しかしその予想に反し、守るべき約束というのは実に単純で簡単なものだった。


「どんな事があっても、本名を明かしてはいけないわ。自分の本当の名前を誰かに喋ったら、元の世界には戻せなくなるから」


 わずかの間を置き、幸助は挑発するように「ほう?」と言った。


「何?」


「『戻れなくなる』んじゃなくて『戻せなくなる』んだな」


 僅かな、奇妙な沈黙。


「……ええそうよ。それと、もう一つ」


 女性は、彼の耳元で何事かを囁いた。みるみるうちに青年の表情が変わっていく。


「おい、どうしてそれを……」


「あの子に知られたくないでしょう? だから、絶対に喋ってはダメ。もし訊かれたら、白を切り通しなさい」


「つまり、偽名を使って別人として振る舞えって事か」


「そう。それを守って、ある程度生きていけばいいの。簡単でしょう?」


 確かに、自分ではない誰かとして過ごすのはそう難しいことではない。だが、さすがにずっと仮面を被りっぱなしでいるのには限度がある。


「ある程度ってどのくらいだよ」


「それは、状況次第。フフフ。それじゃあ、頑張ってね」


「頑張れって……おい、まだ話は終わってないぞ!」


 不穏な気配が消え去った。不意にひょっこりと現れたと思ったら一方的な要求を押し付け、こちらの話も聞かずに一方的に会話を遮断する――その傲慢さにちっ、と舌打ちをする。


 夜色の帳が降りていた世界は、やがて漆黒の闇一色に塗りつぶされていく。最後は、彼の意識が。


     *


 夢から覚めた時、幸助はふかふかのベッドの上で寝ていた。最初に感じたのはその感触だった。目を開けると五人くらいの人が自分を囲んでいるのが見え、それからざわめきが耳に入ってきた。


 ただ事ではない事態を直感した青年はがばっと身を起こす。自分に向けられている十数人の視線に好奇の色を感じ取り、逃げた方が良いかも知れない、と彼の勘が言った。しかし、


「どうか逃げないで下さい。悪いようには致しませんので」と釘を刺す若い女性の声が、青年の真横からした。「まずは話だけでもお聞き下さい」


 体は拘束されていないし、見渡した限り武装した人物もいない。女性の言葉も加わって危機的状況ではないと悟り、青年はひとまずベッドに倒れ込んだ。


「一体何だってんだ……」


 と、自分の体をくるむベッドの柔らかさに(これ、羽毛か?)と思った。その際自分の服が視界の隅に入った。見たこともない、灰色のぶかぶかした服だ。しかもかなり厚手。しかし彼には、それについて考えるだけの余裕がなかった。


 その次に視線は天井や壁に向かう。木目がむき出しの木だけで造られており、何世代か前の家屋のような雰囲気があった。


「まずは一旦村長とお顔をお合わせ下さい」


 ベッドの傍らに立つ、華奢な体格の、赤い瞳と黄緑の短髪が印象的な女性の方がそう言った。先ほどどうか逃げないで、と言ったのと同じ人だった。彼女はゆったりした和装のような服を着ており、その柄はくすんだ緑を基調としており、掛衿が黄色く縁取られている。胸の下辺りから足下まで伸びる白い袴を履いていて、その耳からは白いイヤリングが下がっているのが見えた。


 その少女と言っても語弊のなさそうな若い女性と目が合うと、彼女は慌てたように顔を赤くして目を逸らした。幸助も思わずそちらへと視線を送る。そちらには古びた木の扉があって、ちょうど誰かが入って来た所だった。それは黒い帽子に黒いマント、白いスカーフをまとい、杖をついている男――顔はよく見えないが、体格から言って――だった。その男が入ってくるや否や、幸助のベッドの周りにいる人々がかしこまったようになり、軽く一礼した。


 考えるまでもない。さっき言っていた通り、この烏のような男はここの村長だ。


「目を覚ましたのか」


 岩と岩を擦り合わせたような、重々しい声だった。恐らく、この男の声だろう。それにある一人がたった今でございます、と返答した。


「顔を良く見せてくれ」


 ゆっくりとした足取りで、男が幸助の方に近づいてきた。異様な圧迫感、もとい恐怖を覚えてその場から僅かでも離れようとする。が、真に戦慄した時、人は動けなくなるものである。彼は男がじりじりと近寄ってくる様をじっと見ていることしかできなかった。ベッドのすぐ側に来て、ようやくその足が止まる。


「ほう、これはこれは」


 そう言いながらおもむろに帽子を取り、側に控えていた従者に渡す。すると、村長の顔――いかにも悪人面を絵に描いたような、初老の男――露わになった。髪の毛までもが黒く、まさに黒ずくめである。


 黒という色は、他のどんな色にも染め上げられないことから正義・公正さの象徴とされているのだが、この男が纏う黒はそうではない。魔性の色、深淵の闇色としての黒だ。


 男は幸助の顔をまじまじと眺めた後、軽く驚いた様子を見せながら頷いた。


「確かに、見れば見るほど息子にそっくりだ」


 その言葉の裏に含まれた奇妙な違和感を察し、幸助の目元がぴくりと動く。


「まさかこれほどとはな」男は不敵に笑んでから杖で床を叩き「よろしい、先程の手はず通りに進めよ」と指示した。


 それに周りの者がかしこまりながらはっ、と短く返事をする。すると男はこれで用は済んだとでも言いたげに踵を返した。その不遜さに、幸助は思わず声を張り上げる。


「おい、ちょっと待て」


 無意識にか意図的にか、その声はあらん限りの低音だった。そして、黒い背中を据わった目でにらみつける。すると先程かしこまった姿勢のままだった人々が一斉に幸助の方を見た。敵軍の中央に丸腰で挑み掛からんとする一兵卒のような状況ではあったが、幸助は怯む様子を見せない。


 数秒の沈黙。それを破ったのは幸助の言葉に動きを止めていた黒い男だった。大儀そうに、かつ雄々しさを湛えながら、杖をつく村長は振り向く。


「すまぬが、客人を待たせているのでな。儂は失敬する」


「俺が訊きたいのはそういう事じゃ――」


「色々知りたいこともあろうが、事情はその女中らに訊け。それで問題はなかろう?」


 話の出来そうな相手なら、この部屋にはまだ何人もいる。なら別段村長からでなければいけない理由もないだろう――幸助はそう判断して反駁しなかった。


 と同時に、自分が冷静に頭を働かせていることに気付いて驚いていた。そしてその事によって、彼が置かれている状況が、脳の無意識に操られる夢などではなく、紛れもない現実なのだと認識せざるを得なくなった。


 黒服の男は踵を返し、帽子を受け取ると部屋を後にした。そして数秒の沈黙が訪れる。


 幸助は起こしていた上体を再び羽毛のベッドに沈めた。その時ベッドがぼふん、と空気の抜ける音を立てた。


(はっきりと色も認識出来るし、聴覚も触覚も妙にリアルだ。それにこんな光景は今まで見たことがないし……どうやらこれは本当に現実らしいな)


 状況に反して最初から殆ど慌てることもなく冷静でいられた自分の性格に感謝しつつ、幸助はまず状況の把握が先決だと判断した。


 まずは傍らに立つ少女に話を聞こうと視線を送った。しかしその瞬間女性は怯えた様子で一歩後ずさり、何事かと人々がざわつき始めた。予想外の反応をされてしまい、このざわめきようでは話しかけるのが躊躇われ、一挙手一投足に注視されるのでは彼はどうすることも出来ないに等しくなった。


 煩わしさに耐え切れず、もう誰でもいいからこの状況を説明してくれ、と幸助は一喝した。すると水を打ったようにその場が静まりかえる。話を切り出したのは先程怯えた様子を見せた黄緑の髪が目立つあの若い女性その人だった。


「あ、えっと……まず、あなたに拒否権はございませんので、どうかご容赦下さい」


 酷くびくびくした様子で話している。村長に取った態度がそれほど彼女には恐ろしく映ったのだろうか。が、問題はそれよりも彼女の言葉の内容だ。


「拒否権は、ない?」


「ええと……その、村長が決められた事でございますので、これはもう覆せない、ということです。どうか、ご了承下さいませ」


 自分の要求を他人の了承なしに押し付ける村長を殴りつけたくなった。絶対王政など時代錯誤もいいところだ。だがまずはこの夢か現実化も分からない現状を確認するべく、相手の要求を聞くのが先だと、心を落ち着かせる。


「まあいいでしょう。それで?」


「はい。実は先日、七日前に、村長様の唯一のご子息であるリゲル様がお隠れになったのです」


「……なるほど、事情は何となく分かりました」


 先程の村長の言葉とこの事情を絡めて考えると、ひとつの結論がはじき出された。


「村長の一人息子が死んで後継者に困っていたところに、たまたまその息子と顔のそっくりな俺が現れた。あわよくばその代わりとして使ってやろうと。要はそういうことですね?」


「はい、仰る通りで」


 つまり、彼がこんな高級そうなベッドに寝かされ、これほどの人数に監視されているのは、ひとえに逃げられては困るからに他ならない。少女が彼にやたら尊敬語を使うのも当然だろう。


 ひとまずは、人質にされ牢屋に閉じこめられるなどの悪い待遇をされるわけではないらしいと知って幸助は一安心した。相手の要求に抗わなければならない理由は今のところはない。下手に抵抗したら何をされるか分かったものではないので、とりあえずは従うことにする。状況の把握に努めるのはその後でも遅くはないだろう。


「分かりました。ひとまずは、村長の息子とやらを演じるとしましょう」


「演じるのでは困ります。いえ、確かに本物のリゲル様のように振る舞っていただくことも必要ですが……本当のご子息様になっていただかないと困ります」


 自分が本気ではないという意味をこめて言ったその言葉は、彼女に手厳しく指摘されてしまった。しまったと思う反面、少しだけ悔しかった。


「そういえば、拒否権はないって言ってましたね」


「はい。押し付けるようで納得なされないかもしれませんが、どうか……」


 女性は申し訳なさそうに、その肩を窄めて上目遣いで言った。


「構いませんよ。村長の息子なんて、なろうと思ってなれるものでもないでしょうし」


「ご納得、頂けたでしょうか」


「まあ、何とか。人助けだと思って、やってみますよ」


 幸助は心の底では諦めの嘆息を吐く。だがもちろんそんな様子はにじませない。


「痛み入ります」


 女性は深々と、長いお辞儀をした。彼女の頭を丸く見せているその髪が崩れることなくぴったりと貼り付いていたのが、ちょっと不思議だった。彼女は身を起こすと周りの人々に向かって言った。


「あの、みなさん、そういうわけです。ここからはリゲル様個人に関わる私の仕事ですので、ご退室願えますか」


 すると人々は会釈をしつつ無言で部屋を後にしていく。だが何人かは残った。


「それで、俺は何をすればいいんでしょう?」


「はい。まずは、そのお言葉遣いとお名前ですね」


 その理由はすんなりと納得できた。村長の一人息子ということは間違いなく次期村長だ。したがって偉い立場なので敬語で話す必要はない。名前の方は言うまでもなく、村長の息子の代わりとして動くのだからそれが自分の名前だと認識しなければならない。本名を名乗ったら元の世界に戻せなくなる、と言われていたのでちょうど良かったと思った。


「これからあなたには『リゲル』と名乗っていただきます」


「それが死んだ息子の名前?」


「はい。『みょうじ』という習わしで本名はもう少し長い名前なのですが、今はもう誰も使っておりませんので」


「苗字、ね……」


 その感覚に幸助は違和感を覚えた。まるで、苗字の果たす役割が根本からずれているような。今の彼にはリゲルの本名など関係のないことだが、短く済むのならそれに越したことはない。


「あっ、大変申し訳ありません。申し遅れました、私はシオンと申します。以前まで、リゲル様の周りのお世話をさせていただいていた女中です。これからは私があなたの周りのお世話をいたします。何かあれば私にお申し付けくださいませ、リゲル様」


 リゲルはその言葉が滑稽で思わず吹き出しそうになった。シオンはその僅かな変化を感じ取り、無垢な子どものように尋ねた。


「あの、私何か変な事を申しましたでしょうか?」


 彼女が素の顔で訊くので、さらに吹き出しそうになった。やや笑いながら、彼は答える。


「いいや。以前までリゲルの世話をしていたって言ったのに、これからもリゲルの世話をするっていうのがおかしくて」


 一回目のリゲルは本物の、二回目は偽者の意味である。


「結局は同じ事です。今私の目の前にいるリゲル様は、八日前までご存命だった本物のリゲル様になり代わるのですから」


「そう……だよな。偽者と悟られないようにするためにはいろいろ工作しなくちゃならないって事なんだよな」


「はい、仰る通りです。そしてそれを指導、もといお手伝いするのが私の役目です」


 今更ながらに、抗っておいたほうがまだましだったかもしれないと青年は思い、天井を仰いだ。その時彼は、自分が今眼鏡を掛けていないことに気付いたのだった。

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