ChapitreⅤ-B:少女の憂鬱
人間は精を出している限りは迷うものなのだ。
ゲーテ『ファウスト』
結局スピカは考えて悩んで想像して、その果てに光を見失ってしまった。早く回転する思考があらぬ方向へと迷走し、もはや何を悩んでいたのか、自分でさえ分からなくなるほどだった。
思いきり泣きたいのに、泣けない。思いきり叫びたいのに、出来ない。まだ何一つとして確かな事実が存在せず、そうであると決まった訳でもない。彼女と理性をつなぎ止めているのは「そうでないかも知れない」という逆方向の曖昧な希望だった。
急に美奈は誰かにすがりたくなった。その倒れそうな心は支えを必要とした。真っ先に思い浮かんだのは、二階で寝ているベガだった。スピカはふらつく足取りで壁伝いに歩いていく。すると、ちょうど上から降りてきた人物と鉢合わせした。
「おや、スピカちゃん……顔色が悪いよ、何かあったのかい?」
その白髪交じりの初老の男性はこの宿屋兼診療所の主人だった。孤児だったベガを引き取った人物であり、スピカが出会った数少ない男性の一人である。彼の低く落ち着いた声は彼女をひどく安心させた。
「シグナスさん……」
抱え込んでいたものが堪えきれなくなって、溢れ出した。何も言わずにスピカは彼に抱きつく。ただ、くぐもった嗚咽と共に。対するシグナスは終始落ち着き払った様子で、やはり何も言わずに、実の娘にするような手つきでスピカの肩を抱いてやった。
*
彼女が落ち着いてから、シグナスの妻を含めた三人は食卓に向かい合って座った。主人が淹れたお茶を飲むと、スピカは体の隅々が洗われるような心地がした。気がしただけだった。
「スピカちゃん、何があったんだい?」
「……」
「いや、無理にとは言わないよ。誰にでも人に言えない秘密はあるからね」
「村長さんは、生まれた時からずっとこの村に住んでいるんですよね?」
スピカは呟くように言った。
「みんなそうだよ。お隣のマーテルさん以外はね。場所が場所だけに外から来る人はいないし、状況が状況だけに出て行こうという人もいない。冷たい世の中だからね、行商人にでもならないと生きていくことさえ難しいよ」
「じゃあ、今外を歩いてる村長の息子さんも」
「同じくね。おや?」にわかに外の様子が騒がしくなった。「どうやらまたこの近くを通ってるようだね。ご苦労なことだよ、ずっと立ちっぱなしなんて。見に行く……気分じゃなさそうだね」
スピカはずっと下を向いていたものの、その内心ではもう一度確認したいという思いとまた絶望する恐怖とがせめぎ合っていた。そして結局、
「スピカちゃん?」
彼女は行動する方を選んだ。心臓の鼓動が高鳴っていく。手に汗が滲む。呼吸が乱れて足がふらつく。廊下にへたり込むと、シグナスが駆けつけてきた。彼女の額に手を当てると、
「まだ気分が良くないんだろう? 無理はしない方が」
「行かせて下さい! 私、行かなきゃ……」
嫌な汗をかいているのを全身で感じていた。目の奥が熱くなって潤んでいく。それでも口と喉は嫌に渇いていた。やがて吐き気まで催してくる。
「良いから休んでなさい! 顔真っ青だよ」
それでも、見間違いであることを確かめなければ――その一心で彼女は進もうとする。だが意識が薄れ始め、体が言うことを聞かなくなっていた。
「父さん、どうかしたの?」
その時、目を覚ましたベガが現れた。気分悪そうにしているスピカを見て、すぐに事態を把握した。彼女を診察室(兼客人用寝室)に運び込み、治療に当たる。事の始終を見ていたシグナスは心因性の症状だと判断し、睡眠薬を飲ませて様子を見ることにした。
*
「――久しぶりかしらね?」
そんな声が聞こえた。ぼんやりしていた意識が、ピントを結ぶようにはっきりしてくる。彼女は夜の世界に立っていた、真っ暗な世界だが、背後が森、目の前で地面が途切れ、その先には何もない。空に輝く星を除けば、幸助が消えた崖にそっくり――美奈はそう思った。
そして彼女の目の前、十数歩ばかりの所に、布のお化けが浮かんでいた。幸助と美奈をこの世界に引きずり込んだ張本人である。
「どうやら上手くやれているみたいね」
「どういう事なんですか! 彼が……幸助が村長の息子って! だって彼は私と……」
「そうよ、あなたと同じ境遇に置かれている。それは間違いない。頭良さそうなあなたならいくつか可能性は思いつくでしょう? それが全部正解への鍵、とだけ言っておくわ」
「答えになっていません」
黒い女性は一呼吸置き、先程までの澄ました様子から若干苛立ちの色を見せ始める。
「あなたのその頭脳は、ここに生きる人々には持ち得ない程賢く、それ自体が武器になる。分かっているでしょう? 訊く前に考えなさい。
それと、私の役割はあくまであなた達をこの世界に引き込んで戻すだけ。私がこうして夢の中に現れるのも、あくまで監視しているからに過ぎない。あなたは生きてさえいればいいの。いい?」
言うと、夜より黒いお化けは風に吹かれたように翻ってあらぬ方向へと飛ばされていく。
違う。何かがおかしい。この人は、悪意からこんな事をしているんじゃない――直感的に美奈はそう感じた。
「待って!」
叫ぶと、目の前の景色は古びた木の天井に変わった。
彼女が目を覚ましたのは診療所だった。周りがすっかり暗くなっているのに気付いて、ここまでの経緯を思い出す。あの信じがたい衝撃は、まだ心の中に残っていた。もう一度寝ようにも眠れそうになく、少し迷った後、スピカは往来を散歩することにした。
出た瞬間彼女は、その決断を後悔しかけた。寒さが肌を刺すようだったからだ。それでも、このモヤモヤした頭を吹き飛ばすには十分なくらいだ、と自分を鼓舞して歩き出した。
空は雲が多かったが、満月の光が差し込むくらいの夜空は見えていた。異世界だというのに月や星の光があるのが、彼女には不思議だった。
月ってあんなに大きかったっけ、と思う。その白く清冽な光は、スピカの姿、石畳の通り、人のいない町を、神秘的に、不気味なまでに照らし出している。
そうして気がつけば、彼女は村長の屋敷、その前の櫓の下まで来ていた。月の光を受けてより一層無骨に見える。霧もなく空気が澄んでいてはっきりとその姿が浮かび上がる。殆ど骨組みしかないのに、高さがあるせいでそれなりの迫力もある。
そういえば、と視線を屋敷に移すと門番はいなかった。夜は安全だということらしい。もちろん鉄の門扉は固く閉められていた。屋敷を攻略するならまずここをどうするかだと考えられるほどに、彼女は冷静さを取り戻していた。
その鉄門には腕が通せるほどの隙間が空いており、そこからは村長の屋敷を見ることが出来た。聞いていた通り距離があるのではっきりとは見えないが、月光に照らされ不気味さが強調されている。
和風とも洋風とも付かぬその二階建ての屋敷は、市街の質素な家々とは一線を画し、スピカに憎しみの感情を引き起こさせた。待っててねと呟き、長いマフラーを強く巻き直してから、彼女は引き返した。
宿の前にはベガが立っていた。彼女はスピカを認めるとどこに行っていたのかと尋ねた。
「頭の中を整理したくて、そこら辺をぶらぶらと」
「そう。寝なくて大丈夫?」
「夕方散々寝ましたし、夜風に当たってすっかり目が覚めました」
「そう。じゃあ夜明けまで私の部屋で話そうか。私は夜でも急な患者さんに対応出来るように起きてるからね。夜目が利くし」
そうして彼女の寝室に案内された。二人は相変わらず防寒具で着ぶくれしたままだ。家を造る技術があまり高くなく、機密性が低い為である。火事の予防と乏しい資源の節約の為にも、彼らは調理場などの限られた場所でしか火を使わない。
「昨夜、スピカがいない間にセラトナさんが会議開いたのねぇ。で、テルは厄介だから出てくる前に村長を倒してしまえばいいって結論が出たの。つまり、早朝に奇襲攻撃をしよう、と」
「それで、村長の息子さんについては……?」
「今まで病気で倒れてるって知らされてたから眼中になかったんだけど、回復したとなればちょっと厄介かも知れないわねぇ」
「他に何か彼について言っていませんでしたか? どんなことでも構いません」
「そうねぇ。みんなが前と雰囲気が変わった、と言っていたことぐらいかしら」
「そうですか。やっぱり彼も倒すんですか」
「今の状況をひっくり返すにはラザル村長とその跡継ぎを殺さないといけないのは、あなたにも分かるでしょ? それが新時代の象徴になるから」
スピカは怯えたように、そうですよねと呟いた。
「怖い?」
「ええ、でもそうしなければならないんですよね」
「スピカが心配する必要なんかないわよ。実際に手にかけるのは私たちなんだから、あなたは遠くから状況を見て指示するだけで良いの。それに、事が済んだら全力で友達捜しに当たれるから、少し待ってて」
(そうじゃない! そういう事じゃない!)
スピカは俯き、袖をぐっと握り締める。真実を打ち明けるには、彼女には勇気が足りなかった。
「それで、他にはどんなことを話したんですか?」
*
さて翌朝にも開かれた会議でスピカは、相反する要素に苛まれながらも自分の義務に従っていた。つまり、地形や時間、天候などを考慮して不都合な点を指摘し、計画に修正を施したのだ。とはいえ戦術に関して素人の彼女が立てた作戦は、ほぼ机上の空論である。
この村の人々にとってスピカの言葉は金言に見え、賞賛するのだが、反論もせずにただ頷いて喜ぶ姿がスピカには不気味だった。
(こんな戦術でいけると本当に思ってるの? でも私にはやり方が分からないし、成功しても失敗しても誰かが死ぬなんて、やっぱり荷が重すぎる!)
誰も血を流さずに事を成功させるには交渉しかないが、独裁的で高圧的な村長がそれに応じるはずはない、だから殺すのが手っ取り早いのだとセラトナは強調する。
しかも武力に訴えなければならないほど民衆の怒りが高まっており、スピカの参入もあり士気が高まりつつあるこの状況では、今さら指針の変更など却下か徒労に終わるのが明白だ。
スピカが何か憂えていることは周囲の目にも分かったが、彼女に対してかけられる言葉はどれも彼女を癒しはしなかった。そうして心の内を打ち明けず、最善の道を見つけることもなく、朝の会議は解散となった。
さすがに祭の準備や冬支度の必要に迫られている為、その場に残ったのはスピカとベガ、リーラの三人だけだった。
「スピカちゃん、何かあったんですか?」
とリーラが心配そうに声をかけた。
「リーラさん、村長に本当にご子息はいるんですか? 昨日見たのは本当に息子さんなんですか?」
二人は怪訝そうな顔をした。部外者である彼女がそんな事を訊いたからである。
「本当ですよ。もう十何年か前ですが、男の子が生まれたって、大騒ぎしましたから。毎年祭の度に民衆に顔を見せていましてね、昨年は病気で不在でしたけど。とにかく、昨日見たリゲル様は私たちがよく知るリゲル様です」
「……そうですよね。変な事言ってすみません」
「いいえ、それよりごめんなさいね、あなたの友達、なかなか見つからないみたい。人の出入りなんて殆どないから簡単に見つかると思ったんですけど……他に何か手がかりは?」
言われて、スピカは少し悩む。「リゲルにそっくりなんです」とは言えなかった。
「そうですね、彼の特徴といえば……」
「待って。今、彼って言った?」とベガが驚いて言った。「あなたの友達って男の子なの?」
「え、あ、はい、そうなんですよ。言ってなかったんですけど……私と同い年の男の人です」
「どうしてもっと早く言わなかったの!」
「あの……すみません」
確かにベガの言う通りだった。スピカは友達の一番基本的な情報を言っていなかった。それが出てこなかったのには、変身していることが頭に先行していたのもあるだろうが、大きいのはきっと、
(異性だってことを意識しすぎてたのかな)
何であるにせよ、これが多少の進歩をもたらす事は確かである。襲撃の決行は明後日の明朝、それまでに真相に辿り着いておきたかった。
「スピカちゃん、さっきから顔色が悪そうですけど大丈夫ですか?」
「そうそう、昨日倒れちゃったのよねぇ。慣れない村に来て疲れたのかしら?」
「そうですね、ここに来てから、もう、いろんなことがありすぎて……」
スピカは額に手を当てながら答えた。
「私達はまだ仕事があるんだけど……スピカはもう休んでるといいわ。セラトナさんには私から言っておくから。一人で大丈夫?」
「はい、平気です」
ベガとリーラが集会所を出て行き、少ししてからスピカも一人で帰路に就いた。賑やかな市場を歩きながら彼女は思う。リゲルと幸助が似ていることは確かめられた。そこで二つの可能性が浮上する。昨日見たのが幸助であるかないかだ。
もし幸助であったなら、昨日の視察は美奈を捜すものであったかも知れない。だが大きな疑問が引っかかる。何故彼がその立場にいられるのか。本当に同一人物だとは考えにくい。
違った場合でも、彼もこの集落にいると考えるのが妥当だ。ならばどこかで必死に生きているのだろう。それと同時に美奈を捜そうと――
(待って。私は幸助がこの世界にいると知っているけれど、逆に幸助は私が来てると知ってるの?)
それ次第で幸助が取る行動が大きく変わるので、考えられるパターンは四つに増える。だがどの可能性が高いか、どれを考慮して自分が行動すべきか、判断は出来なかった。
そうこうしているうちに宿に戻ってきた。悲しげな目で建物を見ていると誰かが後から声をかけた。声の主はマーテルだった。
「どうしたの? そんな顔して」
市場帰りらしく、木の箱を抱えている。身長差のためスピカからはその中身が見えなかった。
「いえ、別に大したことでは」
「そうは見えないけど。悩みがあるなら相談に乗るよ? ほら、この時間は誰もいないから」
マーテルは木箱を片手で持つと空いた手でスピカの手を引っ張り、薄暗い酒場に導いた。
スピカは促されるままカウンターに座り、マーテルは荷物をカウンターの内側に置いて少女の向かいに立つ。そうすることで二人の視線の高さは同じになったが、それだけでもスピカの心の持ちようは変わるものだった。
「スピカちゃん、前に言ったこと覚えてる?」
いつのことだっけ、と少し思い返す。
「はい、口は堅い方だから相談相手になれる、って。それと……私は普通じゃないって」
「そうね。それで?」
「あなたはすごい人ですね……お察しの通り、私は普通の……この世界の生まれではありません」
一瞬、自分に禁じられていることが脳裏をよぎる。記憶に間違いがなければ、してはならないのは本名を明かすこと。正体は含まれていない。
「やっぱりね。どうやってここまで来たの?」
「それは私にもよく分からないんです」
「どういうこと?」
そこでスピカは、友人が突然失踪し、自分も探していたら不思議な女性にこの世界へ連れてこられた経緯を説明した。マーテルはそれを聞きながら、お茶を淹れてスピカに差しだす。
「ふうん、友達を探しに来たっていうのはそういうことだったの。ところでその女性って?」
「それもよく分からなくて……風のように突然現れては突然消えていく人でして」
するとマーテルはそうか、と考え込むような素振りを見せ、
「これは憶測だから真に受けないで欲しいけど、もしかして君は元々鳥人でさえないの?」
「はい」とスピカは一拍おいてから答えた。「この世界に来た時にこの姿になっていたんです。まさか髪がこんな真っ白になるなんて……ですから、友達がどんな格好をしているのかは想像が付かないんです」
青い髪のマスターはそう、と冷たく返し、自分のカップに口を付ける。
「でも、彼が茶色の髪で、だいぶ綺麗な格好をして村長の息子にそっくりなことまで分かりました」
ある言語では、『見る』と『会う』が同じ単語である。人を見ることと会うことが同義であることが想像されるが、悲しいことに、彼女は見ることは出来ても会うことが出来なかった。
彼女の話を聞いて先日の出来事と照合し、マーテルは、スピカの不自然な言動の理由を推察した。
「まさか。あり得ない」
それは、スピカも呟いた言葉だった。
「見間違い、思い違いだと思いたいんですが、確かめる手段がないんです。このままだと彼は殺されてしまうかも知れない……もし本当にそうだったら取り返しが付きません」
「悩みどころね。スピカちゃんが所属している反乱軍は、彼の死を望んでいるんだもの」
「どうすれば良いんでしょう」
スピカは、涙を止めることが出来ず、カウンターに突っ伏した。
「君みたいに頭のいい人でも、他人に答えを求めることがあるんだね」
「何言ってるんですか。分からないことなんていくらでもありますよ。だって私はただの……」
「泣くより前に、出来ることはもう何もないの? 味方にも何も出来ないの?」
つまり、村長の息子リゲルにそっくりな男が他にこの村にいないか、というものである。それを見つけて幸助だと確認できれば、これ以上の幸せはない。
「でも、そんな人がいるんでしょうか?」
「確かにね。ただでさえ数が少ない男性で、しかも村長の息子にそっくりならば何かと話題になるものだけれど、私は聞いたことがない」
「そういえばマーテルさん、男女比が崩れているのは何か理由があるんでしょうか?」
「知りたい? 村の連中は怖がって話したがらないんだけど、これはかなり昔の『魔女の呪い』と言われていてね――」
と、マーテルは訥々と語り出した。
この世界には鳥や龍の他様々な種族が集落を作って住んでおり、その中には『魔法使い』と呼ばれていた一族があったらしいが、彼らは悪い意味で周りに敬遠されていた。というのも、怪しげな術の研究に打ち込んで気味悪がられていたからだ。
その気味の悪さは不信、やがては恐怖へと変わる。人々は団結し魔女達を滅ぼそうと奇襲攻撃をかけた。集落を焼き払い成功したかに思えたが、数人が生き残った。
最終的にはその生き残りも全滅させられる。最後に生き残った少女は殺される直前、あまりに不気味な笑みを浮かべていたという。
しかしそれからというもの、人々が奇怪な死を遂げたり、失踪したり、天変地異が起こったりと奇妙な出来事が頻発した。男性が生まれにくくなったのもその頃からで、これらは彼らの復讐『魔女の呪い』として今でも人々に恐れられている。
「魔法使いじゃなくて魔女なのは最後に殺された少女が首謀者と思われているからでしょうか?」
マーテルは答える。
「多分ね。魔女のことを口にすると魔女が出てくるって言われていて、みだりに話す人はいないの。私はそんなもの信じてないんだけど。ま、そもそも呪いなんて異世界人の君には関係ない話だろうし」
「そう、ですね」
怪しげな術と呪い。世界の移動と人間の変身。これらが全て、例の黒服の女性という一つの記号の元につながった気がした。
だが、もし彼女がそうなら幸助を最初に攫ったのが不可解だ。その呪いで世界の男女比を操作しているのなら、なぜ男をこの世界に連れてくる必要があるのだろうか。
そもそも彼女が一族の生き残りである確証もないし、直接話を聞いても情報が得られる可能性は低い。
「まあ何であるにせよ」とマーテル。「今の私達には、魔女の呪いが本物なのか、リゲルがスピカちゃんの友達なのか、知る手段がない」
「リゲルを殺さないように頼んだら、きっと反逆者扱いされてしまいますよね」
「いや、一つだけ方法がありそうだよ。今は村に行商人が来てる。商人は村長に無条件で会えるから、頼めば情報を聞き出せるかも知れない。でもただでは動かないし真実が得られる保証もない。万策尽きたと思うか、まだ方法があると思うかは、君次第だよ、スピカちゃん」
*
あっちを立てればこっちが立たず。落胆しつつマーテルの所を去ると、ちょうど診療所に患者が運び込まれてきたところだった。ベガが不在なのでスピカが治療の手伝いに当たる。患者は冬支度の最中に屋根から落ちたらしく、擦過傷と骨折が見られた。
腕に添え木を当てて固定し、傷口にはつぶした薬草を塗るだけで、彼らの処置は応急処置の領域を出ない。とはいえ最大の治療法は安静にしていることなのだが。
その流れでスピカは治療院の冬支度、壁の補強作業を手伝わされることになった。木の板を余計に打ち付けたりその間に藁を挟んだりと、彼女には辛い肉体労働である。厚着で動きづらいのも災いした。
ベガは昼過ぎに寝る為に帰宅し夕方に起きるやいなや出て行ってしまった。その間スピカはシグナスの手伝いで顔を合わせることは出来なかった。やはりそれだけ佳境なのだろう。
彼女は恐る恐るベガの両親に娘のしようとしている事を知っているか尋ねてみた。すると彼らは躊躇わずそうだと答えた。今の政権をひっくり返すことは、危険を冒すに値する全ての市民の悲願であるらしい。
(やっぱり、私がどうこう介入できる問題ですらなかったんだな……じゃあ諦める? いや、まだ時間はあるのにそれは早すぎる)
だがその一方で、彼女に出来ることがどれだけあるのか。スピカはその夜ベガを待ち続けたが、少女が眠りに落ちても宿屋の娘は帰ってこなかった。
*
翌日スピカは眠たげな目で最終会議に顔を出す形となった。ベガはスピカと入れ替わりに帰宅したのでその場にはいなかった。会議室には各エリアの幹部が集まっており、部屋を埋め尽くす程の大人数だった。
そこで再確認された作戦――奇襲は早朝、攻撃対象を絞り短期決戦を挑む、退路を確保する――はいずれもスピカの提案だった。退却のことが考慮にあるのは、偏に彼女が参謀であるからだ。セラトナが仕切っていたら考えもしなかったと本人も評価している。この退路がそれほど有益だとは参謀さえ思っていないのだが……
そして次に彼らが取った行動とは、酒場で酒を飲むことだった。前祝いの祝杯らしい。それだけこの作戦に確信を抱いているのだ。明日は早朝から行動するから早めに寝る必要があり、早く寝る為には昼間から飲む――というのがセラトナが語った理屈。参謀はそれを丁重に断った。
手持ちぶさたになったスピカは往来をぶらつくことにした。いつかベガと二人で市場を歩き回った時とは、雰囲気が大きく違っている。空気が張りつめている。そして、警戒しながら使い道が明らかな武器を運ぶ人々もかなり目についた。
嫌でも耳に入る喧噪の中に村長やリゲルという単語が混じっている。襲撃のことは村中に知れ渡っているのだろう。そういった単語が聞こえるたび、少女は耳を塞ぎたくなった。セラトナの知り合いだという初老の夫人から赤い実を貰い、それをかじりながら歩いているとわずかだが憂いが晴れ、思考がはっきりしてくる。
(リゲルが幸助なのか、幸助が私がここにいることを知ってるのか、はひとまず置いといて。幸助はこの村に連れてこられて、一体何をさせられてるんだろう?)
美奈にしてみれば、目の前で忽然と姿を消した幸助を迎えに行くという目的意識を持ってこの世界に誘拐されたし、犯人である黒服の女性もその目的を果たすようほのめかしてもいた。だが、幸助にとってのそれが一体何なのか、美奈には全く想像が付かなかった。
(何だろう、こういう見ず知らずの世界に放り込まれた人間に出されるクエストって? そういえば本名を言っちゃいけないっていうルールも謎なんだよね。あの時の反応から察するに本当に元の世界に戻せなくなる訳じゃないんだろうけど)
あの時、とは美奈がこの鳥の姿になって飛ばされた直後の、森の中での会話である。その時彼女はこの村に『彼』がいると言われ、疑うと誘拐犯に「信じなさいよ」と一喝されている。その言葉の真意は果たしてどちらにあったにしても、今の美奈には、信じる以外の選択肢はないのだった。
そういえば、と彼女は市場の小道に入りながら考えた。
(どうにかして幸助を、幸助であろう人を見つけて会えたとしても、その後は何をすれば良いんだろう? クエストクリアで帰してもらえる……なんてないよね。あれ、待って。そもそも帰れる保証はあるの? まさか本当に神隠しに遭って、例えばここがその死後の世界なんだとしたら?)
彼女の豊かな想像力はこの時冷静さを消す役割しか持っていなかった。目の前で起こった不可解な現象を形容するのに不意に口をついて出た『神隠し』という言葉。その現実離れした言葉は、この現実離れした状況下だからこそよりいっそう現実味を帯びて彼女の心を捕らえた。
狭い道に入ったせいで彼女が歩く路地は暗く、その恐怖心を加速させていた。
*
宿に戻ると二つの変化があった。一つは、隣の酒場から声が消えたこと。もう一つは診療所の前に荷車があり、中に一人の客がいたことだ。その姿には見覚えがある。
「あなたは……商人さん?」
「あら、いつぞやの。ここに住んでたのね」
淡い紫色の癖毛と紫のコート、行商人のマチルドだった。二人は互いに自己紹介をしてから、商人の方が話を切り出した。
「ほら、今までは待遇の良い村長さんの所で寝泊まりしていたけれど、朝に襲撃があると分かってるのにそこにいられないでしょ?」
それに動向を遠くから見たかったから、と付け足した。そこでスピカが疑問を抱く。
「どうして朝に襲撃することを知っているんですか?」
「私は商人だからね、いろんな人と、反乱軍のリーダーとさえも通じてるのよ。もちろん、村長さんとも、その軍隊ともね」
「じゃああなたは――」
スピカが身を乗り出すが、マチルドは人差し指を立ててその動きを制止した。
「私から何かが欲しければ、代価を頂戴」
当然スピカには、商人に払えるものは何も持っていない。ないのなら何も話すことはない、そう言ってマチルドは眠りに就いてしまった。
この商人は、セラトナの要望で敵陣営の情報を提供した一方で村長の屋敷で優遇されていた。すなわち両軍が互いの情報を得ているという事態が起きてもおかしくない。
そうなったら、訓練された兵で組織されたキャンサーに寄せ集めのクーデターが勝てる可能性は低くなる。マチルドはそれを知った上で情報を売ったのだろうか?
セラトナ達反乱軍が負けるかも知れない。スピカの脳裏に一瞬、そうなって欲しいという思いが過ぎった。だが、自分の味方になってくれた彼女らの敗北を願うことはあってはならない。
それからスピカは宿屋のキッチンに顔を出した。すると、ベガの両親ほか数名が食事の準備に当たっていた。彼女はそれを少し手伝ってから夕方、眠りに入った。