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見えない翼  作者: 桑名 銀天
第二部 革命編
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ChapitreⅥ-B:偽りの言葉


いまこそじつに、きみのなかにあるこの力をはかり、それを知り、それを用いなければならないときだ。いままでむなしくすごされた時間、きみはそれを、ただ望みさえそたら一挙に取りもどすことができるんだ。望むのだ!

ロジェ・マルタン・デュ・ガール

『チボー家の人々』


 スピカがマチルドに起こされたのは日の出前だった。眠い目をこすり外に出ると、東の方は若干明るいが、まだ鉛色の空が広がっている。気温が最も下がる時間帯であり、肌への刺激はより一層強く、眠気は一瞬にして吹き飛んだ。


「んー、今にも降りそう!」


 過度の装備だと言われそうな程分厚い薄紫のロングコートを纏ったマチルドが、空を見てそう言った。その口ぶりが「今日も良い天気」と何ら変わらないのが、奇妙に思えることだろう。


「楽しそうですね」


「だって雪なんてそうそう見られるものじゃないじゃない?」


 そんな話をしていると、酒場からベガが通りに顔を出してきた。


「随分早いのねぇ」


「だって、歴史が変わる瞬間を見る為にわざわざ早く寝たんだもの。ちゃんと成功させてよ?」


 二人は酒場に入り、襲撃の支度を急かした。スピカも彼女らにやや遅れてカウンターに座る。


 反乱軍『クーデター』の幹部が村の各地で火を起こしたり伝達に出たり武装したりする中、スピカ、マチルドとマーテルの三名は落ち着いてお茶を飲んでいた。気が付けば外は雪が降り始め、一割の時分になっていた。いよいよ襲撃の時間である。三人しかいない酒場に、頭領が顔を出した。


「それでは、我らの自由の為に。行ってくるよ」


「ご武運を」


「後で追いかけるわ」


「…………」


 マーテル、マチルド、スピカがそれぞれの方法で見送ってから、セラトナは退出した。それからしばらく、石畳の足音が響く。それが聞こえなくなってから、マチルドがスピカに言った。


「どうして行かないの?」


「私は参謀だから、作戦を立てるだけ。攻撃する部隊に加わる必要はないんです」


「あら、そんなことはないわ。戦場に出ないと分からないこともあるから、参謀はその場その場に対応した指示を出すものよ」


 参謀は気難しい表情のまま黙っていた。


「まあ、戦場なんて血なまぐさい場所、出来ることなら行きたくないわよね。しかも今回、テルとかいう英雄が敵に回るんでしょ? ほぼ勝ち目のない戦いだと私は見てる」


 温くなったお茶を飲み干してから、スピカは言う。


「確かに、勝ち目はないと私も思っています。だから、その英雄がまだ眠っているであろう早朝に襲撃することを提案したんですけど……」


「怪物が夜明け前に起きていたら全部おじゃん」


「はい、その通りです」


「意外とあっさり言うのね。失敗しても関係ない、そんな風に聞こえるけど?」


「それは……」


「ねえ、一体何を隠してるの?」


 マーテルが話してあげたら、と促し、スピカはこの村に来てからリゲルが自分の探している友達とそっくりであると気付いたところまでの経緯を話して聞かせた。マチルドはそれだけで、スピカが反乱の失敗を、つまりリゲルが死なないことを望んでいるのだと理解した。


「でもそれは無理よ。反乱軍の思惑は、必ず成功するんだもの」


「どうしてそう言い切れる?」とマーテル。


「だって」と、マチルドはもったいぶったように切る。「だって、テルは今日の襲撃のことを全部知っているんだもの」


「……情報を売ったの? がめつい商人だ」


 マーテルは三人のカップにお茶をつぎ足しながら冷静に言った。


「ええそうね。情報という形のないものがこんなに高く売れたことは今までなかったもの」


「それで」とマーテル。「そのおかげで失敗するのならまだしも、成功というのは一体どういう了見なんだ?」


 するとマチルドはふふん、と不敵に笑い、


「テルは村長になりたがっているのよ。つまり、村長とその息子がいなくなるのが好都合って訳」


「そんな……」


 それを聞いたスピカの顔が青ざめていく。これはまずいどころの話ではない。取り返しの付かない事態になれば、悔やんでも悔やみきれない。


「スピカちゃん、そんなに焦るってことは、実は確信があるんでしょう? 彼の正体に」


「確信と言うより……もし彼がリゲルだとしても、そうである理由が説明出来ないんです。それに、私なんかにはセラトナさん達の思いは止められません」


 そう、とマチルドは答えて一息吐いた。そして、隣に座るスピカの姿は見ずに語り始める。


「君の耳にはまだ入ってないんだね、あの噂」


「噂?」


「まあ遅かれ早かれ知るでしょうし、これは私の独り言だから情報料なんて考えなくて良いわ。


 一昨日からだったと思うけど、妙な噂が流れているの。今のリゲルは、実は偽者なんだって。本物は既に亡くなっていて、私たちの前に姿を現したのはそっくりな偽者だっていう話。情報源はリゲルと直々にお見合いをした女の子らしいわ」


 スピカは椅子から降りて、マチルドに接近する。


「マチルドさん……もしかしてあなた、リゲルに会ってるんじゃありませんか?」


「もちろん。彼の女中とか、兵団の幹部とか、いろんな人と顔を合わせたわ。彼の印象は、そうね、やっぱり君とよく似ていたわ」


 似ている。どこがどう、と具体的に言った訳ではない。しかしこの文脈では間違いなく、リゲルとスピカが同じ異邦人であることを示していた。


「ありがとうございます!」


 スピカは叫ぶと、酒場を飛び出していった。マーテルは、マチルドがしたたかに笑んでいるのを視認する。やはり、商人というものは掴み所のない人物だと改めて思った。


「スピカちゃんが飲んだお茶の代金、立て替えて貰うよ、行商人さん」


「あらケチ。せっかく商人同士二人きりで話をするためにあの子をけしかけたって言うのに」


「冗談がお上手だね、本当はそんなこと思ってないくせに……引退した私に商談は専門外だけど?」


「商売の話じゃないの」


     *


 太陽の光は厚い雲に遮られ、反乱軍の出立からどれ程の時間が経ったのかは分からない。しかし石畳に積もった雪は薄く、さほど時間を食ったのではないことがうかがい知れた。とはいえ急がなければ手遅れになる。あるいはもう遅いのかも知れない。スピカは全力で、大通りの坂を駆け上がった。


 寒さを凌ぐためのコートとマフラーが、これほどまでに邪魔と思ったこともなかった。体の動きと呼吸が阻害される。そうして出せる限りの力で走りながら、美奈は思った。


(体の弱い女の子が、こんな全力で走れるかっての。まったく、馬鹿みたい!)


 やがて彼女は屋敷の前の広場、櫓が建っている辺りに着いた。そこには『クーデター』の兵士が待機していた。計画では、鉄の門に梯子を掛けて乗り込んだ先遣隊が門を開ける手はずになっている。そして一部の部隊が突入し、残りは援軍の要請に応じる、あるいは退却がしやすい位置にいるために広場で待機。


 そのいずれもスピカの指示だった。その計画は予定通り進んだようである。参謀は人々の間をくぐり抜け、開かれた門から屋敷の敷地内に突入する。その瞬間、空気が変わるのを感じた。気温的な意味ではない薄ら寒さが、彼女の全身を貫いたのである。


「え、何……?」


 スピカは立ち止まって呟いた。大きく息をする度に、呼気が白くなる。かいた汗のせいかとも思ったが、それともまた違う。冷や汗ではなく、背筋から凍り付かせるような不気味さだった。


 彼女はそんな邪念を振り払い、市街地から続く石畳の上を再び走り出した。屋敷が近づくにつれ坂が平坦になっていく。その玄関に入ると、武器を持った兵が数人立っていた。


「セラトナさんはどこ?」


 傍にいた女性に、激しい口調で尋ねた。


「このまま真っ直ぐ行けばいいみたいだよ。ところであんたは?」


「ありがとう!」


 乱暴に返し、スピカは玄関を抜けて人混みの中へと身を滑り込ませる。玄関の先にあったのは十畳ばかりの小さな部屋で、その中に『クーデター』の兵士達が詰め込まれている。スピカはその隙間を縫うように進むと、一つの卓を見つけた。


 すかさずその上に立ち、進行方向を見る。開け放たれた扉の向こうには大部屋が広がっており、その一番奥にあの茶髪の青年の姿を認めた。


(良かった! まだ生きてる!)


 さっと飛び降り、胸を躍らせまた同時に焦りもしつつ、人混みの中に再び身を投じた。この時ほど背中の羽が邪魔だと感じたこともない。


「殺しちゃダメー!」


 人混みを掻き分けながら、スピカは叫んだ。リゲルとラザルを殺すという、その計画を阻止するために。不意にその場がしんと静まりかえる。


「待って! その人は殺しちゃいけない!」


 その人とはラザルでなくリゲルである。村長は倒れていてその姿が彼女には見えなかったからだ。しかし、いやそれ故に彼女の意図は誰にも理解されない。


 危険を顧みず、彼女は兵士の海をくぐり抜けた。どっと疲れが襲ってきて、その場にかがみ込んで荒く大きく息をする。そしてその全身に、好奇の視線が注がれているのを肌で感じた。息を整えて体を上げようとしたその時、


「スピカ?」


 横からセラトナの声がした。少女は彼女に一瞥をやり、リゲル目がけて低い雛壇を駆け上がった。その一瞬、彼と目が合う。間近にその姿を直視して、彼が『そう』であると確信した。足元の槍をまたいでから体の向きを変え、彼をかばうように両手を広げる。


「スピカ、何を!」とセラトナ。


「すみませんが、作戦変更です。彼は、この人は殺しちゃいけません!」


 誰にとっても彼女の言葉は不思議に響いた。リゲルが偽者であることが明るみになった以上彼を殺す理由はなくなったにも等しく、この闖入者は今さらその事実を突きつけたに過ぎないのだ。だから言うまでもなく、セラトナ率いる『クーデター』はその意向に従うことになる。


「お願いです、退いて下さい!」 少女は最後にそう付け加えた。


 だがセラトナは二歩彼女に近づいて「悪いが、それは出来ない相談だ」と返す。「それじゃ意味がないんだ」


「でしょうね……」


 それは美奈にも十分予想出来た返事ではあった。やはり自分が一国の有り様を大きく変える流れの中に身を投じることは、身の程知らずでしかなかったのだ。


 とはいえ、セラトナ自身の命令により参謀に抜擢されたスピカである、彼女の数少ない武器である言葉を使って説得を試みることも可能だろう。だがそうしていないのは、その武器が役に立たないほど相手が強すぎるからだ。


 また少なくとも、彼女がリゲルをかばうように立っている限りは誰も手を出せはしない――彼女はそう考えてその場からじっと動かなかった。


 そして頭領はスピカの足元を見た。少女もそれを追うと、そこには血まみれの男が倒れていた。顔色は悪く、苦痛に歪んでいる。スピカはその気色悪さにひっ、と短く悲鳴を上げた。


「その男を消さない限りは、我々の目的は達成されないんだよ。だから退けない。まだここにいる理由と目的があるから」


 やはり彼女は男性的な凛々しさがあるし、女性の多い軍隊を率いるリーダーに適した気質を持っているんだ、とスピカは思う。


「じゃあどうして放置してるんですか?」


 その通りである。目的は殺すことで、すでに深手を負わせている。わざわざ生かしておく理由などもうないはずだった。


「それをやったのが君の背後に立っている男だからだよ、スピカ」


 言われて美奈は愕然とする。これを幸助がやったのだ、とはにわかには信じられなかった。


「リゲル様は村長を殺すつもりで刃を向け、実際こうして重傷を負わせた」と女傑は続ける。「とどめを刺すのは彼の役目だ。その手柄を横取りする訳にはいかないからね。そうだろう?」


 セラトナは挑発的な目でリゲルを見る。スピカは振り返って彼の顔を見ることが出来なかった。


「なるほど。でも俺は手柄なんていらない。欲しいならどうぞ、勇敢なお姉さん」


 リゲルの声は、疑いようもなく幸助のそれだった。スピカがかばうために広げた腕が下がり、小刻みに震える。その時、彼女の両肩にそれぞれ手が置かれた。


 そしてセラトナの視線は、少女の足元、ラザルではなくその男を傷つけた槍へと向けられる。


「だから武器を捨てたのだね、臆病な影武者さん」


 青年は怒らず、逆に鼻で笑って見せた。


「そうとも。俺は臆病な男だ。誰かを傷つけることも出来ない弱い男なんだよ! だから、俺の代わりにこの烏を血祭りに上げてくれ」


「分かったよ」リゲルと対峙する頭領が口角を上げて宣言した。「これは我々が頂こう」


 その瞬間、反乱軍が勝ち鬨を上げた。その声の中、リゲルの背後に素早く寄る影があった。


「リゲル様、お下がり下さい!」


 シリウスはそう言うなり彼の服を掴んで引っ張った。思った以上の力にバランスを崩しながらもリゲルは後ろ向きに歩く。


 スピカにもシリウスの声は聞こえ、その瞬間振り向いていた。そして条件反射的にリゲルの手首をつかんで彼について行く。


 三人が背後の執務室に入った直後、テルがその後を追ってきた。武器を構え飛びかかろうとする彼の前にポーラが立ちふさがる。


「どけ、ポーラ!」


 テルがそう言ったことにスピカとリゲルは驚いた。たった一人の女性が英雄の障害になっているからだ。邪魔ならば突き飛ばすなり回り込むなりすればいい。そうしないのは何故なのか、彼らには分からなかった。


「どきません。殺しはしない、と誓ったのではありませんか?」


「違う、殺すんじゃない!」


「テル」


 銀髪の女性は短く言うと、テルが持つ武器の刃の部分を素手で掴んだ。しかし彼女は無表情を崩さず、血が流れる様子もない。その隙にシリウス、リゲル、スピカとシオンの四人は屋敷の奥へと逃げていた。


「テル、脅して殺させるのは、結局同罪ですよ」


 怒りに震える彼の手から刀が滑り落ち、ポーラは婚約者の体に抱きついた。


「私でよかったですね。刃物が効かない私でなかったら、きっと、切り捨てていたでしょう?」


「……どうかな」


 英雄と呼ばれる男は、ポーラの見えないところでふっと口角を上げて微笑んだ。


     *


 さて逃げた四人は、誰にも追われていないのを確認しながら、リゲルの部屋へと逃げ込んでいた。最後に入ってきたシオンが扉にもたれかかって、簡単に開かないようにする。一同が安堵の息を吐くと、その注目は白髪の少女へと向けられる。


「リゲル様、その者は!」


 シリウスが手を出そうとするのを、リゲルは首を振ることで制した。そして彼は恐る恐るその少女を見て、すぐに視線を逸らす。


「お嬢さん、あなたは一体何者なんです?」


 と軍人が問うと、少女ははっきりと答えた。


「名前はスピカ。そして『クーデター』……今村長を襲撃している一団の参謀です」


「敵ならば、なおさら信用なりません」


「落ち着けシリウス。少なくともこの子は敵じゃないだろ? 武器も持ってないようだし」


 スピカと繋いだままだった手を離し、再びシリウスの方を見た。だが彼はその顔を直視出来ず、誰もいない方向、つまりは床を向いて話す。


「そもそも敵意があるなら機会はあったはずだ」


「しかし、万が一と言うこともあるでしょう。例えばその服の中に何を隠しているか……」


「疑うなら調べて下さい」少女が顔を少し赤くして言った。「……人の見ていないところで」


「分かりました、私がやります」


 シリウスがそう宣言すると、スピカを連れて部屋の外へと出て行った。シオンは再び扉にもたれかかりながら、ふっとはにかむ。


「結局私たち二人きりになってしまうんですね、リゲル様」


「そうだな」


 その時、くぐもった高い声が響いてきた。すぐ隣の部屋からで、その主はスピカだ。好奇心からリゲルは、その壁に近づく。


「やだ、そんなところ触らないで下さい!」


「ん? じゃあそこに何か隠してるの?」


「あの、そうじゃなくてくすぐったいんです」


 身体検査を行う官吏と被疑者という立場であるのに、このやりとりだけを聞くとじゃれ合っているようにしか見えない。


「じゃ、次はそれを脱いで」


「凍え死にさせる気ですか!」


「疑いを晴らしたくないの?」


 女中も、どうしたものかと困っている様子だ。


「なあシオン、スピカが戻ってきた時のために暖かいものを用意してあげたいんだけど」


「……では、状況の様子見がてらお飲み物を持って参りましょう。それと、そちらの収納棚にいくつか外套がございますので、お使い下さい」


「分かった。じゃあ頼むよ。気をつけてな」


「はい」


 シオンが出て行った後、リゲルはベッドの脇にある背の高いタンスのようなものの扉を開けた。


       *


 しばらくしてスピカとシリウスが部屋に戻った時、シオンは不在で、リゲルは赤いコートに身を包み火鉢の側に置いた椅子に座っていた。彼はスピカを見つけると、自分のコートを彼女に着せる。


「どうして?」という問いに彼は「声が聞こえてた」と返した。恥ずかしさのあまり少女は顔を押さえ、小走りで椅子に駆け寄って座る。それから「もうお嫁に行けない」と呟いた。その声はリゲルにも聞こえており、彼は笑うのをこらえていた。


「私の思い違いだったようです。失礼しました。ところでシオンはどこに?」とシリウス。


「飲み物を用意するよう頼んだ。大変なのは大広間までだろうし、厨房に問題がなければそろそろ戻ってくるだろうよ」


「左様ですか。では私も広間を見てきます」


 シリウスが出て行った直後、入れ替わりでシオンが戻ってきた。


「急で暖かいものが用意できなかったので、この火鉢の上で温めて下さい」


 彼女はそう説明しながら、炭火のくすぶる壷の上に金網を敷き、二つのカップを置いた。それから二人きりにしてくれとのリゲルの言葉を受け、彼女もそこから出て行った。扉が閉まる音を聞いてから、青年はスピカの対面に座る。


 赤いコートに身を包む少女はずっと視線を火に注いでいたが、沈黙に耐えられず正面の青年へと向けた。その顔をもう一度見て、確信を抱いたような表情を浮かべる。同時に、その眼には涙が浮かび始めていた。


「良かった」少女はそう呟いた。「本当に良かった」


「良かったって、何が?」


「生きててくれて」


 リゲルは反応に困っていた。彼が後頭部に手をやるその仕草を見てスピカははっとした。恋心を打ち明ける相手を間違えたかのように。


「そっか。反乱軍の中にも俺の身を案じてくれる人がいるなんて思わなかった。親父が憎いなら俺も同じはずだろう?」


「それは……」


「スピカ。そう言ったね?」


「はい」


「君は……どうしてここに来たんだ?」


「それは、あなたに会いたかったからです、リゲル様」


「じゃあもう一つ。どうして反乱軍に所属する君が、俺を死なせちゃダメなんて言ったんだ?」


 するとスピカは、真剣な表情で語り始めた。


「私は元々この村の住人ではありません。友達を探しに来ただけなんです。そしたら反乱軍の人に、捜索を手伝う代わりに襲撃に協力しろと言われ、手伝うことにしました。そして今朝、あなたが偽者だという情報を耳にしたんです。だから死なせてはいけないと思った次第でして」


 この彼女の言葉には、質問に対する返事としては余計な物がいくつか含まれている。しかしそこには、露骨には感じさせない、彼女なりの意図があった。言葉だけではなく、その裏に秘められた意思を目でも伝える。リゲルに「私の言いたいことが分かる?」と尋ねているのだった。


 一方リゲルは怪訝そうな顔をして、視線を左下にずらし、何か考えている素振りを見せる。そして彼が顔を上げてスピカを見た時、彼女は首を傾げつつふっと柔らかく笑いかけた。それはまるで、お互いの親密さを確認するかのよう。


「偽者だと知ったから助けようと思ったなんて、まったくとんだお人好しじゃないか……なあ、俺が忘れてるだけで、どこかで会ってるのか?」


「そんなはずはありません」少女は即答した。「私はリゲルという名前を知りませんし、あなたにはスピカという知り合いがいるのですか?」


 微笑みながらも、ぶっきらぼうに彼女は言った。


「まあ、君の言う通りだな」


 彼は目を閉じ、溜息混じりに平然と返した。再び目を開けると、何かを訴えるような視線をスピカに向けて、言う。


「君の名前はスピカ」一拍置き、リゲルは僅かに表情を穏やかにする。「スピカなんだから」


 会話としてはあまりにわざとらしく不自然なこの念押しは彼が自分自身に言い聞かせているのだと思われたが、スピカはそれに違和感を抱いていた。青年の目は決してそんなことを語っていなかったからである。


「はい、私の名前はスピカ……」


 言葉を途切れさせないために馬鹿馬鹿しいオウム返しをして、彼女は彼の真意をくみ取った。すなわち『スピカ』という単語は、他の言葉に置き換わる暗号なのだ、ということだ。秘密裏に交わされた合言葉と言っても良い。それが何に変換されるのか……は、もはや明言する必要はないだろう。


 そのまま二人は見つめ合い、言葉なき言葉を交わしていた。


「……ところでリゲル、あなたの名前は?」


 スピカが意地の悪い笑みを浮かべて訊いた。


「何って、リゲルだって今自分で――」


「それは演じている偽者の名前でしょ。あなた個人の名前は何?」


「それは……」


 彼は、即答できるはずの答えに渋っていた。しかしそこに会話としての気まずさは全くない。分かりきっていることを敢えて言葉にしてしまうと、この雰囲気が一瞬にして崩壊してしまうのである。


「ないなら私がつけてあげる」とスピカは楽しそうに言った。「良いよね?」


「何か案があるのか?」


 少女はうんと答え、続けて言った。「アークトゥルス、ってどうかな?」


「アークトゥルス? ……うん、良いんじゃないか」


「普段呼ぶ時はアークね」


「うん、ありがとうスピカ」


 二人は火鉢の上に置かれた取っ手つきのカップに手を伸ばした。しかしその入れ物自体が熱くなっていて、素手のアークは触ることが出来ない。それを見たスピカは自分の左手の手袋を彼に渡した。二、三回口を付けてから彼女が言った。


「ねえアーク、その顔の傷はどうしたの? 結構新しいみたいだけど、何か――」


「これ? 古い倉庫に入った時に木の破片で切っただけだよ。心配する程じゃない」


「ごめんね、絆創膏でもあれば良かったんだけど」


「いいって。そういや広間の方はどうなったんだろうな? 騒ぎ声がしなくなったからある程度は収拾着いたんだろうけど」


「見に行く?」


「……うん」


 二人は警戒して廊下を歩いたが屋敷の中には人の気配がなく、不気味に静まり返っていた。先程まで歴史的事件が起こっていた現場だとは思えない。


 だが広間に入るとその空気が一変した。その部屋が錆びた鉄の、血の匂いで満たされていたからである。彼らは広間の左の扉から入ったので、左側に雛壇、右側に正面入り口を見る形となるが、部屋を横切るように、壇上から真っ直ぐに赤い線が引かれている。血まみれのラザルが引きずり出された跡だ。そんなことをするのは『彼女ら』しかいない。扉を閉めて、二人は廊下で立ち竦んだ。


 屋敷の外で何が行われているのかは簡単に想像できる。だからこそ、彼らは、その残酷な現場を目にしたくなかった。この村の住人ではないから、ラザルに対して憎悪を抱いていない。彼の処刑はただの虐殺でしかないのだ。


「ねえ、これからどうする?」


 スピカが震える声で言った。


「質問が違う。むしろ『これからどうなるか』だ。君はともかく、親父……村長が死んで、なおかつ偽者だとばれた俺がどういう扱いをされるかは、周りの判断に左右されるんだよ」


 少なくとも平穏に暮らせはしない、彼はそう確信していた。この状況で元の世界に戻してもらえればとも考えたが、彼はそんな楽天的な結論に頼る陽気な気質の持ち主でもない。


「クソ」と彼は悪態を吐く。「何て世の中だ。まともに生きること自体がこんなに難しいなんて」


(そうだよね)とスピカは思う。(彼の生きている環境は、私のそれとは全然違っていたんだ)


 言葉だけでは、その過酷さは彼女には理解しようもない。自分の境遇が恵まれていたことはある程度自覚していたつもりだったが、こんな流血沙汰が起こり、民衆の決起により立場を追われることになるアークの苦悩を聞いて、スピカは、むしろ自分が安穏としていたことが逆に申し訳なくなった。


 彼女は深呼吸を二回して心を落ち着ける。


「大丈夫だよ」


 自分に出来ることが何か考え、彼女は決意を秘めた目でアークを見上げた。


「生きるだけなら、そう難しいことじゃないよ。君の存在を良く思わない人がいても、私が守ってあげるから。『私達』はもう一人じゃないんだから」


 ――私達はもう一人じゃない。その言葉は、彼の心に深い安心感を与えた。スピカという小柄な少女の存在が、これほどに大きいと感じたこともなかっただろう。


「そうだな……俺は何を言ってたんだ」


 アークは額に手を当て、後悔したような表情をする。それから、


「君ほど頼りになる味方は、この世界のどこにもいないっていうのにな」

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