ChapitreⅣ-B:夕凪、あるいは大嵐
絶えず努力して励む者を、われらは救うことができる。
ゲーテ『ファウスト』
しかし、断った後の自分のことを考えると、スピカは後ろに退くのは賢明ではないと思った。一瞬の躊躇いの後、
「ご期待に沿えるか不安ですが、やらせて下さい」と答えた。
「交渉成立だな」
セラトナは右手を差し出し、スピカもそれに応じて握手をする。
「ようこそ、我らが『スコルピウス』へ。ああ、これはこの集会所の名前だよ。さあ早速みんなに紹介するとしようか」
三人はその部屋を出た。するとセラトナは全員に二階の会議室に集合するよう指示を出した。スピカはそのまま階段の上へと案内される。
会議室はだいぶ細長い部屋で、窓が多いため明るく、部屋の中心にはやはり細長い大机がある。部屋の端で待っていると、奇妙な格好をした人々がなだれ込んできた。
全員が着席すると、セラトナはまずスピカを参謀として迎え入れることを紹介した。もちろん反発する声は少なくない。スピカやセラトナが逆の立場でも、間違いなく抗議しただろう。
しかしそれは頭領の篤い人望がなせる業か、彼女の言葉は反対意見を鎮めてしまった。セラトナ、ベガ、リーラの三名が彼女の才能を推したのもその一因だっただろう。
それから、交換条件のことも忘れない。だがこの時スピカは再び壁にぶつかった。マーテルに説明した時もそうだったが、幸助が一体どんな姿に化けているか分からない彼女には説明のしようがなかったのだ。
とはいえ、幸助もスピカと同じく外部から来た存在である。外界との接触が極端に少ないこの集落で不審な男性一人を探し出すのはそう難しいことではない、という結論に至った。名前についてはマーテルに話した時の反省から、偽名を使っている可能性が高いことだけを教えて幸助という本名は口に出さなかった。
そこで会議はお開きになった。参謀が思ったよりも短い会議だったことに驚きを述べると、祭りの準備に追われているからだと説明を受けた。
「お祭りってどんなことをするんですか?」
「一言で説明するのは難しいんですが」これにはリーラが答えた。「目玉は『聖なる塔』と舞の奉納でしょう。この村の守り神である霊鳥様の聖なる炎で、広場に組んだ櫓を燃やすんです。そうすることで村中に霊力が行き渡り、厳しい冬を乗り切れるよう祈りながら舞を奉納する儀式です」
「れいちょう様……?」
「ええ、この村を作ったと言われる、炎を操られる鳥の神様です。一つの家につき一つの人形が飾られていて、祭の時にそれを燃やすのと同時に、新しい人形が配られるんですよ」
スピカはこの屋敷の入り口に案内され、手のひらサイズの人形を見せて貰った。木彫りのそれは、手間暇をかけて作られただろうことが分かるくらいに丁寧だった。命がないにもかかわらず生命力を感じ、燃やしてしまうのが惜しいくらいに精巧な逸品だ。
その時、窓から日が差し込んでスピカの手に乗る人形にぶつかった。オレンジがかった光が彼女の視界を満たし、それはさながら炎のようで、美しさに思わず息を呑んでしまう。
「綺麗……こんなに綺麗な作品なのに燃やしてしまうんですか?」
「ええ。霊鳥様は炎を操られる鳥ですし、その灰が神聖な力を持っているとされるんです。でも必ず燃やさなければならない訳ではありません。行商人の方には売っていますし。欲しければどうぞ。祭の日まで待っていれば新品を渡せますが……そんなに滞在はしませんよね、きっと」
「ありがとうございます」
スピカは人形をポケットに押し込んだ。
「このお祭りは、私たちの村では一年の始まりであり終わりでもあります。その時を狙って私たちは反乱を実行に移すの」
「それっていつですか?」
「五日後ですよ」
「……聞き間違いじゃないですよね。五日後?」
「五日。あまり時間はないけど、スピカちゃんの有能な頭脳なら十分じゃありません? ほら、あなたは祭の準備をする必要はないのですから」
「確かにそうですけど……」
スピカの中にくすぶっていた不安という火がその勢いを増した。反乱軍の参謀という今まで全く縁もゆかりもない仕事が、今さらのように重圧となってのしかかってきたのである。
「リーラさん、セラトナさん。私一人で、しかもそんな短い間に上手く勝つ方法を考えるなんて、自信がありません。もし失敗したら……今さらですけど、責任、重いです」
俯くスピカに、セラトナが優しく声をかけた。
「確かに、私の要求自体が無謀だったことは承知の上さ。君の言うことももっともだ。辞めたいというなら構わないし止めない。我々は君が現れなくても敢行するつもりだったからね」
軽く、スピカの肩に手を置いた。
「先程の約束を破棄するなら、君の友人を捜すという交換条件も取り消しになるが、もちろん承知の上だね?」
「それは……」
彼女にしてみればあまりに大きな痛手だろう。
「それに、私は嘘吐きが嫌いでね。自分の言ったことには責任を持たなくちゃならない、そう思ってる。もし嘘を言っても、その言葉には責任が伴うはずだ。むしろ、その嘘を本当にしてしまうくらいの気概があっても良いんじゃないか?」
嘘。責任。その嘘を本当にする気概。
これらの言葉が少女の心に深く刺さった。
「責任、ですか……」
彼女は、責任感はある方だと自覚している。それに、幸助が見つかる手がかりが得られるかも知れないということが背中を押していたのだが、今ひとつ踏ん切りを付けられずにいた。
「ところで君はさっき『一人で』って言ったね。それは大きな間違いだよ。我々はもう仲間なんだ。同志であり、戦友なんだ。君の助けになることなら喜んで協力しよう。武器が必要なら揃えるし、地図が必要なら提供する。それに、全体ではさっきの部屋にいた数の何倍も味方いる。これでもまだ不安なのか?」
スピカは落としていた視線を上げた。リーラと、そして頭領と目が合う。二人とも笑っていた。
「……ありが――」
「お礼は全部終わってからです」
リーラが言葉を遮った。それに「はい」と答えるスピカの声には凛々しい覇気が宿っていた。
「それで、参謀殿。まずは何が必要かな」
「敵と味方の人数と、この村の地図、それから……皆さんが村長を倒そうとしている理由を。本来ならこっちを最初に聞いておくべきでした」
リーラは承知の返事を出すと屋敷の奥へと消えて行き、頭領と参謀は二階の会議室へと舞い戻る。
「さて、我々が村長を憎んでいる訳だったね。いや確かに、協力して貰うにはまず言っておかなければならなかったのに、すっかり忘れていたよ。でもスピカだってそれを聞かずに承諾したんだ、聞いたから逃げ出す、なんてことはないね?」
「交換条件を約束する限りは」
「ああ、いいだろう。ところでこれから話すことだが、育った環境の違う君に言葉だけで理解して貰えるか、はっきり言って自信がない。実際の現場を見るのが一番だが、あまり時間もないからね。端的に言うと、龍族との戦いを続ける村長の方針が気に入らないんだ。民衆はもう戦争なんてうんざりなんだよ。定期的に地区単位で戦闘訓練を強制されているが、もはや何の意味があるのかという感じさえする。
戦いの度に犠牲者と孤児を増やし、稼ぎは兵隊のために徴集される。しかも村長を必ず男にするために手段を選ばないという話で、酷い噂も絶えないよ。まあ、こんなところか」
「戦争、ですか」
そうしていると、地図が三枚運ばれてきた。しかしいずれも一辺が肩幅ほどしかない小さな紙で、古びて不明瞭だった。一枚はこの村『ゾディアーク』の全体図。十二等分された円に、地区の名前が書いてあるだけのものだ。中央にもう一つ円があり、村長の屋敷オフィユカスの名前がある。残りの二枚は十二ある地区の一つ『スコルピオン』の概略図。これはこの屋敷がある地区のもの。
「情報はこれで全部ですか?」
「今用意出来るのはな」
戦術や戦略といった言葉に無縁な美奈でさえ、これでは作戦を立てるどころではないと呆れかえった。彼女でさえ分かる必要な情報である地形図がこれでは、もはや何もないも同然だった。
「他の地区の詳細な地図はないんですか? もちろん村長の屋敷とその周辺のも。他の地区に行けばありますか?」
「紙が貴重だろ? 各地区に一枚しかないし、持ち出すのは簡単じゃないな。屋敷の、壁の内側となればなおさらだ」
するとセラトナは困った時には酒場だと言い、幹部数人を引き連れマーテルの酒場へと向かうことにした。
「セラトナさん、作戦会議ですからお酒は」
「大丈夫、控えるよ」
「ダメだと言いたかったんです」
頭領は聞いていなかった。
やがて一行は、良く温められた酒場に到着した。主人と二言三言交わしてから、彼女らはテーブルを寄せて座る。そして頭領がいきなり、
「マーテル、この村の全体図持ってない? それからオフィユカスの間取りも」
「何故私に訊くのさ?」
「行商人だったあんたなら屋敷の出入りも許されるだろう? 知ってるだろうと思ってね」
「だいぶ過去の曖昧な記憶でも良いならね。あと情報料高いよ」
マーテルの中では偵察に行くという選択肢は、最初から排除されている。
「成功した暁に払うからさ」
「ダメ。それより、どうしてスピカちゃんが一緒にいるの?」
セラトナが事情を説明すると、マーテルはスピカに詰め寄った。怒ってはいない調子で、
「スピカちゃん、今自分がどれだけ危ないことをしようとしてるか、分かってるの?」
「友達を捜してここまで来たこと自体すでに危ないんですから、大したことありません」
「でも、下手したら死ぬよ? 友達を連れて帰るのが目的なのに、死んじゃ元も子もない」
「ですから私は、探すのを手伝って貰うという交換条件で引き受けたんです。この村を一人で探し回るより、ずっと戦力になります」
マーテルは視線をセラトナへと向けた。頭領は無言で頷く。酒場の主人は一つ息を吐いてから、
「あんたもあんた。よく部外者を参謀に引き込もうなんて突拍子もないことを考えたもんだね」
「私が味方に要求するのは、その能力と協力する意思があるかどうか。生まれや所属はどうでもいいんだ。極端な話、信用さえ出来れば敵方、キャンサーの兵士だって利用するよ、私はね」
「じゃあ私も利用される立場?」
「マーテルだって、代価さえ払ってくれれば取引の相手は関係ないだろう?」
「確かにそう。でも逆に言えば、私が敵に情報を売る可能性もある、ということ。口止め料払う余裕はあるの?」
「情報料しかないよ。だからこれは賭けだ」
言ってセラトナは懐から布の袋を取り出し、マーテルに渡した。その中身を確認すると、店の奥へと消えていった。
*
翌朝、スピカはベガとリーラと共に宿の前で待ち合わせた。地形は平面図で見るより実際に目で見た方が良いと考えたからだ。だが残念なことに、この日は朝から霧がかかっていた。太陽が昇ってからは多少晴れたものの、視界が悪いことに変わりはない。
「困ったわねぇ……スピカ、足元が滑りやすくなってるから気を付けてねぇ」
三人が今いるのは、村に十二本ある、地区を隔てる大通りの一つである。道は石で舗装され、長い間往来に晒されたからか表面はなめらかだ。そして夜の空気に冷やされた石には夜露がまだ付着している。しかもこの集落が山頂に存在するため道は全て坂になっており、動き回るにはあまりに条件が悪かった。
「ところでスピカ、霧を払う知恵はないの?」
「そんなものあるなら是非知りたいです」
彼女自身、この状況には戸惑っていた。実行までに時間がないことを考えると、予定を先延ばしには出来ない。かと言って室内で出来ることは全て昨夜のうちに済んでしまった。マーテルの知る範囲では敵の勢力ははっきりせず、有益な地図情報も得られなかったのである。
「状況が悪くても、行くしかありません」
参謀はそう先陣を切り歩き出した。そして彼女自身、こんな風に勇ましく行動するのは自分らしくないと感じていた。最初に出会ったベガさえも。
「スピカ、今のあなたは最初に会った頃と印象が違う気がするけれど、どっちが本当の姿?」
するとスピカは歩調を緩めて、
「分かりません。けれど、今の私も二日前の私も私なんです。昔は片方が本当で、もう一方は嘘でした。でも昨日セラトナさんが教えてくれました。嘘を吐いても、それを本当にする気概が必要なんだって」
「曲がったことが嫌いなあの人らしい言葉ねぇ」
リーラもそうですねと同意し、「でも」と続ける。「嘘を本当にしようとするくらいなら、最初から嘘を吐かなければいいだけという気もしますけれど」
聞こえてきたベガの同意の声にスピカは薄ら寒さのようなものを覚える。
「……でも、正直であり続けるのも怖いと思いませんか?」
すると二人は不思議そうな顔をしてこの少女を見た。その言葉が理解できないといった様子。
「嘘は、人付き合いをする上での潤滑油なんです。もしそれがなかったらと思うと、私、怖い」
彼女は何かに怯えるかのように両腕を抱えた。
「……スピカ、もしかして、例の友達にも?」
「はい、もうどうすればいいのか分からなくなるくらいに」
「なら、簡単なことじゃないの。こんな危険を冒してまで探し出したいほど大切な友達なら、本当のことを言っても受け入れてくれるでしょ」
「……だと、良いんですけど」
三人はそのまま道の左側を歩き続けた。視界が悪い中では、至近距離に指標となるもの――この場合は立ち並ぶ民家――があった方が動きやすい。横道の関係でたびたび途切れたが、今度は十五歩歩いても何も現れなかった。
「ベガさん、これは……?」
「目的地に着いたのよ」
「じゃあ、ここが『聖なる塔』を燃やす広場」
昨夜のうちに、『ヴィエルジュ』と『バランス』の二地区の間を貫くこの大通りは、村長の邸宅オフィユカスの正面にあることを聞かされていた。そしてその門の前には、祭を始めとした様々な用途に使う大きな広場が設けられている。
スピカは一人で進んだ。やがて目の前に大きな鉄の壁が現れ、彼女の足が止まる。壁と言っても格子状の門扉で、隙間だらけだ。そこから中を覗こうにもやはり霧が邪魔になる。
仕方なく一歩引いて、その高さを確かめてみた。少なくとも彼女の身長の倍はあり、上の方には有刺鉄線のようなものが見える。
そこへ、置き去りにした二人が追いつく。
「待ってスピカ、こんなに近づいたら――」
「誰だ! ここはラザル様のお屋敷だぞ!」
彼女らの左側から、脅迫するような高い声が聞こえた。
「いえ、間違えて来てしまっただけです!」
ベガがそう釈明すると門番は、
「まあ、この霧では仕方あるまい」
そう許しを出してから、去るように忠告した。
その時、スピカの背中側から日光が差し込んできた。すると三人は大きな黒い影にすっぽりと覆われてしまう。驚いて振り返ると、そこには塔のようなものがそびえていた。
「さあ、退くよ」
ベガがそう促すと、三人は広場の端に移動して待機した。間もなく霧が薄れて、広場の中央で組み上げられた木の櫓が姿を現す。
「あれを燃やすんですか」
ざっと見ても五メートルは超える。燃やしてしまう無常観もそうだが、組み上げた技術力にも目を瞠るものがあった。文明レベルの低さを感じていたスピカだったが、これを見たらそれを思い直そうとさえ思えた。
「ええ、綺麗に燃えるんですよ」
そんなリーラの言葉を無視してスピカは視線を鉄の門と、それに続く石壁の方に向けた。するとどうだろう、そちらにもより高い塔がそびえているではないか。こちらは青みがかった石で出来ていて、だいぶしっかりした造りだ。
「あれ、昨日マーテルさんが言っていた見張り塔ですか?」
「そうよ」と答えたのはリーラ。「本当によく作ったものよね、あんなもの。それでスピカちゃん、これからどうする?」
「とりあえず、この屋敷の周りを一周しましょう」
「何もありませんよ? 門は一つきりだし……」
「塀の周りの長さが分かれば、屋敷の大きさも見当が付きます」
言うなり彼女は鉄の門と石の壁の境目のところまで行って立ち止まった。そして、三人はまだ濡れている環状通りを歩き始めた。村長の屋敷の傍であり、先程まで霧が深かったなどの理由はあるのだろうが、とにかく人通りが極端に少ない道だった。
数歩進んだところで、不意にスピカは足を止めて言う。
「リーラさん、門は一つだけだって言いましたよね」
「それが何か?」
「唯一の門が太陽の方に向いているのには、何か訳があるんでしょうか?」
リーラがそれを説明したが、内容はとても単純なものだった。彼ら『ゾディアーク』の人々が神とあがめる霊鳥は、炎を操る神である。そして言うまでもなく太陽は炎の象徴であり、太陽の力を一心に受けるためにそちらを向いているのだ。
*
一方セラトナは参謀の役に立てなかった自分自身に憤慨しつつ、『スコルピウス』で反乱軍の兵力について思案していた。そしてまた、頭領の立場にありながら全容を把握出来ていなかった苦悩にもぶつかっていた。
十二の地区にリーダーを配してそれぞれに仕事をさせていたが、自分以外の十一人との連携が取れていなかった弱点にようやく気付かされた。力ずくでやれば何とかなるという考えは甘かったようだ。改めてスピカの才能を思う。
「やはりこの霧だ、派遣した連絡員は遅れているようだな……」
「そのようですね」と、傍にいた副官が答えた。「近隣地区の『バランス』、『ヴィエルジュ』、『サジテール』は返信がありましたが……やはり祭が迫っている多忙な時期であるのも一因かと」
頭領はふむ、と僅かに唸って立ち上がった。
「どちらへ?」
「机に座って考えていても、私はスピカほど頭は良くないから妙案も出ないよ。この足で歩き回るのが性に合っているんだ、私はね。後は任せたよ」
と言って一人往来に出た。しかしながら行く当てがある訳でもない。幸いにも太陽が出ており、霧はもうすぐ晴れそうだった。
*
三人は途中何度か足を止めながらも一周して、出発したのとは反対側の、門と壁の境目に到着した。そこから早足で出発点まで歩いて行く。もうこの頃には霧は完全に晴れ、日陰だけが濡れている状態だった。
「さあ、戻りましょうか」
「もういいの?」
「これ以上出来ることはありませんから。セラトナさんの所に戻りましょう」
とその時、彼女らの耳にガラガラと不振な物音が聞こえてきた。大通りに目をやると、荷車を引いてこちらに向かってくる姿があった。
「あれは?」
「行商人よ。私達には縁のない人ねぇ」
*
スピカが屋敷の大きさを出そうとした方法というのは実に単純、彼女の歩幅を測って、数えていた歩数倍するだけで外周距離が出せるのだ。
だが歩幅が常に一定であったとは限らないし、途中で数え間違いをした可能性もある。とはいえ最先端技術のような誤差が許されない次元の話ではないので、全て概算で良い。こうやって導き出された距離を六で割れば(屋敷が円の中心にあることを前提とし、その大きさも無視する)門から屋敷までの/距離も導き出せる。
そうやって他の構成員の助力を借りて計算の結果を出したのと同時、セラトナが本拠地に戻ってきた。
「首尾はどうだい、スピカ」
「敷地の大きさを出してみたんですが、思ったより大きいですね。門から屋敷までの距離も結構あって。敵の出方次第では混乱が起きるかも知れません」
「そうか……その敵の情報なんだが、良い情報が近々入る予定だ。これで少しは役立てるかな」
しかしながら、スピカの友人を捜すという伝令が各地に伝わり、兵士の総数が確認できた時には、太陽がもう沈みかけていた。それまでの間、スピカは主戦場となる大通りや広場を歩き、そこに置ける人数を試算していた。しかし、あまり多くの人手を割いても逆に機動力がなくなることを考えたら、ここは戦場としては不向きでもある。彼女に良い案は浮かばなかった。
*
翌朝、スピカはベガの家族と一緒に朝食を摂った後、情報屋との待ち合わせ場所であるマーテルの酒場に来ていた。しばらく待っていると、セラトナ以下『クーデター』の幹部が集まってきた。酒場の主人は注文もしないのに居座る彼女らを快く思わず奥に引っ込んでいる。しばらくすると客人がやってきた。紫のコートに身を包んだ女性だった。
(昨日見かけた行商人だ)とスピカは思った。
「待っていたよ情報屋さん。情報料もちゃんと用意したよ」とセラトナは両腕を広げて迎えた。
彼女は昨日外出した際に、この行商人と遭遇していた。そこで彼女は敵も味方もなく金で動く行商人の性質を利用して、敵方の情報を仕入れようとしたのである。その為に武器に使うはずだった金を使うことになったが、こうして得られる情報は武器以上の価値があった。
「何に使うのかは知らないけど、とにかく庭が広かったわ。四百人いるっていうキャンサーの兵士を全員並べてもまだまだ余裕がありそうね」
敵の勢力が四百人ということは、反乱軍全体の三分の一。数では勝っているが相手は訓練された兵士なので油断は出来ない。
それからその行商人兼情報屋は一枚の紙を取り出して、地図を描き始めた。説明をしながら書き足していき、かなり精密なものが出来上がった。大体の大きさが分かっていればその広さも見当が付く。
「その指揮を執るのは、隣の村との争いを収束に導いたテルとかいう英雄だそうよ」
その言葉には一同が不安げにどよめいた。スピカを除いて。
「村長も自慢げに言っていたわ、その英雄が育てた兵団にもはや『敵』は存在しないだろうって」
「セラトナさん、そのテルって人は……?」スピカが尋ねた。
「一言で表現すれば怪物だ。奴は毒と刀を使って戦うんだが、その強さは村長が前線に出し惜しみする程らしくてね。事実、先の戦争では彼が出てすぐに数多の犠牲と収束がもたらされたんだ」
「あらあら。そんな英雄と戦うつもり?」
商人の言うことももっともだ。同胞を殺すことを多少は躊躇うかも知れないが、それほどの英傑が出てくれば壊滅は必至だった。そしてそれを危ぶんでいるのはスピカとて同じである。
「取引の内容は地図と兵力だけだったはずね」
商人はそう言うと報酬の入った布の袋を持って立ち上がった。そこへスピカがちょっと待って下さい、と声をかけた。
「友達を捜してるんです。こうすけって名前に心当たりはありませんか?」
商人は訝しげな表情を見せ、彼女に事情を説明するよう求めた。その話を聞くと、
「あなたもその友達も迷い込んできたのね?」
「はい」
「そう。悪いけれどその名前は聞いたことがないわ。同じ境遇の人なら何度か目にしたけれど」
「そうですか……ありがとうございました」
礼を言いながら、スピカは「境遇」という言葉の不自然さに感づいていた。
「友達、見つかると良いわね」
商人は踵を返して酒場を去ろうとしたが、出口まで後数歩というところで振り返った。
「そうそう、じきにお触れがあると思うけれど、今日、村長の息子さんが村を視察されるそうよ。嫁探し、とかいう話だけど」
この言葉に勝機を見いだしたのか、幹部らが快哉を上げた。それをセラトナが一喝する。
「違う、これはチャンスなんかじゃない。今攻め込むのは危険過ぎる。そうだろう、スピカ?」
「その通りです。次期村長が出歩くのに、護衛がないはずがありません。間違いなく兵団がそれに当たるでしょうし、さっき言った英雄が出てくる可能性が高く、こちらの勢力もまだまとまりきっていませんし、護衛の数や道順が把握できなくては……」
「そうだ、事を急ぐ必要もない。敵の面を拝める良い機会じゃないか。それに息子のリゲルを倒しても根本的な解決にはならない」
思いのほか慎重な判断を下したので、商人は彼女らの様子を面白がって見ていた。
*
程なくしてその時はやってきた。スピカは兵団に見つかると怪しまれる可能性があり、屋内にいるべきという判断が下された。
がしかし、彼女にも少なからず好奇心はある。そこで最終的にベガの診療所、その二階の窓からこっそり覗くという形になった。
大通りの両端には人々が並び、半分は立ち、半分は頭を下げている。立っているのはいずれも若い娘だった。村長の息子が嫁を探しに視察に来るということだったので、その為だろう。
まずは二人の兵士が槍を振り回して前に出すぎないよう警告し通り過ぎていく。
次に現れたのは、棍棒を持った十人ほどの集団。先程の兵士ほど乱暴ではないが、鋭い視線をあちこちに張り巡らせている。まるで何かを警戒しているようだ。その気迫に怯えたスピカは思わず窓から隠れた。
一隊が過ぎ去ったの見届けてから、思う。
(あれ、今の、みんな女性だった……?)
兵団のイメージと、テルという英雄の話から、現れるのはてっきり男ばかりだと思っていた。次にやってきた兵隊の中にも、男らしき姿はない。スピカはここで、ベガから聞いた男女比が狂っているという話を思い出した。
厚くなり始めた兵隊の流れが俄に途切れた。不審に思ったスピカは思わず窓を開けて少し頭を乗り出す。すると七人が間隔を空けて歩いているのが見え、その背後には武装した人の波があった。七人は一人を中心に置き、残りの六人がそれを囲うという配置である。
その中で目を引くのはやはり、先頭の細身で長身の男だろう。紫色の長髪に、体にぴったり合う灰色の服を着て、その腰には二本の黒い刀を差していた。それだけなら大した特徴のない武人と見えるが、その目つき、纏う雰囲気が常人のそれではなかった。
怯えながら彼を見ていると、その男は突然斜向かいの家の二階の窓に跳躍した。そしてスピカは確信した。それがテルという名の英雄だと。――だとしたら、中心に立つ人物は……
彼女はテルが一人の少女を引きずり部下に引き渡す一部始終を目撃する羽目になった。そしてテルは中心を歩いていた茶髪の青年と何やらもめ始める。
「そんなのってあんまりじゃないか!」
そう叫ぶ声が聞こえた。テルではない。守られるべき人物、その声であることはスピカには明白だった。そして同時に彼女は戦慄する。
「まさか……ね?」
スピカはその青年を凝視せずにはいられなかった。しかし二階の窓からでは、その顔をはっきりとは視認できない。だから彼女は言いつけを無視して階下へ降りて、往来へと飛び出した。
薄い人垣を掻き分け、最前列に出る一歩手前で止まった。ちょうど前に立つ人の陰から行進の様子を窺う。
すると――目が合ってしまう。六人に囲まれる中心人物と。このイベントの核心であろう青年と。
美奈は、硬直して動けなくなった。まさに電撃でも食らったかのような衝撃が走った。彼女は慌てて宿へと駆け戻る。壁に背をもたれて、高鳴っている心音を感じた。目を閉じて、焼き付いた残像を思い出す。やはり、間違いなかった。
「眼鏡はかけてなかったけど、確かに幸助だ……でもどうして?」
素直に状況を飲み込めない。自分の目と耳が確認した限り、顔と声は良く見知った青年のそれである。それらが同一人物であることを証明してはいても、彼が村長の息子という立場にあれば話は別だ。スピカと同じ境遇にあるならば、彼がそんな地位にあることはあり得ない。
「偶然? 偶然だよね?」
のみならず、殺すことになるかも知れない敵なのだ。彼女の心が安らかであるはずはない。そして立場的に、話をして真偽を確かめることも困難だ。
今からでも追いかければ十分間に合う――そういう考えが脳裏をよぎりはしたが、それがあまりに危険であることも理解している彼女には、ただその場で涙を堪えるのが精一杯だった。