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見えない翼  作者: 桑名 銀天
第四部 龍族・魔女編
45/56

ChapitreⅩⅩⅠ-A:マチルドのゾディアーク再訪

流れ星は、目を離した隙に現れる。

S.K.


 麓の集落での商談は思った以上の成功を収め、マチルドは嬉々としてゾディアークに帰還した。しかしながら外の門をくぐって中に入った途端、天気だけではない理由で空気が重く沈んでいるのを感じ取った。大きな戦があったような形跡はない。となるとそれは、為政者の交代に起因するものだろう。そうして単身乗り込み、新村長となったテルにアークとスピカへの面会を求めた。しかし彼はそのどちらとも会わせることは出来ないと突っぱねた。他にすることがあるし今は行商人から買いたいものもないと取り付く島もない。

 仕方なく、シリウスを捕まえたので事情を聞くことにした。彼女は今、兵団の指揮官だという。

「アークが村長になってからは、村長の仕事は全部私が一人でやっていたんですね。でもそれが一部には不満だったみたいで、何日かしたら、一般市民もキャンサーもアークを倒そうと武器を取ったんです。そして……」

 言うと彼女は目を伏せた。ここはキャンサー宿舎の会議室である。大して広くもない上にカビ臭い。

「それで何が起こったの? そこが知りたいのよ」

「アークとスピカさんは見張り塔の上まで追い詰められ、アークはそこから落ちたんです」

「まさか死んじゃったの!?」

「いえ、突然消えたんです。私も一瞬の事であまりよく覚えていないんですが、周りの言う事をまとめると、空に黒い穴が開いてそこにアークが吸い込まれたようです。その穴は一瞬で消えたそうです」

「黒い穴? テレポート能力かしら?」

「私もテルもそう思って村をまんべんなく、外も探したんですが、結局どこにもいませんでした」

 自分や他の人や物を瞬間移動させる能力というのはマチルドも見たことがある。しかし強力である分消耗も激しく、あまり遠距離の移動は困難である。なのでマチルドは確信した。これはどうやら目を離した隙に魔女が彼を元の世界に送り返したということだ。最も重要な瞬間を逃したことで、マチルドは歯痒い思いをした。

「それでスピカちゃんは?」

「彼女は無事でした。しかし、村長になったテルの手で村を乗っ取ろうとした罪を着せられて今は牢屋です」

「何ですって? 他に何か変わったことは?」

「その事件により死傷者が多数出ました。死者は十名、怪我人は百名近く」

「彼と戦って死んだの?」

「いいえ、実は……」

 シリウスは躊躇いがちに全容を話した。二人は転落死、残り八人は圧迫による骨折が原因で死亡。負傷者の四分の一は軽傷も含め戦いによるものだが、半数以上は塔の上層部でもみくちゃにされる中で武器や壁にぶつかり、また圧迫されたことが原因だった。

「鳥は空を飛ぶために体を軽くした分、脆くなっているんですよね。それも原因の一つだと思います」

「そう」

 マチルドは冷淡に返した。たとえ戦争で何人死のうが、事故で何人の犠牲が出ようが、それは旅人にとっては瑣末なことだった。

「原因は、あなたを村長に格上げさせようとしてアーク君を殺そうとしたこと、でいいのかしら」

「はい。他の兵士に聞いても、皆くちばしを揃えてそう言うので」

 マチルドは何かが妙だと感じた。

「テルが村長になった経緯は?」

「投票の結果が第二位だったからですよ」

 それから兵団の幹部に格上げされたセラトナに会いに行った。事の概要を聞いたことを話し、その上で問う。

「あなたはその時どこで何をしていたの?」

「ヴェルソー地区の集会所で噂を流している時にその知らせを聞いたんだが、それを止めさせようとした私が足止めを食らってしまってね。足止めって言っても、単に私の動きを封じて出入口を閉ざしただけだったが」

「皆シリウスに懐柔されたのね。それで、彼女らの目的は何だったの?」

「私を村長にさせることだ。そのために、村長のアークと裏切り者のシリウス、邪魔者になるテルを一度に殺す必要がある、そう言っていたよ」

「裏切り者?」

「シリウスは投票の前、我々クーデターに対しアークが村長になったら私を要職に置くことを約束していたらしい。ところが政権交代後も私は一般人のままだ。それはシリウスのくちばしから出任せだろうしアークにそのつもりがないのも分かってる。だから私はそれで良いと言ったんだが、聞き入れてはくれなかった。流していた噂が逆効果になったのかも知れない。かえって彼への反発を生み、暴力沙汰にしてしまった。アークがこの村を乗っ取ろうとしているという噂を、彼が失脚するには好都合だと思って認めてしまったのも一因だろう」

 シリウスが言っていたのとは異なる事情で蜂起したらしい。もっとも、シリウスの「周り」とセラトナの「周り」は一致しない。少なくとも二種類の勢力がアークトゥルスを追いかけたことになる。

「まさかこんな形で裏切られるとはね。もっと内部事情を話しておくべきだった」

「それも理由の一つでしょう。ところでセラトナ、あなたが、シリウスがあなたを要職に置くつもりだったって話を聞いたのはいつ?」

「噂だけなら、宣伝が始まって二日目あたりに。でもそれじゃあ余所者が村長になるから真に受けるなと言ってはおいた。結果発表の時にシリウスに言ってみたがそれは村長に言えだし、村長に言ってもそれは次の村長に言えだし。私は特に不満もなかったが」

「それをもっと早く言っておけば良かったのよ。あなたがそういう考えだって話していれば、こんなにもならなかったはずだわ」

「そうか? 私にはよく分からないい」

 マチルドは以前テルに、村長の椅子はセラトナに明け渡すほうがこの村のためだと言った。しかしそれはどうやら間違いだったようだと感じられた。本当にこの村ゾディアークの未来を思うならば、ラザルを倒さず、影武者ではない後継者を育てさせるのが一番だったのではないか、そんな風にも思えてしまう。

「そう。それで、反乱軍は今どうなってるの?」

「今はテルや幹部と相談して、連合軍を作れないかと画策しているところだ」

「龍族と戦うつもりなの? だったらなるべく早い方が良いわ」

「どうしてだ? 体制を整えないと危険だ」

「整ってないのは相手も同じはずよ」

 それだけ言い残すとマチルドは酒場へと足を向けた。マーテルにも同じように質問をする。

「詳しい事情は私は聞いていない。でもアーク君が襲われると聞いて、私も飛び出しはした。でもそれだと集落の政治には関与しない行商人の掟に反するし、あれだけの人波をかき分けて駆けつけるにしたって、介入だっていう非難が避けられないし、犠牲者を出さずにそこまで行くのも難しい。残念ながら、私には何も出来なかったよ。マチルドと違って、彼は私の商品ではないから」

「掟なんか破っちゃえば良かったじゃない」

「いつかここを出て行くお前とは違って、私は死ぬまでここで商売を続けるんだ。住民と諍いは起こせない。それに、元はといえば二人から目を離して出て行ったお前が悪い」

「それはそうだけど」

 今は昼間なので酒場には誰もいない。

「しかし、黒い穴に吸い込まれた、か。本当に魔女の手によるものなのか?」

「それ以外に考えられないわ。きっと魔女にとって、彼が死ぬのは不都合なのよ。魔女は誘拐した子を必ず元の世界に戻しているのだから。つまり、この世界で死ぬことがあってはならない」

「なるほど、筋は通ってる」

「問題はスピカちゃんよね。幸か不幸か、屋敷に幽閉されているらしいの」

「幸いなのはお前にとってだけだろう」

「そこで魔女がどういう行動に出るかが興味あるわ。今まで男の子を誘拐してきたのに、これで女の子だけを誘拐した状態になっているんだもの。これでもし魔女がスピカちゃんに何か指令を出せば、魔女の真実にまた一歩近づくって寸法よ」

「ところがテルは彼女に会わせるつもりはないと」

「そうなのよ! 私が身柄を預かってる商品だって言っても聞かないの!」

「当たり前だろう」

「だからね、テルが欲しがりそうな物を手に入れて、人質と交換って筋書きを思いついたのよ」

「私は知らないぞ」

「ついさっき思いついたんだもの。だからこれから聞きに行くわ。それより、テルが村長になってから何か変わったことはあった?」

「セラトナが兵団の幹部として呼ばれて、引越の手伝いをさせられたという話は聞いた」

「アーク君の時にはやらなかったけど、村長が代替わりすると先代の家族が追い出されるそうよ」

「あと、次の夏に総攻撃を仕掛けるらしい。それで全てに決着をつけ、戦いを終わらせるそうだ」

「ふうん。あ、閃いた」

「どうした?」

「それならきっと、テルは私を必要とするはず」

「また何か良からぬことを企んでるな」

「またって何よまたって」

「あの二人を自分の商品にすると言ったり」

「分かった、もういいわ。ベガには顔を見せられなくてごめんって言っておいて。あと荷車ここに置かせて」

「ああ、任せとけ」


 マチルドは無理を言って、テルへの謁見を求めた。村長は会った方が面倒事が少なくなると思い、許可した。執務室で二人は向かい合う。

「何度も言わせるな。スピカは渡せない」

「行商人から買いたい物もないなんて大嘘、よく平気で吐けるわね。良いの? 私聞いたのよ、龍族と決着をつけるつもりだそうね。その準備がこの冬に整うの?」

「手数はある。なんとかさせる」

「でもそれだけじゃ勝てないわ。ねえテル、あなたどうしても欲しい物、あるでしょう? 私ならそれを手に入れてみせる。さあ、言って!」

 テルはマチルドを訝しげな目で見た。

「本当に何でも?」

「スピカちゃんを引き渡してくれるなら、何でも」

「なら、龍族の集落ウーラノスの構造、兵力、装備。それらを手に入れて来い」

「分かったわ。でも最後にお願いがある。スピカちゃんの無事を確認させて。そうじゃないと私も動けないわ。無駄骨だったらこの村を滅ぼさなくちゃいけない」

「ならお前も約束しろ、スピカ欲しさにいい加減な情報を流したりはしないと」

「ええ、もちろん」

「こちらの情報を向こうに流すのも禁止だ」

「そのくらいならお安いご用だわ」

 ただしマチルドは、龍族の村を訪れる予定はあってもその約束を守る意志はなかった。守る義理がないのである。嘘の情報を流したとしても、テルがそれをマチルドに報復する手段がない。その頃には行商人はこの地を離れているし、既に何度も来ているので偶然再訪しないようにすることも出来る。マチルドが一方的に有利な約束だが、テルももちろんそれを承知で頼んでいる。

「無事を確認できれば良いんだな? 代わりに話はさせないし、お前もスピカに気づかれないようにしろ。その上で今夜、屋敷の玄関前に立たせる。そこでお前は遠くから確認しろ。いいな」

「門の外からじゃ遠すぎるわ。ましてや夜でしょ。場所を変えて」

「なら、指示があるまでずっと二階で待機だ。そこからなら見えるだろう。見たら室内に隠れる」

「それで良いわ。何か大きな布でもあると隠れやすいんだけど」

「分かった、用意させよう」

「ところで外に出すのは何のため? 運動?」

「それもある。ただ、毎晩外に出て星の記録をつける習慣があるらしい。スピカの元女中がそう言ってな。別に問題もないから容認している」

 そして彼はマチルドをそのまま二階へと送り込み、女中に灰色のローブと少しばかりの食料を運ばせた。

 日が暮れるとマチルドは外を見た。屋根のせいで天頂方向は見えず、しかも月明かりもあるが、それでも星は十分見える。行商人は、村から村へ常に移動している。それ故、太陽や星の位置、および暦が進行方向を決定する要素となる。ターミナルとなる行商人の集落にはあらゆる知識が集まり、そのお陰で一年の正確な暦と星図が完成されている。だからマチルドも、星の位置には常に気をつけている。ちゃんと会える時が来たら、自分が持っている星図を写させてあげようと考えていた。やがて背後から足音がし、テルがもうすぐスピカが外に出ると言った。マチルドは室内に戻って、ローブで顔をすっぽりと覆ってから外周廊下に出る。満月に近い月に照らされる石畳の道に、少女が現れた。マチルドは最初それがスピカだとは分からなかった。トレードマークだった上から下までの真っ白な髪が、一部黒ずんでいたからである。まさかこの状況で偽者を出してくるとは考えにくい。まだ後ろ姿しか見ていないし、本物であると確認できない限り引っ込む訳にはいかない。

 少女が東の空を見るために横を向いた。そこでようやくマチルドは、少女がスピカだと認識した。何かに気づいたスピカは、二階の方を見た。マチルドは慌てて顔を背けてその場を立ち去る。

「どうかされましたかスピカ様?」

 マチルドの耳には最後にそんな言葉が届いた。しばらくして、テルがスピカを牢に戻した旨を伝えに来た。

「これで良いな?」

「ええ、早速明日出ることにするわ。それより、あの髪と羽は何なの? 彼女、まだ幼鳥だったの? そうだったとしてもこんな短期間で生え変わるもの?」

「さあな。外人なんだ、何が起こったって別に妙じゃないだろ」

「だからって限度があるわ」

 彼はよくある現象だ、とは答えなかった。とするとあの変化は、スピカが鳥にされたことによる副作用ではないと言える。

「そんな事どうだって良いだろう。取引が終わってから本人に訊いてみれば良い。それより、客人用の寝室に案内する」

「そうさせて貰うわ」

 彼女の体に変化が出ている原因があるとすれば、彼女を連れてきた魔女が関与していると考えるしかない。しかし問題なのはそうする目的だった。

(ああやって外見を別人のようにさせる、意味があるとすれば……まさか、本当に別人の姿にして記憶を消して、別の村でも使い回すつもり? でも女の子よ?)

 以前スピカやアークと各地で聞かれる迷子の話をした時に、スピカはそんな風に延々とこの世界を彷徨うことになるのでは、という未来を想像していた。迷子はそれぞれ全く違う特徴の少年だったということが彼らを安心させる要素になりはしたが、それがもし今スピカの身に起きていることに起因するのであれば、最悪の事態というものが現実味を帯びてくる。

 それに、アークが消されたのにスピカがまだこちらにいることも気にかかる。知り合いである二人を一緒に誘拐したことに意味があったと予想していたが、どうやらそうでもないらしい。まさかアーク同様に命の危機が迫らないと帰れない、などという理由ではないだろうし、探りを入れるためにも一刻も早く彼女と面会できる状況を作らなくてはならない。

 階段を降りたところに、見覚えのある女中が立っていた。彼女が案内をすると申し出ると、テルは別のところへと向かった。

「お待ちしておりました、マチルドさん」

 シオンだった。アークの専属という職を失った今は、テルの側近という立場にいるのだと語った。彼女の予知夢の能力が非常に有益だからである。そんな彼女にマチルドは、シリウスらにしたのと同じ質問を投げた。

「あの日のことは、当事者である私達にさえ全容が把握できていないのです。何故住民が、代表者がいたわけでもないのに結束して蜂起したのか、何故武器を取って殺すという選択をしたのか、何故キャンサーが裏切ったのか、何故誰も姉さんの言葉を聞かなかったのか」

「姉さん?」

「シリウスのことです。血の繋がりはありませんが」

「シリウスさんの命令が無視された理由なら想像がつくわ。恐らく『自分のしていることは彼女のためだ』っていう正義感よ。一見間違っているけれど、果たした暁には正しいと認めてくれるっていう思い込み」

「まさか」

「思い込みっていうのは恐ろしいものよ。ただの水を薬と思って飲んだだけで病気が治った例があるくらい。同じ考えを持つ人が複数いると分かるだけで、思考を止めて正当性が保証されたと思うようになる。人は自分の考えを否定されると反発したくなるものだもの、シリウスさんの言葉を聞かなかったのも無理はないわ」

「そんな理由で姉さんが苦しんでいるんですか?」

 二人は客用の寝室へと歩いていた。

「姉さんは、自分の言葉が誰にも届かなかったことをひどく悔やんでいるんです。もし自分がもう少し上手く説得できていたら、アーク様はいなくならず、死傷者も出なかったに違いないと」

「そんな風には見えなかったけど」

「そこが姉さんの強さなんです」

「それは強いんじゃなくて、我慢してるだけよ。あ、ここよね。ありがとうシオン」

「あの、中で少し話しませんか?」

 マチルドに断る理由はない。手に入る情報は、少しでも多い方が良い。

「アーク様はこの世界のどこかで生きておられます」

 開口一番シオンはそう言った。

「何それ本当?」

「はい、予知夢で見ました。女の子と一緒です」

「それってスピカ?」

「いえ、髪が長いのは同じですが、紫色だったので別の方だと思います」

「紫って、私のくらい?」

 マチルドの髪は紫水晶のように色が薄く透明感がある。非常に艶があって瑞々しい。マーテルの髪もそれに近く、行商人の中にはこういった髪質の者が多いのだ。

「いえ、もっと暗く、テルさんのそれよりも暗く、黒に近い色ですがどちらかというと紫でした」

「他に何か特徴は?」

「結構親しげな様子でしたよ。そういえば、羽がなかったような気がします」

「ということはやっぱり村の外ね。どこにいるのかしら」

 では黒い穴に消えたというのは、元の世界に戻されたのではなく、使い回すために別の集落に飛ばされたということなのか。マチルドの結論とは異なる。

「その夢を見たのはいつ?」

「アーク様が消えられてから断片的に見たものを繋ぎ合わせたんです。ただ、夢の内容がいつどこで実現されるのかは私には分かりません」

「そっか。貴重な情報だわ。でもどうして私に話すの?」

「こんな夢を見たなんて誰にも言える訳ないじゃないですか。言ったところで誰も得をしません。でも、マチルドさんになら言っても意味がある気がしたんです。話すことで私の気も少し楽になるかなと思ったんですが」

「そうね、確かにこれは私以外に価値の無い情報だわ。ありがとう、シオン」

 マチルドはシオンの頭を撫でた。

「でも、もし私が彼を見つけても、ここには連れ戻せないかも知れない。見つけたって報告をすることさえ出来ないかも知れない。それは覚悟しておいて」

 こういう言い方をしながらも、マチルドは腹の底では絶対に不可能だと確信している。しかしそこに一切の罪悪感はない。これは村から村への行商人にとって当たり前のことだからだ。嘘を吐いて騙し、相手を信用させて裏切り、弱みにつけ込んで上手に出る。行商という非常に不安定な職業上、時には敢えて悪に染まることも求められる。立つ鳥跡を濁さず、という言葉とは一切無縁の世界なのだ。

「はい。そもそも、もうこの村にはアーク様が戻られる場所はございませんので」

 そんなマチルドの頭の中を知ってか知らずか、シオンは悲しげな顔で健気に言った。

「そうだったわね。他には?」

「近いうちに龍族から使いが来ます。戦争再開の前兆かも知れません、出来る限り早く、雪解けの前にこの山を離れることをお勧めします」

「さすがに何十日も滞在するつもりはないわ。あなた達こそ、死なないように気をつけなさいよ」

「大丈夫です。私達は、永遠の命を持つという霊鳥様のご加護を受けているのですから」

「面白いわね。じゃ、そろそろ寝ようかしら。もし今夜何か見たら早めに教えてね、朝には出発するから」

「分かりました」

 女中は一礼してから部屋を後にした。

 その翌朝、見送りにシオンは来なかった。伝えることは特にもうないということなのだろう。マチルドは屋敷を後にすると、途中でマーテルの酒場から荷車を回収し、雪道を慎重に下る。人々が好奇の目で見てくるが、もはや慣れた事なので気にしない。外壁に開けられた門をくぐると、そこに広がるのは果樹園だ。何度か往復して気づいたことだが、よく見るとブロック分けされていて、それぞれ違う種類の木が植えられている。一部の木には文字のようなものが彫られていて、これでそこの所有者を区別しているようだ。

 それにしても見事なものだ、とマチルドは思った。地面には雪が降り積もり、冬なのに落ちていない葉や枝が雪の重みでしなっている。それだというのに、見事な果実を結んでいるものが多いのだ。この辺りに生える植物は寒さに極端に強い。もしかしたら季節の変化に影響を受けずに一年中実をつける木なのかも知れない。種を仕入れていて正解だった。商人の集落に持ち帰って研究する必要こそあるが、これが広まれば食料が理由で争っている集落を救える可能性がある。それは、村と村の交流と物流を担う行商人の一番の役割でもある。

 果樹園を進みながら、東へと進路を取る。曇っている上に常緑樹に視界を遮られて方向は正確ではないが、それもそこを抜けるまでの辛抱だった。

 人工的に植えられた木がなくなると、その先の斜面からは一気に植物が少なくなる。背の低い草は、完全に雪に埋もれてしまっている。ここは、意図的に草刈りをしている場所ではない。この地は何度も戦火にさらされ、踏まれ、剣戟が飛び交ううちに植物が育ちにくくなってしまった、戦場だった。それにしても、その間際だというのに果樹園の木はどれも背が高い。この辺りはギリギリ戦場にならないからなのだろうか。

 マチルドは一旦足を止め、目を閉じて集中する。右手に光を集め、それをビームとして前方に放つと、雪が凍って氷の道が出来た。そこに自身と荷車を乗せ、重力任せに斜面を下っていく、氷が途切れる前にビームを撃つことを繰り返し、そのまま滑り続け龍族の山の麓まで辿り着いた。そこから先は『能力』を応用し、滑らないようにして地道に歩いて登るだけだ。


 一方のゾディアーク。マチルドの言葉が気になったテルは、スピカを執務室まで連れてこさせた。目の前に現れた彼女の姿に、村長とポーラ、それにシリウスは驚きを隠せなかった。白い服が薄汚れているのは待遇によるものだから良いとして、髪と翼の全体が、ラザルのそれを思わせる漆黒に染まっていたからである。もちろん、以前の彼女をよく知る彼らだけではない。彼女と接触した者は特にその変化する様を見ていた。驚きというより、この少女に対しては不気味さを感じている者さえいる。

「ベテルギウス様、これは一体?」

「スピカ、それはどういうことだ?」

 テルが問い詰めるが、シルマがスピカは言葉を失っているのだと告げた。

「それは色の変化と関係があるのか?」

「確かに、話されなくなってから黒いシミが出来始めたように記憶しています」

「どういうことなんだ」

 テルが独り言のように言った。念の為にポーラやシリウスに訊いてみるが、二人ともただ首を横に振った。

「何かの病気、でしょうか」

 ポーラが何とか知恵を絞り出した。

「そんな病気は聞いたことがないし、こいつが村に入ってからもう二十日近く経過しているんだぞ。こいつが病気を持ち込んだとも考えにくい。誰かこいつと接触した奴の中に、似たような症状が出ている者はいないか、調べてくれ」

 兵士達はまずお互いを調べてから、外へ該当者を探しに行った。

「ポーラ、何してる」

「あなたにあったら、一大事、ですから」

 ポーラはテルの長い髪を触って点検している。彼女でなければ、こんなことは出来ない。

「私は調べなくても良いわ」とシリウスが言う。「私はもともと後ろの髪の一部が黒いの。出来ていたとしても区別がつかないわ」

 一方ポーラは短髪でしかも白銀色なので黒いシミがあったらすぐに見つけられる。

「ベテルギウス様、やはりこいつは怪しいです! さっさと追放してしまいましょう!」

 兵士の一人が強い剣幕で訴えた。だがテルはもっと強い言葉で反撃する。

「ダメだ。こいつが大事な人質なんだ。俺の指示があるまで村の外には出すな」

「し、しかし、この髪と羽はラザル様を思い起こさせますし不快です! 病気かも知れないんですよね? だったら、感染を防ぐのと見せしめのためにもどちらも切り落としてしまうべきです!」

 これには怒りを抑えきれなくなった。

「お前は誰に物を言っている! スピカは大事な人質だと言っただろうが! いいか、俺が指示しないことは勝手にするな。丁重に扱え。行商人にこの村を滅ぼされたくなければな。他の連中にもそう伝えろ」

「この人質、行商人からの預かり物なんですか?」

「余計な事は訊くな! さっさと行け!」

「は、はい!」

 その兵士が慌てて執務室を出て、部屋にはテル、ポーラ、シリウス、スピカ、シルマだけになる。

「テル、やり過ぎです」

「すまん、少し言い過ぎた」

「それにしても、奇妙な事が、あるものですね。シルマ、他に何か心当たりは?」

「関係があるのか分かりませんが、スピカ様が言葉を失われる前の晩、私はアーク様の部屋の前で待っていたはずなのですが、いつの間にかスピカ様の部屋で倒れていたのです」

「関係性はともかく、奇妙な話だな。その場にシオンはいなかったのか」

「いましたが、シオンは私がいたことを覚えていなかったようなのです」

「記憶と行動の操作? まさかアリア様以外にその能力を持つ者がいるのか。いたとしてもその目的は何なのか」

 結局謎だけを残して、スピカは元の独房に戻された。


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