IntervalleⅣ:魔女
苦しみを恐れる者は、その恐怖だけで十分苦しんでいる。
モンテーニュ
そこはいつも星が美しくも虚しく輝く夜だった。地面には花々が所狭しと敷き詰められ、果てが見えないほどに広がり、薄明かりに照らされている。花畑と称するには歪に過ぎる。何しろ一つ一つの花びらが枯れたように萎びているし、隣り合う花の色が全て異なっているのだ。たとえこの大地が昼になり、上空から眺めたとしても、自然らしさのないこの風景は、きっと醜く見えることだろう。
この風景は自然ではない。その証拠に、一切の物音がしていない。風の音さえない、完全な無音。ここには音を出すものがないし、外からの音が届かない。完全に遮蔽された閉鎖の大地。だというのに、花からは空に向けて色とりどりの粒が光りながら舞い上がっていく。ある者が見たら、無声映画のようだと言うかも知れない。残念ながらこの光景を知るのはたった一人の少女だけで、彼女はそんな比喩を知らない。
その時、地面の一部が歪んで鏡のように星空を写しだした。水面のように波打ったかと思うと、バネで押し出されたかのような速さで二つの人影が飛び出した。二人は一瞬宙に浮いた後、鏡の上に降り立った――いや、立ったというのは正確ではない。立ったのはぶかぶかの黒いマントに身を包んだ少女だけで、もう一人の人影は足が鏡に着地すると同時に力なく倒れたのだ。
少女が何か呟くと、一瞬にして星空のような水面が消え去る。少女はその手に三輪の青い花を持っていた。彼女は不意にそれを投げ捨てた。しかし花は地面には落ちず、蜜を求めて飛び回る蝶のように舞い、方々へと散っていった。
『――』
どこからともなく声が響いた。
「心配せずとも、まだ拾える見込みはあるわ」
鍔の広いとんがり帽子の下から、少女が言う。
「むしろ、これからが本番みたいなもの」
『――』
声を無視して少女は、足下にうつぶせで転がる奇妙な人物を一瞥してしゃがみ込んだ。ぼさぼさの黒い長髪は長いこと手入れされていないのか、野生の獣のように汚れている。そして何より目立つのは、頭頂部にある一対のとがった肉と、腰から生えた黒く太い毛束、つまり耳と尻尾だった。
少女がその細腕で横たわる体をひっくり返した。いくつかの花を下敷きにして花びらや花粉を散らすことになるが、少女は全く気にしていない。狼の特徴を持ったその人間が仰向けにされると、まだあどけなさの残る少年の顔が明らかになった。十代半ばくらいだろう。長い髪のせいかどこか女性にも見えるが、それでも明らかに男性だった。彼は目を閉じたまま動かない。それでも息はあるので、深く眠らされているだけのようだ。
少女は少年の顎に手を伸ばして口を開かせる。そこには人間らしからぬ、しかし狼の姿には相応しい、尖った歯が並んでいた。投げ出された両腕も毛で覆われており、厚い爪が覗いていた。
『――』
「そうね、この子は変化した自分の姿を受け入れたどころか、『私達』の世界の居心地が良かったようだから……ここまで進行したようね。あと一歩遅かったら、元の姿には戻せなかったかも知れない」
言って少女は、小さな両手を少年の胸に置いた。
『――』
「そうね、最近増えた気がするわ。厄介だから困るのだけど。Nir putreim picno verbia――」
呪文のような言葉を唱えると、少女を中心に銀色の同心円がいくつも広がった。
「anoetig et itunis」
光の円は地面に直接描かれ、花より下の位置にあるが、その存在は文字通り埋もれるようなことはなく目立っていた。いつも夜のこの空間においては、その数々の同心円が十分な光源たりえるからだ。
白銀の光に少女の精悍な顔つきが照らし出される。そのまっすぐな眼差しは、少年の頭に向いていた。少年の長かった髪は少しずつ短くなり、半開きの口から覗いていた長い犬歯も短くなっていく。ただしその変化は、酷くゆっくりとしていた。
『――』
「大丈夫。少し重たいけど、平気」
彼女の自信の表れのようなやや吊り上がった両目が、今は苦悶の表情に僅か歪んでいた。
『――』
「……sic」
呟くように言葉を吐き出すと彼女は左手を少年の胸に置いたままで、おもむろに右手で一輪の花を摘み取るなり自分の口に放り込んだ。葉っぱのない茎をくわえタバコのように口からはみ出させながら、右手を元の場所に戻して、再び変化を見守る。その表情に苦しさの色はもはやなくなっていた。
しばらくの間――実際かなりの時間――その状態を維持し続け、少年の外見は彼女の世界からすれば不思議な、しかし彼の世界にとってはごく普通の、学生服を着た男子生徒の姿になっていた。
「ふう」
と息を吐く暇さえ惜しむかのように少女は立ち上がって、両手を前に伸ばした。水を掬うような形に軽く握った両手を合わせて、また呪文を唱える。
「nir dessa mei――meide prac」




