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見えない翼  作者: 桑名 銀天
第二部 革命編
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ChapitreⅥ-A:過たぬ凶刃

人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い。

中島敦『山月記』


 夜の間に冷え込んだ世界は深い霧に包まれていた。黒く濁った空と白い海。その中に二つの小島が浮かぶ。一つは鳥の山、もう一つは龍の山。太陽が昇り始めたが、厚い雲に遮られてその光はあまり届かない。


 リゲルは日の出の少し後に起きたが、それは光のせいではなく冷気のせいだった。小さな窓から見える外の世界は薄暗く、彼が幽閉された倉庫の中はとても寒かった。じっとしていると凍え死にそうなので、軽く運動をして体を温める。


 夜中から暗い中で過ごし目が慣れていたので、リゲルは暗い倉庫の中を物色することが出来た。彼を幽閉する為に一部のがらくたを運び出してはいたが、まさに不要なものを置いておくための倉庫で、何を象っているのか分からない木彫りの人形や皿、木の板などの有象無象が所狭しと積まれていた。


 それらを除けていくと、それまでのがらくたとは異質な、錆びた金属を発掘した。少しでも明るい小窓の傍に持って行くと、金属片はやや湾曲していて木で出来た柄が付いていることが分かった。鋸のようでもあったが、そのギザギザの加工はされていなかった。


「……ま、何もないよりマシか」


 それは鉈だった。錆びてはいるが柄はしっかりしているし、扉を破壊する武器にはなりそうだ。振りかぶって木の扉の左端を叩くが、手応えが悪い。武器の性能が悪いからだろうか。


 他のものはないかと再び倉庫の中を漁り始める。刃物が見つかったので今度は慎重に。しかし武器と言えるようなものはなかった。


「仕方ないか……ん?」


 起きて体を動かすと、少しずつ頭が冴えてきた。何故わざわざこんな鉈で扉を壊す必要があるのか。そもそもこの倉庫は木造だし、何より古ぼけている。多少の怪我は覚悟の上で体当たりした方が容易だろう。


 そう判断した彼は数歩下がって、扉に肩からタックルした。それを三度繰り返すと、その戸に大きな穴が開き、そこから外に出た。その時彼は左の頬に小さな傷を作った。


(こんな簡単に出られるとはね……最初からこうすれば良かったんじゃないか)


 そして彼は暢気にも、新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。その切るような冷たさに驚いてアタリを見るとうっすら雪が積もり、灰色の空から少しずつ雪が舞っているのが見えた。それから彼は体中に降りかかった埃を落としにかかる。


 視線を母屋の方にやると、不自然な布の塊が屋外に置かれているのが見えた。近づいてみると、それは外套を何枚も着こんだシオンだった。急いで彼女を揺り起こすと、二人でひとけのない屋敷に入り込んだ。


「体は大丈夫か?」


「はい、動けなくなるくらい着こんだおかげで」


 事実彼女は、母屋に移動する数歩の間にもかなり時間を要した。彼女は恐縮に感じつつも主人の手を借りながら廊下にその装備を脱ぎ捨てていく。


「いいのか、こんな風に廊下散らかして」


「事態が事態ですので。着たままでは歩けませんし、脱いだ服を持つ訳にもいきません」


「それもそうか。それよりシオン、どうしてこんな無茶を?」


 女中が着ていた外套の一枚を受け取りながら、リゲルはそう言った。最終的には二枚のコートとマフラーだけになる。


「屋敷の中では片時もリゲル様のお側にいる。それが私に与えられた命ですから」


「それでお前が倒れたら本末転倒だろう」


「……高貴な人に仕える者というのは、文字通り命を懸けて仕事をするものなのです」


 そしてリゲルははあ、と溜め息を一つ漏らす。


「まあいいよ、お前が無事なら。とりあえず移動しよう」


「はい、まずは暖を取りましょうか。ところでリゲル様、そのお顔の傷は?」


 彼が左頬を触ると、指に乾いた血が付着した。


「脱出する時に作ったんだろうな。かすり傷だから大丈夫。それより、さっさと行こう」


 シオンの先導で歩き、二人が入ったのは壁や天井に石が敷き詰められた薄暗い部屋だった。部屋の中央には口の広い壷が置かれ、その中では灰の上の炭がくすぶっている。にも関わらず、隙間風が吹き込むせいで部屋は寒かった。


「ここは『聖火の部屋』です。ここで燃えている火は霊鳥様が残した火を受け継いだものとされ、村中の火はこれを種としています」


「ああ、いつもの火鉢はここから持って来てたのか」


「はい、準備致しますのでしばしお待ちを」


 その部屋では息が詰まりそうだったのでリゲルはその外で待つことにした。日が昇ったからか、屋敷の中も段々と明るくなってはいる。それでも、誰もいない廊下は薄ら寒く不気味だった。


 その時、誰かの足音を聞いた。女中の誰かだろう。リゲルは何となく背後の部屋に隠れ、顔だけ出して様子を窺った。


 そして廊下の奥に現れた人影に彼は目を疑う。それは細身の、紫色の服を着た男性。戦の英雄ことベテルギウスだった。彼はリゲルに接近することなく姿を消していく。


「……リゲル様? どうかなさいましたか?」


 扉を半開きにさせて外を覗くその格好は、部屋の内側から見れば実に奇妙なものだった。


「今そこをテルが通った」


「テルさんが? 一体何故でしょうか?」


「それは俺の方が知りたい。後で訊くとしよう」


 そして二人は火鉢をリゲルの部屋に持ち込み、それを挟んで向かい合う形で椅子に座った。先に口を開いたのはシオンだった。


「リゲル様、いよいよ霊鳥祭ですがご心境はいかがでしょう? いえ、心の準備は整っていらっしゃいますか?」


 彼女は何のための準備か、とは敢えて言わない。むしろ口にしてしまうことは、自分の立場を危うくしかねない。


「とりあえず、やるしかないんだなというくらいの覚悟はね。ああだこうだ抵抗するよりかは、素直に受け入れた方が楽かも、とは思うし」


「あの、リゲル様。おこがましいことではありますが、一つお願いがあります」


「何だ?」


 女中が主人に申し入れをするのはよっぽどのことだろうと思い、幸助は嬉々として聞く姿勢を見せた。そして一瞬、シオンの姿が美奈に重なって見えた。


「姉はあなたの正妻になれることを本当に楽しみにしているようでした。ですからどうか……どうか姉を幸せにしてあげて下さいませんか?」


 リゲルは頭の隅に痛みを感じ、額に手を当てた。それは出来ない頼みだ、とは返しづらい。


「姉は、初めて会った日のリゲル様のお言葉を良く覚えていました。おっしゃいましたよね、龍と鳥の間にいる姉なら、二つの集落を繋ぐ架け橋になれるかも知れないと。


 そしてリゲル様が姉を選んだことは、いずれ夫婦でこの村を統治することを意味します。そうなれば村の方針を変えて龍の集落とも和平交渉を結ぶことが出来るだろうと、姉は期待しているのです。ですから、リゲル様のご決断はその為の前段階なのだと考えています。姉も、そして私も」


 聞いて幸助は、あれは軽率な言葉だったと後悔した。確かにあの言葉を言った上で結婚を申し込んだのだから、そう解釈されても無理からぬ事である。そんな考えなど無視すれば良いだけだが、彼のフェミニスト精神と良心の呵責がそれを許さなかった。


(参ったな……俺としたことが。俺がいなくなったら、跡継ぎが失われる以外の理由で悲しむ人がいるだなんて。この世界に干渉しすぎたか。いや、この世界はそもそも俺に無関係に在ったし、これからだってそうじゃないか。だけど……本当にそれで良いのか? いや、それ以前に――)


 リゲルはもうシオンの目を見ていられなくなった。彼女の真摯な思いから目を背ける為に、そして自分の背信的な思いを悟られない為に。


「いえ、リゲル様が姉を邪険に扱うのは夢で見たことですし、思惑は私が一番承知しております。しかしリゲル様はいずれこの村を背負っていくのです。その時の為に、どういう行動を取るべきか、今一度、考えては下さいませんか?」


 リゲルは考え込む素振りをして俯き、言った。


「――誰も悲しまない最後なんてないんだ」


「リゲル様……」


「仮に俺がシリウスを幸せにしても、それは俺にとっての幸せにはならないんだよ。俺に期待してるって、シリウスが本当にそう言ったのか?」


「はい、昨晩姉がそのように」


(直接聞かなくて良かったな)とリゲルは思った。(もし対面してそんなことを訴えられたら、俺は……正しい判断を下せなかっただろうな)


 その時、外から群衆の声が聞こえた。


「なんだ、もう祭りが始まる時間か?」


「いえそんな。早すぎますよ。ちょっと見て――」


 シオンが出ていこうとしたのと同時、銀色の羽を持つ女性、ポーラが入ってきた。


 彼女の冷静な説明によると、市民が武装してこの屋敷に攻め込んできているとのことだった。応戦する人手が足りないからリゲルにも加わって欲しいという。


「でも俺にどうしろと? 俺なんかが戦力になるのか?」


 彼にはまともな武術の経験も知識もない。彼が参入しても返って足手まといにしかならない気がした。


 するとポーラは無言で壁を指さした。そこには装飾品のように槍が掛けてあったが、それは紛れもなく観賞用ではなく実用的な武器である。柄が長く扱いづらそうな代物だ。それでいて先端の金属部分は掌ほどの大きさしかない。リゲルは舌打ちして、


「猫の手も借りたいってか」


「猫の手?」


 シオンがそう尋ねたがリゲルは何でもないとごまかして、羽織っていたコートを脱ぎ捨てて槍を手にし、三人で部屋を出た。


「ところで……父上は今、どちらにおいでで?」


 リゲルはその言葉に躊躇いを見せた。慣れない単語であること、父でない者をそう呼ぶことなどが主な理由だが、最大の要因はラザル=ハーゲンを父上と呼ぶことがリゲルであることのアイデンティティとなるからである。


「シリウス様とともに広間に。現在、キャンサーは、まともに機能していませんので」


 村長を守るための兵団が機能していないことを青年は訝ったが、今その理由を考えているだけの余裕はなかった。


 なら早く村長と合流すべきだと彼が言うと、ポーラが進路を取った。村長の寝室は屋敷の中央に位置し、執務室としか接続していないのでまずそちらに入る必要がある。突入すると、向かって右が大広間、左が寝室だと先導者が説明した。


 意外と広さを感じるその部屋の装飾は光り物こそないが豪華で、ラザルの仕事場ということもあり厳かな雰囲気があるのだが、今のリゲルには何も感じさせない。寝室の扉を開けると「ひっ」という声が上がった。その主は部屋の隅で毛布をかぶってうずくまっている、村長の正妻だった。


「父上はどちらに?」


「広間へ向かわれたようですが……」


「ありがとう」


 素っ気なくそれだけ言うと、リゲルは槍を持ち直して踵を返し、広間へと続く扉を見つめた。そこに近づくと人のざわめきがより音量を増した。それに混じって、ラザルの怒号も聞こえてくる。


「ええい、テルはまだか! 誰でも構わん! 他に兵士はおらんのか!」


 その声の調子から言って、よほど追い詰められた状況であるのは明白だった。


「ポーラ、他の兵士はどうしたんだよ? テルはどうしてここにいないんだ?」


「私はリゲル様を呼ぶことしか、言づかっておりませんので……まあ、彼に聞こえていないとは、思いませんけどね」


 彼女の特徴的なゆっくりとした区切った喋り方は、その冷静さと無関心さを表していた。しかしますます訳が分からない。テルは一体何を考えているのだろう――そう考えながら、リゲルは大広間への扉を蹴破った。


      *


 話は二日前の夕方に遡る。その時間、行商人マチルドは村長の屋敷オフィユカスを訪問した。だが村長に会おうとする前に、話があるというテルに案内されて無人の二階、その部屋の一つに連れ込まれた。


 二人は燭台の置かれたテーブルを挟んで向かい合う。二人とも髪の色が紫だというのに、その色彩は両極端だ。マチルドのそれは彩度が低いのに対し、テルは色が濃く、禍々しさを感じさせる。


「わざわざ私に用があるってことはもちろん、商売の話よね? 欲しいものは何?」


 商人が挑発的に切り出した。相対するテルも、剣呑に返す。


「単刀直入に言おう。反乱軍の動向が知りたい」


「鎌をかけようったってダメよ。反乱分子がいるかどうかを尋ねるつもりなんでしょう?」


「狡猾だな……俺はすでにその存在を感知している。その上で言ってるんだ。動きを知りたいと」


「高いわよ?」


「取れるところで取るつもりか、商人らしい」


「いいえ、口止め料がかかってるから、それを上回るだけのものが必要って意味」


「なんだと……!」


 一瞬でテルの表情が一変した。彼は軍事に関しては人一倍頭が切れる男であるから、詳しく聞かなくても反乱軍にこちらの情報が流されていることは推察できる。


「……キャンサーの軍勢が四百人だという情報を伝えたなら間違いだぞ」


 するとマチルドは「あら、そうなの?」と驚いた表情を見せた。「村長さんってば、聞いてもないのにべらべら自慢するもんだからね。で、本当は何人なの? そっちの支払いに含めてあげるから話して」


「四百人というのはあくまで、戦いが始まる前の兵士が多かった時の数字に過ぎない。戦死したり引退したりで、今は七割くらいしかいない」


「それも嘘でしょ。見た限り、その半分程度、というのが私の見解なんだけど」


 テルは驚嘆と怪訝が混じった表情で商人を見た。


「あんた何者だ?」


「ただの行商人のマチルド。それで、少しは安くしてあげるけれど払うの? 払えるの?」


「もちろんだ。あんたの好きそうな代物、上等な酒を用意しておいたぞ」


「あらまあ!」


     *


 長方形の大広間の出入り口は辺に一つずつ、四つあるが、実質一つしかない。屋敷の外と接続するのが今敵が侵入している扉だけであり、そこから遠く配された残り三つからは外に出られない構造になっているのである。


 だからこそ反乱軍は狭い入り口から少しずつしか入れず、迎撃するシリウスは背後の心配をしなくて済む。龍の父親譲りの攻撃力と母親譲りの不思議な力による防御力は、彼女の最大の強みだ。


 故に彼女一人でもなんとか役割を果たせているが、それは一人でこなすには激務に過ぎ、疲れて倒れるのも時間の問題だった。だというのに誰も来る気配がなく、その焦りからラザルは助けを求めているのだ。


 村長は朝礼の時にいつも立つ雛壇のような場所から広間を傍観しているが、優劣は明らかだった。彼が退こうとしたその時、背後から激しい音がした。何事かと思い振り向くと、そこには扉を蹴破り槍を手にしたリゲルがいた。


「おお、もうこの際お前でも構わん、戦え!」


 しかしリゲルは一歩も動かず、視線は広間の中央で戦うシリウスに注がれていた。


「もういい、退け! シリウス!」


 リゲルに言われて彼女はすぐさま踵を返し、段を駆け上がって彼の傍まで駆けて執務室に逃げ込んだ。ちなみにこれは村長の命令に背いたことになる。


 シリウスが退いたので反乱軍は勢いに任せて進軍し、村長とリゲルを半円状に取り囲む。ある者は三段しかない雛壇の下から、ある者は段を上って横から、村長にやや距離を置いて剣や槍を向けた。こんな絶体絶命の状況でも、ラザルは焦った様子を見せない。


「ベテルギウス!」


 彼がそう叫ぶと、戦の英雄が天井の板を突き破ってその真横に降りてきた。その鋭い威圧感に、敵軍も二、三歩引き下がる。確かにこの状況でテルがその猛威を振るえば壊滅状態まで追い込める。ここぞという場面で切り札が切られた訳だ。


「こやつらを追い払え!」


 ラザルはそれだけ言って、自分も避難しようと踵を返す。しかしテルは指示とは逆に、村長の足を蹴って転ばせた。頭を敵側に仰向けになった村長の腹を踏みつけ、抜いた刀の切っ先を鼻先に向ける。


 ラザルは何の真似だ、と罵声を発した。しかしテルは視線を群衆へと向けている。


「セラトナ、前に出ろ」


 すると人々の中から、茶髪の精悍な顔つきの女性、反乱軍『クーデター』の頭領が進み出た。


「どうしてあんたがここで出てくるのさ。我々と手を組んだんじゃなかったのか?」


「俺が約束したのは、警備を手薄にしてここまで入りやすくすることだけだ。ここから先は俺のやりたいようにやらせて貰う。手を出させるなよ」


 テルはもう一本刀を抜き、脅しの為にセラトナへと向けた。


「ベテルギウス……貴様、血迷ったか!」村長が叫ぶ。


「ラザル様」テルは勝ち誇ったように笑う。「何度も忠告したはずです。この村にはあなたを倒そうとする反乱分子が存在すると」


「……それがお前らか!」


 数歩退いたところから見ているリゲル、その背後の部屋から事を傍観するシオンとポーラとシリウスは、何が何だか分からなくなっていた。


(そうか、テルはさっきこの反乱軍とコンタクトを取っていたのか。それで……おい、もしかしてやばいんじゃないのか、この状況)


 幸助は冷や汗を掻き、槍を強く握り直した。


 テルは村長の座を継ぐ予定だったが幸助の出現でそれが阻止された。この勢いに乗じて親と子が消えたら、結果的にテルが実権を握る。そうして彼が焦っているとテルは突然ラザルを踏んでいた足をどけて、両方の刀も下ろした。そして言う。


「さてリゲル様、この状況でどう動かれます?」


 リゲルはますますテルの目的が分からなくなった。次期村長を殺すのでも、現村長に手を下すのでもない。しかしながらこの行動から幸助には命の危険がないこと、テルが村長を失脚させようとしていることだけははっきりした。


「俺は……」


 その時、起き上がろうとするラザルと目が合った。まるで慈悲を求める貧者のように、助けを求める目だ。しかし彼は応じない。村長を助けようと思えないのもあるが、テルを反逆者と見なし彼と敵対しても勝算がないからというのが最大の理由だ。


 最初から結論は一つだった。


「これが俺の答えだ!」


 リゲルの槍の先は、偽りの父へと向けられた。そのためラザルは体を起こせず再び仰向けで倒れる形になった。テルはそれを見て数歩後退する。


「何をしているか、この馬鹿息子が!」


「馬鹿はあんただ! 俺は息子なんかじゃないんだ、そう言われる筋合いはない!」


 顔を赤くして激昂する義父と睨み合う偽の子からは見えないが、テルは大正解だと言わんばかりに笑んでいた。そしてリゲルの言葉を聞いた反乱軍は戸惑いからざわめき、セラトナが代表してリゲルに問うた。


「リゲル様。実は、あなたが顔のそっくりな偽者だという噂が町中に広まりつつあります。それは本当なのでしょうか?」


「本当だよ」と彼は即答した。「お見合いをした女の子達に、それを広めるよう俺自身が伝えたんだ。噂通り、俺は偽者だよ」


「リゲル、それは何の冗談だ」


「黙れ」


 父の言葉を一喝し、リゲルは一歩寄って首筋に刃を近づけた。


「……ベテルギウス、お前も知っていたのか?」


 セラトナが真剣な表情で尋ねると、テルは肩をすくめながら飄々として言う。


「まさか彼がそんな根回しをしていたとは知らなかったが、本物のリゲル様が病死して、顔がそっくりなこの青年を攫って代役に立てようとした……それは本当だ。他にも証人はいる、疑うなら連れてくるが?」


「いや、いい。そもそも本物なら実の親に刃を向けるはずがないだろう」


 セラトナはどうすべきか迷っていた。リゲルは殺さなくても良くなったが、テルがいる以上は下手に手出しが出来ない。かといって退却の出来る状況でもない。驚愕の事実にパニックが起こっていないのが幸いだった。


 一方幸助は、自分に都合良く事が運びそうなこの状況に内心ほくそ笑んでいた。つまり偽者の件が周知のものになれば、反乱が起こっても殺される可能性が下がり、すんなりと身分を捨てることが出来ると考えたのだ。このまま何らかの方法でラザルさえ失脚すればいい。


 誰かが村長を殺すことにはなるだろう。だがそれが自分である必要はないと考えたリゲルは、槍を引っ込めようとした。ちょうどその時、ラザルの黒い袖が伸びて槍の柄を捕らえた。余計な力が加わったせいでリゲルは反射的に槍を持つ手に力を込めた。


「おのれ、リゲル!」


 怒っているラザルの顔を見ながら、リゲルは村長が槍をのけるのとは逆向きの力を加えていることに気がついた。それに抵抗するように青年は武器を引っ張る。そのまま綱引きが少し続き、


(そうか、この男、槍を奪い取るつもりなのか!)


 そのことに気付いた幸助は槍を捨ててやろうと引く力を緩めた。しかしその瞬間、ラザルも同時に仕掛けてきた。リゲルのバランスを崩させようと、刃先を右から左に急激に動かしたのだ。


 するとどうなるか。ラザルが奪い取ろうとする動きのせいでリゲルの重心は前に傾き、槍を操作されることでより大きくバランスを崩してしまう訳だ。


 ところで、リゲルが立っているのに対しラザルは仰向けに寝ているだけの体勢であり、優劣は明らかだ。しかも前者は素手、後者は布の手袋をしており握力にも差が出る。


 結果村長の手から槍が滑り、その首筋の上を通り過ぎるはずだった刃先はそこをマフラーごと突き刺してしまう。リゲルは驚いて武器をすぐに引き抜いた。


 ラザルは声を上げて傷口を押さえた。思った以上に鋭かった刃が深く入ってしまったらしく、白いマフラーは段々と赤い血で染まっていく。


「待て……俺は、そんなつもりじゃ……」


 リゲルは血のついた凶器を上向きに構えていた。刃から柄に血が伝っていく。彼の目には動揺が窺え、今にも武器を取り落とすところである。


「良くやった! これでお前も裏切り者だ!」


 すると脇から、いつの間にか武器を収めたテルが賞賛の言葉を浴びせかけた。セラトナ達反乱軍は今の状況が飲み込めずに見守っているだけである。何しろ、自分たちが村長を殺しに来たのに、敵であるはずのテルとリゲルが裏切っているという、あまりに拍子抜けする状況なのだから。


「裏切り者、か。俺は最初から誰の味方でもなかったんだけどな」リゲルは自嘲気味に呟く。動揺して上手く言葉が出てこないが、必死に頭を働かせる。「ところでテル。このクソ親父を殺したいなら、どうして自分でやらないんだ? どうして俺にさせようとするんだ?」


 そう。ここまでのテルの言動からは、彼がそのように考えていることは明白である。そして英雄は野心を隠し淡々と返答する。


「俺のやったことはただ、ラザル様を失脚させる為の足がかりだ。基本的に世代交代は村長の判断だが、待てないんだよ。俺も、彼女らも。村長は世襲制だから息子であるお前が継ぐのが正当。つまりお前が殺さなければならない。反乱軍をここまで通したのはその目撃者を増やす為だ」


 その言葉の中に、もはや敬意はない。そしてテルは再び刀を抜き、脅すようにリゲルへと向ける。


「さあ殺せ! それがこの村の為なんだ!」


 彼に倣い、セラトナや、反乱軍の人々も武器を構えて叫んだ。殺せ、殺せ、と。


 冗談じゃないぞ、と幸助は心中で悪態を吐く。彼はその場の雰囲気に流されないほどには頭が冴えていた。そして事実今直面している状況は、彼には不都合なのである。


 確かに、村長が失脚することはリゲルが村長を引き継ぐことを意味し、掟を都合良く変えることが可能になる。一方でリゲルが偽者であるという噂も膾炙し、幸助が考えた条件は出揃ったと言って良い。だがいずれにせよそこに彼が殺人者になるシナリオは存在しない。ただその一点が問題なのだ。


 この世界は幸助のそれとは違うもの。彼がラザルを殺してもそれは確信犯的、英雄的と見なされるし、罪には問われないだろう。元の世界に戻ってもその凶行を咎められる者はいない。ただ下手人を唯一の例外として。つまり、人を一人殺した事へのトラウマ。それを恐れているのである。


(冗談じゃない、俺が殺す必要がどこにある! こいつの死を望んでいるのは俺だけじゃないはずだろう! 俺一人が罪をかぶってたまるか!)


 想像以上に深い傷なのか、床に転がるラザルのマフラーは真っ赤に染まっていた。出血を抑えるのに必死で息子を睨みつける様子さえない。


 リゲルはちらとテルの方を見ると、彼の挑みかかるような視線とぶつかって、その考えを悟った。人殺しの呵責を背負いたくないのは彼も同じなのだ。つまり、自分の手を汚すことなく望んだものを手に入れようという算段らしい。ならば、なおさら幸助が手を出す訳にはいかないのである。


 だが、反乱軍の殺せという声は止まない。彼らはリゲルの凶行を期待して動かない。だがリゲルは絶対にそれをするつもりはない。賑やかな膠着状態が、そこにはあった。


 過ぎていく時間と繰り返される単語が、青年の心に空虚な焦燥感を生む。それは人々が彼に対して抱いている希望から生じた、否定するにはあまりに大きすぎる人のうねりであった。その為に彼の決意が揺らぎそうになる。


(このままじゃ埒が明かない……やっぱり、俺がやらなきゃ、俺が殺さなきゃダメなのか?)


「どうしたリゲル! 何を迷っている! 早くそいつを殺せ!」


 英雄が武器を構えて発破をかけた。その瞬間、残されたもう一つの道、武器を捨てて逃げることにリゲルは気付いた。それを選んだ場合にデメリットがあるかどうかを考える前に彼は槍を目の前に放る。その時だった。


「殺しちゃダメー!」


 という、甲高い声が部屋の遠くから響いてきた。捨てられた凶器が床にぶつかって音を立てたのと同時、その場がしん、と静まりかえる。


「待って! その人は殺しちゃいけない!」


 それは、少女の声だった。視線が人より数段高い位置にあるリゲルからは、反乱軍の人混みの中を誰かが分け入って進んでいるのが見て取れた。ただし少女の背の低さが災いしてか、その正体は見えない。


 この場に似つかわしくないその言葉に、テルはどこの馬鹿だ、と呟きを漏らした。そいつが邪魔になるならば排除しようと、武器を両手持ちする。


 そしてその声の主が人混みの中から出て来た。しかし出てくるなり体をかがめてしまう。その少女は肩で荒く息をしていた。


 リゲルはその少女の姿に違和感を抱いた。真っ白な長髪、純白のコート、そして、背中には白い翼が生えていたからだ。今まで見たどんな村人とも違う、神秘的な身なりだった。そして思う。


(この子は……味方なのか?)


 テルは考える。


(全身白ずくめの女……そうか、報告にあった不審者はこいつか?)


 セラトナは言う。


「スピカ?」

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