ChapitreⅩⅩⅡ:手紙
あらゆる戦争は起こすのは簡単だが、やめるのは極めて難しい、戦争の始めと終わりは同じ人間の手中にある訳ではない。始める方はどんな臆病者にも出来るが、やめる方は勝利者がやめたいと思う時だけだ。
サルスティウス『ユグルタ戦記』
行商人という職業はその性質上、多種多様な人々と接触しなければならない。中には関わり合いを持たない方が賢明だと言われる種族もいる。その代表格が、今からマチルドが入ろうとしている集落の住人、龍族である。彼らは体格が常人の半分ほど大きく、倍近いものさえいるという。さらにその大きさに見合った膂力を持ち、巨体故の僅かな動きの遅さが弱点ではあるものの、正面から戦っても勝ちにくいと言われる。龍族の大半に備わる基本能力には飛行能力と火炎放射、それに硬い皮膚が挙げられる。その上戦闘に特化した特殊能力など持っていようものなら、まさに手がつけられない存在と化す。そしてその強さ故に相手と対等だとは決して思わず、交渉をしてもまるで話にならない。決裂すると暴力を振るい出すという。余程の命知らずでもない限り近づくべきではない、というのは新米行商人が最初に先輩から教わることの一つである。
そういう事情もあり、マチルドは門番と話をした直後から一戦を交えかけた。入る前に荷物を調べさせろ、そう言い出したからである。そこに仲間が駆けつけ、行商人は本当に希少だから歓迎する、と言って迎え入れた。その目は上辺だけの笑顔だった。襲うタイミングを狙っているのか、龍の女らはなおも案内だと称して行商人を取り囲んでいる。
「案内は一人で良い、そう言ったはずよ」
「しかしですね、こうお足元が悪くては、いつ滑るかも分かりませんので」
「私は大丈夫だと言っているのよ。私から商品を盗むつもりだっていうのは分かってるの」
「はは、何をおっしゃいます」
「今すぐ一人を残して退散させなさい。でないと痛い目を見るわ」
「……あんた、ウチらと戦って勝つつもりかい?」
空色の鎧の女は戦うために身構えた。
「そう。やっぱり襲うつもりだったのね。ところでそこの家は民家かしら?」
マチルドが目で示したのは、ゾディアークでもよく見かけた木造の平屋だ。ただしその大きさは桁違いだが。
「だったらどうだと?」
「こうするの」
手を空へ向け、そのまま振り下ろす。するとそれに合わせるように家の半分が崩れ、数人の悲鳴が聞こえた。
「貴様何をした!」
「話を聞くつもりはないようね」
続けて、もう半分も潰す。家があったところは一瞬のうちにただの雪山になっていた。その大きな物音に反応したのか、隣の家から三人の竜人が現れた。一人は助けを呼びに、一人は雪山から救助をしようとする。しかしマチルドが手を振ると三人とも転倒し、そのまま動けなくなってしまう。荷車を囲んでいた数人も、足が地面にくっついて動けなくなっていた。
「何のつもりだ貴様!」
「私は要求を聞いてくれるかと言っているだけ。どうする? 聞くなら解放するけど」
雪の中からは助けて、寒いよ、出して、といった声がする。中にいたのは子供のようだ。
「部外者のくせに勝手な真似を」
「そう。じゃあ一人で行くわ」
荷車の取っ手に手をかけ、マチルドは一人で坂を登り始める。
「待って! 分かった! あんたの言う通りにするから、この子達を助けさせて!」
「最初からそう言っていれば良いのよ」
しかしマチルドが解放させたのは、案内役と、隣家から出てきた一人だけだった。
似たようなやりとりをもう一度別の場所で繰り返した後、村長が住まう屋敷に到着した。二階部分がないのと大きさが違うのを除けば、外観はオフィユカスとさほど変わらない。しかし内装は、村長の部屋以外は質素、もとい貧民の家のようだった。村長に謁見するまでもいざこざを起こし、今度はこの屋敷を破壊しかけたがすんでのところで留まった。あまりに信用ならないので荷車を室内まで持ち込んでいる。
村長オスカールは、マチルドに歓迎の言葉もなしに、いきなり破壊行為をしたことを追及した。
「彼女らは私を襲う意思表示をしたのよ。私はそれにしかるべく対処しただけよ。立派な防衛だわ」
「それはそちらが先に仕掛けたのではないか?」
「話にならないわね。潰すわよ」
マチルドはまた手を天井へと伸ばした。
「ほう、やってみよ」
「おやめ下さいオスカール様!」
マチルドを案内した竜人が跪いて叫んだ。
「こちらの方が持つ雪の『能力』は本物です! この力で家を二軒も潰され、足を凍らされたのです! このままではオスカール様のご命も危険です!」
「雪、じゃと?」
それを聞いた途端にオスカールの顔色が変わる。
「雪を操って家を潰し、また氷に変えたというのか」
「ええ、それが行商人としての私に備わった『能力』よ」
マチルドは手首だけを傾ける。ミシ、という建物が歪む音がする。既に雪はやんでいるとはいえ、屋根の上にはまだ多く雪がある。その力を使われたらひとたまりもないことは明らかだった。
「わわ、分かった! そなたのしたことは許そう。行商人をいきなり襲ってはいけないと教育しなかった儂の責任だ。どうか許して欲しい」
オスカールは玉座から離れ、マチルドに頭を垂れた。
「ここに来たのはもちろん行商よ。それと、この村のこと、案内して。百年前と事情が変わっているか、確かめさせて欲しい」
「承知いたしました」
(相手は自分より弱いと思って見下すものの、強いと分かると途端に掌を返す。噂に聞いた通り、性根が腐ってるわ。さて、あと何人殺すことになるのやら)
もし荷物に手を出したら今度こそ屋敷を潰して皆殺しにする、そう脅迫して荷車を預けてから龍の村ウーラノスを見て回ることにした。まずは、ゾディアークにあったのと似た見張り塔へ登る。その上から見下ろして、ようやくこの村の全体像が見えた。屋敷を中心に、七重の壁が取り囲んでいる。ここへ案内されるまでにいくつも壁をくぐってきたが、その数には圧倒される。しかもその一つ一つが高い。「跳び」越えられないようにするためだろう。しかもその七枚は等間隔ではなく不規則だ。少しでも守りを固めるための知恵だろうか。西側に目をやると、鳥の集落が見えた。
「領土が広い割には、住民が少なそうね」
階段を下りながら、マチルドは案内役に尋ねた。全体の広さとしてはゾディアークと大差なさそうなのに、民家の数が圧倒的に少なかった。他には訓練用の設備や畑、用途不明の小屋が見えた。
「はい。何しろ食料を調達するのが大変なもんで、毎年生まれて良い子供の数を制限しているんですよ」
「人口制限?」
「そうです。鳥の村を狙うのも、もちろん霊鳥が空の王だと主張するのが許せないからってのもありますが、あの村にある食料とそれを管理する技術が欲しいからなんですよ。あれだけの数を養える果樹園がこちらにも出来れば、ウチらも数を増やせるはず!」
「後でその畑を見せてくれるかしら」
「もちろんです」
噂で聞いていた、龍族の弱点。それはどうやら確かなもののようだった。すなわち燃費が悪く、体格も相まって一人が生きるのに必要な食料が他の種族に比べかなり多いのだという。しかも彼らは肉を好むので、それを調達するのには別の食料や手間も必要だ。だから彼らは常に食料不足に喘いでおり、龍族は個体数も村も少なく、規模も小さいと言われている(ただし領有する土地は広い)。また、寿命が長いのも食料不足に拍車をかけているという。人口を減らすために年老いた仲間や戦えなくなった仲間を殺して食べるという噂もあるが、真偽の程は定かではない。わざわざ訊こうとも思わない。
「数が少ないってことは、それだけ精鋭の兵士を育てられるってことよね」
「よくぞ気が付きましたね、行商人さん。そうなんですよ。龍族というのは少数精鋭の集まりなのです。一人が百人分の強さを持つ、それが龍が龍たる証」
「じゃあ私は一万人分かしら」
「怖いこと言わんで下さいよ。ただでさえ龍は冬に弱いのに、商人さんみたいな人が来たらたまりません」
「冬に弱い?」
「変ですか? 大体の生き物はそうでしょう。寒さを凌ぐためにありとあらゆる知恵を尽くすものです。眠って春を待つ種族もいるそうじゃないですか。冬は体が思うように動かなくなるし、植物は育たなくなるし、これからが一番厳しい季節なんですよ。商人さんみたいに寒さに強い能力を持っていれば別でしょうけど」
「雪を操れるからといって、寒さに強いという訳ではないのよ、この通り着ぶくれてるし。それより龍こそ、火を吹く能力を持っているのに寒さに弱いなんておかしいんじゃないの」
「いやいや、誰でも使える訳じゃないんです。それに、火炎放射は体の中に貯めた熱を吐き出す技なので、冬に使ったら死んでしまうんです。使えるのは基本的に夏場だけですよ」
「なるほど、この噂は間違いだったのね。それよりあなた、龍族の弱点や秘密を喋っちゃって良いの?」
「本当は言いたくなんてないんです。でも行商人さんを怒らせたらどうなるか分かりませんので」
「うんうん、物分かりの良い人は好きよ」
次にマチルドが見たのは畑だった。畑とは名ばかりの惨状である。かなり昔から人の交流がなく、行商人も立ち寄らないからか農業の知識がまるでないことが伺えた。土を作ることを知らないのか、硬い地面を掘り返しただけの場所に畑を作り、壁が高いために日当たりが悪く、好条件な場所にあるのは民家で畑は殆どない。果物の木は背が低く枯れかけ。雑草も伸び放題だ。
なるほど、これじゃ食糧難になるのも当然ね。マチルドはそう言いそうになるのをぐっと我慢した。むしろ、これでどうやって食いつないでこられたのかが不思議なくらいだ。
次は中から不審な物音がする長い建物。そこは鼠小屋だった。収穫した農作物の一部を鼠に与えて繁殖させ、それを食べるのだという。肉食を我慢すれば食糧問題は少しだが改善する。しかしそれをするつもりは最初からないらしい。
続いて向かったのは訓練設備。とは言え屋根も柵もない、ただの更地である。槍を持った二人が互いに打ち合っていた。案内役によると、このようにして子供一人につき二人以上の師匠がついて一人前になるまで育てるらしい。この寒い中でも稽古に励むやる気は大したものだが、動きが遅く、寒さに耐えようと首を縮こませながらの戦いなので、子供の喧嘩にしか見えなかった。
「訓練はいつもあんな感じ?」
「あれは槍術です。他に剣術、格闘術、投石術があります。あらゆる武器を使いこなし、あらゆる相手に対処する方法を身につけることで一人前の戦士になるのです」
「なるほど、こんな――」
こんな大きな的を相手にした訓練ばかりじゃ、すばしこい鳥にはまともに攻撃を当てることさえ難しいでしょうね――とは、口が裂けても言えなかった。
主な施設はこれしかないそうだ。人数が少ないので地区の別もなく、全員に緊急で伝える事がある時は一番内側の壁に集めれば事足りるし、そうでない時でも住民の間での連絡網はしっかりしているという。
「そんなに少ないの?」
「はい、五十人くらいだったと記憶しています」
そのほぼ全員が戦闘訓練を受けていると見て間違いないだろう。その中から村長や子供などの非戦闘員を除くと、兵士として動けるのは三十人あまりか。可能な限り多くを動員しても四十人はいかないはずだ。テルには嘘を教えるはずだったが、村の大まかな地図、および戦力の情報が手に入ってしまった。
これ以上見るものもなさそうなので、マチルドは村長の屋敷へ戻ることにした。
「どうでしたか商人さん、私達の村は」
「他の村と比べると殺伐としてるわ。それも異常なくらいにね。それは恐らく、龍が肉食であることと関係があるんでしょう」
屋敷に到着するとまずは荷車を確認した。それから、商談をするべく謁見する。オスカールは快く交渉には応じようと言った。
「しかしその前にこちらから頼みたいことがある。それを鳥の集落に届けて欲しい」
召使の一人がマチルドに木の板の束を渡した。三枚が重なっていて、植物のつるで縛ってある。これは手紙だ。紙が用意できないところではこのようにする。墨で書いたり彫ったりして書き記す。
「さて、その報酬だが――」
「その前に中身を読ませて。そうしてから届けるか届けないか、報酬をどうするか決めるわ」
「手紙を届けよというだけだ、中をあらためる必要がどこにある」
「別の村に届ける場合はね、政治に介入しないっていう行商人の掟に反する危険性があるから、その中身を確認しないで届けるのは禁止されてるの。見せないと、報酬が良くても届けることは出来ないわ」
「むう……仕方あるまい」
紐を解かせて、マチルドはその手紙を読んだ。宛名は、ゾディアークのラザル=ハーゲン。主な内容は、和平交渉に来た息子のリゲルを幽閉し、いつでも殺せる状態にある、生きたまま返して欲しければ、敗北を認め、その土地を明け渡せ、というものだった。リゲルに同行してきた少女も捉えていると書いてある。
おかしな手紙だ、と最初マチルドは思った。鳥の村にはもうリゲルはいない。それならば彼を捕らえたというのは意味がないはずだ。しかし龍はこれで無条件降伏を引き出すつもりでいる。これが有効打になることを知っている。つまり、少なくともゾディアークからリゲルが消えたことを龍は知っていることになる。では何故知っているのか。考えるまでもなかった。この世界にリゲルと名乗る存在は、二人しか存在しない。
「この人質に会わせてくれないかしら」
「ならん。それこそ、政治への介入だろう」
「そうね。分かった、これは預かるわ。報酬はいらない。渡す相手はラザルで良いのね?」
「そうだ、ラザルにしかと渡せ。しかし、報酬がいらないとはどういうことだ」
「私もちょうど、鳥の村長に会う用事があったのを思い出したの。そのついでだから、いらない」
「気前の良い商人じゃ。さて、儂はお前から買いたいものがある」
「紙、かしら。取引するのは良いんだけど、この村にはそれと見合うだけの特産があるの? 鼠なんかいらないわよ?」
「エコー、例のものを」
「はっ」
指示して、数点の武具を並べさせた。
「龍の骨や皮で作った武器や鎧だ。金属のそれよりも強度があり軽い。この村が誇る品物といったらこれぐらいだ。それとこれは、鳥の羽根で作った服だ。これがあればどんな寒さにも耐えられる、魔法の服だ」
「ちなみに、その羽根はどうやって調達したの?」
「戦の時に捕らえたものが大半だ。だがこれに限っては――これは、かつてこの村に住んでいた鳥からむしり取ったものだ」
そう言って村長が見せたのは、宝石のように輝く青い羽飾りのついた服だった。
何事もなくマチルドは龍の村ウーラノスを去り、門を出たところでもう一度高い壁を見上げた。ここに来て分かったことがいくつかある。
彼らは宗教的な理由よりも、生き残るために必要な食料を求めて戦っていること。そのために繁栄が出来ないこと。上手く生きるための知恵がないこと。
最後に、この村にアークトゥルスがいること。そして彼には正体不明の女の子が同行していること。まさかスピカではないだろうか、マチルドはそんな事を考えた。
それから下り坂をゆっくりと進んでいく。ゾディアークに戻ったのは真夜中だった。村長には会わずマーテルの酒場で一夜を過ごし、翌朝早速屋敷を訪れると村長に謁見を求めた。その申請をテルが断るはずもなく、ポーラを含めた三人は机を挟んで執務室で対面する。
「さあ、早速手に入れた情報を渡して貰おうか」
「ええ。向こうの人口は五十人ほど。その全員が戦うための技を身につけているわ。それから戦い方は――」
続けて、自分が見てきた景色を元に、村の構造を紙に書いて渡した。
「これで全部よね?」
「ああ、ご苦労だった」
「それと、ラザル宛に預かりものがあるの」
と言いながらマチルドはコートの内側に忍ばせていた薄い木の板の束を取り出した。
「手紙か? しかもラザル様宛に?」
「ええそう。龍族の村長からの、ね」
「何だと……いや、別段驚くことでもないな」
何しろ、この手紙が来ること自体は既にシオンの口から予告されていた。彼女の予知夢がなくても、一時的な休戦状態にあるに過ぎない状況である以上は、いつしか来ることが確実であった。ただし、冬の初めに来るというのは前例のないことだった。
「いよいよという訳だな」
「さあ、もう良いでしょう、スピカちゃんを返して。約束通り、求めていたものを持ってきたわ。その情報もしっかり住人から聞いたものだから確かよ」
「お前もそこまでしてあの娘を取り返したいのか。心配しなくとも引き渡しはしてやる。ちょうどこちらも厄介払いしたかったところだしな。ポーラ、メイサとシルマを呼んで来い」
「はい」
「厄介払いってどういうことよ」
「あいつの変化はお前も見ただろう? あれを呪いか病気か何かだと思った連中が、早く追い出すか殺すかしろって直談判しに来た。いつまでも捕らえておく理由はないし、連れて行ってくれるなら好都合だ」
その時、ポーラが侍従長とスピカの女中を連れて現れた。マチルドはテルに別れを告げ、牢まで案内するというその二人の後を追った。
テルはマチルドが残したものを手に取る。それを不思議そうな目で見つめるポーラが言う。
「やはり宣戦布告、でしょうか?」
「それ以外に手紙をよこす用件もないだろう」
まずは縛っている紐を切った。
移動中、マチルドはシルマからスピカの体に起こった変化について聞いた。髪と羽の変色だけではなく、それに伴って声が出なくなったことを初めて知らされた。
(それじゃ話が聞けないじゃない! これも魔女の仕業なのかしら?)
案内された牢屋は当然ながら暗かった。天井に明かり取りの窓こそあるが、非常に冷たい雰囲気の部屋である。部屋を半分にするかのように大きな金網が取り付けられている。
「もう、何も見えないじゃないの。火ないの、火」
鍵守と一緒に入り込んだマチルドがそうこぼすと、すかさず虜囚が反応する。駆け寄って、金網を揺らす。
「スピカちゃん、迎えに来たわ。元気?」
暗闇の中でも首を横に振ったのが見えた。
「とりあえず、ここから出てから状況を話しましょうか。さ、早く鍵を開けてちょうだい」
地下牢から出されて屋敷の廊下に出たスピカは、かなり眩しそうにしていた。シルマが彼女の顔や服についた汚れを払う。少女の目が明るさに慣れるのを待っていると、ただの案内役だったメイサが去り、ポーラが現れた。その手にはマチルドが持ってきた手紙があった。
「あら村長夫人、どうかしたの?」
「とりあえず、シリウス様にはお伝えすべきだ、と思いまして探しているのです。もちろんスピカ様にも……テルも酷いことをしたものですね」
「伝えるべきことというのは、その手紙のこと?」
「そうですが」
「まずはシリウスさんに伝えて。この子には私から言っておくから」
「はい……分かりました……? この中身を、知っているのですか?」
「ええ、宣戦布告だったら届けられないし、届ける手紙は検閲するのが決まりなの」
「なるほど。では、お願いします」
「そうだ、ついでに頼みがあるんだけど」
「何でしょう?」
「二階を使えるように取り計らって欲しいの」
「構いませんよ、こちらです」
スピカの目も大分回復したので、四人は廊下を歩き始めた。
「ところで、テルはその手紙を見て何か言ってた?」
マチルドが尋ね、ポーラは振り向かず答える。
「『下らん脅しだ』と、そう言って投げ捨てました。だから私が今、こうして持っています」
「でしょうね」
ポーラが二階への階段を見張る兵士に口利きをし、商人とスピカ、及びその女中が二階の会議室へ入った。ポーラはシリウスを捜しに別行動を取る。
「スピカちゃんには経緯を説明した方が良さそうね。テルにあなたを解放させるために龍の村に行ったんだけど、その時に向こうの村長からこっちの村長に手紙を渡してくれって頼まれたのよ。それで今、こっちに戻って解放させられたって訳」
「それで、その手紙には何が?」
話せないスピカの代わりにシルマが言った。マチルドはがその文面を暗唱し始める。
「――『ゾディアーク村長ラザル=ハーゲンに告ぐ。息子のリゲルの身柄はこちらで預かっている。降伏せよ、さすれば無傷で引き渡す。ウーラノス村長オスカール』って。かなり端折ったけどこんな感じ」
「……リゲル様を預かっている?」
今更その名前を耳にしたことに、スピカは驚きを隠せなかった。本物のリゲルは死んだし、偽者としてのリゲルは消され、それを名乗っていた男も霧のように消えてしまった。ならば、その手紙に書かれたリゲルとは一体何者なのか?
「その内容は確かですか? リゲル様が敵の集落にいるなんて、明らかにおかしいです」
「そうね」とマチルドはテーブルに両肘を置いて手を組んだ。「テルもおそらくはそう考えて『下らん』って無視したんでしょう。でも、ちょっと考えてみましょうか。龍の村長は、どうやってラザルとリゲルの名前を知ったのかしら?」
「戦争の時に捕虜に吐かせたからですよ。逆もしかりで、オスカールの名前は知られていまず」
「きっとそうよね。じゃあ、何の理由でオスカールはリゲルの身柄を預かっている、なんて脅迫状を送ったのかしら? 答えは一つだわ」
スピカの思考が一瞬にして閃いた。そんな手紙を送りつける以上、龍族の村長は少なくともゾディアークにリゲルという男がもういないと知っていることになる。そして手紙の文面は、あたかも彼の存命を知らせているかのよう。しかもリゲルが鳥の村からいなくなったのはつい最近のことであり、よほどのことがない限りは知り得ない情報だ。つまり、リゲルの不在と彼の生存を龍族の村長が知っている状況である。こうなるとアークが捕虜として捕まっていると考えるのが自然だ。それにもし幸助が龍族に会ったら、自分がリゲルだと名乗ることで利用価値のある存在として生かされることを考えたに違いない。マチルドが嘘を言う理由はない。沈んでいたスピカの心に、希望の光が差し込んだ。
「その捕虜に会わせてって村長に言ったら断られから、その可能性も高いわ。だから私はこれから向こうの村に直談判に行く。アーク君の身柄は私のものだから。行くわよね、スピカちゃん」
スピカは強い目で首肯した。
「でも、その前に顔とか髪とか服に付いた汚れを落とさない?」
その時、下の階から騒ぎ声が聞こえた。
――商人さんがいるんでしょ?
――いけません、ポーラ様のご命令です!
――お願い、行かせて!
「シリウス様の声ですね。私見てきます」
シルマが席を立つと、目を輝かせたシリウスとシオンと一緒に戻ってきた。
「あの手紙にあったこと、本当なんですか?」
シリウスは今までに見せたことがないくらい興奮していた。シオンも無言だがどこかそわそわしている。対応するマチルドは、どこまでも平常心を保っている。
「少なくとも私とスピカちゃんはそう思ってる。これからリゲルと名乗っている何者かに会いに行くつもりだけど、あなたも行く?」
「是非!」即答だった。「それに、あそこは私の生まれ故郷でもあります。きっと何かお役に立てます」
「いつか言っていたわね、そんなこと。でも戻って大丈夫なの? あなたの居場所はここでしょう?」
「ここでもあり、向こうでもあるんです」
「ふうん。さぞかし深い事情があるんでしょうね。それじゃあ、早速準備を始めましょうか」
スピカは体と服を綺麗にすると、シオン、シルマ、セラトナといった面々に別れを告げ、マチルドと共にオフィユカスを後にする。その後宿屋に行ってベガを叩き起こし、変わり果てた姿に戸惑われながらも手紙で感謝の言葉を伝えた。最後は酒場。ここでシリウスと合流することになっている。
「これでまたしばらくはお別れになるのか」
マーテルが寂しそうな目で言った。
「アーク君と合流して特に何も変化がなければ、山を降りて次の村を目指すわ」
「そうか。それにしても、奇妙なこともあるものだ」
と言うのはもちろんスピカのことである。白かった頃の彼女を知っているだけに一層、その変化に驚きを隠せないのだ。
「魔女が何かしたんだとは思うけど。そうだスピカちゃん、聞いたわよ、星の記録をつけてるんですってね。行商人は夜に道に迷わないために星の地図を持ってるの。さすがにあげられないけど、書き写させるくらいならできるわ。どう?」
スピカは小躍りして喜び、テーブルに広げられた星図を興味深そうに眺めていた。アークに言われてからつけ始めていた記録(シルマが持たせてくれた)に継ぎ足しながら星図を書き写していく。紙はマチルドからの無償提供である。時間が限られているのでまずは一等星らしき大きな星、ついで中くらいの星、時間に余裕ができたので細部まで書き写しが完成した。ただしインクが乾くまでの時間が必要である。枚数にしておよそ三十。全て貼り合わせれば天球が完成する。スピカはそれを頭の中で組み立てながら、知っている星座を探した。真北と真南を指すエリアから、天の赤道を思い描く。そうすることで、昨晩見えていた星から現在のおおよその緯度を割り出すことが出来た。星図には黄道が引かれていないので、春分点などは分からない。ならせめて赤道の南北約三十度の範囲から、世界で最も有名な十三の星座を探そうとする。しかし、それらしき星が一つもない。彼女の偽名の元となったおとめ座のスピカも、赤い星として知れたさそり座のアンタレスも、「星は昴」と言われたおうし座のプレアデス星団も、あるべき場所にはなかった。北極星はこぐま座ではなく、その指標となるおおぐま座やカシオペア座もその付近には発見できない。恒星だけを見ると、やはりここは異次元の世界なのだと痛感するスピカだった。




