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見えない翼  作者: 桑名 銀天
第一部 変異編
13/56

ChapitreⅤ-A:反抗

沸き返っているあいつの胸を満たすものはこの世界のどこにもないのですな。


ゲーテ『ファウスト』


「マチルドさんと言いましたね。『目は口ほどにものを言う』って諺がありましてね」


 するとマチルドは一瞬驚いた様子を見せてから少し気味の悪い笑みを浮かべた。一人の女中が酒を持ってきたので黙るが、いなくなるとまた話し出した。


「ふふ、バレバレか」


「ええ。もちろんご期待通り、何かを起こすつもりですよ。ただし今は計画が中途半端で、機会を狙っている状態に過ぎませんから、あなたがそれを見られるかどうかは分かりませんがね」


「ところで、この村には酒を注ぐ時の決まりはあるのかしら?」


「位の低い方が注ぐんですよ。この場合……客人のあなたが高くなるんじゃないですか。もっとも、誰かしら女中がいるのが常ですが」


 彼にお酌をするのはシオン専用の仕事である。しかし今その彼女が後任を命じずに席を外した為不在という状況になっている(だからこそ、周りに人が少ない方がしやすい話をしている。とはいえ大部屋の片隅で話をしている以上、誰かに聞かれている可能性は否定しきれない)。


「ふうん。来てから日が浅い割には詳しいじゃない」


「村長になるための教養です、って叩き込まれましたからね。付け焼き刃ですけど」


 そう言って酒の入れ物に手を伸ばしたその時、彼の女中が戻ってきてそれを制止した。


「リゲル様、これは私のお役目ですので」


 慣れた手つきでとっくりを持つと、まずリゲルの杯に、ついでマチルドのそれに酒を少しだけ注いだ。それから客人はリゲルの方に杯を掲げて見せた。これは乾杯なのだろうと思い、リゲルもその真似をする。その後、二人で同時に口を付けた。


 リゲルはその独特な酸味と苦味に顔をしかめた。飲み干してしまったのでまた注がれるのか、と心配しながらシオンを見ると、彼女はマチルドをまじまじと見ていた。


「行商人のマチルドさん……ですよね?」


「そうよ。祭やるって聞いてたから戻ってきたの。それにしても良かったわね、病気だった跡継ぎさんがこんなにお元気になって」


「ええ、おかげさまで」


 シオンが恭しく頭を下げるのを見て、リゲルは真実を言うべきか迷ったが、言うことにした。彼女もリゲルの事情を知る一人だと。


「なるほど、専属の女中さんなのね。当然か。仕事がなくならなくて良かったわね」


「ええ、まあ……」


 シオンは反応に困っている様子だった。


「マチルドさん、言って良いことと悪いことがありますよ。まるでシオンにはそれしか才能がないみたいな言い方じゃないですか」


「あら、ごめんなさいね。旅をしていると、偉いお歴々が死んで混乱してる光景も見るのよ」


「ええ、確かに、リゲル様が身罷って数日の間は誰もが慌てていましたからね」


 二人の杯に酒を注ぎながら、女中がそうこぼした。マチルドがそれに続く。


「仕える主人が亡くなった召使いに会ったことがあるけれど、哀れだったわ。まるでこの世の終わりでも来たかのような顔でね。事情はよく知らないけれど、身一つしか財産がないとかで私に助けを求めてきたのよ」


 リゲルは恐る恐る、その後のことを尋ねた。


「行商人の世界は弱肉強食と等価交換が原則。体一つしか提供できないのに、私がその面倒を見る道理はないの。だからその後は知らない」


 と、マチルドはあくまで冷静に言い放った。


「だから」シオンが何かを悟ったように顔を上げ、「だから『仕事が……』って言ったんですね」


「ええそう。もっとも、ここは規模が大きい集落だから働き口はいくらでもありそうだけど」


「むしろ私たちの場合は仕事云々よりも跡継ぎをどうするかという点でもめました。村長は代々男子が継ぐというしきたりがありますからね」


「で、結局どうなったの?」


「テルさん……兵団の指揮官が継ぐ予定でした」


「それって、紫の髪で、刀を提げた不気味な男?」


 シオンがそうだと答えると、商人は不気味に口元を歪ませた。何か企んでいるようだが、それは波乱を予感してのものだった。


「そう、あの男が……じゃあ彼は『リゲル様』の復活を良く思っていないのかしらね? もちろんそんな素振りは全く見せないでしょうけど」


「いや、一度だけ見せたぞ。俺が最初にここに運び込まれた時、俺に対してそういう態度を……」とリゲルが口をはさんだ。


 その時にシオンも同席していたため、それは確かである。すると客人はますます上機嫌になった。


「兵団の指揮官ってことは戦闘の専門家でしょ。反乱でもされたら立ち向かえる?」


「まさか。その時は躊躇わず地位を譲りますよ」


 幸助は小声でそうきっぱり言ってのけた。そこにはプライドもないが、恥もなかった。その横目に困惑顔のシオンを捉えながら。


「君は賢明だね、リゲル君」マチルドが言った。「いや、君だからこその判断と言うべきかな?」


「……マチルドさん、あなたを少し誤解していました」リゲルは肩をすくめながら言った。「飄々としているのは見せかけで、実際はだいぶ賢い、いや狡猾と言うべきでしょうかね。これも旅をしているおかげですか?」


「ええ、私が重ねてきた年月は伊達じゃないわよ。私の種族には若返りの秘法があって、見た目よりもずっと年寄りなんだから」


 そこで改めてリゲルは、マチルドの顔立ちを見た。酒を豪快に飲む姿に似合わず、妖艶さと幼さが共存している。肌の艶も良いし日焼けもなく、年齢的には自分より五つ上くらいと思われた。例の秘術か化粧のなせる業か、とにかく見た目以上の年輪をその身に刻んでいるというのが信じられない。


「ところでリゲル君、さっきから全然飲んでないね」


「口に合わないんですよ」


「確かにここのお酒は独特よねえ、女中さん?」


「さようですか? これは長期保存が利く、私たちの村では一般的なお酒なのですが」


 これを聞いてリゲルは酒の味の正体を悟った。保存のために発酵させたり防腐作用のある材料を加えたりした結果なのだろう。そのくせ結構度数は高め。彼らにとっては酔えさせすれば良いのだろうと、リゲルは思った。


「ふうん。美味しいお酒は祭の本番までお預けってことね」


 マチルドはそう不平を述べると立ち上がった。シオンが引き止めたが、相手が嫌いな酒を一緒に飲んでてもつまらないからと答え、さよならを告げ去っていった。


「――何だったんだ、あの人」


「行商人には変わり者が多いと聞きますから」


「それより、お前らは普通にこれを飲んでるのか?」


 二度目に注がれてから全く口を付けていない杯を差し出しながらリゲルは言った。シオンははいと答えてすぐにそれを受け取って一口飲む。すると彼女は困惑顔になった。


 どうやらリゲルに出す酒と兵士達に出すそれとを取り違えたらしい。彼女の責任ではないのだが、シオンは夜中までずっと謝罪していた。


       *


 さて、翌日のリゲルの予定は惨憺たるものだ。というのも、彼は本来村長としての職務のための教養を身に付けるという義務が存在する。面会謝絶日と村の視察とを設けたことによるその遅れを取り戻すためのシオンによる厳しい修練が待ち受けていたのだ。


 そして夕刻からは(実のない)お見合いが待ち受けている、という具合。計画を練りたかった幸助からすれば、不本意な時間の浪費だった。


 そんな缶詰の外でも世界は動いていく。着実にその局面を変えていく。例えば、まだ朝方だというのに風に吹かれて黄昏れている女性。彼女は立ち入りの少ない屋敷の二階、その外周廊下の手すりにもたれかかっていた。彼女の視界には上昇を続ける太陽と、かつて自分の故郷だった集落があった。


 はあ、と溜め息を一つ。手すりに体重をかけるとわずかにたわむ。彼女の瑠璃色の長髪が風が吹くたびになびく。その青は、空の色よりもずっと深い。強風が髪を乱して前髪が目を覆っても気にかけない。気にしていられる心理環境にない。


 背後からぎしぎしと足音がしても、彼女にとっては葉擦れの音と何ら変わりがなかった。しかし言葉は背景に溶け込む雑音ではない。


「ずいぶんと哀愁を漂わせているのね」


 淡い紫色のコートと癖毛。マチルドだった。


「……でしょうね。こんな気分、初めてだもの」


 先程から溜め息を連発しているのはシリウス。いつもは兵団の副官として勇ましい姿を見せている彼女だが、今は一人のたおやかな女、もはや少女でさえある。


「また何か面白いことが起ころうとしてるのね?」


「また?」


「いえ、こっちの話。それで?」


「……商人さん、いえ、マチルドさんには、死ぬまでに絶対手に入れたいものってありますか?」


 シリウスは振り返らず尋ねた。


「それは形のあるもの? それともないもの?」


「ないものですね」


「なら答えは『ある』ね。それはどんなに財産を積み上げても手に入らないものだけど」


 マチルドは、シリウスの隣に静かに並ぶ。


「それで、もしそれが一度に全部手に入るとしたら、どう感じますかね?」


「喜んで飛びつくのが普通でしょう? まああなたの場合は……何かを犠牲にしなくてはならないのね? だからそんな例え話を」


 つまりこういう事だ。昨晩の宴の後、リゲルは彼女と二人きりの状況を作りこう言ったのだ。


『シリウス、もし俺がお前を好きだって言ったらどうする?』


 これを換言すれば「お前を気に入ったから妻にしたい」である。しかもリゲルの今の状況から言って、妾ではなく正妻だ。本来は孤児、つまり平民出身の彼女にはその資格はないが、兵団の幹部という村長の寵愛を受けるに値するその立場が例外を発生させている。これも掟の一つだ。肉体的に頑強な母の性質を子に遺伝させようという意図から来ている。


「悪くない話じゃない。何が不満なの?」


「私、屋敷の外に夫がいるんですよ。愛人としてであるとはいえ、破棄するのは簡単ではないんです」


「そういう風習なのね……でもそれだけ?」


「あと、リゲル様は私のために無理をなさっているのではないかと……それと、これが最大の理由なんですが」シリウスは一拍置いてから、商人を見た。「望んだものが手に入りそうという状況が、ちょっと恐ろしく思えてきたんです」


「私にその感覚は理解できないわ」


 マチルドは冷淡にそう言った。基本的に深い干渉をせず中立的な立場を貫く商人にしてみれば、ごく当たり前の返答と言えた。


「ところで、ええと」


「シリウスです」


「シリウスさんは、妃になってどうするの?」


 軍人は目の前の集落を指した。


「あちらがこの『ゾディアーク』と長い間争っている龍の集落『ウーラノス』……私の故郷でもあります。私は鳥の母と龍の父との間に生まれ、その為に家族は迫害を受け、両親が亡くなり私は居場所を追われ逃げてきたんです。


 向こうには私の友人が暮らしていますが、彼らと会う為、そしてこれ以上被害を増やさない為には協定を結ぶしかありません。それを実現するためには、権力が必要になるんです」


「ふうん。でも恐ろしく感じる理由はそれだけ?」


「いえ。発言権を得ても、それを実現させられる環境がなければいけません。風習を重んじるラザル様をどうやって納得させ、和平交渉に乗り出すかという大きな問題が立ちはだかるはずでした。しかし今は……今のリゲル様が村長になればその環境が整うんです」


「あら、あなたもご子息の事情を知ってるのね」


「ええ、まあ。いずれは村長が交代しますし、基本的に離婚はありません。リゲル様のお目にかかっておけば、権力と環境が一度に手に入ります。特に、今のリゲル様は私の意向に好意的ですから」


 マチルドが手すりに背中からもたれかかった。太陽を背にする形になる。


「なるほど。乗り越えようとしていた壁が、一瞬にして消え失せようとしている。今までの努力と思わぬ幸運を天秤にかけている訳ね」


「まったく驚かされます……まるで心が読めるみたいですね」


「商人として、旅人として、色々な人を見てきたからね。無駄に老獪になってないわよ。私たちの種族は寿命が長いし旅をするから、その分、色々と見識を深める術を心得ているの」


「……マチルドさん、私、どうすれば良いんでしょう」


「どうして私に訊くのよ」


「他に相談できる相手がいないんですよ。誰に話したって、私の悩みなんか聞いてくれません」


「そう……それじゃ仕方ない。じゃあ一つだけ。『やらないで後悔するより、やって後悔した方が良い』って言葉があるの。経験から学べって意味にも取れるけれど、解釈は任せるわ」


 言うとマチルドは屋敷の中へと戻っていった。シリウスは再び孤独になり、その憂い顔に風が吹き付ける。マチルドの言葉を反芻しているうちに、その言葉が漏れだしてくる。


「やらないで後悔、か……」


       *


「腕だけで振るな! 全身のバネを使え!」


「はい!」


 居住区のとある広場でそんな声が響いていた。村の東側『カンセル』地区にある、戦闘訓練所である。来るべき時――敵との総力戦――に備えて、全ての住民に武器で戦う術を指南しているのだ。受ける住民と、指導に当たる兵士は順番で回っており、今回はその中にテルがいる。先程の怒号は彼のものだった。


「しっかり武器を持て!」


 だが近年、住民も戦いに対して疲弊し、かつてのような士気は感じられない。義務故に仕方なく参加している者も多かった。しかし兵団はそれこそ命がけで戦うことを己の使命と感じてさえいる。その温度差がテルには苛立ちの種だった。


 訓練が一通り終わり一般人がいなくなると、テルは愚痴をこぼした。


「何なんだ今の連中は……戦う気があるのか」


「仕方ありませんよ。今は祭のことで、それどころじゃない人も多いですから」


「そうだと良いが……」


 彼はまた同時に複数のことで頭を悩ませていた。


 一つはこの訓練の価値である。先の戦い、彼が英雄と呼ばれるようになったその戦いでは、前線に一般市民も参加させたが実際は全く戦力にならなかったのである。もちろん兵団に訓練を受けた市民ではあったが、それが実にならなかった事実は看過できない。


 別の要因は反乱軍の存在だ。常々から反乱分子の存在は感知されている。住民が真剣に訓練に取り組むことは、反乱の予兆を意味するかも知れない。兵団は暴動を鎮める役割も持つのだが、その際の敵対勢力は自分自身で育てた力となる。


 だから住民の士気が低い方が厄介ごとが起こる可能性が低いと彼は思っており、本音と建前の板挟みに苛まれているのだ。


 テルは溜め息を一つ、「困ったものだな」とこぼした。そんな彼を慕う部下の面々は、ただ士気を高めることばかり考えていた。


 そして彼らにはもう一つ屋敷の外での仕事があった。それは、今晩の見合い相手の一人を屋敷まで護送することである。その段になって、テルはまたしても苛立ちの色を見せ始める。


 本物のリゲルが死亡した後、村長の地位を継ぐのは、血縁はなくとも実力のある男子、ベテルギウスその人だと言われていた。彼には婚約者もおり、後は村長が承認するだけという状況だったのだ。


 ついでに言えばリゲルは婚約者をぐずぐずと決めかねていたため、テルにとってリゲルの訃報は不謹慎にも吉報に思えたのだ。


 そこへ偽者が立つことでテルの出世はなくなり、かつ婚約者の問題がにわかに浮上する。この厄介な問題に当たるテルはその腹の底で今のリゲルが現れなければ良かった、邪魔だと憎んでいるのだ。


 一人の娘を屋敷に連れて行き女中達に預けると、テルは庭の武器庫、その横の東屋で槍の手入れをするポーラの所へ赴いた。彼女は足音に気付き顔を上げる。


「お疲れ様です、テル……また眉間に皺が」


 言われて、顔面の緊張を解く。


「間違っても、暗殺などしてはいけませんよ」


「お前、俺がそんな事すると思うのか?」


「怒りや憎しみに囚われる限り、その可能性は、否定できません。万が一だって、あり得ますよ」


 ポーラは研磨作業を再開した。彼女とて、地位欲がない訳ではない。テルが村長になった暁にはその正妻となり、そのポストは男性優位社会の中で最も優れた女性とされる。ポーラもリゲルの件は知っているが、テルほど落胆の色は見せていない。


「なあ、お前は俺と同じ境遇のはずだ。なのに、どうしてお前は平然としてるんだ?」


「……それについては、今晩、ゆっくり話しましょうか」


       *


 さてリゲルの二回目のお見合いが行われたのはその夕方である。時間的には八割の時分、前回と比べればかなり早いが、これはリゲルによる希望だった。日没とほぼ同時にそれは終わったのだが……結果は推して知るべしである。


 それを聞いた村長は、偽の息子を執務室に呼び出した。この部屋は要するに村長の仕事部屋である。その用件はもちろん、リゲルの胸中を知るためだ。


 村長の息子は継承権の位に関係なく、十五歳を迎えた年の霊鳥祭の中で婚約を民衆の前で発表するのが習わしとなっている。それを二日後に控えた今、相手が未定では済まされない状況なのだ。しびれを切らしかかっていることを、ラザルはリゲルに向かって訥々と語った。


「無理を言っているのは承知の上だ。だがな、決めないことにはメンツが立たんのだ」


「いえ、父上。私の意中にはすでに一人――シリウスを迎え入れる所存です」


 こんな風に答えたので、くどくどと叱るつもりであった村長は拍子抜けした。しかしこの言葉が聞けた以上、これ以上引き止める用事もなくなる。


「む……ではそのように計らうとしよう。今日はもう下がれ」


       *


 月光の差し込む、小さな部屋。そこにはベッドとテーブルがある。そのテーブルに、二つのカップを挟んで二人が座っていた。


「それで、私が落胆していない理由、でしたね。簡単です。今の仕事が好きだからですよ。キャンサー役の部長、あるいは、武器の整備係。もしテルが村長になって、私が正妻になったら、出来なくなりますからね。もちろん、正妻の立ち位置に興味がない、というのも、ありますけど」


 テルは彼女の言葉を聞いて愕然とした。この村では、地位や権力を得るにつれて自由を奪われる。すなわち、村長とその家系は屋敷にいる限り掟という枷で制限される。


 その最たるものが、祭などの特殊な事例を除いて屋敷の外に出られないというものだ。テルやシリウスなどの指揮官クラスも、村長らを守るという理由からほとんど外出が出来ない。逆に一般兵卒や女中ならば、見回り任務などで容易に市街地に出入りできる、という具合だ。


 テルは権力を欲するため、その枷を大したことと思っていない。だが自分がそこに上り詰めれば、ポーラにも同じものを背負わせることになる。


「ポーラ、どうして言ってくれなかったんだ」


「聞かれませんでしたし、言えばあなたの野心の妨げになる、と思ったからです」


 彼女は言ってお茶を飲んだ。


「それが妻たるものの務め。そうでしょう?」


「なら」とテルはしっかりと婚約者の目を見て言う。「俺が掟を変えて、正妻でも兼任できるようにしてやる」


「ありがとう、テル。でも今は……いいえ、何でもありません。さあ、もう今夜は寝ましょうか」


「……ああ」


 彼が改革を起こす志を持っていても、それを実行に移せるだけの環境も、その見込みも今は存在しない。彼は脳裏で、偽者が即位した時に自分への害なく失脚させる手だてを考えていた。


       *


 さて、夜が明けると集落全体の雰囲気が様変わりした。翌日に祭が行われるからである。特に屋敷の中は、もう一つの話題で持ちきりだった。リゲルがシリウスを選んだという話である。


 一番困惑したのが当人であるのは言うまでもない。彼女は兵団の中に女性のファンが多数いる人気者なので、朝から彼女を祝福する声は尽きなかった。


 なお悪いことに、今日彼女は水汲み部隊の指揮を執る役に当たっている。これは山頂の集落において重要な仕事であると共に山の中腹まで降りる重労働である。故に大人数で取りかかることになり、それだけシリウスへの声は増えるのだ。


 そんな風に主役の一人を欠いた状況で、重役達の打ち合わせは進んでいた。とはいえ、それはほとんどリゲルのために行われているようなものである。数は少ないが村長の血族、侍従長や大臣などが、朝礼を行う広間に集まっていた。


 主な式次第は、リゲルの婚約発表、霊鳥を呼ぶ祝詞と舞の奉納、櫓の焚きつけ、そして宴会の四つである。基本的にリゲルが関するのは最初の発表と最後の宴会だけだが、この村を統べる者の務めとして全ての成り行きをしっかり見ておくよう、義父に忠告された。


 ちなみに開始は夕方で、櫓が全て灰になれば終了の合図である。視察の時に屋敷の目の前に大きな櫓が建っていて何なのかとリゲルは思っていたが、ここでようやくその謎が解けた。その次に彼が思ったのは、あんな大きなものを燃やして火事になったりしないのかという心配だった。


 一通りの会議が済み、解散の合図が出たところで、テルが「ところで」とラザルに切り出す。「先日申しました反乱分子の件ですが」


 屋敷の外で警備をしている兵士から不穏な動きの気配があるという報告をテルは聞いており、先日それを村長にも伝えていたのである。その時の見解は、冬支度や祭の準備で誰もが忙しくしており、神聖な祭の前後にそんなことをする罰当たりもいないだろう、というものだった。


「例の商人が酒場で密談しているのが目撃されております。しかも商売道具を持っていなかったとのこと。警戒する必要があると思われます」


「テル、今がそんな状況でないことは知っているだろう。儂が面前に出るのが危険とは言っても、祭を中止する訳にはいかん。そうさせない為にお前達がいるのだろう。明日のキャンサーの指揮は全てお前に一任する。それで良いか」


 テルは渋々といった風に肯定を返す。リゲルの方を見ると、彼の思い詰めたような目と合った。そこにあるのは侮蔑か信頼か……それとも?


 そしてラザルが咳払いをしてから言う。


「さて、リゲル。今すぐとは言わないが、儂の跡を継ぐという覚悟は出来ているのか」


 問われた息子はただ平穏に、用意しておいた言葉で答える。


「正直に申しますと、出来ておりません。この数日間でその覚悟を決めろと言うのが……そもそも私は、今のこの状況がまだ信じられないのですよ」


「そうか。正妻を決めた時点で、腹は据わったと思っていたのだがな。ところで昨夜のお前の口ぶりは、昨夜以前に決めていたかのようであったが」


「確かに、彼女も例外的に正妻になれると知って、彼女にしようとは思いましたね」


「しかしシリウスに決めておったならば、お前は何故見回りや、昨夜の見合いを申し出たのだ? 事を急ぐと分かっていたならばなおさらだろう」


 変なところで頭が回るな、とリゲルは内心思った。


「それは、市井の人々と話をし、この村のことを知るためですよ。そして、私は悟りました。我らがいかに憎悪の対象であるか。父上の存在が、どれだけ嫌われているのか。先祖代々行ってきた政治の結果がこれとは、嘆かわしい事ですね」


 息子は慇懃無礼な調子でそう言ってのけた。向かいに座る義父の肩が震えているのが見て取れる。


「……何が言いたいのだ」


「はっきり申しましょう。私は後継者になるつもりなんてありません。その場所で憎まれながら生き続けるなんて、ごめんですよ。市民を騙して君臨することにもなりますからね」


「お、お前という奴は! 口を慎まんか!」


「不貞の息子で申し訳ありませんね。勘当するなり追放するなりご自由になさって下さい」


 これが彼の策略だった。何も手を打たなければ間違いなく村長にされ、身動きが取れなくなることは確実。それを回避する手段を、彼はずっと模索していたのだ。


 きっかけとなったのは、一回目のお見合い。この時に彼は人々が不満を抱いていることを知り、その感情を利用できないかと考えた。そこで視察である。


 村長の統治が作り出す環境をその目で確かめたかった(美奈を捜すというもう一つの目的は果たされなかった)。結果、誰もが彼を憎々しげな目で見ていたことを確認した。彼が出した結論は、今置かれている地位でさえ危険であるということだった。


 そして同時に、偽者を演じる環境を脱する方法も必要である。一番単純なのは、自分が村長になれないと周囲に認めさせること。だから彼はシオンの講義を話半分に聴いていたし、こうして義父に反抗的な態度を示したのだ。


 かつ、今のリゲルが偽者であるという情報が広まれば形勢はひっくり返る。昨夜の見合い相手の五人には真実を明かしたし、前回の四人にもリゲル死亡の事実を教えてある。


 ここまで来ればもはや時間の問題でしかない。偽者のリゲルの話が民衆に膾炙し、その事実を人々が求めた時、彼はその立場を追われることになる。あとは逃げればいい。


 ただ一つ気がかりなのは、その身に迫る危険がどれほどかということだ。殺されてしまえば元も子もないが、そこまで計算するのは難しすぎる。だからこれは、良くも悪くも大ばくちなのだ。


「勘当、だと……?」


 もちろんこのラザル、頭の固い長ではあるが単純な男ではない。反抗の意味を理解しているし、それを想定してもいた。しかしそれに対応する手段が思いつかない。彼の中を様々な思考が巡ったが、第一に優先すべきと判断したのは『リゲル』の存在を手放さないことであった。


「まだ自分の立場が分かっておらぬか。テル、使っていない倉庫があっただろう。そこに一晩閉じこめておけ。頭を冷やさせるのだ」


 テルは素早くリゲルに接近し、その腕を掴む。


「リゲル様、手荒な真似はしたくありませんので」


 リゲルは無言で村長に一瞥をくれてから連行され、その後をシオンが追う。広間を出ると、要人を拘束する役割は二人の女性兵士になった。その後にテルとシオンが付き従う形になる。


 その間、リゲルは無言で笑んでいた。少なくとも命を狙われることはないと分かったからである。


「リゲル様、何がおかしいのです」兵士が言った。


「何でもないよ。それより、今夜は冷え込むらしいな。凍え死んだらどうするんだ」


「……ご心配なく。外套を持ってこさせます」


「その役目は私が」背後からシオンが声をかけると、彼女はどこかへと消えていった。


 ラザルが指定したその倉庫だが色々と問題があった。第一に、破損した武具のゴミ捨て場になっていること。第二に、かなりの埃にまみれていること。第三に、老朽化していること。


 その為日が落ちるまで母屋にリゲルとシオンを残し、掃除をする必要があった。最後の問題は、補修をする余裕もなかったのでそのままにされた。


「俺のせいだって分かってても、滑稽なもんだな。祭りの準備で忙しいだろうに、あんな物置の掃除なんかさせられて」


 倉庫に出たり入ったりする人々を遠巻きに見ながら、リゲルはそんな事を言った。


「リゲル様、先程ラザル様におっしゃっていたことは本当なのですか」


 彼と同じ方向を見ながら、シオンが呟くように尋ねた。


「もちろん」彼の目は木箱を運び出す女性を追っていた。「予知夢で俺が何を企んでるかまで分かってるんだろ?」


「私に分かっていたのは、村長になるのを嫌がっている点だけです。そしてその理由は、見知らぬ土地でいきなり村長にさせられるという唐突な命令に対するものなのだと思っていました。私が伺ったのは、お見合いの件と視察をした理由についてです。本当にそういう目的で提案なされたのですか?」


「最初のお見合いだけはもちろん違う。というかそれがきっかけだったんだよ」


「そうですか……それにしても、一体どのようにしてお嬢様方の不満を聞き出したのです?」


「それはいずれ分かるよ」


「いずれ?」


 準備が出来たとの知らせが来るとリゲルは、大きな茶色い外套を羽織り、二枚の毛布を持って倉庫に入って、木製の扉が外側から固定された。今回は本当の面会謝絶である。シオンでさえ傍にいることを許されない。


 それからシオンは、主のいなくなった部屋に任務から帰還したシリウスを呼び出した。シリウスはリゲルが話をする為に呼びだしたのだと思って参上したが、彼の不在を知って不思議に思った。経緯を妹から聞き、彼女はふらついた。


「姉さん!」


「大丈夫……ちょっと疲れてるだけよ」二人は備え付けの長椅子に座った。「話したいことはそれだけ?」


 部屋には光源が差し込む月明かりしかない為、互いの顔はよく見えなかった。


「いえ。あの、私、リゲル様にお仕えしていて良いのでしょうか。もうあのお方は、以前のリゲル様ではありません。いえ、リゲル様にはなれません」


「それって……いいえ、分かり切っていたことよね。空から落ちてきたのが不思議ではあるけれど、彼にも彼の人生と故郷がある。それを無理矢理曲げてしまったのだし、そもそも外人を要職に置こうなんて考えに無理があるものね。だからこれは必然的なこと……」


 しかし朝まで幽閉することにどんな意味があるのか――そこまでは言わなかった。


「それでも、シオン。あなたはリゲル様の召使い兼教育係でいなくてはいけない。村長のご命令なのだから。それがこの屋敷、いえ、この村に生きる者の務め。そうでしょう? 分かったらほら、今日は珍しく休暇がもらえたと思ってゆっくり休んでおきなさい」


「はい」


 シリウスが部屋を出ようと立ち上がったところで、そうそう、と切り出した。


「私が選ばれたって話が出た時にシオンは驚いてなかったけど、もしかして予知していたの?」


「……そうです」


「じゃあどうして教えてくれなかったの?」


「それは……」


 仕方なく彼女に決めただけで、本当に正妻にしようと思っているのではない――リゲルの心情を知っている彼女には、真実を伝えることが出来ようはずもない。教えたとしても糠喜びさせるだけだ。しかし、姉妹のように育ってきた姉が悲しむことになると分かっていながらそれを黙っているのとでは、一体どちらが残酷だと言えようか?


 シリウスは妹の所に戻り、彼女の肩に手を置いた。


「そういえば、おめでとうの言葉もなかったね。何か隠してるでしょう。例えば……私が選ばれたせいで、誰かが不幸になるとか」


 不幸――その言葉は暗に「死」を意味する。特に近親者のそれに対して。だからシオンが誰かの死を察知していたとしたら、その候補に挙がる者も限られてくる。


「違います、それは姉さんのせいでは……!」


「シオン」と言いながら妹の肩に置いていた手を頭に置き、「隠し事が下手だね。直接私が原因ではなくても誰かが死んじゃう……それから、私かシオンにも良くないことが起こる。そうね?」


 シオンは数秒無言でいた後、シリウスの胸に飛び込んだ。


「姉さん、私、もう……もう黙っていられません!」


「うん、じゃあ、今夜はゆっくり話をしようか。ちょうど私も話したいことがあったからね」

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