ChapitreⅩⅠ-A:失せゆくもの、変わりゆくもの
不幸な人は希望を持て。幸福な人は用心せよ。
ことわざ
「一体、何を話されていたのですか?」
というシリウスの問いかけを、アークはわざとぶっきらぼうに突っぱねる。
「わざわざ二階でやったんだ。話せるわけがないし、何より相手が行商人だぞ?」
「……出過ぎた真似を致しました」
これにシオンを加えた三人は、例によってアークを先頭に彼の居室へと向かっていた。彼は早口でまくし立てる。
「明日まで選挙の話もなしだ。それで、俺は今日一日何をすれば良い? 跡継ぎとしての宣言とか何かやることがあったはずだけど、ラザルが死んで状況は変わったんだよな?」
「そうですね」とシオンが答えた。「少なくとも最初に行うはずだった婚約発表と正式な跡継ぎの宣言は省略することになるでしょう」
「え、正妻の発表もなの?」
しかし一方でシリウスはアークにリゲルとして行うはずだった全てのことを可能な限り期待している。
「別に中止する必要はないでしょ? それにほら、ラザル様とアリア様の仕事を全部私達が上手くこなせたら、戦況が有利になると思うんだけど」
要するに彼女の考えは、幸助がリゲルだった時に受けた教育と指示を全て実行し、ラザルがする予定だった仕事も全部引き受けて既成事実を作ることで、世論をアークトゥルスへと傾けようというものなのだ。裏側から見れば休戦協定に違反するが、表面上は問題のない作戦である。だが、肝心の本人がそれに乗り気ではない。
「シリウス、その発表は確か、市街地との境目のところに台を組み立てて、その上から民衆に向かってやるんだったよな? 素性の全く知れない俺がそんなことやってみろ、誰が喜ぶ? 石を投げられるのが分かりきってるじゃないか」
「だったら!」張り切りながら瑠璃色の髪の女は婚約者の前に立ちはだかって足を止めさせる。「私がアーク様をお守りすれば良いだけです」
青年はその熱意を無視して迂回する。
「お前がそんなことする必要はないんだよ」
そんな話をしている内に、彼のベッドが置かれた部屋に到着した。だが、彼は不思議がった。この部屋に来ても、彼は何一つすることが見当たらない。シオンがいるからか、はたまたここが彼にとって安らげる場所だからか、無意識のうちに足がそちらに向いていたのだ。彼は首だけをシオンの方だけに振り向けて言った。
「そうだ、俺に何か用があるんじゃないのか」
「用事とおっしゃいましても、私はあなたの側にいるのが仕事ですから」
と召使いが言う。時と場合が違っていたら強烈な殺し文句なのにな、とアークは余計なことを思った。
「私も似たようなものですよ。婚約者ですから」
とシリウスも続ける。アークはその声を自分の肩越しに聞いていた。薄ら寒い。言っていることはシオンとそう変わらないのに、シリウスが言っているだけで彼は恐怖に似た感覚に囚われた。
「じゃあ何も用がないんじゃないか。マチルドさんのところに戻って良いか?」
「何故またあの人のところへ?」
女中が反発するはずはない。叫んだのはその姉だ。
「一体何をなさるおつもりなのですか!」
彼女はまた素早く青年の正面に回り込み、彼の両肩をしっかりと掴んだ。その握力があまりに強くて、幸助の力では振りほどけない。言葉で抵抗してももちろん無駄だった。
「これが龍の血の力ってやつか、シリウス」
「ふざけないで目を見て話して!」
声色は半分泣いていた。だから彼が視線を上げないはずはなかった――涙目。シリウスは必死に溢れそうな感情を抑えているかのようだった。
(やっぱり、こうして見ると良く似てるじゃないか。なあ飛鳥、なんで俺は今までお前のこと忘れていたんだろうな?)
「アーク様、いえ、アークとお呼びしても?」
「お好きなように」
どうせ俺は様付けで呼ばれる価値のある男じゃないからな、とは言わない。
「ねえアーク、一体何を考えてるの?」
アークを呼び捨てにし、話し方も砕けたものへと変え、彼もそれを容認する。その意味の受け取り方は、青年と軍人との間では真逆だった。
「何も考えちゃいないよ。何も。敢えて言うなら、そう、死なないための手段かな」
裏を返せば、ただ生きてさえいればいい。これは魔女の指示内容である。
「それは大丈夫。私が私が母から受け継いだこの力で、降りかかる剣から守るから」
「もう一度言うけどさ、お前がそんなことする必要はないんだ」
「いいえ義務です! 妻としての!」
「『リゲルの』を忘れてるぞ」
その言葉に、シリウスの手から力が抜ける。
「シリウス、いやシオン、お前にもだな。お前達は一体、俺が誰に見えるんだ? 俺は誰なんだ?」
(そうだ、俺は誰なんだ――?)
彼は記憶を失ったわけではない。自我も思考も保っている。彼の奥深くには、いや鍍金をはがしたそのすぐ下にまで、彼自身、鷹巣幸助という二十歳の青年の記憶と人格が詰まっている。しかしながらその外側には鳥人という殻がつけられ、さらにはリゲルという名とその下で行われた教育や、アークトゥルスという新たな名前などでその表面が彩られている。変化に富む外側に合わせて振る舞い続けた結果、その実像がどこにあるのか、分からなくなり始めていた。
自分が何者であるのか、という問い。多くは他人との関係で浮き彫りにされるものだという。人は社会的動物である。彼が目にしてきた亜人という種族は、外見こそ奇妙だがその中身は彼がよく知る人間とさほど変わらない。彼が何者であるべきなのかを映し出す鏡としての役割は、十分だ。
シリウスは怯えたように手の力を緩めて彼から数歩後ずさった。
「今お前達は俺をアークトゥルスの名前で呼んでいる。でも、実際は俺をリゲルのままだと見なしている。お前達にとって俺は一体どういう存在なんだ? 俺に何を求めているんだ?」
酷な質問であることは彼が一番良く分かっている。だが聞かない訳にもいかない。ただ、この問いかけには答えが、正確に言えば彼が望んでいる回答はないに等しい。いかなる結論に至ろうとも、決して彼という存在の曖昧さを消すものではないからだ。
「さて、どうしたものか」
姉妹を振り切って独りになったアークは、兵士と思しき連中が行き交う大広間を覗き込んでからすぐに二階の会議室へと移動していた。
(そういえば、まともに独りになったのって久しぶりな気がする。面会謝絶にしたあの日以来だからそう時間も経ってないはずなのに……)
そして彼は、今自分が酷く落ち着かないことに気付いた。そうか、俺って寂しがり屋だったのか――と。薄暗い部屋の中佇んでいると、何かを求めて踵を返しそうになる。
「どうせ見てるんだろう」魔女さんよ、と天井に話しかける。「この状況も想定していたのか? このまま村長になれ、なんて言うつもりか?」
『両方否定するわ。私はただ監視する、あなたはただこの世界で生きる、それだけ』
突然天井裏から、いや音源の特定出来ない方向から少女の声が響いた。魔女と呼んだことに対しては何も言及しなかった。
「この世界、ねえ?」
『心配しなくても、あなたの想定する最悪の事態にはならない。絶対に死ぬこともないし――』
「よくそんなこと断言出来るな」
頭に響く言葉を遮るようにして青年が言った。
『私はある程度の未来は見通せる。あなたが死ぬ未来があったら、私はそれを阻止するべく介入する。あなたは人質。死なれるのが一番困るの』
「それは頼もしい。俺の知らない間に何度か?」
『最初にこの世界に送り込んだ、あの時だけね。まああれは私の手違いだったのだけど……』
「手違いで済まされるか! 命があるから良いって話でもないだろう!」
珍しく彼は激昂していた。落下の最中は意識が朦朧としていたし、その後は過去を振り返っている余裕などなかった。スピカにお礼をしなきゃと言われたこと、礼を言わなかったシリウスに対し負い目を感じていること、その全てがない交ぜになった一つの結果だった。
『そうね、今は何も出来ないけれど、何かお詫びの一つでも考えておくわ』
「期待はしないでおくよ。ところであの時お前が介入したんなら、シリウスの不思議な力がなくても俺は助かってたのか?」
『知らないわ、そんなの。介入しなければ「今」と「変わる前の未来」はいつでも見えるけど、それを見て未来を変えた場合、それまで見えていた「未来」が消えるし、変えるまで「変えた後の未来」も存在しない。その先が簡単に見えるはずないじゃない』
「ふうん?」
変わる前の未来。つまり見た未来を動かせないシオンの予知夢とは趣を異にするということだ。
「石畳に落ちて死ぬ未来を予知して落ちる速さと向きを調整したら、たまたま見張り台の上にいたシリウスにぶつかった、と」
『そうよ、ただの偶然。「変わった未来」は「今」と同一にならないと分からないから』
「そうかい。ところで、俺達をずっと監視してたんなら、『あの話』をしていたことも知っているはずだ。俺達の推理は当たってるのか?」
あの話――もちろん、今朝マチルドと交えて話した『彼ら』についてのものだ。だが当然と言うべきか、声の主は問いかけに答えなかった。
『余計な事で私を煩わせないで。心配しなくても帰れないこともないのだから』
その割には呼びかけると律儀に返事をし、会話もしている、と幸助は思ったが口には出さない。
「それは掟さえ守れば、か? ところでそんなものに本当に意味があるのか?」
『もちろん。言葉には魔力があるから――おしゃべりが過ぎたわね。さっさとやるべき事をやって』
「それが分からなくて困ってるんだが……」
沈黙。妙な気配も去り、交信は途切れた。
彼は取るべき行動を考えた。まずはマチルドと合流すべく酒場に戻るべきだろう。だが形式上はリゲルのレッテルが貼られている幸助が屋敷を抜け出しても連れ戻される可能性が高い。階段を下りた場所に姉妹が待ち構えていても同様だ。
「案ずるより産むが易し、とも……」
他にも色々と策を考えてはみたが、やはり結果的に行商人の庇護下に入るか、跡継ぎを指名する仕事を済ませるという行動にしか結びつかない。これ以上の名案も出そうにないと判断し、幸助は急いで階段を駆け下りた。そこにいたのは、
「お一人ですか? 兄さん」
シオン、一人だった。
その呼び方に、階段の見張りをしている衛兵が訝しげな反応を示した。彼はその兵士に「忘れろ」とだけ言い残し、彼はすたすたと歩き出す。その後を『元』専属女中が追いかけた。
「どちらへ?」
シオンは桜色の、アークは赤い外套を羽織っている。今すぐにでも外出しようかという格好だった。
「まずはアリア様に会って、『今の俺』に何か義務がないか聞きに行こう。何もなければ市街地だ」
「でしたら恐らく、まだ地下室かと」
「地下? そういや行ったことはないな」
「こちらです」
「間違っても『兄さん』なんて呼び方はアリア様の前ではするんじゃないぞ。事実上は召使いじゃないとしても、形式上は違うんだから」
「はい、存じております」
しばらく歩いて、シオンがこちらです、と見張りが脇に一名立っている薄暗い穴を指し示した。地下への入り口となる階段。その不気味さは際立っている。ただ単に暗いからとか、木の床から突然石段に変わっているからとか、そんな物理的な理由だけではない。彼が一歩踏み出した途端、背筋を貫く悪寒が走り抜けたのだ。妙に既視感がある、と三歩下がってから幸助は思った――オフィユカスの敷地を出ようと門を通り抜けた時だ。ただ今回は、その時の体験とは比べものにならない。
「どうかなされましたか?」
「ここには何があるんだ?」
「霊廟、つまり墓地です。および、村長とその血筋の方々の葬儀を執り行う斎場――」
「ということは、リゲルもここにいるのか」
幸助はわざと意地悪でそんなことを言ってみせた。仕えるべき主人はもういないのだと、シオンにその口から言わせるために。彼女は目を伏せて少し躊躇った後、「はい」とだけ答えた。「会われますか?」
「冗談じゃない。結局地下室は墓と斎場だけか?」
「はい、ここは」
「ということは、まだいくつか?」
「牢屋と拷問部屋が。私の管轄ではないので入ったことはないんですが、滅多に使われないそうです」
「分かったもういい。要するにここで待っていればアリアさんは来るんだな?」
「待たずに参りましょう」
「奴の死体に近づきたくない」
それが彼の本音だった。アリアが葬儀の準備が整った遺体と共に現れる可能性もあるにしろ、村長代理の今の仕事を邪魔せず終わるのを待つのが最善、との判断である。が、結局見張りが伝言役となってアリアを地下から引きずり出す結果となった。彼女は出会い頭にあの会議はどうなったか、と尋ねた。
「概要だけ決めて、明朝まで一時休戦です。詳しくはまた後日、話すとしましょう」
「さようですか。ところで、いかようなご用件でしょうか」
「大したことではありません。祭りに関して、今の立場の俺がやらなければならないことはありますか、と判断を仰ぎに参っただけです」
「今の立場で、ですか」
霊鳥祭の主な式次第は四段階に分かれて『いた』。リゲルの婚約発表、霊鳥を呼ぶ祝詞と舞の奉納、櫓の焚きつけ、そして宴会。基本的に『リゲル』が関するのは最初と最後だけ、残り二つも次期村長として事の様子を見ておくようにと『リゲル』は言い含められていた。
「難しいところではありましょう……今のあなたは次期村長候補はおろか、一般市民になる可能性さえあります。故に、シリウスとの婚約を宣言する必要はなく、また宴会においてはこの屋敷にいることを強制はしません。舞も焚きつけも、見るのが義務ではありません」
「つまり、どこで何をしようとも構わないと」
「はい。村長になるおつもりがないのであれば」
裏を返せば、この村の支配者になりたいのなら婚約者の存在を喧伝し、舞の奉納と櫓の焚きつけを全て見届け、この屋敷オフィユカスで宴を楽しんでおけばいい、という意味だ。そもそもアークの行動理念は最初から決まっているのだから無関係だ。
「なるほど、良く分かりました。お仕事を邪魔して申し訳なかったです。そういえばこの事、あの二人にも教えておくべきでしょうか?」
条件を公平にするために、と彼は付け加えた。もちろんその裏で考えているのは、テルとセラトナを自分よりも優位に立たせることだ。
「……一時休戦と仰っていましたね。ならば互いに邪魔し合うこともないでしょう。あの反乱軍の指揮官が屋敷で会食するのであれば反対する者もいるかも知れませんが、それで三人の争いが公平になるのなら、そうすべきなのでしょう」
その時、静かだったその場所にいくつもの足音が大挙して押し寄せた。その先頭にいるのはテル。もう昼だというのに朝の襲撃による混乱が原因で、今になってようやく組織だった行動が取れるようになったのだ、と彼が説明した。彼らの第一の目的は増えた仕事に関する救援である。テルがアリアにその旨を伝えると、彼女は数人を引き連れて地下へと戻っていった。
「アリア様と何か話していたようだが?」とテル。
「大したことじゃない」と言ってアークはあらましを説明した。「という訳だから俺はこれから明日まで市街地に入り浸る。もう一人の村長候補にもこれを教えてやらなきゃならないしな」
「そうか、それは良いことを聞いたな……それよりシリウスは一緒じゃないのか」
「リゲルの部屋に一人でいる、と思う」
「お前は何を考えているんだ?」
「逃げることに決まってるだろ」
テルの背後にはまだ十数人の兵士がいる。彼女らの中にはリゲルの影武者が用意されていた事情さえ知らなかった者もいたが、今や全員が偽者の存在とそれがばれたことを知らされているので、アークの言葉に驚く者はいなかった。
「なら上手く逃げ回ることだ。俺は手助けはしない」
「言われなくても分かってるよ」
用が済んだテルは踵を返し、アークもそれと反対方向へと歩き出した。シオンは彼を小走りで追いかけながら「良かったのですか?」と尋ねた。
「何が良かったって?」歩きながら答える。
「市街地に向かわれるのでしょう? 護衛が必要かと存じますが」
確かにその通りだった。殆ど偶然のような状況で誰もいない中をスピカと二人で通り抜けた時以外、彼が屋敷を出る時は誰かしらの護衛があったし、その必要性は今だって変わらない。影武者だったという情報が広まっていたとしても、昨日の夜まで嫌っていた人物を今日から見過ごせるほど人の心は単純ではない。情報の伝播は一部に留まるだろうし、何かしらの危険が伴うのは必定だろう。
「マチルドさんの姿が見えないところを見ると、スピカの方を追いかけたんだろうな」
いるなら彼を捜しているに違いないから、いないのはほぼ確実だ。スピカを連れて行ったのはセラトナ達で、彼女らが屋敷にまだいることもあり得ない。考えながらも歩調を緩めることはなく、幸助は結論を出した。
「最悪、一人でどうにかするだけだ。マチルドさんを頼ろうとしてる俺が言うのも変だけど、女性に守られるばかりっていうのは、結局自尊心に障るんだよな。仕方ないのは分かってるけど」
「自尊心、ですか……女性に護衛されるのがそんなにお気に召しませんか?」
「ここじゃこんな価値観は変に見えるのかも知れないけど、俺のいたところじゃ逆なんだ」
「ご冗談を。殿方は数が少ないのですから、守らないわけには行かないではありませんか」
男女比が極端に崩れているんだからそう思うのも無理ないか、と彼はシオンを見下ろしながら思った。ややこしくなるので反論はしない。
「とにかく、嫌なんだよ」
「なら、私も邪魔ですか?」
その言葉は意図せずして幸助の心をぐさりと刺した。世話役であった彼女には護衛というイメージが全く付随していなかったが、彼女の方では付き人として、護衛としての矜持が確かにあったのだ。
「そんな風に言った覚えはないよ」
彼は考え方のすれ違いを、そんな風にあしらった。それからもしばらく歩き続けて、大広間に続く扉を開け放つ。そこでは十数人の女性がいそいそと部屋の掃除や飾り付けをしており、一斉にアークの方へと振り返った。が、彼はもちろんそれを無視して外に出るための入り口へと歩を進めていく。すると彼が予想していた通り、彼を「リゲル」の名で呼び止める者があった。
「どちらへ行かれるのでしょうか?」
「俺はリゲルじゃない」
彼は冷たくそれだけ言って、足を止めることもしない。彼を止める者もいなかった。
屋敷を出た時、雪の降り方は入ってきた時よりも強くなっていた。そこから門へとまっすぐ続く下り坂にはまだ真新しい足跡がいくつも残っている。ラザルを引きずった跡はすっかりなくなっていた。
「行こうか」
「はい」
シオンにはもはや彼に付き従う理由はない、だから彼女がまだ彼の後ろにいるのは勝手にそうしているだけ――だというのに、幸助は彼女を邪険には扱えず、ずっとそんな風に話しかけていた。
「お前達にとって俺は一体どういう存在なんだ? 俺に何を求めているんだ?」
そんな酷な質問の背景には、リゲルという男が真に亡くなったことがある。故にこの問いかけにはまた同時に、リゲルのいなくなったこの村で二人がどういう立場にあるのか、その上でアークとどういう関係にあるのか、という意味があった。とはいえこれほどの深い意味があるとは、誰も想像だにしていない。
「私の仕事はあなたをリゲルに教育して、次の村長として仕上げることでした」とシオンは訥々と語り始めた。「しかしあなたが影武者であることが暴露された以上、もうリゲルとしての村長はあり得ません。よって私は……下っ端に戻るだけかも知れません。誰かが命令しない限り」
「じゃあ、もうこれまでだな。俺が村長になれないことが確定したらなおのこと」
ところが彼の発言に反しシオンは続ける。
「そうです、もう主人と召使いの関係ではなくなる、ということです。言い換えれば、立場は対等ということですね。あなたがここに来て三日目でしたか、私に言って下さいましたよね、私のことを『友達のようなものだ』と思っていると。ですからその思いに応えようと思います。押しつけられた関係ではなく、一人の友人として、側にいさせて下さい」
幸助はこの村に来てから二回目の、自分の発言に対する後悔を味わった。一回目は鳥と龍の血を持つシリウスなら和解の架け橋になれると言ってしまい彼女に気を持たせてしまったこと。どちらにも共通しているのは、会話の流れと、相手を喜ばせようとする彼の精神だった。結果的に糠喜びをさせ、彼女らを裏切ることになってしまう。後ろめたさを覚えながら、彼は対応に戸惑っていた。
「ダメだ、シオン。分かってんだろ? 俺は部外者だ。この村にとって俺はもう用済みのはずだ。ここに来たのはただ単に誰かの不思議な『能力』のせいだ。いずれ村を追い出されるし、むしろ自分から出て行くさ。だから悪いことは言わない。やめておけ。俺達はそういう関係になっちゃいけないんだ」
「だからといって、私がアーク様のお側にいてはいけない理由にはなりません」
「どうしてそこまでこだわるんだ、シオン?」
「何故でしょうね。ただ、理由があるとすれば、主人の後ろが私の居場所だから、でしょうか」
かつての主人とは名前も人柄も違うけれど、と女中は付け加えた。
「もう一度聞くが、分かってるんだな?」
「はい」
何を分かっているのか? それはもちろん、彼女が予知した未来。アークという男の思惑とそれが引き起こす結果のことだ。もちろん、二人の間では未来の意味合いにはいくらかの差がある。
「分かったよ。もう好きにしろ」
「はい」
結果的にシオンとのしがらみを断ち切ることには失敗した。とはいえこれは後々嫌でも切らされることが確定しているのだし、シオンもそれを分かっている。失敗であり予定調和だ。
沈黙が訪れる。次はシリウスが問いかけに答える番だったが、アークはそれを促さなかった。ふと目を壁際にやると、今朝の光景がそのまま残されていた。向かい合わせの二脚の椅子と、間に置かれた火鉢。その上には金網、更にその上には二つの取っ手付きのカップ。彼は椅子に腰掛け、自分が使っていた方のカップに触れてみた。炭の火はすっかり消えていて白湯もすっかり冷たくなっていた。ポーラと座って話した時は手をつけなかったっけ、と余計なことまで思い出して、ようやくシリウスに向き直る。が、彼には嫌な予感しかしなかった。まともに目を合わせようという気にはなれなかった。
「シリウス――答えを」
彼は下を向いたまま呟くように言った。
「うん……事情が特殊ではあるけど、私に婚約を申し込んだのは確かよね?」
「それはそうだけど……でもあれはリゲルとしての急な仕事であって」
「じゃあ、市街地を歩き回って、二晩お見合いをしたのに全て無視して私を選んだのは何故?」
「それは……」
答えならはっきりしている。お見合いは結果として本来のそれとは異なる目的と収穫を彼にもたらしたし、市街地を歩き回ったのもその延長でしかなかった。故に、彼がまともに顔と名前を覚えた女性はシオンとシリウスだけだった。残り時間がないから決めろと脅された彼には、最初からシリウス以外の選択肢がなかったのだ。
「それに、私を妻に選ぶって話は人伝に聞いただけで、直接には聞いてないんだけど」
「それは『リゲルとして』の仕事だよ。今の俺とは何の関係もない。それにさ、お前既婚者じゃなかったっけ? 三人で塔に上った時に言ったろ? 三年前だったら結婚を申し込んでいたかも、って」
「権力者からの申し出なら、形だけの夫との繋がりなんか喜んで断ち切れるよ。ふふ、私下手したら首切られそうなこと言ってたんだね」
「残念ながらもう俺にはそんな価値がなくてな。建前上はまだリゲルとしての権限があるとしても、リゲルとして俺がやったことはもう無意味だろ」
「意味が消失するのは、次の村長が決まるまで。それまでは私はあなたの婚約者だよ」
彼女が幸助に過去を思い起こさせるから、という理由以上にアークはこの押し問答に苦手意識を感じていた。正当な理由を与えて幻想を諦めさせようという彼の魂胆は、手応えも何も感じず、ただひらひらと回避されるばかりだからだ。数秒思い悩んで彼は、その奇妙な意識の正体がたった一つの違和感であることに気がついた。すなわち――何故シリウスはアークの説得を拒み続けるのか? 尋ねるのは簡単だ。だが容易であるが故に、軽佻浮薄な質問でもある気がする。彼女を傷つけることにはならないか、と。それでも幸助にとってはこの場にけじめをつけることが最優先事項なので、思い切った。
「シリウス……何故そんなに俺にこだわるんだ?」
「アークが言ってくれたこと、龍と鳥の架け橋になるって夢を実現するため。そのためには、私が村長と同等の権力を持たなくちゃならないの。だから、あなたには勝って貰わないと困るの」
「無茶を言うな!」声を荒らげて、彼は椅子から立ち上がる。「俺は偽者なんだ。村中に知られるのも時間の問題だ。誰が俺を村長なんかにしたがるって言うんだよ?」
責める形になるのも構わず彼はまくし立てる。
「俺は村長にはなれない。村長候補としての資格が目的なら、悪いが無理だ。お前にとって俺は結局リゲルの代わりってことなんだろ。だったら素直に諦めてくれ。俺は俺なんだ。リゲルじゃない。それに、お前は兵団の幹部だろ。なら次の村長に懇願してどうにかすればいい。お前が村長夫人でなければならない理由はないだろ!」
「確かに、そうかもね……」
シリウスは俯いて、呟くように吐き出した。
「でも、今の地位と村長の正妻のそれとでは比べものにならない。だから私は諦めない。だから、改めて提案しようと思うの」
「何を?」
つり目がちの両目をきっと見開いて、シリウスは軽やかに言った。
「私を『あなたの』妻にして下さい」
「姉さん!?」「断る」
シオンの驚愕とアークの拒絶が重なった。
「たった今シオンと話していたこと、忘れたのか」と青年は不快感を示す。「俺は部外者。いずれここを出て行くし、そもそもいること自体が許されない。そんな男に結婚を申し込んで何の意味がある? 俺には帰る場所があるんだ。それを邪魔する提案は承諾出来ない」
「……そんな酷いこと言う人だとは思わなかった」
「それで良いんだよ。俺を憎んでくれ」
こちらも、失敗。厳密に言えば最良の結果ではないだけで成功にも等しい。とはいえ幸助にとっては、女性を傷つける、シリウスに嫌われるという結果に(予想していたとはいえ)なってしまっただけで失敗も同然なのだ。
「勝てないと分かっている戦いはあがいてもしょうがない。いなくなると分かっている男と仲良くなってもしょうがない。そうだろ?」
そう語りながらアークは出口へと近づいていく。落ち込んでいるシリウスに寄り添うシオンの姿を認めてから、彼はリゲルの部屋を後にしたのだった。




