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見えない翼  作者: 桑名 銀天
第二部 革命編
19/56

ChapitreⅦ:赤と黒

血は特別な液体ですからね。

ゲーテ『ファウスト』


 無言の言葉を交わし合う二人の許に、テルとポーラが現れた。大広間を通って現れたことは屋敷の構造上、彼らが外に出ていたことを意味する。


「リゲル様、処刑の様子は見られないのですか」


 テルがさも当然のように訊いた。しかしそんなものに興味はない、とアークは返す。


「ベテルギウス、俺が本当に村長が死ぬのを望んでいたと思うのかよ?」


「ならば刃を向け、傷つけたのは何故です?」


「あの時はあれが一番良い選択肢だったからだ。それよりお前こそ、村長が消えるのを願っていたからこうして裏切ったんだろ? わざわざ他の兵士と女中をみんな閉じこめたんだから」


 これは、誰かからの伝聞ではなく幸助自身が考えて出した結論である。緊急事態でが発生したのに誰も来なかったのだから、兵士らは動けない状況にあったと考えるのが自然。


 犯人と動機を考えればテルとその仲間が敵対勢力(この場合は村長の味方)を押さえつけるためだったという結論に至るのはそう難しいことではない。


 これを聞いたテルはその推理力に驚いて肩をすくめた。そしてアークは、裏切ったテルが処刑に行かない理由を問いただす。


「それは……いや、それはどうでもいい。それよりも、お前だ」言いながらスピカを指さした。「俺はお前と話をするために戻って来たんだ」


「え、私?」


 当然ながらスピカは困惑の色を隠せない。


「聞けば、反乱軍の指揮を執っていたそうじゃないか。詳しく聞かせて貰いたい」


 少女を連れて行こうとするテルを青年が止める。


「心配するな、悪いようにはしない」


「ええ、安心して下さい」とポーラが援護した。


     *


「……シオンにとっては俺よりもラザルなんだな」


 リゲルの部屋に入るなり、アークはそう言った。それはシオンがいなくて寂しいとか、ラザルに嫉妬しているとかでは決してない。どんな時でもリゲルを最優先し、側にいた彼女がここにいないことに違和感を抱いているのだ。


「女中にとっては、村長こそが、全てですからね」


 ポーラがアークの背中越しに言った。


「お前も女中の一人だろうに」


「私には、テルの方が大事なんです。それより……リゲル様、とお呼びすべきでしょうか?」


 何しろあの瞬間にやっとリゲル様は死んだのですからね、と彼女は付け加えた。その「やっと」という言葉にどんな意味が含まれているのか、アークはそれが気になった。


「そうだな、俺のリゲルは死んだんだから。俺の名前、アークトゥルスって言うんだ」


「アーク様、ですね」


「様はいらないよ。今や俺はただの一般人だから」


「ところで、その点について質問があります」


 要するに彼女は、今回の一件について情報公開を求めているのだった。そこでアークは自分の考え一切を話す代わりに、テルについて知っている限りのことを話すようポーラに求めた。


「良いでしょう。とはいえ、アークさんは色々ご存知のようですから、新しい情報も多くないとは思いますけど。まずは……」


「とりあえず座って話そうか」


 向かい合わせで椅子に腰かけてからポーラは話し始めた。内容は大体幸助が人づてに聞いたことだった。本物のリゲルが死に継承権がテルに移ったが、それを幸助が奪ったことをテルは快く思っていなかった。


 そして彼は兵団の中で仲間を募り、商人を通じて反乱軍の情報を得、今日実行に移した。抵抗したシリウス、女中宿舎にいなかったシオン以外のほぼ全ての召使いを封じ込め、攻めてきた反乱軍と接触して同盟を結び、門を開ける――これが今朝までの土台である。


 そしてアークトゥルスは、分かりかけたものの確信には至れていない事柄について尋ねる。


「テルって、先の戦争でたった一人で戦局をひっくり返した程の腕達者なんだろ? 村長になりたいのなら、暗殺するとか、力ずくでどうにか出来たはずじゃないか。何故そうしなかったんだ?」


「その理由は、先の戦争に遡りますね」


 ポーラは無表情を僅かに崩し、悲しそうな目をした。彼女はテルの身の上から話し始めた。


 実は彼の体には半分近く鳥以外の種族の血が流れているという。それでも彼がこの集落に身を置いていられるのは、鳥としての能力も有しているから、およびその戦闘力が認められた血筋だからである。これを知るのはごく一部の要人だけだ。


「あいつが他の村人と違う雰囲気を持っていたのは、そういうことなのか」


「ええ、どういう意味でも、彼は特殊なのです」


 だが後の英雄は戦争当時まだ若すぎた。親も兵団キャンサーの筆頭として戦地に倒れた軍人だったが、テルは先の戦いまで戦場に出た経験がなかったのだ。とはいえ、訓練の段階でも比肩する者のない猛者として名を知られていたのだが。


「鳥ならではの軽く素早い身のこなしに、二刀流の戦法、優れた視力、それから血液が他者に毒になるという体質……親から継いだそのどれをとっても、彼は名実最強でした。ただ、その心だけは脆かったのです」


 戦闘能力と他者を殺す覚悟とは別物である。戦いの口火が切られても彼は前線に出なかった。建前上は強すぎる能力に村長さえ出すのを躊躇ったということにされはしたが、その実はといえば、彼が人殺しを嫌がったからだった。


「頭も切れるのが裏目に出た、と言いますか。彼は誰よりも早く、この戦争の不毛さに気付き、戦う相手も自分と同じであることを、誰よりも強く意識したのです。だから、戦えなかった」


「でも実際は敵を壊滅させたんだろ? 一体何があったんだ?」


「さあ。詳しくは分かりません。何しろ彼自身さえ分からない、と証言してますから」


 アークは何だそりゃ、と妄想狂を見るような目でポーラを見た。だがテルは気がついたら戦場で血まみれになって立ちつくしていたのだという。そして、敵を薙ぎ倒す活躍を見せたのもまた事実だった。そこで彼女は、一つの疑念を抱いている。


「精神を操る能力を持った何者かが、テルを戦場にけしかけたのではないか、と。でもそれが誰なのかは、未だに分かりません」


 つまり、催眠術のようなものをかけて無意識のうちに殺しをさせた、ということである。一ヶ月前の幸助ならそんな非現実的な話、と見向きもしなかっただろう。だが今置かれている環境は、そんな不可思議なことが起こってもおかしくはないと思わせるには十分だった。


「で、犯人が分かったらどうするんだ?」


 すると銀髪の女性は意外にも、分からないと即答した。しかしテルには復讐する動機があるし、彼に心の傷を負わせたという点では婚約者のポーラも怒りを覚えてはいる。


「首謀者の言い分に、私達が、返す言葉を持たないからです。すなわち、『あの場で彼が動かなければ、村が全滅していただろう』と」


 彼女は曇った表情で視線を落として語る。


「そもそも、鳥と龍とでは、力の差は歴然です。今まで互角で渡り合えたのは偶然か奇跡でしょう。劣勢をひっくり返す切り札を使わずして、今私達がこうして生きていられたんでしょうか?」


 その通りだった。この集落に住まう人々をたった一人で救えるのに、場に出さない手はない。最悪の結果が見えていたなら尚更だ。つまり、多数のために個人を犠牲にする。客観的に見たら、そちらの方が合理的だろう。


「それで、その後テルはどうなったんだ?」


「英雄の名声、兵団長の地位を、不動のものとしました。そして一つの誓いを立てました。もう誰も殺さないと。腕は確かですから、平和なうちは誰も、その思いを知れません。彼はいつも勝ち気な態度でいますが、それは、地位と権威を保つための虚勢に過ぎないんですよ」


「だから俺や反乱軍に殺させようと……」


「はい。誓いのこともありますけど、村の掟では殺人、特に身内を手にかけることが、重罪になります。テルが村長を殺しても、それは同じ」


「それを避けるためにわざわざ……っていうか、殺した本人が地位を受け継ぐんじゃないのか?」


「まだまだお勉強不足ですね、リゲル様。代々村長の指名で後継者が決まるものです。ラザル様が病気で死のうが、誰かが殺そうが、リゲル様が次の村長になる、その事実は揺らぎません」


「そうか……」


 幸助は悩んだように額に手を当てた。最初は結局村長にさせられるのかという不安だったが、次第に自分が死ぬ瀬戸際にいたことを感じ始めた。政権を奪うべく継承問題を引き起こすには、村長と息子を殺す必要があったからだ。


「まあ、今ラザル様を処刑している彼女らが、村長になると主張したとしても、テルは脅迫して阻止するんでしょうけれど」


「なあポーラ、テルの婚約者やって長いのか?」


「物心着いた時からですね。幼なじみでもあり、良き兄妹でもありました。何しろ私の体は、刃物や毒を一切、受け付けませんから」


 繊細で大人しそうなポーラがそんな頑丈な体を持っていることが、幸助には不思議に思えた。


「そりゃ、便利だろうな」


「さて次は、あなたの番ですよ」


     *


 一方テルとスピカは親密な雰囲気ではなかった。場所は執務室、テルが村長の椅子に座り、机を挟んだ向かいにスピカが立たされている。そして疑り深いテルが高圧的に少女を詰問するので、被告人もすっかり怯え上がってしまっていた。


 彼がこの少女に執心するのは、彼女が最近不審者として報告されていたからである。しかも反乱軍に加担し、先程彼の目の前で見せた言動の数々は彼の理解を超え、興味を抱かせた。


 そしてテルがスピカに対してかけている疑いとは、彼女が真の敵――龍族の手先ではないか、というものである。


「確かに私の行動は、敵対行為と映っても仕方ありません」とスピカは譲歩する。「しかしアークやあの青い髪の女の人を呼べば、私が敵でないことを証明してくれます」


「アーク? 何者だそいつは」


「あなた達がリゲルと呼んでいた男の人です。彼の本名はアークトゥルスと言うんですよ」


 英雄には返す言葉がなかった。ゾディアークの人々は、ただ幸助の外見のみを欲し嘘の名を与え、その中身の一切を必要としなかった。スピカが彼の本名を持ち出してきたことは、その中身に用があることを意味する。


(青い髪の女はシリウスのことか。これはハッタリ、いや、そういえばあの時一緒に奥に逃げていたな。今この娘が追い出されていないのは、シリウスが少なくとも危険でないと判断したからだろう。なら、俺が今ここでこうする意味は……?)


 色々と思案した末に、彼は結論を出した。


「まあいい。当面はお前を信用するとしよう」


「いえ、その必要はありません。私は探していた友達、アークと一緒にここを出て行きますから」


「そいつは好都合だ」とテルは笑う。状況がどう変化するにしろ、村長の椅子をゆるがせにする存在が一つ消えるのは彼にとって好機なのだ。


「だが今すぐ出て行けとは言わない。せめて今夜の宴くらいには顔を出すといい。祭の最後には宴をするのが習わしなんだ。ただ今回はそこにもう一つ意味が加わっているがね」


 言うまでもなくそれは、ラザルを打倒したことに対する成功祝いであろう。


「そういえば」と少女は言った。「村長もその息子もいなくて、お祭りは普通にやれるんですか?」


(祭のことを心配している?)とテルは訝る。(なら龍とは無関係か。そう思わせる策略の可能性もあるが……)


 彼女が本当に敵対者なら、ラザルとリゲルが主役の祭に興味は示さないはず。襲撃を今日に選んだ以上、事実上の中止、むしろそれを望んでいたはず。しかし少女はそうではなかった。


「いくら中核を担う人物が殺されたとはいえ、霊鳥祭は村にとって大事な年中行事だ」と、テルが珍しく饒舌に語り出した。「それを理由に突然中止するなんて無理だ。祭の為に前から準備をしてきたんだからな」


「え? それじゃあ……?」


「祭っていうのはみんなでやるもんだ。だからちゃんと成立する。ただ、親子がするはずだった手順を省略はするだろうがな」


 極端な話、櫓『聖なる塔』の焚きつけ(とそれに伴う舞の奉納)と宴しか残らない。そしてテルは机に頬杖をつき、溜息混じりに言う。


「こんな大事件が起こったんだ、日が傾くまでにするべき仕事も山ほど生まれた訳だが」


 敢えて確認するが、彼は村長の事務机に着席している。そこで何の躊躇いもなく我が物のように振る舞っているのは、それが自分のものだというアピールなのである。


「それならば、こんな所で無駄な時間を潰している場合じゃないと思うんですが」


 兵団の指揮官はその通りだ、と言いながら立ち上がった。


「最後に一つだけ聞きたい。霊鳥様のことはどう思ってる?」


「どう、とは……あの人形はとても綺麗だと思いますよ。燃やすのがもったいないです」


「そうか。なら話は終わりだ、もう帰っていいぞ。それと……疑ってすまなかったな」


 スピカには、彼が謝ったのが不思議に映った。素直に詫びを入れるような人物には見えなかったからである。そして彼女も、


「いえ、それはごく当然のことですから。それでは」


 と簡潔に返し、執務室を後にした。


 男の視界から去って、少女は胸をなで下ろした。彼のつり上がった威圧するような目が生み出す空気は、スピカに呼吸さえも躊躇わせるほどに緊迫していたのだ。そこから解放されるのは快感でさえあった。そして彼女は足取りも軽く、記憶を頼りにリゲル改めアークの許へと向かった。


     *


 幸助に首筋を切られたラザルは反乱軍の兵士に踏みつけられ、引きずられる間にも虫の息になっていた。そうして彼は朦朧とした意識のまま、屋敷の門前の広場、櫓の麓に寝かせられる。その周囲には騒ぎを聞きつけた人々が雪の降る中にもかかわらず見物に集まって来たが、その中には二人の商人も混じっていた。その姿に気付いたセラトナが話しかける。


「行商人さん!」


「ごきげんよう。上手くいったみたいね」


 そう不敵に笑いながら答えたのは、頭領と直接情報の取引をしたマチルド。金色のファーで縁取られた髪と同じ薄紫色の分厚いコートに着ぶくれて、フードもかぶっている。一方その背後にいるマーテルは、雪が降っている中でも酒場にいる時と変わらない薄着のまま立っていて、しかも無表情で旧友を見守っていた。


「ちょっとだけ村長と話させてくれる? それ以前にまだ生きて……意識はあるのかしら?」


「辛うじて息はある。とどめを刺すためにわざわざここまで連れてきたのだからね。まともに話せるかどうかは分からないが」


 そしてセラトナは、顎で村長を示した。その姿は血まみれでボロボロ、かつてのような高慢な威厳など見る影もないくらい。マチルドはそんなラザルの顔の傍にしゃがみ込む。


「村長さん、お元気……じゃ、なさそうね」


「今更……何の用だ?」


 震えるか細い声で、ラザル=ハーゲンは答えた。


「良い話と悪い話があるの。どっちから聞きたい? まあ話す体力も残ってなさそうだから勝手に話すけどね。まず悪い方は……」


 商人は自分のコートに降り積もった雪を手で払ってから、朗々と告げた。


「今朝のこの襲撃は、殆ど私が引き起こしたようなものなの……それが何の得になるのかって言いたそうね? もちろん、村人に過干渉はしない商人の鉄則は守ってるわ。私はただ、兵団と反乱軍の両方のリーダーに、お互いの情報を売りつけただけだもの。


 お互いに思惑は同じなのに、屋敷を囲う壁のせいで手を組むことが出来なかった。でもそれを越えられる私がいたから、結果的に民衆による襲撃がまんまと成功したというわけ。結局私は商取引をしたに過ぎないし、それがこういう結果を導いたに過ぎない。お分かりかしら?」


 ラザルの苦痛に歪んだ顔が、マチルドの顔をぎろりと睨む。しかし図太い商人は全く動じない。


「悪く思わないで。私は行商人の精神に準じただけだから。それで良い話の方だけど」


 言葉を切ると、ラザルに積もった雪をどける。


「私は商人だから、見合う対価さえ払ってくれれば何でもするの。そう、何でも。ねえ村長さん、あなたには隠している財産があったりしない? あるいは――」


 そして何事かを耳打ちする。直後にマチルドは立ち上がり、


「もしそれだけのものを払えるのであれば、私は味方になるわ。今あなたに楯突き、殺そうとしているこの連中を蹴散らすことだって出来る」


「何を言い出すんだ!」


 叫んだのはセラトナである。とはいえこれはごく当然の行動と言えた。行商人はただ商取引をするだけ。誰の味方でもない。ただし『誰かの味方になること』が取引の内容であるならば例外となる。マチルドは、村人を殺す代わりにラザルを救うという選択肢を突きつけているのだ。


 なおも商人は、冷徹に言葉を紡ぐ。


「もし払うと約束したとして、それがハッタリだったら屋敷ごと叩き潰すから覚悟することね」


 これも当然の真理である。結局のところ、ラザルはマチルドを満足させられるだけのものを用意しない限り死ぬしかないのだ。そして取引を提案された村長は、首を縦に振らなかった。


「ふん、つまんないの」


 コートの裾を翻してマチルドは村長から離れ、セラトナに近づいた。すれ違いざまに、


「あとは好きにすると良いわ」


 そう言い残すと、ずっと傍観していたマーテルと二人で群衆に背を向け、坂を下り始める。目指す先は言うまでもなく酒場である。二人の背後では、人々が威勢の良いかけ声を上げていた。


「村長に一体何を要求したんだ?」


 群衆からある程度遠ざかってから、マーテルが問いかけた。マチルドはふふん、と笑ってから、


「魔女伝承のこと、何か知らないかって」


「あんたねえ……もし村長が情報を持ってたら反乱軍を全滅させたっていうのか。そんなことになったらこの村は壊滅するぞ」


「知ったことじゃないわ」


「言ったはずだよ、私はこの山が持ってる特殊な磁気のせいでここを離れられないんだって。ここの連中と共生するしか道がないの。それを奪うつもりだったっていうのか?」


「その時はこの山を崩せばいいのよ」


 マーテルは額に手を当てながら溜息を吐いた。


「マチルドなら本当に出来てしまいそうだから冗談に聞こえないんだけど」


「あら、私はいつだって本気なんだけど?」


「……一応聞くが、やったことがあるのか?」


「どこにだって物資に困る集落はあるものよ。入った途端に襲いかかってきたから一族郎党皆殺し……ということも、まあ一度や二度あったわ」


「そんなの一度で十分だ。商人にとっては骨折り損でしかない」


「ええ、確かに疲れるだけで収穫も少ないもの。でもまあここにはたっぷりありそうだけどね。人口も多いし」


「そんな馬鹿げたこと言ってないで、さっさと次の村に発ったらどうなんだ」


「言ったでしょ、この村では未だかつてない面白い現象が起こっているから、その行く末を見届けるまでは離れられない」


「あまり危ないことに首を突っ込むもんじゃない」


「あんた何を今更言うのよ?」


     *


 躊躇いがちなノックの音の後に部屋に入ってきたのはスピカだった。


「話は終わったのですか」


 ポーラが言った。少女ははい、と素直に答える。


「では私は、テルを追いかけてきます」


 そして彼女は去り際に一礼してから、部屋を後にした。再び、二人きりの時間が訪れる。静かに、ただ無言で、見つめ合う。


「ほら、いいから座りなよ」


「ううん、いいの」


 するとスピカはアークの目の前でベッドに、うつぶせになるように飛び込んだのだった。


「んー、ふかふか……さすが、あてなるお方は衣食住が庶民とは比べものになりませんわね」


 彼女が言った「あてなるお方」の意味はアークには分からなかったが、雰囲気から支配層のことを指しているのだと感じ取れた。


「やっぱり、格差があるんだな……」


 彼は嘆息を吐きながらスピカに近づき、彼女の膝の傍に腰を下ろす。そして彼女が無邪気に言う。


「ベッドに勝手に乗ってるの怒らないんだね?」


「これはリゲルのものであって、俺のじゃないからな」


 怒るでも呆れるでも嘆くでもなく淡々と返す彼の横では、寝転んだスピカの足がバタバタと揺れていた。彼女が履いているブーツはどこかこの世界に似合わない――ふと、そんな気がした。


 そして彼女の足の動きがぴたりと止まる。


「そうだね。君はもうリゲルじゃない、リゲルじゃなかったんだから。でも君は、私が探している友達じゃないのかも知れないね。彼なら本当の名前を訊かれて、答えられないはずがないもの」


 幸助は言葉に詰まった。そして同時に、このスピカという少女の意図が分からなくなった。自分を助けたこの小鳥が、実は自分とはかなり縁遠い存在なのではないか――そんな気さえしてきた。


「何を当たり前なことを? そもそも俺には本当の名前なんてないんだ。リゲルとかアークとか、ないものを勝手に付けられただけなんだからさ。それに……それにさっきも言ったけど、俺はスピカなんて名前の女の子は、聞いたことがない」


 彼はこんな風に応答して、本当の名前がないなんてあり得るのかと自問自答した。あるならよほど特殊な事情があるに違いない。名前れを持たないことの異常さを違和感として認識出来たならば、何かが伝わっているかも知れない――彼はそんな風にも考えた。


「でも俺には」と続ける。「そういう偽名を使いそうな知り合いの女の子ならいるけど」


「……そう」


 少女は呟くように答えた。


 この二人は、スピカが部屋に入ってきて以降、目を合わせて会話をしていない。声だけのやりとりである。互いに表情が見えない、見せない。しかし、だからこそ出来ることもある。


「聞かせてくれない? その子のこと」


「どうして君に話さなきゃならない? だってスピカ、君は」


 彼はそこまで言ってからはっとした。スピカが彼の全てを把握していようがいまいが、彼にそうさせることで彼女の中の迷いを確信に変えるつもりなのだと、アークには思えたからである。


 ただ彼にしてみればこの予測はスピカが美奈であることを前提にするから、彼女に対しても同じ要求をしなければならない。そう考えていると、彼女の方から切り出してきた。


「代わりに私も、私が探している友達のこと、話すから」


「うん」


 スピカは足だけをベッドの外に投げ出してうつぶせになり、アークは彼女の膝のすぐ横に腰かけている。こんなすぐ側にいるというのに、手を伸ばせば捕まえられる距離にいるというのに――


 お互いが視界の中に入らないというだけで、自分を偽らなければならないというだけで、果てしない距離をそこに感じてしまう。この矛盾した距離感が、二人の間の微妙な空気感を生み出していた。


「その女の子はさ」


 青年が語り始め、少女は耳をそばだてる。


 その時二人の平穏を、扉を開ける激しい音が引き裂いた。ノックなしに勢い良く開けられたということはつまり、不審者が来たことを意味する。アークは飛び上がって身構えた。スピカも体を起こし、音がした方を見やる。


 そこに立っていたのは、長い茶髪に勇ましい風貌の女性、反乱軍の頭領セラトナだった。その後からシオンが顔を出してお騒がせして申し訳ありません、と頭を下げていた。


「何か用か?」


 とアークは尋ねた。いや、本当は言うまでもない。何も用がないはずはないのだし、村長に反旗を翻した人物が何を申し立てようとしているかは想像がついていたからである。心の準備は出来ていたのだから、来る時が来たというだけの話。本来ならこの場に足を踏み入れることを許されないその女性は、まだ武装したままだった。


「たとえ影武者であろうと、息子のリゲルではあるんだ。何を話さなければならないかくらい、分かっていて当然だろう? それを始めるから来て貰う。もちろん、スピカも一緒にね」


 シオンの先導で、四人は屋敷の廊下を歩き始めた。幸助にしてみれば、この邸宅の質感はもう新しい刺激を与えるものではなく、少しずつ慣れ始めていた。しかしながら、ついさっきも歩いたはずのこの廊下が何か別の異様な重苦しい空気に満たされているように感じられる。


 意識しながら呼吸をしないと窒息してしまいそうだ。かといって息をすると、毒気に冒されていくような気持ちの悪い感覚にも襲われる。早く外に出たいと思う一方で、さらに強い毒気がこの先にあると肌で感じ取っていた。


 セラトナの直後を歩くアークトゥルスは、その不気味さの一端を彼女の服の汚れに認めた。袖や足に赤黒い染みがあったのだ。それが血液であろうこと、なおかつ彼女のものでなかろうことは、疑うまでもなかった。


 この屋敷は構造的に、外に出るためには必ず大広間を経由しなくてはならない。そこへ続く扉をシオンが開けた瞬間、錆びた鉄の匂いが一同を襲った。アークとスピカは思わず後ずさる。


「どうかなさいました?」


 その二人を見ながらシオンが言った。


「もしかして、親父の死体をここに運んでるのか」


「はい、儀式は大広間で行うのが習わしだと話したはずですよ。葬儀もしかりです」


「だからって……儀式のためとはいえ屋敷を血まみれにすることに躊躇いはないのかよ!」


「それが掟なのです!」


 シオンがらしくなく強い口調で返した。


「リゲル様が弔いの言葉を唱えて下さらなければ、村長の引き継ぎが出来なくなるんですよ」


「村長は俺じゃなきゃいけないのか?」


 虚空に吐き出すように、アークは言った。


「それを協議するために、広間に要人を集めてるんだよ」とセラトナ。


「もちろんです。ラザル様が、リゲル様が次の村長だと決められたのですから」とシオン。


 と、不意にシオンが開けたままの扉の所に何者かが現れた。テルだった。


「何をぐずぐずしてる。お前がいないと始まらん」


 そしてアークの腕を掴むと、血の匂いに満ちた広間に引きずり出した。青年は思わず口を両手で覆う。セラトナに引かれたスピカも同様にしていた。


 長方形の大部屋には、赤く長い線が一直線に引かれている。その中央には黒服の男が倒れていた。彼の白いスカーフは今や真っ赤に染まっている。


「さて、役者は揃いましたね。それでは始めるとしましょうか、後継者に誰がふさわしいのか」


 その場を仕切りだしたのはテルだった。彼自身もその地位を狙っているので議長ではいけない。だが彼は事実、誰よりも次の村長に近かった男なのである。その矜持が彼を動かしている。


「なあテル」アークが俯いたまま話しかけた。「お前らはこの部屋の空気吸ってて平気なのか?」


「何を言ってる?」


「さっきから気分悪くてしょうがないんだよ。このままここにいたら吐きそうだ」


「ならお前抜きで話を進めるが」


「好きにしろ」


 それから幸助は視線を上げた。死体から一定の距離を置いて三十人くらいの人々が散っているのが見えた。彼らに向かって叫ぶ。


「俺の言いたいことは一つだ! 俺の名前はリゲルじゃない! アークトゥルスだ!」


 それだけ言うと、彼は視線をスピカに送る。彼女は頷いて返し、二人は息を止めて、できる限り死体に近づかないように部屋を走り抜けた。


 玄関を通り抜けて屋敷を一歩外に出た瞬間、彼らは止めていた息を吐き、凛とした空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


「うわ」


 呼吸を整えると、アークはそんな声を漏らした。薄く雪が降り積もってはいるが、ラザルが血を流しながら引きずられた痕跡があったからである。


「寒いな……出たはいいけどどうする?」


「私がお世話になってる宿があるから、ひとまずそこ行こうよ。それと……」


 スピカはおもむろに自分のマフラーを解いて、アークの首に巻いた。


「スピカ、それじゃ君が」


「大丈夫だよ、私はこんな厚着だからさ。君はどうせ暖房が効いてるから動きやすい服でも平気な環境だったんでしょ?」


「まったくだ。それより、早く」


「うん、こっち」


 スピカは門へと続く坂を下り始めた。アークは一度だけ後ろを振り返り、もう誰も護衛がいないことを確かめてから、雪で白く染められていく世界の中を歩く、真っ白い翼を持つ少女を追いかけた。

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