ChapitreⅩⅦ:距離
信用は鏡のガラスのようなものである。
ヒビが入ったら元通りにはならない。
アミエル
結婚式はどうやら、アークが声を出さず口を動かしていたのを承諾とみなしたアリアが夫婦の成立を宣言したために、やり直しの必要はないらしい。言い換えれば、そのためにアークはいよいよその立場から逃げられなくなるということだ。
あくる朝の空模様は、前日とは打って変わって雪だった。オフィユカスでは祭の前日以来となる朝礼が行われ、その際にアークトゥルスは正式にゾディアークの村長となった。とはいえそこにいた人々の大半は彼を見てはいなかった。
村長が代替わりすると、屋敷の住人の入れ替えが行われる。前の村長は奥へ追いやられ、その妾や娘らはそこを追い出され、代わりに新しい村長の愛人が数人、跡継ぎを産む目的で迎え入れられることになっている。場合によっては大臣や召使の人事異動がなされることもある。
しかしアークは、それらのことを一切禁じた。人事や住居はラザル体制の時のまま、アーク政権へと移行したのである。こうすることで自分の権威を失墜させられるし、村長を辞退したいというアピールになると考えたからだ。また、シリウスの居場所は屋敷の外にある兵団宿舎のままになり、彼女にとって不利が生じることも考えられる。もちろん彼女の支持者にとっては不満の種にはなるが、それも策略のうちだった。
執務室でその『何もしないという指示』を出し、全員をそこから退出させたアークはふうと一息ついた。なお、これらの政策は全て、昨晩のマチルドやテルを交えての作戦会議を元にしたものである。問題はこの先の振る舞いだ。力ややる気があることを示すのならばともかく、それがないことを示して退陣にまで追い込まれるのは簡単ではない。
「素直に辞めるって言って辞められるならこんな苦労はないのに……」
もちろんそれを最初に考えはした。しかしながら村の掟は、体の問題以外で譲位することを想定していない。そもそも村長の家系が途絶えた時の事が掟に書かれていないので今回のような大騒動になったのである。それに、無理に逃げ出そうとしてもシリウス派の邪魔が入る可能性もあるし、もしそうなったら余計厄介なことになりかねない。さらに、男が少ないという環境のためか、離婚はタブー視されているらしく、この手も使えない。
「仕方のないことです。でも、この方がかえって幸せなのかも知れません」
「それはシリウスがか?」
「この村が、です。今回の事件はいずれ忘れ去られます。そして、歴史書も歪曲して記述されるでしょう。村長の血筋が途絶えたという事実が隠されることは、むしろ好都合なんです」
「歴史の隠蔽、か」
「申し訳ありません、召使なのに差し出がましい真似を」
「いいや、そこは別に構わない。肩書はいくら村長でも、中身はただの迷子だからな」
昨日倒れた時に魔女からの接触があったことを、アークはまだ誰にも言っていなかった。彼女の言葉の中に幾つか気になるものが混じっていた。
『もう少しだけ付き合って貰うわ』、そう言っていた。これはもう少しこの村にいろという指示だろう。彼が村長という立場から何かの行動を起こすことを望んでいるかのようだ。しかしその目的が相変わらず不明のままだ。
『あなた達をこの世界に送り込んで、元の世界に戻すところまでが私の仕事』とも言っていた。もちろん文字通りの意味であるはずはない。何かをさせる目的があることは明らかだが、それなら何故そうだとストレートに言わないのか。あるいは、言ってはならない理由があるのか。彼女が本当に伝承にある滅ぼされた魔女の生き残りであるならば、その歴史と何かつながりがあるのだろうか。
「シオン、俺が村長になるっていうのは本当だったな。夢で見たのか?」
「はい、見ました」
やっぱりか。しかし彼には責めるつもりはない。彼女が予知夢で人には言いたくないことまで知っているのは彼も知っているし、彼が次の村長になることを黙っていたのではないからだ。
「じゃあ、次に俺が何をするかも?」
「はい」
「シリウスを傷つけるんだろ」
「ご承知のうえでそうなさるんですか」
「お前だって、分かってて俺のそばにいることを選んだんじゃなかったのか?」
「そうですけど」
「お前は俺とシリウス、どっちの幸せを願うかで揺れてるんだよな?」
「そうです」
「だったらお前はシリウスについててやれ。俺と一緒にいると、お前まで巻き込むことになる。大丈夫、俺には味方がいるから」
「それではダメなんです」
シオンが首を振った。それに合わせて白いイヤリングが揺れる。
「どういうことなんだよ」
「それは――」
その時、誰かが執務室をノックして入って来た。黒いショートカットの若い女性だった。
「アーク様、ミニー様をお見かけしませんでしたか」
「誰だミニーって?」
「こちらには来ておりませんか。失礼致します」
すると、風のように去って行った。
「この村には鼠がいるのか?」
「龍の村では飼っていると姉さんに聞いたことがありますが、こっちでは見たことがありませんね。ところで何故鼠の話を?」
「知らなくて良い。さて、部屋に戻るか」
しばらくはこの体制を維持して、世論をこの政権に反対する方へ傾ければ良い。その機が熟すまでは、今のところ彼が取るべき行動は何もないのだ。
彼がリゲルの部屋に戻ると、いきなり何者かに正面から抱きつかれた。
「待ってましたわお兄様!」
「お、お兄様?」
「ミニー様ではないですか」
「え、この子がミニー?」
「私のことを忘れるなんて酷いですお兄様」
体を離した少女は頬を膨らませながらそう言った。ミルクチョコ色の髪を結んで一つの大きなシニョンを作っている、奇妙な髪型の女の子だった。年はシオンよりも幼く見える。やはり茶色の服装は彼女に誂えたかのようによく似合っていて、見た目よりも動きやすさを重視した格好だった。体つきはかなり細く肌も白い。女中でも兵士でもないようだ。
「ああ、そう言えばリゲルには妹が一人いるって言ってたっけ?」
「厳密には、屋敷に住まわれている妹君が一人です」
「ご病気になったというのでずっと心配していたんですよ!」
「そこからか。というか何故今になって?」
「会いたくてもポルクスがダメでございますって許してくれなかったのです。やっと顔が見られたと思ったのに絶対に会わせる訳には参りませんって、殆ど罪人のような生活でしたの。そこで、今日は警備が手薄だったので抜け出してきたんですの」
「そ、そうか。まずは離れてくれないかな」
「はい、申し訳ございませんお兄様」
シリウスとは違う方向に厄介な女が現れたものだ、とアークは額に手を当てた。しかも現状を知らされていない。彼女の女中は何をやっているのだろう。
「えっと、ミニー?」
「はい」
「大事な話があるからまず座ろうか」
二人は、壁際に置かれた四角いテーブルに向かい合って座った。それからアークはミニーに、本物のリゲルが病気で亡くなったことから彼が近いうちにここを去っていくことまで詳らかに離した。
「お兄様は相変わらず冗談がお好きですのね」
「またか……!」
そこで彼は、ラザルを罵倒する言葉を発した。既に故人なので、その死を嘲笑う。しかしそれに反してミニーは、激昂して立ち上がった。
「いくらお戯れとはいえ、言って良い事と悪い事がありますわ! 一体どうなされたんですの?」
「俺が偽者だからって言ってるだろう。それにしても相当仲が良かったみたいだな。だったら何か、ミニーしか知らない秘密とかあるんじゃないか?」
「そうですね、左の手の甲に、剣の稽古でつけた斜めの傷があるはず……ない!? そんなはず、え、ほくろもないなんて……」
「もう分かったろ?」
「お兄様の誕生日に私が差し上げたもの、覚えていらっしゃいますか?」
「白い貝殻の小さなイヤリング」
「お兄様がお好きでいつも飲まれていたものは?」
「スピリタス」
「私の母の名前は?」
「ディズニー」
「まだお患いのようですね。少しずつ思い出していけば良いと思います」
アークには反論する気力もなかった。むしろ、何を言っても無駄な気がしたのだ。恐らく彼女はよほど兄のことを愛していたのだろう。だからこそその死を受け入れようとしない。周りもそれを知って遠ざけていたのだろう。彼女のそれは、心的な防御反応だろうと幸助は結論づけた。彼の脳裏には一瞬、いっそのことリゲルとして彼女に接してやるのが幸せだろうかという考えがよぎった。もちろんそんなことが出来るはずはない。それでも、自分の手で一人の少女を悲しみのどん底へ突き落とすのは、彼にとっては心苦しいことなのだ。障害にはならないが厄介であるのは間違いない。村長権限で屋敷から追い出すことも可能ではあるが、そこまでする必要はないと思い留まった。だから彼は、彼女を探す女中に引き渡すに留めたのだった。
アークが引きこもり生活を始めたその日、シリウスが村長の仕事を始めたことも聞いた。その仕事がどういったものなのかは彼は知らないが、ラザルの様子を見ていた限りだと決して暇ではないようだ。それはむしろ好都合であった。
その翌日、スピカはリゲルの部屋を訪れた。ただし彼女は一人ではなかった。彼女の背後には、桃色の髪を短いポニーテールのように束ねた、目付きの鋭い女性がいた。羽の色は黒に近いグレー。アークは最初、彼女が兵士の一人だと勘違いした。
「私の専属女中のシルマっていうの」
「お見知り置きを、アーク様」
「そうか、妾になると召使がつくのか」
「私はいらないって断ったんだけどね」
「ご不要でしたらいつでもお切り捨て下さい」
言いながらシルマは懐から小刀を取り出し、柄の方をスピカへと向ける。
「こういう人なの」
スピカの苦手そうな人が出てきたな、とアークは思ったが口にはしなかった。せめてシオンを見習って欲しいとさえ思った。
「召使が刃物を携帯してるって危険じゃないのか」
「これは護身用です」
「いいから捨てろ」
「はい」
ボディーガードのためというのはあながち間違いでもないだろう。とはいえ、シルマを女中に命じたのはシリウスだろうし、その刃がスピカに向けられない保証はない。彼女を信用することは、アークには出来なかった。
「それで、どうかしたの、スピカ?」
「元気かなって」
「ああ、体調なら大丈夫。一晩寝たらこの通り」
「そう、良かった」
話が続かず、見つめ合うだけの沈黙。
「アーク様、私達は失礼します。ごゆっくり」
何かを察したのか、シオンはシルマを連れて部屋を出て行った。スピカは二人きりになれたことにほっと胸を撫で下ろした後で、急に顔を赤くした。
「ごゆっくりって、まさかそういう意味?」
「多分そうだと思う。向こうもそのために来たって思ってたんじゃないのかな?」
もっとも、彼ら二人が外から来たことを知っているならば、それはあり得ないと思うはずだが。
「うわ、恥ずかしい」
「でも結果的に好都合だ。誰にも邪魔されない」
「その……それは、する、って意味……なの?」
「要人の部屋が袋小路だとは思えない、どこかに隠し通路があるはず。床が怪しいと俺は見るね」
「あ、そういうこと。隠し通路調べてどうするの?」
「繋がってる場所によっては、利用できる。そこから村の外に出られればなお良し」
「なるほどね」
「ただ、そこを敵に狙われるとまずいから何もないかも知れない。そもそも山頂の集落だから、逃げることなんか想定してないんだろうけど」
「どっちなの」
「それを探る意味でも、調べる必要があるんだよ。『村長の居室』が一番怪しいけど、あそこにはまだアリアさんがいるから難しいし」
ところが結局、板張りの床の下には石や土が詰まっているようで、空洞は発見できなかった。念のためにベッドの下も棒で叩いてはみたが、打っても響かない。壁に関しては隣に部屋がある関係で空洞ではあるが、抜け出すための細工は見られなかった。
「骨折り損のくたびれ儲けってやつだね」
そう言いながらスピカはマフラーを解いた。
「天井ってことは……ないか」
そこには、換気のためだろうか、掌サイズの穴が開けられている。
「たとえ飛べたとしてもな」
アークは衣装箪笥の中身をベッドに放り出していた。観音開きの部分には、人が二人入れるくらいの大きさがある。何より、部屋にある家具のうちこれだけが例の接着剤で固定されていることに気がついたのが大きい。箪笥の中には二ヶ所、指が入るくらいの穴が開けられている。叩いてみると、反響した音が穴から漏れてきた。
「ビンゴ!」
穴に手を入れ、持ち上げるように動かすと壁が外れた。どうやら奥に押しこむしかないらしく、少し浮かせてその隙間から足場を確認して降りる。そこは畳一枚くらいの細長い空間だった。外した壁を立てかけると埃が舞った。両端には、それぞれ上りと下りの梯子がかけられている。朽ちた様子はないので使えそうだ。
「すごい! 何ここ!」
「埃がすごいからスピカはそこで待ってて」
「危なくなったらすぐ戻ってきてね」
彼はうん、と返事してまずは上へ。この屋敷の二階には会議室や倉庫しかないはずだ。すぐにハッチのようなものに辿り着くが、重くて開かなかった。よく見ると、隙間から水のようなものが漏れている。ハッチそれ自体もかなり冷たい。
「屋外に直接通じてるのか」
雪の重みがあるので冬の間は使えない。何のためのものか分からなかった。次いで、下への梯子。石の壁に囲まれ、よりひんやりとしている。こちらもすぐに梯子が終わった。だが、光が届かないので足元さえよく見えない。実際に壁を触り、足で石を叩いた結果、ある一方に道が続いていることがはっきりした。残念ながらこれ以上は不可能だ。
部屋に戻って箪笥を元に戻し、体についた埃を落としながら、アークは探検の結果を報告した。
「下の方は脱出路だよねきっと。上は、せっかくだから作っちゃえ、みたいな?」
「そんな感じだろう。上の梯子が気にはなるけど」
「結局使えないよね、明かりがないんじゃ。松明が使えるような広さじゃないっていうのも変だよ」
「建設当時には目からサーチライトを出せる奴がいたのかも知れない。じゃなきゃこのトンネルを掘れるはずもない。知ってる人に訊くのが一番だな」
故人を除くと、確実に知っているのはシオンだけだろう。彼女を帰らせるためにスピカを部屋の外に出し、そのまま市街地のセラトナに接触するよう命じた。
戻った女中に話を聞くと、上の梯子は用途不明だが、下の方は霊廟に直接通じていると話した。
「屋敷の中にちゃんとした入り口があるのにどうして隠し通路と通じてるんだよ」
「もう一つ道があるのです。なんでもそれは、山の麓まで続く坂道だとか」
「山の麓!?」
「はい。もしもの時はそこから逃げられるということです。坂が急なので、座るようにして滑るのが良いと聞いています」
「それで、どこに通じてるんだ」
「村の外ですから、誰にも分かりません」
「出口が塞がってたら死ぬじゃないか」
「使うことはないので平気でしょう」
「おいおい……それに脱出目的だとしても、どうやって掘ったんだそんな穴」
「昔はそれが出来る方がいたのだと思います」
どうやら抜け穴に使い道はないようだ。もしかしたら死体捨て場なのではないかとさえ、彼は疑った。どうして話してもいないのにその存在を知っているのか、何故知りたいのかをシオンが訊いてくることを心配してはいたが、彼女は何も言わなかった。
その晩、そのことをアークから聞いたスピカが呆れ顔になったのは言うまでもない。
新村長就任二日目。シリウスへの関心の高さが功を奏し、村長は仕事を放棄して全て妻に押し付け、屋敷の外に住まわせ、あまつさえ式以来一度も会っていないという噂――全て事実だが――は、あっという間に村全体に知れ渡っていた。もちろん、セラトナの直接関与しない屋敷側とて例外ではない。ただし市街地とは違い、噂を疑う者は一人もいない。シリウスに仕事を肩代わりさせるためにアークに投票した者でさえ、この状況について疑問を感じるようになっていた。
その真意を訪ねようにも相手は村長で、部屋に閉じこもり、指定した六人以外の入室を禁じている。その六人も厄介者ばかりで誰も手が出せないのだ。シリウスとて例外ではない。つまりアークと共謀している彼らを除いて、彼の行動理念を理解する者はいなかった。何しろ、彼自身は何もしない、そのことに意味があるからである。
シオンがアークの朝食を運んだ直後、テルが村長の部屋を訪れた。シオンは外で待機していると申し出たが、テルは構わないと言った。
「何だ、わざわざ一人で来るなんて」
「お前はこの作戦で上手くいくと思うか?」
本来なら部下に対する話し方だが、本人もシオンも一切咎めない。
「今のところは」
「何か俺に隠して話を進めてないだろうな?」
「なんでそんなこと訊くんだよ」
「祭の朝の件だ。あの時、お前が偽者の噂を流していることを俺が知っていたら、話はもっと簡単だった。同じ失敗を繰り返す訳にはいかない」
「簡単って、どういう風に?」
「あんな大事になる前に偽者のお前を追い出すことだって出来たろうが」
「そりゃ確かにそうだけど、最初のお前の俺に対する態度、忘れた訳じゃないよな?」
「それは……悪かったと思ってる」
「それに、俺にラザルを殺させるっていう作戦、上手くいく保証なんかなかっただろ?」
「誰かがラザル様を槍で突き刺す夢を見たとシオンが言っていた。俺はそれに賭けたんだ」
「シオン、それ本当か?」
女中はこくんと頷いた。
「ただ、誰が、の部分は見えませんでした」
「そうかそれであんな事に。自分がもう誰かを殺したくないからってだけじゃなかったんだな」
「何故お前がそれを知っている」
「お前がスピカを尋問してる時にポーラに聞いた」
「操られていたこともか?」
「ああ全部。それに、ラザルを刺すのが俺じゃなかったらどうするつもりだったんだ?」
「お前の腕を掴んで刺させるとか、ラザルを気絶させて反乱軍の前に差し出すとか、考えてはいた。反乱軍にやらせるのは、奴らが強く主張し始めるから得策ではないがな。奴らは偽者のことを知らないからいてもいなくても良かったんだ。祭りの日に蜂起するという情報を得ていたから、目撃者として上手く利用させて貰ったよ。とにかくリゲルが偽者だって事実を公開することによる混乱が俺の目的だった。別にその日じゃなくても、リゲルのことを知らせれば反乱軍は動くだろうと考えていた」
「セラトナは偽者の噂を聞いてたはずなのに、お前には言わなかったってことなのか」
「そうなるな」
彼女がテルとの作戦会議でその話をしなかったのは、彼女らにとってリゲルが本物でも偽者でも関係なかったからだろう。あるいはデマと思っていたか。
「それとはまた別に、確実にお前のせいで事が面倒になっていることがある」
「ああ、シリウスを正妻に選んだことだろ? 開票結果を聞いて、痛いくらい感じた」
薄々感づいてはいたが、こうして言葉にしてみると心臓が締め付けられる思いがした。自ら犯した失態の大きさを肌で感じるにつけ、動悸がして、冷や汗が流れる。手も震えていた。
「お前が部外者であることを無視させる程の人気ぶりは完全に俺も予想外だ。孤児出身でここまで上り詰めた出世頭で、何よりあいつが女だというのが大きかったんだと俺は見る。無名の女を正妻にしていれば、こうもならなかったんだろうが」
「仕方ないだろ、そんな事情を加味して選ぶ余裕なんてなかったし、俺には俺で偽者の噂を流して追い出されるっていう計画があったんだから」
「……なるほどな」
「過去のたられば話はここまでにして、今後のこと話さないか。俺は隠してることは何もないし、この作戦の中心にいるのはマチルドさんだ。話をするならそっちの方が良いだろう」
「最初から気になってはいたが、何故行商人がお前ら二人にそんなに肩入れするんだ?」
「それは秘密。俺とスピカを村の外に連れ出すのがあの人の目的だと思っていれば、それで良い」
「お前が村長を降りるのはマチルドにとっても好都合ということか」
「だから色々と噂を流して貰ってる。俺を追い出そうとする方向にな。そうだ、最初の日にお前が言ったテストやらないか? それで俺が無能だって周りに思わせれば良い」
「その手があったな。準備しよう」
「で、何をするんだ?」
「村の歴史や掟をどれだけ知っているか。武芸にどれだけ長けているか」
全力で挑みかかったところで勝てる見込みのない試合である。わざと負けるまでもなさそうだ。
太陽が最も高くなる頃に、第一試合は始まった。場所は屋敷の前の霊鳥広場、種目は剣術。場所が場所だけに、ギャラリーの数は想定以上だった。
(そりゃあ負けるのは簡単だ。だからといって、こんな大勢の前でボロ負けする姿を見せるって、そりゃもはや恥晒しだろう)
アークの手には一本の、テルの手には二本の木剣が握られている。先に武器以外の場所に攻撃を当てた方が勝ちで、三本先取で勝利となる。構えていない相手への攻撃や、武器以外の方法を使用、頭部の打撃は反則となる。立会人にアリアとシリウスが、審判に兵士が二人構えている。
アリアの始め、の合図と共にテルが飛び出した。アークはせめてその攻撃を弾くくらいはしようと、斬撃が来そうな場所に剣を構える――だ、視界からテルの姿が一瞬で消え、いつの間にか背後に移動していた。すれ違い様にアークの背中を打ったので、テルがまず一勝。反撃に剣を大上段に振りかぶった隙を突くようにテルは腕を攻撃し武器を落とさせる。攻撃の一つ一つは、怪我をさせないためか非常に軽い。防寒具のお陰でダメージはないに等しかった。アークは剣を拾いながら、薄着に見えるがテルは寒くないのだろうかと思った。着込んで動きにくくなるより、寒くても機動力を選んだかのような格好だ。
「今度はお前からかかってこい」
テルが挑発する。通常であれば、これに乗るのは軽佻浮薄だろう。しかしながらこれは、村長が無能であることを示すためのパフォーマンス。敢えて挑発に乗り返り討ちにされる道化を、幸助は見事に演じきった。何しろ、相手が最強の英雄じゃ負けてもしょうがない、と思われては意味がないのだ。
武器を槍に持ち替えた第二試合も、一方的な戦いにしかならなかった。
第三試合は屋敷の大広間。そこに人々を招待し、テルとアークの知力対決を行う。
「真東を指すのはどの地区の間にある大通り?」「今年は何年?」「ヴェラ事件の処分は?」
当然ながらアークの正解は皆無、テルは九割超えの正解率だった。アークは途中からあからさまにやる気のない態度を見せていたが、半分は作戦のうちである。残りの半分は演技ではなかった。
「お疲れ様」
一仕事終えて部屋に戻ろうとするアークに、スピカが声をかけた。
「どこから見てた?」
「剣道の試合から」
「じゃあ全部か。格好悪かったろ?」
「でも全部わざとだったんでしょ」
「格好悪かったのは否定しないのな」
「え、あ、そういう意味じゃ」
「良いんだよ、格好悪くても。目的のためなら誰かを傷つけようが、自分のプライドを捨てようが、構うもんか」
「なんか、ここに来てから変わっちゃったね」スピカが寂しげな顔で言う。「そんな事を言うなんて、君らしくないよ」




