IntervalleⅠ:偽者
全ての創口を癒合するものは時日である。
夏目漱石『門』
そこは暗闇だった。一応上の方に付いている明かり取りの格子窓も、曇った夜空ではまず機能しない。だから自然と、瞑想する以外には何もしようがない。そして、その窓さえ影に塞がれる。
「あら、これはどういう事?」
幸助が一人になった時に降りかかってくる高慢な声の正体は、もはや分かり切っている。
「……夢の中以外で会うのは最初の日以来か?」
「私と話す時は言葉が暴力的になるのね?」
「少なくとも親密な気分で話が出来る相手じゃないからな。いろんな意味で奴隷だよ、俺は。もはや生きていない、生かされていると言ってもいいだろうな」
と、彼は自棄気味に言った。干し草の上に毛布を敷いただけの寝床に転がりながら、彼女のいる方――ふさがれた窓の方を見る。もちろん何も見えない。
女性は冷ややかに返す。
「でも、結局生きていられるならどちらでも大差はないでしょう? 生かされているのは、みんながあなたの存在に希望を見いだしているからね。それなら順調だと言えるわ」
「俺にとっては不調なんだけどな。このまま結婚までさせられたら、ますます厄介なことに――」
「それでいいのよ!」
不意に、女性が幸助の言葉を遮った。今までになく慌てていると分かる口調だった。
「そのまま結婚しちゃいなさいよ。それに、この集落では一夫多妻が許されるでしょう? 選り好みする必要もないわ」
「……それが目的か?」
「ええ。用が済んだらちゃんと戻してあげる」
貴重な情報が一つ手に入った。
「ところで、一つ訊きたいんだが……」
「聞くだけよ。答えは保証しない」
「この世界には『魔法使い』と呼ばれた一族の伝承があるらしい。お前がそうなのか?」
この『魔法使い』の伝承と、その一族による『呪い』はいずれもこの世界の常識とされ、みだりに口にしてはならないことになっている。これらの情報はいずれも、二回にわたるお見合いの席で聞きだしたものだ。魔女、と聞いて幸助の頭に最初に浮かんだのがこの女性だった。
そのまま数秒、風の音だけが響く。
「ところで、あなたが最初にこの世界に落ちてきた時に落としたものがあるの。返しておくわ」
すると彼女は格子の隙間から腕を伸ばして、リゲルの手元へ軽く投げた。すると窓に光が戻り、女性の気配は消え去った。
幸助は投げられた二つの落とし物を手に取る。一つはゆがんでいる上にレンズもなくなっていたが、彼の眼鏡だと分かった。とりあえず上着のポケットにしまう。
もう一つは手のひらサイズの、固く細長い立方体。その凸凹に触ってみて心当たりがあった。
「ケータイか!」
一瞬だけ喜んで端末を開き、電源を入れようとする。しかし電池切れか壊れたか、反応を見せる様子はない。こちらもポケットに押し込んだ。むなしさが彼の心を包み込む。電話から、それでつながる人々の姿が思い起こされる。
(突然抜けてきた訳だからな……欽二、今頃心配してるだろうな。みんなどうしてるだろう。美奈も菜摘も……美奈? そういえばあの時……)
彼がこの世界にやってきたすぐの頃、例の黒い女性が夢に現れ、追いかけてきた女の子がいると言った。そして誰とは明言しなかったものの、幸助にはそれが美奈だと思えた。
幸助ははっと我に返った。何故だろう。どうして菜摘でなく美奈なのだろう。誰かを追いかけて危険なところに身を投じそうなのはむしろ菜摘だ。それでも真っ先に思い浮かんだのは美奈だった。むしろ、ここに来たのが菜摘であったならまだ楽だったとさえ思える。美奈の心身にここの環境は酷だろう。
それで、もし『彼女』がこの世界に来ているとしたら彼女はどこで何をしているのだろうか――やはり最初から考えていたように、彼女は屋敷の外の市街地にいてどうにか帰る為に生きようとし、幸助を探す為に何かしら動いているに違いない。だがこの世界で男が少ないことを知れば、ここにはいないと見切りを付けてしまうかも知れない。
だが彼には、一つだけ希望があった。偶然と必然がある一点の下で溶け合えば、それは、良い方向へと実を結ぶ。起こる保証はないが。
何であるにせよ、真相を確かめて彼女に会わねばならない。しかし地位を確立すると捜索が難しくなる。彼女が屋敷にいる可能性はもはやないし、一刻も早くこの屋敷を脱する方法を考える必要があった。
(でも、塀の外に出られたとして俺は自由に動けるのか? この前は護衛が大勢いたし、俺が命を狙われる可能性もある。自由の身になって人捜しをするならまずは兵団の懐柔か)
妥当なのはテルかシリウスを丸め込むことだ。しかしテルはリゲルを敵視しており、必然的にシリウスということになる。婚約者として選んだ彼女に。
彼女には何て言えば応じてもらえるだろうか、と考えていると、不意に頭の隅に痛みが走った。と同時に不思議な感覚に襲われる。思い出せそうで思い出せない、喉の奥まで出かかっているのに言葉が出ない、もどかしい感覚。
「シリウス……お前、どこかで……?」
彼女の顔を思い浮かべる。すると別のものも一緒に浮かび上がってくるような気がする。彼女に似た人を、以前どこかで見たような感覚。その忘れかけていた過去が思い出されようとした。
(やめろ! お前は知らないままでいい!)
倉庫の中には彼一人、その外にも誰もいない。そのはずなのに、そんな声がした。
その言葉は正しかった。思い出そうとするその行動には、強い反発が伴っていたからだ。土に埋められた芋を引きずり出そうとして、引けば引くほど蔓草が指に食い込む具合に。このまま続ければ、手が血まみれになるかも知れない。それでも彼は、シリウスという女性のことを考えずにはいられなかった。
だが、彼はその反発に勝てなかった。あと一歩の所で届かなかったのである。彼は気のせいだと思うことで自分をごまかした。
(いや、兵団だけじゃダメだ。押し付けられた次期村長の肩書きと親父の存在が枷になる。これと人捜しを両立するにはどうすればいい? 同じ手はもう一度は使えないし、俺と同じ境遇で本名を隠してしかも姿格好が変わってるとしたら、直接この目で確かめる以外の手はないじゃないか!)
この世界に鏡はなさそうなので、自分の姿を見られるのは水くらいなものである。そうして、顔立ちだけは変わっていないことを把握していた。
髪色や服装が分からないのだから兵団による人海戦術は通用せず、家柄的に自分自身では歩き回れない。だから争点は、どうやって村長の息子でなくなるか――そこに尽きるのである。
だが自分がどうあがいても、人々は辛うじて掴んだ跡継ぎの糸口ということで、彼を無理矢理にでも村長に仕立て上げようとするだろう。そこからは逃れられず、また別の道を必要とする。
(いや、むしろ村長になってしまうべきか?)
少々気の長い話にはなるが、村長になって村の掟を壊してしまえば容易になる。だが確実性が高い一方で村長の代替わりや魔女の迎えの時期が不明である。その間は待つしかなく、しかも『彼女』を放っておくことになるという様々な理由からも、これは好ましい選択肢ではない。
「まだ何かあるはずだ」
手持ちぶさたになって、何となく暗い倉庫の中を手でまさぐる。とりあえず、平べったい石が転がっていたので手に取った。
その時である。――(夕陽の中で笑い合った)――先程到達しかけていたシリウスに関する記憶が一気に解けて溢れ出した。――(二人だけの時間)――
忘れかけていた何もかもがフラッシュバックする。――(バイクで海にも行った)――それは、自分で忘れようとしていた思い出だった。――(雨の日の突然の呼び出し)――そしてその中心にいる人物は、シリウスによく似ていたのだ。――(その穏やかな笑顔……)
「あり得ない!」
脳裏に突飛な考えが過ぎり、それを否定する苛立ち紛れに小石をぶん投げた。乾いた音を立て、木の扉に跳ね返って足元に再び転がる。そして幸助は目を閉じ、ふて腐れたように横になる。
「あいつが、飛鳥が、こんな所にいるはずないだろ……」