表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
見えない翼  作者: 桑名 銀天
第二部 革命編
32/56

FragmentⅡ:過ぎ去りし思い出

恋が生まれるには、ほんの少しの希望があれば十分だ。


スタンダール『恋愛論』


 旅行サークル最初のイベントの朝、美奈はグレーのパンツにピンクの長袖シャツというおしゃれよりも動きやすさを重視した格好で紺色のリュックサックを背負い、休日の通学路を歩いていた。というのも、四人の住んでいる位置から言って一度学校に集まるのが手っ取り早く、学校そばのアパートに住む幸助と欽二がすぐ近くのレンタカー屋から車を借りるのにも好都合だからだ。

 電車に乗って十駅、大学の名前を冠する駅で降りると、徒歩五分の距離に正門がある。その直前にある四車線の道路に銀色の軽自動車が止まっていた。対照的な体格の二人が目印になっている。横断歩道を渡って駆け寄ると、黒Tシャツにジーンズ姿の幸助が先に彼女に気付いた。

「おはよう美奈。よく眠れた?」

「おはよう。こ、幸助。ワクワクして眠れないかと思ったけど、ぐっすり。欽二君も、おはよう」

 欽二の出で立ちはといえば、カーキ色のシャツにオレンジのズボンというもので、活力的なその格好がよく似合っていた。

「ああ、おはよう」

 美奈は自然な会話が出来た――とは、言えなかった。相手を苗字でなく名前で呼ぶ度に、必要以上に(より正確には、必要ないのに)緊張してしまう。現に今幸助の名前を呼ぶ時に一瞬どもったし、欽二に対しては呼び捨てするのが恐れ多い雰囲気を持っているからという理由で君付けだ。欽二自身も周囲も気にしてはいないのだが、美奈本人だけはやや複雑な心境だった。

 これでは、彼に対して距離を置いているという意識を表してしまう。自分から閉ざしていた扉を少し開けたはずなのに、欽二を呼び捨て出来ないというだけで軽い自己嫌悪に陥っているのだった。

 それから晴れて良かったね、といった他愛もない世間話をしていると、最後のメンバーが顔を見せた。それでは早速、と菜摘に落ち着く暇も与えず車は動き出した。運転席には欽二、助手席に幸助、後部座席に菜摘と美奈、という配置だった。

 彼らの目的はハイキングだと言うと、多少語弊があるかもしれない。殆どピクニックのようなものだと言っていい。初夏の時分では海はまだ肌寒く、人混みの激しいレジャー施設等を避けると必然的に彼らの選択肢は山ということになる。とはいえ美奈の負担を考えるとあまり登山的な意味を持たせられない。

 そこで結論は、車で行ける場所まで森に入り、散歩して昼食を取って帰るというシンプルなものに落ち着いたのである。むしろこれは妥協点とでも言うべきものか。

 彼らが目指した場所は、山と言うより自然公園の一部で、休日だとそれなりに賑わうスポットである。天気が良ければ富士山や相模湾を望めるとのことで、四人は道中そのことで盛り上がっていた。

 そして車はいつしか幹線道路を外れ、上り坂に入っていた。次第に緑が増えてくる。アスファルトはいつしか雑木林の中を蛇行し、窓から差し込む光は木漏れ日に変わっていた。助手席の幸助が窓を開けると、森に浄化された空気が車内に流れ込んでくる。視覚に触覚と嗅覚が加わることで、彼らの非日常はより現実味を帯びた。

 車が駐車場に着いて降りた一同は、そこからの景色に見とれていた。南方に開けたその場所は東海道の要所である小田原や平塚方面を臨むことが出来る。もちろん、手前に広がる町並みも十分な見物だ。

 高い場所から人の営みを眺めるという行為は、どうしてこうも人に快楽をもたらすのだろう。もしかしたらそれは、高い場所に立つことが本能的な地位欲を刺激し、神のような気分になれるからなのかもしれない。

「富士山は?」と菜摘が言った。

「西側が見える位置に行かないと難しい。ここからでも裾野くらいは見えるだろうけどね。ほら、まずはあそこの道からだな」

 眼鏡の青年がそう説明すると、菜摘は準備運動を始めた。黄色の半袖シャツに、黒い七分丈のスパッツとスニーカーというその服装からも、あふれるエネルギーを爆発させようとしているのは誰の目にも明らかだった。

「別にそんな張り切ることもないだろうに」

 そんな幸助の呟きを聞いていたのは美奈だけだった。彼女はまだ木の柵にもたれて風景を眺めていたのだ。肩まである後ろ髪がそよ風に揺れ、そのたびに垣間見える白いうなじを幸助はちらりと見て、彼女の名を呼んだ。

「何?」

「もう行こう。それ、持つよ」

 言って指したのは足下、彼女のリュック。

「いいよ、そんなに重くないし」

「欽二はドライバーだし、女の子二人はお弁当作ってきたけど、俺だけまだ何もやってないからさ。せめて荷物持ちくらいさせてくれよ」

「でも、計画を立てたのは幸助だし」

「いいから甘えとけ」

 そうして彼は半ば強引に奪うと菜摘と欽二を追いかけた。その後を美奈がゆっくり追う。

「……ごめん、気に障った?」

「ううん、何でもない」

「ところで美奈ってさ、前から髪短くしてるの?」

「うん……いつもこのくらい」

「長かったことは?」

「あるけど、結構前の話だよ」

「そっか。また伸ばしてみたら? 長い方が似合うと思うよ」

「……そうかな」

 自分の襟足をつまんで、照れたような表情で呟くように美奈は言った。

「うん。イメージ的に、美奈みたいなキャラって髪が長いじゃない? だから見てみたいなって思っただけ」

「キャラ、ねえ……」

 その時美奈の胸中にわずかの焦りが生まれた。幸助の言葉の裏にある何かに疑り深くなっていた。その不安は、紙に水が染みこんでいくように、じわじわと心の中に広がっていく。

「それこそ白い帽子とワンピースがあれば絵になりそうなくらいだね。素材が良いんだから、もったいないよ。もしかして飲食店でバイトしてる?」

「ううん、それは大丈夫だよ。そうだなあ、エクステでも付けてみようかな」

「わざわざそこまでする? それよりちょっと急ごうか。二人がこっち見てる」

 確かに菜摘と欽二が、急かすとまでは行かないが何やら言いたげな目で幸助の方を見ていた。彼の歩みが少しばかり早まる。美奈も小走りになりながら、先ほどの不安は杞憂だったのかも知れないと思うようになっていった。彼女は何でもない言葉にも過敏になっていただけなのだ、と。

 緩やかな坂を上り、緑のトンネルを抜け、山の中腹にさしかかると彼らは人工の広場に到着した。テニスコート二面分ほどの広さがあるそこには切り株や東屋が散在し、登山客が憩うための場所であることが分かる。四人もその東屋の一つで昼食を取ることにした。

 荷物を中央のテーブルに置き、おもむろに視線を上げた幸助はその先の景色に息を呑んだ。好天に恵まれたことを、これほどまでに感謝したこともなかったかも知れない。

 抜けるような青い空の中に、昔からただそこに在るだけなのに異様な存在感を放つ山が、圧倒的な迫力を持って目の前に迫ってきたのだ。月からの使者が持参した薬をそこで焼いたことが名の由来とされるその火山は、遠くから眺める限りにおいては雄大な美の体現と言えた。

 彼はポケットからデジタルカメラを取り出して、写真を撮らないかと提案した。テーブルの隅にカメラを置いて、配置や構図を確認し、セルフタイマーを起動させて記念撮影を行う。

「ばっちりだね」

 カメラの液晶を見て喜びながら言ったのは美奈だった。テーブルの高さ、太陽の向き、快晴の空などいくつもの好条件が揃い、富士山とのきれいな一枚がそこには映っていた。

 それから彼らはランチボックスを広げ、美奈と菜摘が手作りしたサンドイッチを頬張った。

「男二人女二人分ってどれだけ作ればいいのか分からなかったから少し多めに作ってきたんだけど、食べきれなかったら残して良いからね」と美奈は不安そうにしていた。が、

「心配ご無用。欽二はその体格に見合って大食らいだからな。女の子が自分のために作ってくれたものを残したくはないし」

 と幸助が宣言した通り、結局男性陣が全て平らげてしまった。

 ところで、人はこうして野外で食事をするといつも以上に美味しく感じるものだ。非日常的なそのシチュエーションが加味されるのも一因ではあろうが、それが人という生き物にとってより『自然』な姿であるからなのだという。

 我々の祖先――狩猟民だった時代の――は、全ての動物がそうであるように、食事を外で行っていた。つまりは自然の中に生きる我々の本来の姿がそこに投影されている、いわば遺伝子に刻み込まれた一種の快楽とも言えるのだ。

 その補正を考慮に入れても、幸助は、今まで食べたどんなサンドイッチ(とはいえコンビニの代物だが)よりも美味しかった、とべた褒めした。

「お世辞でも嬉しい」と美奈ははにかみ、

「大げさだよ」と菜摘は笑って突っぱねた。

「二人とも、結構料理するの?」

 うん、と美奈が答えた。「料理くらい出来ないとお嫁に行けないっていうのが母の口癖だから」

「ふうん。今って料理出来なくても生きていけるけど、やっぱり出来る人って素敵だよね。『お袋の味』がコンビニ弁当じゃあ寂しいもんな」

「でもさ、昔は専業主婦って当たり前だったのに、今やそれが憧れの対象になってるんだから、時代の変化って厳しいよね」

「確かにな……で、実際はどうなの?」

 美奈が「え?」と聞き返すと、

「いや、実際に二人から見て、専業主婦って憧れるものなのかなって」

「うーん……よく分かんないな。まだまだ先のことだって思っちゃうし」

「そうそう」と菜摘がそれに重ねて来る。「今のうちから人生設計なんて考えてたってしょうがないし。そんなん聞かれたって普通答えられないんじゃない? まああたしの場合どっちかと言えば」

「働く方、だろ? お前は分かりやすいからな」

 全くの図星で、彼女は少し不機嫌そうな顔をした。

「そういう幸助はどうなの? 今時は男だって料理くらい出来ないと、ねえ?」

 しかし幸助は意外そうな顔を菜摘へと向ける。

「言ってなかったっけ? 二人でアパートに住んでるから自炊してるんだけど」

 女性陣は、彼がキッチンに立って料理する姿を思い描いてみた。心なしか妙に似合っているような気がする。逆に欽二(寡黙な彼はさっきからずっと黙っている)はどうかと想像してみる。

「二人の食卓が何となく想像つくよ。交代制で料理して、幸助は手の凝ったものを作るけど、欽二は『男の料理』って感じ」

 菜摘はしたり顔で二人の男を見た。

「ま、そんなところ」

「幸助が器用なのは事実だからな」

「ねね、今度ごちそうになりに行っても良い?」

 そんな菜摘の言葉に幸助は苦笑しつつ「いや、なんで」と返す。

「だってこの料理作ったの私達だもん。そのお返しってことで、さ」

「サンドイッチを料理と呼んでいいのかな。それに出汁巻き卵と唐揚げは私――」

「まあまあ細かいことは。良いでしょ? ね?」

「菜摘、お前……他人の箸使うことにも全然抵抗なさそうだな」

「おっ、欽二ぃ、よく分かったね。っていうかみんな神経質すぎるんだよ。ってそうじゃなくて」

「率直に言うけどさ、野郎の部屋に上がることに対して遠慮も抵抗もないの?」と幸助。

「ははーん? さては目も当てられないくらいに汚い……いや、幸助の性格だからそれはないか。じゃあ見られたくないものが山ほどあるんだね? 大丈夫、そのお約束は分かってるつもりだから」

「期待してるようなものは置いてないが」

「うっそだー」

「そんなことはともかく。そもそも最初から断る理由もないんだけどね。ただ、抜き撃ちは止してくれよ」

「ふふん、決まりね。ほら言ったでしょ美奈、別に迷惑じゃないってさ」

「う、うん……」

 その時美奈は僅かに俯き、視線を左にずらした。彼女の正面に座る幸助はその動きを見逃さなかった。何か奇妙な感じを見て取った彼はこのことを胸に留め置いて、別の話題を切り出すことにしたのだった。


「やっぱりって言うと変かも知れないけど、やっぱりいい人だよねあの二人。なかなか面白そうじゃん。気が合うって言うのかな」

 菜摘は東屋から遠くの景色を眺めつつそんなことを言った。食事を終えた四人は男女で別行動を取ることになったのである。これは彼らがまだ馴染みきっていないからではなく、腹ごなしにキャッチボールをしようと言い出した欽二に幸助が応じ、日陰で涼んでいたいと言う美奈に菜摘が付き合った結果である。

 そんな菜摘は、ボールを投げ合う二人を羨ましそうに見つめていた。というのも、持ってきた二つのグローブのうち片方が幸助の左利き用で、彼女が混じりたくても使えなかったからだ。さすがに欽二を押しのけて幸助と、という訳にもいかない。

「うん、そうだね」

「童心に返るって言うの? 良いよねこういうの。ピクニックなんて下手したら小学校以来かもね。そういえば、ピクニックとハイキングの違いって何なんだろ?」

「レジャーかスポーツかだよ。外でお弁当食べるのがメインだからこれはピクニックだね」

「美奈は本当博識だよね、尊敬しちゃう」

「昔から本とテレビは好きだったからだと思う」

「あ、ごめん、なんか」

 菜摘がそんな風に謝罪したが、美奈にはどういう文脈でそういうことになるのか分からなかった。

「いや、沢山本読んだとしたら、それって入院してる時のことだったのかなって。あまり触れて欲しくないんじゃないかなって」

 美奈は苦笑して「考えすぎ」と返した。

「そっか」

「うん、入院って言うとどうしても深刻にイメージされちゃうんだけど、実際はそんなでもなかったんだよ。今だって何ら問題なく生活できてるし。ただ単に中学高校と本の虫のクラブに入ってたし、バイトもしてなくて比較的時間があったから、色々と見聞を広める機会が多かっただけ」

「そっか、だから美奈と私の間には差があるんだね……ねえ美奈、本当はもっとレベルの高い大学も狙えたんじゃないの?」

 美奈は一瞬困ったような表情を見せてから木のテーブルに突っ伏した。口元を隠すように、顔の前で両腕を組む。

「うん、多分ね……」

「あ、ごめん、これこそ地雷だった?」

「いいよ、別に気にしてないし。『運命は我らを幸福にも不幸にもしない。ただその種を提供するだけだ』って言葉もあることだし」

「誰の?」

「モンテーニュ」

「へ、へえ……」

「足りないものやなくなったものを嘆くより、今目の前にあるものでどうするかを考える方がずっと大事だよね。料理と人生って、案外似てるのかも」

 すると菜摘ははあ、と呆れとも感嘆とも取れる長めの息を吐く。美奈は首を少し上げて彼女の方をちらと見やりつつ、「何?」と言った。

「うん、何て言うか、美奈には適わないなって。言われてみると、私今まで理想を追い求めて無い物ねだりばっかりして来た気がするんだ。私の居場所はここじゃないって、いつもそう感じてた。 でも、現実を受け入れるのが一番楽で現実的なんだよね。私、楽観を現実から目を背ける事の隠れ蓑にしてたのかも、って……美奈は私よりも考え方が大人だし、想像力も豊かだよね。人生を料理に例えるなんて、私には到底出来ないよ」

「そんなことないよ。裏返せばペシミストで内気で根暗なだけだもん。それに、菜摘ちゃんの方が大人っぽいじゃん。背も高いしスタイル良いし社交的だし、服のセンスだって」

 気付けば美奈はまた組んだ腕の中に顔を埋めていた。薄目を開けて、焦点の合わない目で広がる景色をぼんやりと見ている。

「誰が言ったか知らないけどさ」と菜摘。「長所と短所は表裏一体っていうのは良く言ったものだと思うよ、本当に。それに美奈の考え方で行けば、大事なのは短所をどう補うかよりも長所をいかに活用するか、でしょ? でもなんかあれだよね。私達、足して二で割れば平凡になる、みたいな」

 例えばそれは身長だったり、精神指向だったり、あるいは成績などの分野にも及ぶだろう。それらが反対方向に振れている彼女らは確かに、ベクトルを掛け合わせれば平凡という値に近づくだろうこうとは想像に難くなかった。そのことに気がついた美奈はくすりと笑みを漏らした。

「きっとあの二人もそんな感じだよね」

 また視線を少し上げ、横にずらしてから言った。その先には、プロの真似をしているのか球の投げ方を研究している欽二と幸助の姿があった。

「だとしたら、星の巡り合わせって不思議だよね……とか言ったらクサイかな」

「そこは『運命のいたずら』って言葉を使うと良いんじゃない」

「同じことだよ」

 彼ら四人という点はどこか似ているようで対照的であり、点と点とを結ぶ線は平行でも等距離でもなく、形作られるのは結局ねじれて歪んだ立体の四辺形だった。大した共通点と呼べるようなものがないのに、それでも崩壊する様子がないのは、何かしらの通じ合うものがあるからなのだろう。

「じゃあ四人足して四で割ったら……逆に中途半端すぎて面白くないね」

「思考が迷走してるよ?」

「うん、自分でも何言い出してんだって思った」

 その時美奈はふと、小学生の頃に読んだ金子みすゞの「私と小鳥と鈴と」を思い出した。私は空を飛べないし、きれいな音も出せない。でも私は大地を走れるし、沢山の歌を知っている――そして最後に「みんなちがって、みんないい」という言葉で締めくくられるほんの小さな詩である。まさに自分たち四人を形容するのにぴったりだ、とさえ思った。

 だが同時に少し怖くもあった。違っているせいで最後にはバラバラになってしまうのではないか……そんな不安が湧き起こってきたのである。だがそんなことをこの場では考えたくなくて、美奈はまた別の話題を探し始めた。突っ伏していた体を起こし、

「菜摘ちゃん、私髪伸ばした方が似合うと思う?」

「何? イメチェン?」

「別にそういうのじゃないんだけどさ、何となく」

「良いんじゃない、いろんな髪型出来るし。でも、美奈の清純派キャラ的にはストレートかな」

「キャラ……」

「うんうん、色白の肌、黒のストレートの長髪、これに白のワンピと麦わら帽があったら……」

 菜摘が何やら興奮しているようだったが、美奈は面白いので放っておくことにした。

「あーでも白亜の建物から出して貰えない深窓の令嬢とか似合いそうだよね。保護欲くすぐりそう」

「何? 私って良家のお嬢様役なの?」

「私のイメージだけどね。でも美奈美人なんだから清楚なお嬢様って感じ出せばモテるよ、きっと」

「そっか……んじゃ、やってみようかな」

 菜摘はうん、と言いながら肩に掛かるほどの美奈の髪を愛おしそうに撫でつけた。

「自分の長所を知って、どう着飾ったらかわいく見えるのかを研究するのも大事だよ、美奈」


 腹ごなしを終えた男性陣と合流し、四人はさらに上の展望スポットに向けて登山を再開した。車を降りた直後と同じく、気が逸る欽二と菜摘が先に行き、美奈と幸助が後に残される形となる。

「違うとは分かってるんだけどさ」と幸助が呟くように話しかけた。「菜摘とあんまり仲良くないの? 君を放って先に行っちゃってるけど」

「そんなことない……と思う。欽二君は違うの?」

「あいつは昔からああいう性格なんだよ。いちいち気にかけなくたって互いに分かってるんだ」

「昔から……?」

 小さい歩幅でビートを刻むスニーカーが枝を踏んで乾いた音を立てた。

「そう。思えば中学の頃からだったか」

 義務教育の頃から二人は同じ学校に在籍していたというその発言は、いくつかの疑問を呼び起こした。私立校なら別だが、中学までは地元の学校に行き、進学するに従って学力や進路のために散っていく――親友だろうと例外なく――のがこの国の通例である。

 にもかかわらず少なくとも二回の大きな分岐点で同じ道を選ぶというケースは、付属校からエスカレター式に進学する場合を除いてなかなか珍しい。彼らの大学には付属高校はなかった。

「そうなんだ……じゃあ高校も大学も、たまたま志望校か、受かった場所が同じだったとか?」

 そして周知のように幸助と欽二は二人で暮らしている。つまり実家が遠い事と、入学当時からそこにいることを意味していた。

「そっか、だから二人で住んでるんだ。そう言えば地元がどこなのか聞いたことなかったよね?」

 しかし幸助は美奈の問いには答えず、無言ですたすたと彼女の三歩先を歩き始めた。少女は慌てて彼に駆け寄り、顔をのぞき込むように頭を下げて回り込んだ。

「ご、ごめん、地雷踏んじゃったかな。あんまりプライベートな話に首突っ込まれても困るだけだよね……ごめん」

 青年が足を止めたので、彼女も止まる。目と目が合った。美奈の方が傾斜の上にいるとはいえ、やはり小柄な彼女が見上げる形にはなる。

 その瞬間、自分が、正確には自分たちが数秒間、別の時空に切り取られたかのような錯覚を美奈は起こした。

 山頂へ向かう道には人の往来があるし、風のざわめきも鳥のさえずりも聞こえて、この世界には実に多くのものがすぐ側に密集していることが分かる。それでも視線がぶつかったその一瞬で、世界は、彼女の手の届く範囲だけで孤立した。そこにいるのは彼女と、彼だけ。

 幸助にその感覚はなかった。何故なら、砂漠に不時着した名もなき飛行士が突然現れた王子様の声を聞いた時に感じた、あの雷に打たれたような衝撃を彼女だけが『それ』を見て『思い出した』からである。

 彼が向けていたまなざし、それは怒りでも侮蔑でもなく――ただの悲しみだった。それは四ヶ月前に美奈が見た、あの寂しげな顔とよく似ていたのだ。

「いや、君は悪くない」

 その声で美奈ははっと我に返った。

「別に普通の話題だろ? 俺も、昔話聞かせて貰った訳だし」

 確かに美奈の高校時代については幸助も欽二も知っている事ではあった。そして二人の過去に触れなかったのもまた事実だった。

「この件にはもう、触れないでくれればそれで良いから。さ、行こうか」

 そう冷たく言って再び歩き出した幸助の背中を追う美奈の足取りの重さは容易に想像出来よう。誰も悪くはない。話しかけたのは幸助だし、美奈はそれに普通の受け答えをしたに過ぎない。幸助の言った事は的を射ているし否定のしようがない。それでも美奈の罪悪感は消えなかった。

 頭を下げて心の底から謝ろうか――そんな考えが脳裏を過ぎったが少女はすぐに否定した。悪意など欠片もなければ、許す許さないの問題でもない。ごめん、と声をかければ神経を逆撫でするだけだろうからだ。

 少しでも離れて一人になりたいと、彼らは揃って考えていた。こんな表情のままでは先行している二人と合流出来ない。二人とも神経質な性格のため、気分を簡単に切り替えられはしない。とにかくどこかで落ち着きたかった。道が湾曲しているおかげか、体力の余る二人の姿は見えない。幸いだった、と言うべきだろう。

 こういう場合、心の中にため込んだものを誰かに話すことで和らぐものだ。だが、すぐ側にいる『誰か』は今最も口を利くのが気まずい相手。そんなことが出来るはずもない。しかしながら、互いの足音が聞こえるだけの距離は保っていて、ただ黙って機械的に坂を上っているのにも耐えられない様子だった。

 先にしびれを切らしたのは幸助だった。

「疲れてない?」

「うん、大丈夫」

「本当に平気?」

「うん」

 キャッチボールになっているようでなっていない。ぎこちなく魂もない。不意に幸助は振り向いて立ち止まった。ややもするとその胸に俯いたまま心をなくして歩く美奈がぶつかって、バランスを崩して後ろに転びそうになるのを幸助が腕を掴む事で防いだ。

「どこが平気なんだか……嘘どころか強がりにさえなってない」

 もちろん、幸助も平然としているはずはない。彼は彼で悪いことをしたとは思っているし、何より彼女を傷つけてしまったこと、それが彼自身が一番許せなかった。出来るならば今すぐここから逃げ出して全ての縁をなかったことにしたい、そんなことさえ考えている彼は、自分が取るべき行動に悩んでいた。合流する前に自分から何か手を打たねばならない。

「うん。私、嘘吐きのくせに嘘が下手なの」ありがとう、の代わりに美奈はそう言った。

「すぐばれる嘘しか言わないならそれ嘘吐きか?」

「真実でない事は、みんな嘘だよ」

「……」

 彼らの横を、男女二人連れが通り過ぎた。第三者が見ると美奈と幸助はどのように映っているのだろう? そう思えるだけの心の余裕はあった。

「ほら、通行の邪魔だから」

 美奈がそう促して、幸助は再び踵を返す。

「ああ、さすがに離れすぎたかも知れないしな」

 でもどうせあの二人のことだから先に着いてても景色を楽しんで待ってるだろうな、と想像したその瞬間、何者か――天使か悪魔か――が彼に囁いた。いつも冷静で理知的な彼には珍しく、行動について判断を巡らせることもなしに実行に移していた。

「美奈、走れる?」

「う、うん……でも急がなくたって」

「いいから!」

 戸惑う少女を尻目に、幸助は無理矢理美奈の手を引っ張って走り出した。

「え? あっ」

 緑の風を全身で感じ、にじむ汗さえ心地よく、繋いだ手が意外に冷たかったことに驚き、時々転びそうになりつつも、山道を早足で駆け抜ける彼らの心は、次第に高揚感で満たされていった。まるで童心に返ったように走ってみる、それだけで、今まで悩んでいたことがバカバカしく思えてきたのだ。

 ところで心身症という言葉がある。精神の異常がやがて身体的異常を来す症状の総称だが、要するに、心と体は繋がっているのだ。スポーツは体に良いだけでなく心にも良いと言われる所以である。この感覚は、長らく運動をしていなかった美奈にとっては懐かしい快楽だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ