ChapitreⅩⅧ:天文学者の見る風景
我々は翼が欲しいという欲望を持っている。にもかかわらず
結局は空を飛ぶことは出来ない。要するに、我々は幸せなのだ。
さもなければ、空気はやがて吸うに堪えなくなるに違いない。
ルナール
テルの試験が終わり少し休んでから、スピカは村長に見せたいものと話したいことがあると言って、オフィユカスの二階を使うことを申し出た。用があるのは会議室ではなく、その外周廊下だった。この場所は見張り場も兼ねて屋外に位置しており、そのため彼らには夕方の冷たい風が吹き付けていた。この二階部分は村長やその関係者が密談をする時などに使われ、誰にも聞かれたくない話をするための場所である。が。
「わざわざ二階に来たのに外に出るの?」
「うん、ここじゃなきゃ駄目なの。ねえ見てよ、この空」
「ん?」
言われてアークは、少女の隣に並んで同じ向きで空を見た。雪よけのためか大きく張り出した屋根に遮られて上方の視界が悪いが、目下に伸びるのは大通り、すなわち真南の夕景である。沈みゆく太陽が空と白銀の山肌を橙色に染め上げ、写真に撮りたくなるような美しい光景がそこにはあった。
「普通の穏やかな空にしか見えないけどね」
「月が出てるし、一番星もあるの」
視線を南東の空に送ると、確かにそこには十六夜の月が懸かっていた。そして西に戻すと今度は太陽から少し離れた場所に小さな光が見えた。
「当たり前なんだけど、なんか変じゃない?」
それが『普段当たり前のように思っていることでも、少し穿った見方をすれば変に見えるもの』という意味でないことを幸助はすぐに察した。そんな問いかけには何の意味もないからだ。何が変なのか、と彼はある限りの知識を動員する。この一番星は宵の明星で、太陽との位置関係もおかしくはない。金星は満ち欠けをするが、肉眼では確認できないのであまり意味はない。月の光っている位置は太陽に近い方だし、その模様にも異常はなさそうだ。一体何が……と問おうとした刹那、彼の考えの中心にある『基準』そのものが基準たり得ないことに気づく。そしてそれを先回りするようにスピカが言った。
「ここって、私たちのとは違う世界、なんだよね」
「言われたことを信じるならな……いや、もうそんな次元の話じゃないか」
「うん。それなのに、どうしてこんな地球上だって思わせる要素があるんだろうね? あと七日くらい待って満月になれば、なおさらそれを確信できるんじゃないかな。それと、一日の時間も殆ど同じなんだと思う。時計がないからはっきりと言えないけど、体内時計とのずれもなさそうだから。って、これは太陽がリセットしちゃうかな」
そこで幸助は、こっちに来る前には着けていた腕時計が消失していることに気がついた。
「確かにそうだ……まともに空見たことなかったから今まで気づかなかったよ」
「うん。こっちに来てから、夜に時間があったら出来るだけ空を見るようにしてたんだ。それでさ、これだけ見ると、もしかしたらこの山を下りたら家に帰れるのかも、って気さえするよね」
これだけ、の語で強調された彼女の思いにアークも感化され、彼の胸中にも一片の希望が生まれた。
「すごいよスピカ、これは大発見だ!」
「でもね、どうしてかな……夜になると、私の知ってる空じゃなくなるの」
東の空はもう藍色が浸食し始めている。夜も近そうだった。弱くなり始めた陽光を受けるスピカの不安そうな顔を見ながら、アークは恐る恐る尋ねる。
「一体何が起こるんだ?」
「……星座が見つけられないの」
彼はそれを聞いた瞬間は大したことではないように思えた。より正確に言えば、スピカが言ったことの意味があまり良く分かっていなかったのである。彼にしてみれば、夜空を見て星座を辿れないことはさして不思議ではない。
「星座が見つからない?」
念押しと質問、その両方の意味で彼は尋ねた。しかしスピカはうん、と頷いて返すだけ。何を言わんとしているのか考えてみて最初に浮かんだのは、星の数が極端に少ないという可能性。しかし文明の低さから言って、地表が明るすぎて星が見えないということはない。恒星の絶対数が急に増減することも、宇宙の活動から言ってまずあり得ない。
「夜空の八割近くが、私の知ってる空と違うの」
衝撃と混乱。
「え……まさかさっきの『これだけ』ってこんなにも多くって意味じゃなくて昼間だけ、って意味?」
「そうだよ。一日の半分は既知で、残りは未知」
「違うって、具体的には?」
「星座を探す指標になるのは一等星なんだけど、それと周囲の星との位置関係が、頭の中のどこの星図とも一致しないの。観測した日時や場所、周囲との関係で星を特定するんだけど、地球上のあらゆる場所と時間を想定しても、ここの星図は次元が違う」
「それで、残り二割の見知った夜空って?」
「惑星があるの。多分火星と木星。色と明るさからも区別出来るけど、光り方が恒星と全然違うから間違いない。位置も黄道……太陽の動きをなぞってるし。あと、形がゆがんではいるけど見覚えがあるかな、っていう『気のせいな星座』が少しね」
「訳が分からない……」
「わざわざ呼び出したのは、この現象に関しての見解を聞きたかったからなの。なんなら夜空になるまで待ってみる?」
「いや、良いよ。別に疑ってないから。それより今考えるべきなのは、この不思議な空の正体だ」
目視できる天体の位置や数が違う、ただそれだけなら平行世界、別の宇宙にやってきたのだと想像すれば現実的でないにしても納得がいく。しかし問題なのは彼らが立つ大地の自転速度、太陽系の位置関係が変わっていない点にある。そうすると誰もが最初に思いつき直後に否定される仮説が浮かぶ。
「例えば、太陽と惑星のバランスが全く同じ恒星系があって、そこにワープしてきたと……」
ワープという非常にこの世界に似つかわしくない言葉だが、非現実味を帯びている彼らの状況にはよく似合っている。
「ゼロだとは言えないけど文字通り天文学的な数字だよ? 生命が誕生する惑星が存在する確率の上に、惑星配列まで一致しちゃうなんてね」
要するに、昼の一致と夜の不一致は、地球上の可能性と別惑星の可能性とを同時に示唆している。こういった中途半端な事実が、彼らの上に大きくもあり無視すべきでもある問題としてのしかかっているのだった。
無視すべき、というのは二人にとってこの疑問は生きる上では何ら差し支えのない要素であるからだ。先日の商人達との密談によって、この世界に連れてこられた彼らがいずれは元の場所に戻れるということがほぼ確実視されている。
「急に言われても、なあ……ごめん、保留にさせてくれないか」
「ううん、こっちこそ、いきなり私の個人的な興味に巻き込んじゃって」
「何を今更言ってるんだ。それより、気になるなら星図の記録でも取っておくと良いよ。紙とインクの用意させるから」
「あ、それ良いね」
空は今まさに夜になろうとしていた。二人が夕日の美しさを満喫していたらあっという間に日が沈んでしまったのだ。太陽の光にかすんでいた星が、次々にその輝きを見せ始める。しかしそれらを愛でるには、この場所はいささか寒すぎた。仕方なく引き返すことにはしたが、彼らは互いに沈黙し、全く別のことを考えていた。
(やっぱりこんな独りよがりに付き合わせて、迷惑だったかな?)
(俺らだけで解決出来るのか? というか、分かったとして……俺のすべきことは変わるのか?)
そしてアークにはもう一つ。
(そういえば今更気づいたけど……スピカって、いや美奈って、こんなに自分から喋る子だったっけ?)
もちろん、天文学という彼女の十八番であるから饒舌になったと考えるのが自然だ。とはいえ彼女は、星の知識について聞かれたことに答えることはあっても、今のように自分から楽しそうに、積極的に、あるいは真剣に話し、誰かに意見を求めるようなことは一度もなかった。
(それとも異国の地にいる高揚感か……いや、もしかしたらスピカが本当は美奈じゃないって可能性は? あの魔女が作った幻ってこともあり得る)
いくら疑っても尽きないが、スピカの口から自分が天野美奈だ、と語られることなしに二人の少女を完全なイコールで結びつけることは出来ない。何より、たとえ同一人物であったとしても、幸助と同じ境遇にあるなら本名を明かすことは絶対にない。
彼らが同じ場所から来たといういくつかの証明も、ただの錯覚に過ぎないのかも知れない。そこも魔女の策の一つかも知れない。そもそも、唯一の跡取り息子が死んだ直後にそれとそっくりな男が現れるというシナリオは良く出来過ぎている。そこの奇妙さを魔女の策略だと推定すると納得は行くが、この世界にある全ての存在が疑わしくなってしまう。
「どうしたの? 怖い顔して」
アークは考え事してた、と言ってごまかした。
(そういや、病弱な美奈の体にここの環境は大丈夫なのか? 空気が澄んでるから平気なのか?)
相反する複数の要素のために、ここが地球上だと判断出来ずにいる。それは、スピカが美奈だと断定しきれないのと非常に似ていた。
(疑いたくはない、そう、信じたいんだよ、でも、決定打が存在しない)
「ああそれとね、もう一つあるの」
薄暗い階段を下りながら、スピカが言った。
「また空の話?」
「ううん。詳しい数字とか良く分かってないから的外れな考えなのかも知れないけれど、この集落って結構高い位置にあるじゃない? それと外側には大きな森が広がってるんだけど、森林限界っていう点で見ると実際どうなってるのかなって」
「植生がそもそも違うみたいだし、考えるだけ無駄だと思うけど? あの木の実を見たろ?」
「確かに……ね」
異世界であることを示す要素は、身近なところにさえ転がっていた。
村長就任三日目。アークとスピカがこの世界に来てから十五日目。セラトナの活動もあり段々と作戦は進みつつあったが、ここで一つの変化が訪れた。マチルドが二人を置いて村を離れると言ったのだ。
その理由は、一ヶ所に留まっていると稼げる量が減るからだという。戦場に落ちているだろう道具を拾ったり、盗賊を襲撃したりして手持ちを増やすことも必要だと付け加えた。
「村長を辞めるのにも時間がかかりそうだし。もしもの時のためにテルとマーテルには話をつけてあるわ。麓との往復だし、七日もしたら戻るつもり」
「あれだけの荷物を引いて、雪の山道を七日で往復するんですか? 結構近いんですね」
「いいえ、手ぶらでも一日かかるわ。私には水の『能力』があるって話したでしょ? それは雪だって例外じゃないのよ」
「具体的には?」
「秘密」
彼はマーテルの酒場で夜を明かした時に商人の荷車を見ている。かなり大きめのリアカーで、身長を超える高さに積まれた商品が布やロープで縛り付けられていた。上り坂が大変なのはもちろん、下り坂も危ない。車輪を外してそりの要領で滑ったらスピードは出るが止まれない。何をどうするつもりなのか、青年には想像がつかなかった。
そこへテルが現れた。
「アーク、マチルドが……って、まだいたのか」
「ええ、まだいるわ」
「マチルドがいなくなっても支障はないのか?」
「やろうとしてるのは結局選挙のやり直しだから、そこまで重大でもない。アリアさんもいるし」
「夜に三人でこっそり抜け出す、という訳にはいかないのか? 出口までの護衛ならやるぞ」
「それも考えたけど、村に迷惑がかかるだろ。それに、そんなに急ぐ必要があるのか?」
「お前達だっていつまでもここにいたくはないだろう。あまり時間がかかるようなら無理にでも交代すべきだ。シリウスは孤児上がりの軍人だ、政治に関しては全くの素人と言っていい。いくら大臣がいるとはいえ、あいつ一人の体制は限界がある」
「ならそれはシリウスの支持を落とす立派な理由になるじゃないか。昨日のテストは、逆にお前なら村長にふさわしいっていう証明にもなったしな。なんなら、お前がシリウスを手伝ったって良い」
「そうかその手が!」
「もちろん、兵隊の仕事は誰かに引き継がせてな」
「大丈夫、候補ならいる」
「どうやら順調なようね。私が戻ってくるまでには交代しておいてくれると助かるわ」
準備期間を考えると三日以内には再選挙を提案して実行に移す必要があるだろうとアークは算段を立て、マチルドを見送った。
「テル、セラトナに接触できないか?」
「あいつは常に動き回ってるし、どこに住んでいるのかも分かってない。向こうからこっちに来るのを待つしかない状況だ」
住民調査の本があるとアークが指摘すると、
「膨大な数の中からたった一人を見つけろと言うのか? それに、場所を変えていたら時間の無駄だ」
「それならスピカに知恵を借りよう」
彼はシオンを遣いにやり、屋敷にいたスピカを呼び寄せた。彼女は妾という地位を得たことで村長への接触は容易になったが、その反面市街地には出られなくなっていた。
「セラトナさんの居場所ですか? マーテルさんの酒場か、本部にいると思いますよ」
「本部?」
「確かスコルピウスとかいう大きな建物でした。集会所になっていると聞いたような……」
「それならこちらも場所は把握している。しかし、そんなところに本部を置くとはな」
「でもそこに行ったからといって会える保証はありませんよ」
「会えなくても良い。目的は伝言、流す噂の追加だからな。酒場の方は多少取引が必要か……」
「マーテルさんに依頼するなら、マチルドさんに戻ってきてから払わせるって言えば大丈夫だろう」
アークがそう口を挟んだ。
「そんなので取引が成立するのか?」
「俺とスピカからの依頼だって言えば確実だ」
「マチルドといい、その酒場の元行商人といい、お前達とは一体どういう関係なんだ?」
「秘密」「内緒です」
「まあ、知ったからどうというのでもないしな。俺は俺の仕事をするだけだ」
「頼んだよ」
テルは返事もせずに部屋を後にした。
「シルマ」
アークはスピカにくっついてきた女中を呼んだ。
「はい」
「今この部屋で見聞きしたことは誰にも言うな」
「御意」
彼女は、村長が入室を許した六人に含まれてはいない。それでも、スピカのそばにいるのが自分の役目だと言って譲らなかった。
(そこはシオンを見習わなくても良かったのに)
「さて、今からでも出来る準備を始めないといけないな。とはいえテルはさっき出てったし、俺が部屋から出なくちゃいけないのか」
「何かご入り用ですか?」
「この前の選挙で使った立て看板と投票箱が今どうなってるのかが知りたい。見つけ次第看板は屋敷に回収、箱と投票に使った葉っぱや石は各地区に再分配。壊れていたら補修、あるいは作り直す必要があるからその指示も」
「では、私が村長命令として伝えてきます」
「いつも悪いな、シオン」
「いいえアーク様。これが私の務めですので」
女中がいなくなってから、スピカが不満気な顔をして言う。
「ねえ、シオンをこき使いすぎなんじゃないの?」
「そうかも知れないけど、俺の手足として動かせる人材は貴重だし、何よりあいつが自分からこうあることを望んでいるんだ。俺がリゲルじゃなくなってもな」
「だけどさあ」
「部屋を出て行く時のシオンの顔見た? ああやって誰かの為に尽くすのが幸せなんだろうさ」
「ふーん、幸せの形は人それぞれか」
「スピカ様も私をもっと激しく使って下さってもよろしいのですよ」
「遠慮しとく」
「ああそんな!」
「スピカ、せっかくだからお姫様気分を味わっておけば?」
「お姫……様?」
「そうだよ、何でも言うことを聞く召使がいるのは今だけなんだし」
「そっか、そうだよね」
彼女は頬に手を当てて、何か命令を考えている仕草をする。
「それじゃあシルマ」
考えがまとまったその時、
「お兄様、今日こそは私と――誰ですのその女!」
猛烈な勢いで扉が開け放たれ、茶髪の猪突猛進妹、ミニーが現れた。
「あなたこそ誰よ! お兄様って!」
「ミニー、いきなり開けるなんて失礼だろう」
「申し訳ありませんお兄様、ポルクスから逃げるのに必死でしたの」
スピカが目で「誰?」と訴える。
「リゲルの腹違いの妹のミニー。厄介なことにまだ俺が本物のリゲルだと思い込んでる」
「わぁ、それは厄介だ」
「ミニー、彼女はスピカ、俺の第二夫人」
「あら、そうなら早くおっしゃって下さいませ。ではスピカお姉様、あなたがお兄様に変なことを吹き込んだ張本人ですの?」
「お姉ちゃんって呼んでくれたら答える」
「スピカお姉ちゃん、お兄様に何を言ったの?」
「何も言ってないよ。彼は私と同じで村の外から来た余所者だから」
「ご冗談がお上手ですわね。お兄様は私と共に十五年も暮らしてきたのですよ」
「俺、お前はもっと若いと思ってた」
「私も」
「良く言われるんですの、お前は何年たってもひよっこだなって」
「ということはシオン、リゲルは年よりも老けて見えてたってことなのか?」
「殿方がどのように老けるのか私は存じ上げませんが、アーク様とリゲル様は同じ年だと思っておりました。本当にそっくりなので」
「ちなみにお前は?」
「正確ではないですが十三年です」
「お前の方が年下なのか!」
正確な数字ではないのは、彼女が幼い頃に孤児となったからであろう。それにしてもこの世界の住民は、成長速度が人間よりも遅いのだろうか。
「そんなことより、十年前に私を妻にするというお約束を忘れたのですかお兄様!」
「してないしそもそも無理だろそれは」
その時、扉を素早くノックする音がした。どうぞと促して入ってきたのは、黒い艷やかな髪が印象的な少女だった。以前、ミニーを捜していた人だ。
「探しましたよ! 申し訳ありませんアーク様、私が目を離した隙に逃げ出してしまいまして」
「いいから連れてってくれ」
嫌ですの、と叫んで抱きつこうとするミニーを、スピカが阻止する。
「間女のくせに私を邪魔するんですの?」
刹那、その首筋にしゅっと細長い何かが当てられる。木の小太刀を構えたシルマだった。
「ミニー様といえど、主への侮辱は許しません」
彼女はまるで殺さんばかりの気迫でミニーに対峙した。アークはやり過ぎだと止めようとしたが、シルマの眼光に射すくめられたミニーがその場にへたり込んでしまう。
「さあ帰りますよミニー様」
彼女の専属女中であるポルクスは、小柄な割に大人びた顔立ちで、マチルドやシリウスには及ばないにしても体つきはかなり成熟しているように見える。立てなくなった主人を体育座りにさせ、背中側から膝の裏に腕を伸ばすとひょいと抱え上げた。体格に比して怪力なのに驚く一同を気にも留めず、そのまま頭を下げて謝罪すると部屋から出て行った。
「夕立みたいな子だね」
スピカが感想を漏らした。
「それとシルマ、私のためにありがとう」
「これが私の務めですので」
「だからと言ってナイフはやり過ぎだろう」
「ですから、おもちゃに変えたんですよ」
言いつつ、袖から木のナイフを出して見せる。大きさは以前使っていたのとそう違いはなかった。
「そりゃスピカをかばってくれたことには感謝するしあのミニーも悪いとは思う。だからと言って泣かせるのはあんまりだ」
「はい、軽率でした」
しかし彼は、この件が原因でミニーが彼やスピカに会うことを躊躇うようになれば良いと考えていた。そうすれば少なくとも、作戦会議の最中に話の流れをぶった切られることはなくなる。
「あとで謝っておけよ」
「はい」
それが実行されるとしたら、彼女の今の役目が必要なくなってからだろう。ミニーの行動もしばらくは制限されるに違いない。
しばらくしてシオンが戻ってきた。看板はそれぞれの地区にあるので調査中、投票箱は中身が詰まったまま屋外の倉に保管してあるとのことだった。
「それって以前俺が閉じ込められたあの倉?」
「そうだと思います。さして大事なものでもありませんし、十分な空きがありましたので」
「閉じ込められた?」
「うん、酒場で少し話したけど覚えてないか」
そして彼は事の経緯を話す。
「そうだそうだ、テルさんを操った能力者はもういないだろうって話の時に」
「まだいらっしゃいますよ。アリア様ですから」
思わぬ真実に、注目がシオンに集まる。
「それ本当か?」
「生前のリゲル様がそのように」
「じゃあなんで俺には使わなかったんだ?」
「使うとお体への負担がかなり大きいそうです。そのためラザル様は使用を禁じておりました。テルさんに使われたのを見て、リゲル様はこれで自分に使われることはないと安心していらっしゃいました」
「命に関わる特殊能力、そんなのもあるのか」
「かなり珍しいですが」
謎が一つ消えたのに、アークの心中は穏やかではなかった。体へのダメージのためラザルに禁じられたその能力。逆に言えば、ラザルが消えた今、アリア自身が自分の命を賭してでも成し遂げたいことがあれば力を使えるということだ。彼女の立場を考えれば確率こそ低いが、それは恐怖でしかない。
「ねえ、アークには好きな人っている?」
その夕方、女中を追い出してリゲルの部屋で二人きりになったスピカは、唐突にそして躊躇いがちにそう言った。二人はベッドに並んで――実際にはかなり間隔を空けて――座っていた。
「いるよ、目の前に。友人としてね」
「うん、それは私も……ってそうじゃなくて、異性として、恋人になりたい人はいないかって意味」
するとアークは、答えを慎重に選んているような素振りを見せてから、こう言った。
「いないよ。今のところは」
「私の友達が、そういう人がいるって言ってたんだ」
アークは思わず眉を顰めた。しかしながら幸か不幸かスピカは勇気を振り絞るために俯いていたので、その顔は見えなかった。
彼女が求めている返事は明白だった。しかしアークは出来るならばその話題を膨らませたくはなかった。かといって、そんな事をして彼女に悪い印象を持たれるのも億劫だ。だから彼は、キャッチボールを続ける方を選んだ。
「へえ。誰?」
「同じ街に住んでる友達だって」
彼はそのスピカの友達は誰なのかと訊いたつもりだったのだが、質問を間違えて伝わらなかった。
「どんな人?」
――おいやめろ。
「背が高くて、格好良くて、頭も良い上にジェントルマンなの」
「へえ、さぞモテるんだろうな。先客の一人や二人くらいいるんじゃない?」
彼は自分でも無理に笑っているのを感じていた。
――やめろって。
「私もその人のこと知ってるけど、そういえばそういう話聞かないんだよね。浮気する人には見えないし、振り向かないのは彼女がいるからなのかな」
「だったら訊いてみれば良いじゃん」
――さあ、終わりにしろ。
「出来ないよ、そんなこと。怖いんだと思うよ、もし恋人がいたらとか、何とも思ってないとか言われたらって考えたら」
「友達なんじゃないの?」
「うん、そうなんだけど、その人が彼女と同じように思ってるかどうかは分からないよ」
「友達なのに?」
「うん」
――もう戻れないぞ。
「じゃあ友達だって一方的に思ってるだけかも知れないじゃないか。俺はその友達も、その子が好きな男のことも何にも知らないけど」
「うん、そうなんだよね。あの子だけが勝手に勘違いしてるだけなのかもね。でも彼は最初、自分からその子に声をかけたんだって。それから何度も会ってるし、何とも思ってないはずはないよ」
――それ以上は踏み込むな。
「それで、その子は彼にどう思われてるかが気になってるってことか」
「そうなの。同じ男子として、どう思うかってのが聞きたいなって」
「俺はその友達のことも知らなければ、男がどんな人なのかも知らない。それでどう思うかって言われても、俺はエスパーじゃないし。本当に友達だと思ってるなら気持ちをぶつけた方が良いとか、月並みなことしか俺は言えないよ」
「そうだよね、ごめん、私変なこと言って困らせちゃったよね。だから聞いて欲しいの。その二人の最初の出会いと、私が旅に出るまでの物語――」




