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見えない翼  作者: 桑名 銀天
第二部 革命編
20/56

FragmentⅠ:めぐりあう二人


最も不幸なこと、それはひとりでいられないこと。

ラ・ブリュイエール


 廊下から人の声が聞こえて、幸助、欽二、美奈の三人は時計を見た。気付けば午前二時を回っている。飽きたのか眠気に負けたのかあるいはその両方か、隣室での騒ぎはお開きになったようだった。


「俺達もそろそろ」


 幸助がそう言った時には、美奈は船をこいでいた。


「無防備な奴……」


 彼には「そんなつもり」は全くないのだが、安心しきっている彼女の表情を見たら、そう思わずにはいられずこうこぼしていた。仕方なく幸助は彼女に近づき、肩を掴んで揺する。


「天野さん!」


「ふえ?」


 美奈は寝ぼけ眼でそんな気の抜けた返事をした。


「起きた?」


 その横では欽二が、折りたたんでいた敷き布団を黙々と広げていた。


「寝るんなら自分のところでね」


「え……あ、私寝ちゃってた?」


「しっかり居眠りしてた」


「ごめん……しかも途中から話半分でしか聞いてなかったかも」


「別に構やしないよ。それより、ほら」


 幸助が視線を横に移すと、入り口のドアが開いて彼と同年代の男が二人入ってくるところだった。


「あ、お、お邪魔しました!」


 と美奈は逃げるようにその部屋を出て行った。


「なんだ幸助、女の子口説いてたのか?」


 少女とすれ違った男の一人が冷やかしの言葉をかけるが、幸助は至って冷静に否定した。


「大体、二対一でナンパってどうなんだよ」


「でも気になってんだろ?」


「そんなことより、さっさと寝るぞ。明日の出発は早いんだから」


「ああ――」


 一方美奈はといえば、幸助の部屋を出た後一目散に斜向かいの部屋に飛び込んでいた。その慌てぶりは相部屋の女学生が不審に思った程である。


 それからしばらくして彼女らは消灯し、それぞれの布団に潜り込んだのだが、美奈だけは眠りに入ることが出来なかった。それが居眠りしたせいなのか、さっきまで男部屋にいたせいなのかは分からなかった。


(ああ、私から話を切り出したのに寝ちゃうなんて……悪い印象残しちゃったかな。そういえば旅行サークルを作るっていう話はどうなったんだっけ?)


 もどかしさを紛らわそうとしてか、美奈はもぞもぞと寝返りを打った。窓際で寝ている彼女の目の前には、カーテンが色も分からないほどの暗さの中に立ちはだかっている。さっきまでいた部屋は夜景を一望できたが、反対側のこの部屋、カーテンの向こうは森しかない。故にここまで暗いのだ。


 もうあれこれ考える前に寝てしまおう、そう思った美奈は横を向いたまま目を閉じた。そうして息を長く吐いたその瞬間、まぶたの裏に一人の横顔が浮かび上がってきた。心臓が強く脈打ち、彼女はまぶたをぱちくりさせる。思わず声を上げてしまいそうになった。


 少女は衝動的に布団から抜け出して、スリッパを履き無人の廊下に出た。今の彼女の服装は上がピンク、下がグレーというパジャマで、やや肌寒い。ただ真っ白で模様も絵画もない廊下は、どこまでも殺風景で無機質だった。蛍光灯と非常灯が、よりその寒々しさを強調しているように見えた。


 そして美奈は「休め」の要領で腰に両手を当て、壁にもたれかかる。そうして二、三度深呼吸をして落ち着くと、眠れない人々の話し声や空調の音に混じって、自分の心臓の鼓動さえ聞こえそうな程感覚が研ぎ澄まされた。


 それからちら、と正面やや右側に視線を送る。さっきまで自分が談笑していた部屋であり、たった今目に浮かんだ男が眠っている部屋でもあった。


 その姿は、彼女が話しかけようとした時の、孤独と哀愁を帯びたどこか寂しそうな表情だった。目線を追うように足を踏み出そうとして、止める。彼女の足は逆方向へと向かった。


 結局美奈はその夜殆ど眠れず、朝食の時も、大荷物をバスに預けて乗り込もうという今でさえ眠たげに欠伸を連発していた。バスの中でゆっくり眠ろう、そう考えていた時である、心地良い声が彼女の名を呼んだ。


「天野さん!」


 言うまでもなく、例の眼鏡の青年である。美奈は彼と一瞬だけ目が合い、すぐに逸らした。


「あれ、あー……ごめん、何か気に障ることしたなら謝るよ」


「ううん、違うの」


 彼女は背中越しにそう告げて、さっさと貸し切りの観光バスに乗り込んでしまった――が、そう簡単に逃げられるものでもない。窓際に座った美奈の隣に幸助は陣取った。もちろん彼女には一言断りを入れている。二人掛けなので欽二は幸助の後ろに座った。だが美奈はといえば、窓の外を見ているばかりだ。


「怒ってる?」


「怒ってない」


「そっぽ向いたまま言っても説得力ないんだけど」


 言われて美奈は渋々彼の方に向き直る。幸助は彼女の目が赤いことに気がついた。


「いや、聞いて欲しくないんなら聞かないよ」


「……ただ、よく眠れなかっただけだよ」


「何かあったの?」


 もちろん、『何か』があった。だがその詳細は彼に語れるような代物ではない。だから彼女は「別に何でもないよ」とはぐらかし、「そっちこそ」と続けた。


「怒ってないの? 昨夜のこと。私、結局途中で寝ちゃって……」


「んーでも大体必要なことは話したはずだよ。ただ問題があるとすれば、昨日のあれが酔った勢いの出任せじゃなかったかどうかってこと」


「それは大丈夫だよ。辞めようと思ってたっていうのは本当だし、そっちにも興味あるし」


 美奈は敢えて言葉を省いた。もちろん明言しなくても彼に伝わるからというのもあるのだが、何より意図せずにこの言葉を聞いてしまうかも知れないゲーム研究会のメンバーを意識してのことだ。


「うん、それなら大丈夫だ。あとは……仲間を探すことだけだな」


「アテはあるの?」


 幸助はないなと即答した。「でも人を集める手段がない訳でもないし、別に少人数でも良いんじゃない? 同志は多いに越したことはないけどさ。天野さんの方には誰かいる?」


「んー、好きそうなのが二人くらいいるかな。でももう他のに入ってるから微妙かも」


「そっか。まあ詳しいことは帰ってから、年明けにでも考えればいいさ」


「うん。そういえば連絡先って」


「昨日交換したはずだけど」


「あ、そうだっけ。ごめん、やっぱり酔ってたのかな、記憶が曖昧だ……」


 美奈はハンドバッグの中から携帯電話を取り出して、電話帳を呼び出した。


「えっと……これだよね?」


 と言い、画面を幸助に見せる。彼はうん、と頷いて返した。


「鳥の鷹に巣って書いて『たかのす』って読むんだね。私何を勘違いしてたんだろ」


「まあ、珍しいとはよく言われるよ。普通は『たかす』って読まれるけどね。高野と間違えられたの初めてだったからあえて訂正しなかった」


「いや、直そうよ」


「……どうせ辞めるつもりだったし、間違ったままでも別に困らないって思ってたから」


「でも、それじゃ困るようになっちゃった」


「まあね」


 こうして周りが雑談でざわつく中、部長が点呼をとって人数を確認し、バスが動き出した。走り始めてから高速道路に乗る頃まではその喧騒もあったのだが、一人、また一人と学生らは眠りの世界に落ちて、太陽が昇っているのに車内は深夜バスのような光景になった。美奈とて例外ではなく、幸助との雑談の最中に睡魔に負けてしまっていた。


 そんな訳で一人になった幸助の後ろから、欽二が話しかけた。


「幸助、何考えてる?」


「どこに行こうかなって。近場だと箱根かな。でも軽井沢とか富士山の周りも捨てがたい」


「あのなあ、来年のことを言うと鬼が笑うぞ」


「よくそんな言葉知ってるな」


「……ちょっとこっち来い」


 欽二が窓側の空席に移動し、空いた場所には幸助が座った。


「なあ、俺なんかまずいことやったか?」


 幸助が問うと、欽二はいいや、と答えた。


「俺はな、お前こそ酔った勢いであんなこと言い出したんじゃないかと思ってたんだぞ」


「酔ってたのは確かだけど、理性がなくなるまで飲まねえって。それに面白そうじゃないか、旅行もさ。なんだお前、本当は乗り気じゃなかったのか?」


 欽二は声のトーンを落として返す。


「それは構わない。むしろ……こっちの方が問題だ」


 彼は「こっち」と言う時に目の前の座席を指した。


「どういう意味? 天野さんなら寝てるから気にしなくても平気だけど」


「厳密にはお前が連れてきたってことが気がかりなんだ。何か心境の変化でもあったのか?」


「別に何も変わってないよ」と幸助は自嘲気味に返事をした。「梅酒の缶を独り占めしようとしてたのを止めただけだから」


「何だそりゃ」


「嘘は言ってない。だからそんなに心配しなくたって平気だって。ただ波長が合っただけだし、それ以外のことは最初から考えちゃいない」


「……そうか」


 欽二はそう言うと、長く息を吐いて退屈な窓の外を眺めた。幸助が美奈に声をかけたことには、本当に深い意味はないようだ。そのことに対し欽二は、子供に小さいままでいて欲しいが成長もして欲しい、そんな相反した思いを抱く保護者のような心境を抱いた。


「欽二、心配してくれるのはいいが、少しは自分のことを気にかけてもいいんだぞ?」


「気にすんな。俺は恋愛にあまり興味がないんだ」


「そうかい。ま、確かに俺も気の置けない親友といる方が、気楽ではあるな」


「気楽、か……」


 その言葉が心の底から発せられたものなのか、欽二は問いただしたかった。だがそれは、完治したわけではない幸助の傷に触れる行為にも等しく、忌まわしき過去を意図的に避けている二人の暗黙の了解がそれを許さなかった。


 幸助は過去の恋愛で傷を負っている。その無残な一部始終を最も近い場所で見ていたのが欽二だった。彼という理解者なくして、幸助は立ち直ることができなかったかもしれない。そして辛うじて回復した眼鏡の青年はこう言ったのだ。


『俺、もう恋なんてしない方がいいんだ』と。


 それ以来彼の人が変わったようになってしまった姿も、欽二はずっと見ていたのだった。この『恋をしない宣言』が彼の女性に対する一歩引いた態度を形作り、フェミニスト精神の根本を形成しているものなのだ。


 欽二は幸助ほど頭が切れるわけではないが、幸助が『しない方がいい』と言ったその真意は見抜いていた。つまり、恋で傷つきはしたが、その奥底では恋愛の楽しさを忘れられない、また恋というものをしてみたいという意志を垣間見たのだ。その思いがある限り、彼はいつの日か元に戻る――欽二はそう信じている。


 しかしながら幸助は恋愛感情など欠片もないと婉曲的に断言している。それは回復の兆しがまだ見えていないことを意味していた。


「幸助」


「ん?」


「戻ったら部屋の大掃除だな」


「そうだな」


 そんな何気ない言葉で、欽二はその場をごまかす。幸助は平然としていれば人目を惹くだけの容姿を持っているので、見ず知らずの異性に声をかけられることも決して珍しくはない。だがそうした出会いは必ず恋愛以上には発展しない。もちろん幸助のスタンスのせいだ。


 それが高校以来常であったが、昨晩は初めて幸助の方から声をかけた。欽二にはそれが何かしらの前進なのだと、そう思えたのである。


「それまで寝ておこうか、どうせ暇だし」


 幸助はそう言った後、前の座席に移動して眠りに行った。


     *


 しかしながら二人は、年明け以降一回しか美奈とは顔を合わせていなかった。とはいえそれはテストが迫りつつあった頃に急いで行われた会議だった。その内容も、書類関係の手配が幸助、移動手段に車を用いるために免許を取るのが欽二、人集めが美奈という役割を分担したに過ぎない。


 彼らは何かとすれ違いが多く、主な連絡手段は携帯のメールだったが、それもあまり多くはなかったと言っていい。


 美奈は一月中知り合いに声をかけたが一人しか芳しい返事がもらえず、後ろめたさのようなものを募らせていたのだった。


 学期末のテストも終わり長い休みに入った二月中旬、美奈は携帯の未送信ボックスに保存した二通のメールをどうするべきか悩んでいた。


 一つはゲーム研究会の部長にサークル脱退を申請するもの、もう一つは幸助と欽二に話に乗れないことを謝罪するものだった。わずかに躊躇って、まずは前者だけでも送信しようとした。


 送信ボタンを押す直前、まずは二人に脱退メールを送ったかどうか尋ねるのが先だと思い、それを急いで打って送った。二人が既に抜けているなら自分もすぐにそうする決心がつくと思ったのだ。幸助の返事は、


『ごめん忘れてた。教えてくれてありがとう』


 というものだった。まだ連絡はしていないようだったが、ありがとうと言われてしまうと、彼女は部長へのメールを躊躇するわけにはいかなくなり、二人に送るはずだったデータも削除した。


 そんなこんなで美奈はサークルのために何かできないかと思い、旅行先を夢想したり調べたりしつつ、新年度の最初の登校日を迎えた。その日は二年生のガイダンスが終わった後、学食で落ち合うことになっている。幸助がメールで指定した場所に移動しながら美奈は、自分たちが旅行サークルを立ち上げようとしていることに半信半疑でいた。


「えと、東ラウンジ窓際の適当なテーブルだって」


 彼女は一人ではなかった。その隣には菜摘がいたのである。学科が同じであることから何度か話をしたことがあるだけの仲でしかなかったが、サークルの勧誘に乗った唯一の学生だった。


「ところで天野さん、そのサークルって何人くらい?」


「私達含めて四人」


「それだけ?」


 美奈は不審そうな肯定で返す。


「それサークルって言えるの?」


「人が集まればサークルでしょ」


 菜摘は言葉もなかった。二人は四人用の空席のテーブルに着席し、美奈は整理用にテーブルに貼られた番号をメールで送った。約束の時間まではもう少しある。


「あとの二人ってどんな人?」菜摘が尋ねた。


「史学科の二年生だよ。ちょっとぶっきらぼうなところもあるけど良い人たちだから」


 その言葉に、菜摘の表情がわずかに変わる。


「まさか二人とも男?」


「そうだけど……嫌だった?」


「そんなことないよ。女子だけでわいわいやるもんだとばかり思ってたけどさ。でもそれも良いと思うよ、学科外の人と交流するのも悪くないんじゃない?」


「ほら、噂をすれば影が」


 菜摘は美奈の視線を追って、初めは『その二人』が同じ志を持った仲間だと気付けなかった。眼鏡の痩躯の青年と筋肉質の男は、あまりに釣り合わない組み合わせのような気がしたのである。


 特に体育会系の方は、天野美奈の仲間であることすら実は疑わしかった。だから、二人の男が自分の向かいに座るまで、彼女は面食らっていたのだった。


「ごめん、他の人に声かけてたら遅くなった。その人が、例の?」


 と幸助が美奈と菜摘を交互に見ながら言った。


「うん、一人しか集められなくてごめんね」


「良いよ。あまり人数多くても嫌だし」


 それから自己紹介に引き続き、サークルとしての活動方針会議も滞りなく進んだ。人数と顧問教員の問題もあり、結局サークルとしての申請は見送ることにした。


 また、リーダー等の役割は設けない、お互いを下の名前で呼ぶ、といったルールはこの時に作られたものである。こうすることでお互いに近しい関係が築かれ、後から入ってきた菜摘もすんなりと受け入れられた(とはいえ、初期メンバーである美奈が男二人とそこまで親しかったわけでもなかったのだが)。


 それ以降、彼らは時間を見つけてはしばしば会うようになり、最初の旅行計画を立てて、それをゴールデンウィークに実行した。目的の半分は天体観測であるので泊まりがけの行程にしたかったが、生憎学生の手に届く範囲の宿泊施設は予約が取れなかった。計画を立てる時期が遅すぎたのだ。


 そういうわけでサークルは、レンタカーを利用しての日帰りツアーで妥協したのである。


 月日は流れて出発の前日、五月二日の夜、準備は済ませてあとは寝るだけという状態になった美奈は、一人自室のベッドに寝転んでいた。うつぶせになり、そば殻の枕に顎を乗せる。すると枕元に置いてある白い鳩のぬいぐるみが目に入ってきた。白というのは本来の色で、今は薄汚れて灰色っぽくなっている。


 その鳥の黒くて丸いプラスチック製の目を見ながら、少女は深い溜め息を吐いた。二泊三日のつもりで計画していたのに、実際は日帰りになってしまったことを残念がっていた。


 というのも、美奈こそが旅行サークル発足のきっかけを作ったと言っても過言ではないし、何より最初の旅行を一番楽しみにしていたのが彼女だったからだ。


 彼女は家族旅行とは無縁の家庭に育ったし、せっかく買って貰った望遠鏡に都会の寂しい夜空しか見せていないことがひどく寂しかったのだ。出鼻をくじかれたようで、それでも嫌だとは言えず、彼女は複雑な心境だった。


 そんな時、彼女の携帯電話が鳴った。菜摘からのメールで『明日は楽しい旅行にしようね!』と書かれていた。その言葉に彼女ははっと我に返った。自分は何をつまらないことを気にしていたのだろう、楽しまなくて一体何の意味があるのだろう、と。


「そうだよね、これは、予行演習だと思えば良いんだよね」


 そして菜摘には簡単な返事と、最後におやすみの言葉を書いたメールを送信した。すぐに「おやすみなさい」とだけの返事が来て、彼女は考えた。幸助と欽二にも何か書こう、と。夜中に迷惑じゃないかな、と心配をしつつこんな文面で二人に送った。



『もう寝ちゃってたらごめんね。明日の旅行、すっごく楽しみにしてる。良い思い出にしようね!』



 そわそわしながら便りを待つ。三分後に幸助から返事が来た。



『うん、この日のために冬休みから準備してきたからね、絶対に成功させよう!

 それと、楽しみにしてるみたいで安心したよ。余計な心配だったかな? それじゃおやすみ。

 また明日ね』



 この数行の文は美奈をどきりとさせた。彼女は幸助に真意を尋ねたかったが、これ以上のメールのやりとりは相手に迷惑だろうと思い、おやすみ、とだけ打って部屋の明かりを消した。


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