ChapitreⅩ:敗北の方程式
私たち一人一人が航海しているこの人生の広漠とした大洋の中で、理性は羅針盤、情熱は疾風。
アレキサンダー・ポープ
おそらく、という言葉が意味をなさないほど確実にマチルドが異世界の青少年達から聞いたそのシステムを、幸助と美奈が知らないはずはなかった。それどころか、村長を決める一つの手段として思い描いていたものでさえあったのだ。
しかしながらそれは、この村で行うには不都合な点が多すぎた。言うまでもなく普通選挙は近代社会の仕組みが前提にあり、少なくとも戸籍や通信の制度などを必要とする。この世界の文明レベルではそれがあるはずないと彼らは考え、公正な投票を行うに適していないと結論づけていた。
だのにマチルドはその欠点を知らず、多人数の意見を効率よく収集出来るという利点ばかりをテルやセラトナに説明しているし、聞く側も聞く側で目新しいその機構に大変興味を示している。その姿をアークは、文明開化の頃に西洋に留学した先祖達もこんな目で近代社会の仕組みを見聞していたんだろうな、と冷めた目で見ていた。
それから注目の視線が投票は未経験だが誰よりも深い知識を持つ二人へと差し向けられると想定するのは容易だ。協力するか、拒絶するか。その判断を突きつけられることになる。
「という訳で、これで決定ね。アークとスピカに指揮を執って貰うけど構わないわよね?」
こんな風にさも当然、と言いたげに語るマチルドを、アークは突っぱねる。
「スピカはまだしも、俺は投票される側なんですよ。そういう役職に就く訳には……大体マチルドさん、机上の空論で語ってますよ」
で結局彼は、思考回路の中で組み立てた欠点をくどくどと語ることになる。一人一票の原則、投票権を持つ条件、投票に必要な道具類、それから最後に、時間がかかりすぎることを加えた。
「俺はこの集落のことそこまでよく知らないからお前に聞くよ、テル。出来ると思うか? いや、正しく遂行されると思うか?」
「さあな。難しくてまだはっきりとは分からないが、試す価値は大いにある。お前達の故郷ではその『投票』とやらが滞りなく行われているのだろう? ならばその方式を真似れば良いだけじゃないのか」
「簡単に言ってくれる。だから言っただろう、この集落で公正な選挙が出来るとは思えないって」
それはつまり、重複なく一人につきただ一票を持たせる方法があるかどうか、に集約される。そしてテルは少し悩んだ後、こう言った。
「全部で十二ある市街区それぞれには地区長がいて、誰が生まれた、誰が死んだ、今何人いるのか、というのを記録させている。そいつらと兵士達に命令すれば一人一つの原則は守れるはずだ」
ところがその一方で、何を投票用紙の代わりにするか、という問題が生ずる。紙は貴重らしいのでまず使えない。書いて意思表示するというその特性は、投票箱を三つ用意すれば良いだろう。しかし代替物は例えば小石や木の実のような偽造の容易いものではいけない。しかもある程度の数を必要とする。
「この課題を解決出来なくちゃ話にならない」とアークは突き放したように言った。実際彼にはほぼ無関係なことなのだから、当然の態度だろう。
誰もがこの面倒な状況に顔をしかめさせていながらも、今はこの方法に縋る他に妙案がないとその殆どが考えているために、不満を言う者はなかった。
「なあシオン、何か知ってることがあるなら言ってくれないか。選挙の結果以外で」
青年は隣にいる女中にそう尋ねた。
「いいえ、お役に立てるようなことは何も」
「そうか」
やや反則的手法ではあるが、未来の断片でも知ることが出来ればそこから逆算して目下の問題を解決する糸口が見出せる、そう考えてのことだった。いや、実のところ最初から期待してなどいなかったのだ。シオンの予知した未来は絶対確実である分、その結果に彼女自身がどれだけ関与するかも容易に分かってしまう。ただそこに、リゲルの専属女中としてどう行動するか、という理念を加えさえすればよいのだから。
その空気の中、セラトナがイライラして発言する。
「全く、埒が明かないじゃないか。そんなに面倒臭いならもっと別の手段を考えれば良いだけじゃないのか? もう手っ取り早く腕っ節で」
「まあ待ちなさい。曲がりなりにも村長になることを主張するなら、この程度の会議でそんなこと言ってちゃいけないわ」と諫めたのは議長席に座るマチルド。「それでも、もうちょっと突き詰めて考える必要がありそうね。今日は一旦解散にしましょうか。祭りのために各自するべき仕事があるでしょう?」
夜明けとほぼ同時に始まった反乱軍の蜂起だが、気付けばもう五割の時分、幸助達の感覚で言えば正午を回っている。多少の予定変更があるとはいえ、霊鳥祭当日にこれ以上余計な時間を取る訳にはいかなかった。従って反対意見も出ず、自然と休戦協定が結ばれる運びとなった。各々が立ち上がり始めた直後、今までまともに発言していなかったシリウスが口を開いた。
「では各人、明朝までは一時休戦、ということでお願いしますね」
それに、かなり遠い位置にいるポーラが、
「ええ。それまでは、今まで通りの立場で」
と返したので、この流れだとスピカが何か言うべきなのかという気がしたが、彼女は何も言えなかった。代わりにセラトナが、
「ああ、要するに今日はごたごたを忘れて祭りを楽しもうって話だね」
これでもうするべき事は全て済んだと判断した彼女は、スピカの腕を取ってこの部屋から出て行こうとした。アークはそれを制止しようとしたが、僅かにマチルドの方が早かった。
「ちょっと待って。スピカちゃんを少しの間貸して欲しいのだけど」
「別に構わないが、ちゃんと返してくれよ」
「ええ、もちろん」
「――いつから私はセラトナさんのものに?」
「それから、君……アーク君も一緒に来て」
「ちょうど良かった、俺もマチルドさんと話がしたかったんですよ」
「あらそう。それじゃ、場所を移しましょうか」
この言葉に違和感を抱いた者が一人――シリウスだった。
「ここではいけないのですか?」
「悪いけど、邪魔が入ると困るの。それとも、どうしても離れたくない理由でも? なんなら借りてる時間の分だけの代金を払うけど」
「……いいえ」シリウスは残念そうに答えた。
「じゃあ問題ない」
話をするのにどこなら都合が良いか、とマチルドは青年に尋ねた。
「二階の会議室が良いでしょう。そこなら見張りに指示しておけば誰も入って来ません」
「じゃあそこで」
それから三人が執務室を出て行ったのだが、アークは去り際、一同にこう言い残した。
「休戦状態ではありますけど、作戦会議をするのは自由ですからね」と。
この屋敷の二階部分は一階に比べ、ずいぶん狭く使用頻度も低い。事実ここに入れるのは許可を得た者だけだ。その権限を持つのは村長やテルなど、オフィユカスにいる要職の人物のみ。この点から二階という場所が重要性を持つことが分かるように、密談専用の場所と言っても良く、ここに至る唯一の階段の前には見張りを立たせている程だ。
実際ここに何があるかというと、大中小の会議室が一つずつと、重要文書や武器を収めた倉庫くらいのものだ。外周には吹きさらしの廊下があり、見張り台も兼ねたこの場所は幸助が最初にこの世界に来た時にシリウスに案内されてやってきた場所、テルとマチルドが秘密の取引をした場所でもある。
窓から見える景色は、雪の降り方が激しくなったらしいことを告げていた。
「マチルドさん、余計なことを……」
三人が小会議室の円卓に着席してから、アークが怒ったように切り出す。
「何か問題でも?」
「何もあの混沌とした状態に解決策を与えることなんてないでしょう。ずっと決まらないままにしておけば、暴力的な方策に打って出て俺の負けが確実になるはずだったんですよ。投票で決めるなんて話を持ち出したら――いえ、それでも勝てるとは思いませんけど――俺が当選する可能性が僅かでも生まれてしまうじゃないですか」
「リゲルが偽者だって噂はもう十分広まったでしょう? 不十分なら私がこれから広めるわ。その上での多数決なのだから、ここの村人が相当愚かでない限り君の勝ち目は皆無。何も問題はないはずよ。それにあまり長引くのは嫌なのよ、行商人としてね。ここで仕入れたものを別の集落に行って売らなきゃ、私の生計が成り立たなくなる」
「暴力で解決した方が早かった気がしますけど。仕方ない、俺が上手く負ける算段を整えますか」
「もちろん。そのために呼んだんだから」
「で、まずなすべき事は……」
「私の考えだと、選挙をする際に生じる大きな障害は二つ」とスピカが指で二を示しながら冷静に語る。「一つ目は、さっきも指摘されていたように、投票用紙の問題。一人一票の原則、例えば一度投票した人がもう一度投票に来られないための仕組みがどうしても必要になる。村長の署名が入った木の板とか、絶対に偽造出来ないものを出来るだけ多く作って配らなきゃならない。それをそのまま投票箱に入れるにしても、投票所で用紙代わりの何かと引き替えにするにしてもね」
「そうだな。しかも結構な数が必要と来てる。最悪地道な作業になるのかね」
とアークが腕組みして悩む一方でスピカはさらなる問題点を挙げる。
「もう一つは、誰に投票権を与えるべきか、という問題。マチルドさんは説明しませんでしたけど、人が投票する権利を持つには年齢制限があるんです。その基準の制定に加えて、ある程度の範囲制限が必要です。市街地に住む大人全員に権利を与えると言ったらセラトナさんは大喜びでしょうけど、残りの二人には圧倒的不利な状況になります。多分兵士達や召使い達にも権利を持たせることにはなるんでしょうけど、誰かにとって有利不利がはっきりしないようにする必要があると思います」
「確かに全員はセラトナの有利が約束されてしまうものね」とマチルドが付け加えた。
「でもそれは」スピカが続ける。「私達が負ける作戦には関係はないので、いかに誰からも、より正確にはテルさんから不満が出ないようにするか、というところが焦点になります」
これに対しアークが付け加える。
「私達、って言ったけどスピカ、君はセラトナの応援役をやらされるんじゃないか?」
「うん、間違いなく」
「そもそも、彼女に有利になるって、反乱軍は人口に対してどのくらいの割合で存在してるんだ? まあ多いなら多いでそれが民主主義の結果にはなるんだろうし、全員に投票権を与えると言ったところで、多分テルは反対するような男じゃない。第一、テルの名声は前回の戦争の英雄として、村長と並び村中に轟いているらしいよ。だから逆に、奴を村長にしたいと考える人が市街地にもある程度の数はいるはずなんだ」
「うーん、確かに。反乱軍にどれだけの人数が所属しているのか私は知らないし、セラトナさんも正確な数を把握しきれてないって言ってた。それだけ多いってことなのかも知れないし、人口もそれなりにあるみたいだしね。ううん、ここで投票権の問題を色々考えてたって、リゲルの戦いには無関係なんだから時間の無駄でしかないかもね」
「リゲル、ね。まあ確かに、虚像に票を入れるバカなんていやしないさ。それでも、万が一俺に票が入る可能性があるとすれば……」
「あるの?」
「本物のリゲルが死んだという噂が嘘だと信じ込んでいる酔狂くらいか。さて、これで第二の障害が消えたわけだから、別の問題に立ち返ろうか」
「というと、用紙の問題?」
「そう。マチルドさん、何か知恵は?」
「生憎だけど、さっぱり。地道な手段しか思いつかないわ、判子を用意して木の板一枚一枚に押していく方法とかね」
アークは卓上に両肘を突き、組んだ両手の上に顎を乗せて眉間にしわを寄せつつ返す。
「印刷技術がない以上そうなりますかね。板を用意するのも一苦労だ。紙が貴重じゃなければもっとやりやすかったんでしょうけどね」
「あなたたちの世界では紙や本が珍しくもないんですってね。羨ましい限りだわ」マチルドが、溜息を吐くように言った。「この世界だと、紙を生産している集落って多くなくてね。いっそのこと、ここにある植物から紙が作れるかどうか試してみる? 技術は知っているからやろうと思えば」
「ここは山頂ですよ。水が貴重なんで無理です」
「ああ、そうね」
「ねえ、これはどうかな」
とスピカがポケットから取り出したのは、いつかリーラから貰った木彫りの霊鳥人形だった。
「複製出来ないっていう意味なら、これが良いんじゃない? 一つの家につき一つあって、お祭りの時に古いのを燃やして新しいのを飾るんだって」
「ああ、それなら俺の、じゃなくてリゲルの部屋にもあった。でもその人形は家につき二つ? 選挙が終わった後の扱いから言っても――」
「ごめん、無理だね」
「まあ、このあたりはテルかアリアさんに知恵を借りるとしよう。俺達だけじゃ限界がある」
そうだね、と言いながらスピカは人形をポケットに戻した。
「でアーク君、まだ話し合うことはある?」
「選挙管理の組織が必要ですかね。細かい作業も多いですし、不正をさせないためにも、出来る限り中立の立場にいる人だけで構成すべきでしょう」
と言う彼の視線の向かう先は、もちろんマチルドである。この行商人の思惑はアークと一致しているものの、それを知らない者には誰にも味方しない存在として映る。これ以上の適役もいない。
「仕方ないわね。一人で全部やれる仕事?」
「まさか。各勢力から一人ずつ選出するとか、アリアさんやマーテルさんに声をかけるなどして集めるのが妥当かと」
「それで、何をすればいいの?」
「選挙に必要なこと全部です。今ここで話すことでもないでしょうから、本格的に動き出す明日以降に手をつけます。とりあえず今夜は祭りを楽しみましょう。いや、その前に休憩したいな。朝から色々ありすぎてさすがに疲れたんで……」
「いかがでしたか、頭領」
話し合いを終えて大広間に戻ってきたセラトナを、彼女が屋敷まで引き連れてきた幹部四人が出迎えた。今の言葉はその一人が発したものだ。
「悪くなさそうだ。意外と話せば分かる連中だ。次の村長は今までやったことのない画期的な方法で決めることになるらしい。マチルドが提案したのが気に入らなかったけど、スピカの故郷でも行われていたそうだから、大丈夫だと思う」
「それで、その参謀はどこに?」
「何故かは知らないが行商人が連れて行ってしまったよ。用が終わったら返してくれるそうだ。だからここでしばらく待つ」
「では、心配はないのですね」
「ただ、この村でそれをやるには課題がたくさんあるそうだから、詳しい話し合いは祭りを終えてからだそうだ。明日の朝までは、作戦を立てるのは自由だが休戦、ということだ」
だがその作戦会議を行えるほど、セラトナが民主主義だの選挙だのといったものを理解してはいなかったのだから、立てる作戦もそもそもない。どういう状況になるにしろ、彼女らが活路を見いだすためにはスピカという頭脳が必要不可欠なのだ。
「ところで、村長の死体は?」
「そういえば、見えませんね」
口々に言って、四人は大広間を見渡した。
「ああ、私が酒場に逃げたリゲルを迎えに行く時にはまだここに転がっていたんだが……」と頭領。
今やこの大広間には彼女ら五人以外には見張りの兵士がいて、時折女中が出入りするのみだった。血の跡は消され、中央に遺体があったことなど嘘のようである。
するとセラトナの部下の間で、その死亡を隠蔽するつもりなのか、確かにリゲルの死も偽装していた、だが一体何のために、などという無益な議論が勃発する。
「騒ぐな。葬儀のために一旦別の場所に置かれているだけだろう。別に慌てることでもない。大体テルが相手なんだ、村長の地位を狙っている奴がその死をなかったことにして何の意味がある? 今はただ待っていれば良い。自ずと機会は訪れる」
その途端に四人は無駄な会話を中止し、姿勢を正してセラトナに向き合った。
「かといって、ただ待つのも退屈だ……」
「何を考えているのです、テル。いえ、何をそんなに怒っているのです?」
屋敷の廊下を二人並んで歩き、婚約者の顔を覗き込みながらポーラが言った。その手には盆が、その上には木の実ととっくりが載っている。
「何を怒る必要がある?」
「自分の思い通りに事が運ばないことを、でしょうかね。あなたの性格から言って」
「そんなものは世の常だ」
「あなたがそんなに悲観的だとは、驚きました。それならば、何故そんなに、眉間に皺が?」
「そんなに酷い顔してるのか、今の俺は」
「それは、いつものことですけど、今はそれ以上に」
歩きながらもテルは無言で額に手を当てた。
「私は、キャンサーの指揮官としてではないあなたの顔を、誰よりも近く、誰よりも頻繁に目にしているのです。婚約者なので。いくら思っていることを隠すのが上手でも、私の目は、ごまかせません」
「参ったな」
「参ったか」
「ポーラ?」
「いえ。それより、ここは……兵士の宿舎ではありませんか」
「用があるのは会議室だ」
そうして彼らは建物の片隅にある無人の小部屋に入り、テーブルの上に盆を置いた。
「わざわざここに来た理由は?」
「誰が敵で誰が味方になるのか分からない以上、迂闊に誰かと村長の決定について話し合うのは得策じゃない。だから孤立出来る場所が必要なんだ」
「キャンサーの中にも、反乱軍かリゲル様に味方する者があるだろう、と? 兵団の要職には、あなたの親戚も多いのだと、聞きましたけど」
「ああ、知っての通りうちの血筋は代々村長に重用される軍人の一家で、分隊を持たせているのも半分が遠かれ近かれ近親者だ。だからといって、家族の要望と、村長が決めた掟と、それを破壊しようとする衝動が拮抗したら、何よりも俺を優先するような連中じゃ決してない」
「英雄と謳われたあなたが、珍しく弱気ですね」
「臆病と慎重は違うんだよ、ポーラ。可能性がない訳じゃない、というだけだ」
こうして二人は一つのとっくりで水を飲み、木の実をついばみながら、作戦会議、目の前にある問題について話を進めていく。
すなわち、いくらテルの英雄像が民衆の心にあり、それが兵団の士気を高めているとしても、結局彼らがテルにとっての完全な味方になる理由にはならないのだ。何故なら、構成員の内、自ら志願して兵士の身分に身を置いた者の数よりも、戦災孤児などであるが故に戦うことにしか己の存在意義を見出せない、歪んだ動機で所属している者の数の方が実際は多いからだ。この後者の人々はただ上の言うことを聞いて戦うに過ぎない。反乱軍が起こした蜂起は恐らく彼らにとって目を覚まさせるほどの衝撃になったかも知れない。セラトナらが掲げる大義名分は結局龍族との戦争をやめさせることにあるのは疑いようのない事実なのである。
「ラザル様が俺を指名したことを最大限活用出来るなら、こんなに悩まなかったろうが」
「もしくは、あなたがラザル様にとどめを刺していれば、話はもっと単純だったかも知れません」
「……ああ、確かにその通りだ」
普通の人であればこういった心を抉る発言に対して激昂しても良さそうなものだが、彼は怒りはしない。ポーラの言葉の正確無比さは婚約者たるベテルギウス自身が一番よく知っているからであり、彼が考えていた計画が思い通りに行かなかった一番の原因は、ただ殺すことを嫌がったからだ。
「大分詰めが甘かったな……反乱軍を目撃者にしてリゲルに殺させ、影武者が村長になったところを俺が簒奪する、はずだったのにな」
「リゲル様にラザル様を殺させる手段は? まさか脅してどうにかなると、思っていたのではないでしょうが……」
「シオンが言っていたんだよ、誰かがラザル様を槍で刺すのを夢で見た、と。俺は槍を使わないし、市民も兵団も使うのは殆どが剣だから、殺すのはそれ以外の誰か、恐らくはリゲル……そう思ってはいたんだが。想像したようには行かないものだ」
「別に構わないでしょう。失敗しそうだ、というだけで、実害は今のところ、ないはずです」
ポーラは表面が凸凹した親指サイズの木の実を長い前髪の隙間からしげしげと眺め、口に入れた。
「ああ、お前は俺が村長になって実権を握ることに関してはどうでも良いんだったな」
「はい。私はアリア様の立場になることには、何の魅力も感じておりませんので」
「なら、この勝負に勝てるよう知恵を貸せって言っても協力しないつもりか?」
「テル、あなたが望むのならば、私はそれに応えましょう。でも、本当に私で良いのですか? あなたの力なら他に優秀な頭脳が――」
「お前しかいないんだよ、少なくとも今のところは。明日以降はまた事情が変わるからな、部下を動員して先に作戦を進めたら、何のための休戦協定なんだ。何のために祭りを優先して会議を解散したんだ」
「それで私、という訳ですか。でも、手短にお願いしますよ。今夜に向けて、お互い仕事があるのですからね」
「ああ、だから単刀直入に訊く。俺達に勝ち目はあると思うか?」
表情のはっきりしない赤い瞳が、テルを睨む。
「はっきり言って望み薄でしょうね。少なくとも、市街地に住む者全員、その意見を反映させられるなら、間違いなく反乱軍の総意が、民衆の総意になることでしょう。リゲル様、いいえアーク様が敵にならないのは、言うまでもありませんが」
「ああ、やはりセラトナのあの統率力は驚異だからな……今の俺の地位を引き継ぐのにも十分な程だろう。だが、もしあいつが村長になったら何をしでかすか分からない、それが一番恐ろしい」
「ええ、治世や統治には全くの素人、というのが、彼女の最大の弱みではありましょう。でも、人をまとめる力があれば、案外何とかなってしまうかも知れませんね」
「面倒なことになったな」
「それは、今に始まったことでもありません。では、そろそろ本業に戻るとしましょう。霊鳥祭にはキャンサーの労働力が欠かせませんからね」
誰もがリゲル、もといアークトゥルスの敗北を望み、また同時に確実視している。本人でさえそうである状況なのに、ただ一人だけ、彼の勝利を願っている者がいた。
「ねえシオン、あなたは私の味方よね?」
シリウスである。今は妹分と共に執務室に残っている。彼女は会議の時の席から動いていない。
「もちろんです、私はアーク様の召使いですし、姉さんの妹ですから」
シオンは立って、姉を視界に入れないようにそっぽを向いていた。彼女にとって家族同然の存在であるはずのシリウスだが、今や、その最も親しい存在と二人きりであることがシオンには耐えられなかった。より正確に言えば、彼女は立場上本当のことを言えず、その嘘を姉に見破られてしまうことに恐怖しているのである。
事実、彼女の姉はアークを村長にしたがるのに対して本人はそれを望んではいない。そして、シオンには青年をリゲルにするという命令が与えられ、『リゲルとしての幸助』をセラトナと共に市街地まで引き取りに赴いた。だが落ち着いて考えると今の彼には『影武者リゲル』としての価値はなく、たとえ村長になったとしても彼は『アークトゥルス』としての村長になり『リゲル』にはならない。
故に『彼の召使いでありあなたの妹だから』という理由は、それ自体が矛盾なのだ。
「そうよね……でも、劣勢、かなあ」
とシリウスは溜息混じりに言う。シオンが今どんな顔でいるかを彼女は知らないし、彼女が今どんな表情を見せているかをシオンは知らない。
「影武者を立ててたことが知られてしまったら、もう彼が、アーク様が村長に相応しいなんて思う人、誰もいないよ。さっきまで話し合ってたのって結局、誰が村長に最も相応しいと思う人が多いかを調べようって話でしょう?」
「そうだと思います」
「でも、彼は嫌がるかしらね? 何しろ、半ば強引に跡継ぎにされたんだものね」
何気ないこの一言は、シオンを酷く困らせた。二人の情報量には圧倒的な差があり、知りすぎてしまうことが彼女にとって苦悩の種となっているからだ。本当のことを言えば姉を傷つけ、嘘を言えば良心の呵責から自分自身を傷つけることになってしまう。
「それはご本人に訊くべきでは?」
そこで出した結論がこの言葉だった。シオンにとっての嘘でありまた本心。つまり、アークが村長の地位を確実に拒絶することを知っていながら言わない嘘と、彼の思いを自分の口で代弁は出来ないという本心である。
「アーク様は姉さんを正妻にすると宣言されたのですから、憚ることもないでしょう?」
「そう、そうよねシオン。簡単なことよね」
「ええ……」
シリウスが喜んだ様子を見せたが、それはシオンにとって嬉しいことではない。ただ表面的な事実によって望みを抱かせたに過ぎないからだ。姉を直接傷つけることは回避したものの姑息な手段に過ぎず、根本的には何も解決には至っていない。
「それにしてもあの行商人さん、アーク様を連れて密談だなんて、一体何のつもりかしらね。しかも反乱軍の女の子まで一緒に」
「でも姉さん、その子は何も武器を持たずにここに乗り込んで来ましたよね?」
「ええ、そうね。それが不思議だけど、もっと不可解なのは彼と何か接点がありそうなことね。これも直接本人に聞きましょうか」
「彼女が最初に現れたのは、つい今朝の事でした。だというのに、初めて会ったような様子ではなかったですよね」
「……本来の故郷に残した婚約者とか?」
セラトナに酒場まで連れられていく道中でシオンはスピカの正体について当たりをつけていた。スピカとアークがこの村に来たのがほぼ同時というだけでも十分な裏付けにはなるが、彼女は「そうかも知れません」と曖昧な表現でごまかした。
「でもその子はリゲル様を殺そうとしていた反乱軍に所属しているのよね。やっぱり分からないわ」
しかも突然人混みに乱入して「殺しちゃダメ」と叫んだ少女である。一度は会話が出来るほどにまで接近したものの、アークの命令によって遠ざけられてしまったのだ。
「彼女に敵意がないのはもう明らかですから、機会があれば聞き出しましょう。それよりも今問題なのは、霊鳥祭がどうなるかでしょうか」とシオン。
「アリア様の判断を仰ぐことになるのかしらね。テルと侍従長はどうするつもりなのかしら?」
「気になりはしますけど、今の私達にはもはや関係のないことです。ただアーク様を――」
その時、執務室の扉、大広間と接続している方のそれが開けられた。入ってきたのは、セラトナとその部下四名だった。
「良かった、まだいたか」
頭領がそんな風に言ったので、シリウスはどうしたのかと尋ねる。
「スピカが今どこにいるのか分かるか?」
より正確には、マチルドとアークを含めた三人が、だ。もちろんこの姉妹は彼らの居場所を知っている。彼女らも今アークに会いに行こうと考えていたところであるので、結果的に二階へ続く階段のすぐ下でたむろすることになった。お互いの間に会話は殆どないままで。
程なくして、行商人から解放されて階下に降りた二人がすぐさまそれぞれの陣営へ連れられる形で引き裂かれたのは、当然の結果であろう。




