ChapitreⅣ-A:大きな野心と小さな嵐
精神的に向上心がないものは馬鹿だ。
夏目漱石『こころ』
テルは屋敷の一角にある本が並べられた部屋にいた。製本の荒い本を取り出しては卓に広げて眺めることをさっきから三度ほど繰り返している。そこへ、薄汚れた白い厚手のジャケットを羽織り赤っぽいズボンを穿き、銀色の羽を持つ女性が現れた。彼女の白い髪は不揃いに切られ、頭の上にぴょこんと一房飛び出ているのが特徴的だ。
「珍しいですね、あなたが、ここにいるなんて」
長い前髪が顔の半分を隠しているので、その表情はうかがい知れない。だが確かに親しみのこもった声色だった。
「……今朝、見慣れない白い翼の少女を見かけたと偵察部隊から報告があった」
「それで、資料漁りなんて、性に合わぬ仕事を?」
女性は本を押さえてページをめくる手を止めさせた。手で髪を掻き上げてテルを見つめる。その灰色の袖口からオレンジ色の布地が覗いた。
「穏便に事を進めたいんだ、混乱を避けるためにラザル様にはまだ教えていない」
「私に話してしまって、よろしいのですか?」
「お前は告げ口するような女じゃないだろ」
女性が手をどけると、テルはそのまま帳面を繰る作業を再開した。全て見終わって立ち上がった時、女性が声をかけた。
「ねえテル、昨日の夜からずっとイライラしているように見えますよ。少し休みません?」
彼がいらだっている理由は、十日前に死んだ本物のリゲルに代わり次期村長となるための準備をしていたところに、突然そっくりな偽者が現れたからである。疲労もそれに拍車をかけていた。
「心配かけてすまないな、ポーラ。今日くらいは……と行きたいが祭りの準備期だしな」
「しかし、キャンサーには優秀な部下がいますから。少しくらい、大丈夫でしょう?」
*
夕刻、リゲルの部屋の扉を叩く者があった。
「シオンです。お食事をお持ちしました」
「ありがとう、入ってくれ」
そしてシオンは、ベッド脇にあるテーブルにお盆を置いた。羽毛布団に俯せになったままのリゲルを見やる。してはいけないことだと分かってはいるものの、疼く気持ちを抑えることは出来なかった。ベッドに近寄り、リゲルの足に触れる。それから指の腹で彼の足を揉み始めた。
「痛くないですか?」
「ああ、気持ちいいよ」
「……リゲル様、不躾とは存じ上げますが、今朝から、いえ昨晩から、一体何をお考えになっているのです? 私にも話せないことなのでしょうか?」
「悪いけど無理だ、これは俺だけの問題だから」
「さようですか……」
シオンの指の力が弱まった。リゲルは言葉を継ぐ。
「そういや昨日、あの娘らから魔女の話を聞いたよ、あまり口にしちゃいけないらしいけど。それでようやく分かった。この屋敷は女ばっかりなんじゃない。そもそも村に男が少ないんだ。腹違いの姉妹はここにいてもしょうがないから自然と離れていくようになる。その結果、今ここには妹が一人住んでいるだけ。一昨日話したがらなかったのは、それが理由だろ?」
「……はい、その通りです」
「他に何か、魔女に関する言い伝えとか……いや、そもそも話すことさえはばかられる話だ、記録なんて残ってるわけないな」
「そうとも言い切れません」とシオンは手を止めて言った。「確かに古い言い伝えで、神話の時代くらい過去の話だとも言われています。ですが誰かしらが、口伝えだったその話を本に書いていたとしても不思議はありません」
リゲルは体を起こし、前屈みになっているシオンを見下ろす形になる。
「心当たりがあるのか?」
「ないとは断言できないだけです。世界は広いそうですから」
と、リゲルはそこで食事にしたいと訴えた。彼はベッドから降りてテーブルに着き、その向かいにシオンが座る。置かれているのは一皿だけ。木の実やら野菜やらを煮込んだスープのようなものだった。
「俺のだけなんだな」リゲルが呟いた。
「ええ、私たちは召使いに過ぎませんから。お先にいただきましたのでお気遣いは結構です。さあ、冷めないうちに」
リゲルは、先程からシオンが落ち着かない様子なのに気付いていた。目の前の主人のことなど上の空で、彼の目を見ようともせず扉の方ばかりを窺っている。もちろん彼が気にかけなかったはずはない。すると彼女は、長居を侍従長に叱られることを心配しているのだと言った。
「お前はリゲル専属の女中のはずだろ。話し相手になるのさえご法度なのか?」
シオンはそれ自体に問題はないが、嫁入り前なのが問題だと説明した。必要以上に親交を深め、男女の仲になってしまっては困るからだ。ならば他に適任者がいそうなものだが、シオンの配属は村長直々の命令なのだという。そのために侍従長でさえも手出しができない厄介な事態になっている。
「私が抜擢された理由は、私が未来予知の能力を持っているからです。他人の未来を夢で見ることもあるのですが、それは私の近辺で起こることが殆どですから」
すると主人は食事の手を止めてこう呟いた。
「お前が正妻になれる立場だったら話は単純だったのにな」
「そうですね……って、え?」召使いは顔を真っ赤にして言った。「リゲル様、それは……どういう意味なのでしょうか?」
「どうも何も、お前が正妻候補の資格を持っていればそんな面倒なことにはなってなかっただろうって意味だよ。どれだけ近くにいても誰も文句を言えないし。予知能力を生かすために傍にいろと言われた時点でそれは結婚しろって意味にも取れる。役に立つから結婚というのは納得行かないが」
「……確かにそうです。ですがその資格が生まれによって決められているのはもうご存知でしょう。私の家は庶民ですし、両親は戦死しています。召使いとして働くのはそういう家に生まれた娘なんですよ。そもそも正妻の資格を持つ娘は召使いとして働きはしませんからね。私は『役に立つ召使いの一人』で十分なんです」
プロポーズと勘違いし慌てた先程までとは態度を一転させ、シオンは気丈とした様子で淡々と語った。この村の現状に何ら不満は抱いていないようにリゲルには見えた。
「ただ、生まれはどうしようもありませんが、この状況を変える手段が二つあります。ただ……」
彼女は俯きがちに目の前の男を見上げた。自然とリゲルの手が止まる。唾を飲み込んでから、何を言いどもっているのかと促した。
「どちらもそう簡単ではありません。方法の一つは、私が誰かと婚約すること、ですが――」
彼女が未婚であることが問題なのだから、そうするだけで簡単に解決する……というのは安直すぎる考えだった。召使いは他に男がいない屋敷の中で暮らしているのだ。相手など探しようもない。
「ここで働く以前にすでに婚約者がいたり、村にいる親族や後見人が形の上でだけ結婚させていたりする場合もありますが、それは本当に少数です。それに女中の夫はこの屋敷に住めませんから根本的な解決とは言えないでしょう。二つ目の方法は、まあこちらの方が多分確実性は高いでしょうが……リゲル様が正妻を見つけることです」
リゲルはむせ返った。
「あの、私何か変なこと申しましたか?」
「いや、何でもない。そんなことで解決策になるのか?」
「ええ。二人目以降、妾には決まりがありませんので、愛人になるかはともかく、どれだけ傍にいても侍従長は文句を言えません。しかし、リゲル様がそこまでお気に掛ける必要はありません。私は一人の女中に過ぎませんから。それに」シオンはおもむろに立ち上がり、「リゲル様は正妻を決めるのを先延ばしにするおつもりでしょう?」
「……やっぱり分かるか」
「ええ。全員を帰したのが何よりの証拠です。そう簡単に決められないということ、ですよね。祭までに決めなければならないからという理由で決めたはいいものの、リゲル様はその人を正妻にしようとは思っていない――そんな予知夢を見ました」
「そうなるだろうと思うし、そうするつもり。まあ、あの村長は納得しないだろうけど」
「当然でしょう。祭りは婚姻の儀式も兼ね、この村では結婚の破棄は忌み嫌われていますから」
「そもそも二日前に来たばかりの俺に結婚して次の村長になれという要求が無茶なんだ。引き受けはしたけど、あれは半分おどしだったしな。諦めるしかないか……というか、お前の予知夢はどのくらいの確率で当たるものなんだ?」
「かれこれ十五年は生きていますが、今まで一度も外したことがありません。私の予知能力は絶対です」
それは頼もしい、とリゲルは皮肉げに肩をすくめながら言った。シオンは悲しげな顔になり、
「頼もしくなんてありません。悲劇が起こると分かっていても、それを防げないのはとても辛いことです。リゲル様の母君が病気にかかるという予知をした時のことですが、どんな対策を尽くしても病気は防げずに亡くなってしまいました」
「……そういうのは今までに何度も?」
シオンはこくりと頷いた。
「ですから、夢を見てもその内容を誰にも話さなかったこともあります。辛いですけど、もう慣れました。本物のリゲル様の時もそうだったのです。母君と同じ病気だと分かっていたのですが、悲しくて誰にも言えませんでした」
「じゃあまさか俺の未来とか、この村の将来とかも、実は知ってるのか?」
「いえ、予知夢は意図して見られるものではありませんし、近い未来しか知り得ません。ですから、この先リゲル様やラザル様がどうなるかはまだ分からないのです」
「まあ、それが良かれ悪しかれ、村の未来についてならあまり言わない方が吉だろうな」
「はい、私はそういう夢をいつか見るんじゃないかと、気が気でないんです」
彼女は俯いて、寒そうに両腕を抱いた。
「シオン、辛いことがあるなら一人で抱え込んじゃダメだ。俺がいるし、シリウスだっているじゃないか。一人で抱えきれないなら誰かと一緒に持って貰うんだよ。決してそれは迷惑なんかじゃないんだ。そういう時に助け合うのが、友達だろ」
主人の口から出た思わぬ言葉に、召使いは戸惑いを隠せなかった。
「――友達、ですか。私が、リゲル様の?」
「むしろ仲間って言うべきなのかな。分かんねえや」
「そんな畏れ多いこと!」
「少なくとも――」その時、不意にドアが開けられた。「――俺はお前を召使いだと思ってないよ」
二人がそちらを向くと、シリウスが立っていた。
「姉さん、ノックしないとは何事ですか!」
するとシリウスは溜め息混じりに答えた。
「侍従長に頼まれたのよ。使いにやったシオンが戻ってこなくて、何か良からぬことを企てているに違いないからその現場を取り押さえろ、なんて言って。リゲル様、ご無礼をお許し下さい」
「俺は構わないが……」
「シオン、早く戻りなさい」
リゲルは残っていたスープを全部掻きこんでから空の皿をシオンに手渡す。女中は一礼してから部屋を後にした。
そしてシリウスは、さっきまで妹が座っていた場所に座り、偽りの権力者と向き合った。
「リゲル様、私達はあなたの召使いないし兵士なのです。それ以上でもそれ以下でもありません。どうか自覚して下さい。ところでシオンと何を話していたのですか?」
「お前には関係のないことだ」
するとシリウスは今まで見せたことがない血相で怒りを露わにした。
「関係ないとは何ですか。一体何を――」
「もういい!」リゲルも声を荒らげてシリウスの言葉を切った。「お前の耳にも入ってるだろ、今日は面会謝絶にして欲しいって」
いくら作り物の要人とはいえ、彼は現村長にその価値を保証された存在である。村の中でもかなりの地位を持つシリウスといえど、彼の命に背くことは許されない。
「出てってくれ」彼は穏やかに言った。
「……はい、申し訳ありませんでした」
シリウスがいなくなり、また彼は独りになった。今日はとにかく孤独になりたかった。独りでものを考えていたかった。だから二人の訪問は彼にとって雑音でしかない。彼は再びベッドに横たわり、今後の自分の展望について考えることにした。
彼の脳裏には、昨晩の名前も覚えていない娘達の言葉が焼き付いていた。
*
翌朝、恒例の朝礼の後、リゲルは村長に町の様子を見たいと要求を出した。しかし、身分の高い彼が庶民の町を訪れられる道理はない。義父に目的を問われ、町に出れば自分好みの娘を見つけることが出来るだろうと説得した。
テルはシオンに何てことを言い出すんだと耳打ちしたが、女中は無言で首を振った。私は関与していない、の意だ。テルは村長が応じるはずはないと考えていたが、それに反し許可が下りた。その理由を問いただしたかったが、村長の決定に尋問や要求をしてはならない決まりで、テルにはどうすることも出来なかった。
それから、指揮官のテルとシリウスの指示により、兵団キャンサーによるリゲルの護衛隊が組まれた。その準備が整ったのは太陽が盛りを過ぎた頃、彼らの言葉で言えば六割の時分だった。
目立つようにと真っ赤なコートを着せられたリゲルはこんな部隊は要らないと二人の指揮官に求めたが、己の立場を分かっていないと諭されてしまった。命を狙われる危険性がない訳ではないかららしい。それを自覚している状況もどうなのか、と幸助は心中で呟いた。
それから、部隊は彼を御輿に乗せて町を闊歩すると説明した。リゲルはその光景を想像してみて、身の毛がよだった。悪目立ちするばかりでなく、浴びる視線には想像でさえ耐えられない。どうにかこれを回避する手だてはないかと模索していると一つの策に到った。すなわち、御輿に乗っていたら飛び道具で狙われやすくなり危険だと言ったのだ。これはシリウスが賛同したおかげで乗らずに済むようになった。
そうすると今度はリゲルが娘たちの顔を護衛のために見られないという問題が生じた。これは先遣部隊により道を空けさせ、後方部隊を厚くし、リゲルに近いところには素早くて力もある者を配備することでテルが妥協した。隊長である彼はリゲルの直前を歩く、そういう手はずになった。
程なくしてリゲルの視察の開始が町中に伝えられ、その行進は村長の屋敷オフィユカスの前から始まった。無数の穴が開いた鉄の門扉が重々しい音と共に開かれる。するとざわめきが聞こえ、リゲルにはこの声が好奇よりも畏怖の感情によると感じられた。
やがて門を通り過ぎると、再び別世界に足を踏み入れたような心地がした。空気が変わったのだ。足元は最初から石畳だし、吹き付ける風は相変わらず冷たい。物理的には今までと何ら変わらないはずなのに、これ以上進んではいけないような恐怖に囚われた。しかし目的を果たすまでは、歩みを止める訳にはいかない。
心の中でおい、と呼びかける。しかし何も起こらず、あの黒い女性のせいではないと分かった。
それから数十歩も進むと、この違和感が気のせいではないことがはっきりした。道の端には村民が立ち並んでいるのだが、そのいずれもがリゲルに芳しくない表情を見せていたのだ。こそこそと話をしているのも見て取れ、もうそれだけで村長に対する不満が人々の中にあることがよく分かる。リゲルの足取りは重くなった。
と、その時リゲルの左後ろにいた護衛の女性が彼の視界を奪うように滑ってきた。何があったのかと恐る恐る見てみると、家の二階の窓から少女が身を乗り出して右手をこちらに向けていた。何かを投げたのだろう。テルがすかさずその窓に向かって跳んだ。空中で腰に差していた刀を抜き、なんとひとっ飛びで窓に突入していった。
狙われたリゲルがその脚力に唖然としていると、激しい物音が聞こえてくる。しばらくしてテルは玄関から傷だらけの少女を引きずって出て来た。その首根っこを掴んで部下に引き渡すと、少女はどこかへと連れ去られていった。
「お怪我はありませんか、リゲル様」
とテルが言う。だがリゲルはそれどころではなかった。
「なあ、あの娘どうなるんだ?」
「ひとまず屋敷に連れて行かれ、それからラザル様の判決を待つことになるでしょう。今回の場合は反逆罪、まず処刑とみて間違いな――」
「そんなのってあんまりじゃないか!」リゲルは声を荒らげてテルの言葉を切った。「いくら何でも処刑はやりすぎじゃ――」
今度は逆に、リゲルが言葉を強制的に止めさせられた。背後から何者かに口を塞がれたのである。
「ご無礼をお許し下さい。しかし、ご自分の立場をご理解下さいと申し上げたはずです」
そう耳元で囁いたのは、シリウスの声だった。彼女が手を離すとリゲルは大人しくなる。
「話は屋敷に戻られた後で聞きましょう。とにかく今は、そういったことをなさらないで下さい。怪しまれかねません」
「無駄口はよせ、シリウス。さあ行きますよ、リゲル様」
テルは持ち場に戻り、進行方向を向いた。リゲルは怒りたいのを堪えて再び歩き出した。こうして町に出た目的を、忘れる訳にはいかなかったのだ。
*
主人を送り出した女中は、屋敷の西側に面した小部屋にいた。この邸宅は基本的に木造であるにもかかわらず、この部屋だけは壁が石を積み上げて作られている。中央には灰が詰まった黒く浅い壷が置かれ、その中では炎がくすぶっていた。
シオンはその横に積まれている木材の山から薪を一本取り、ナタで細く割いてから火にくべた。そうして火をだんだんと大きくしていると、背後から足音がする。振り向くとそこには銀髪の女性が立っていた。
「ポーラさん、こんなところにいらっしゃるとは珍しい。何かご用でしょうか?」
「いえ、別に。兵隊が出払って、暇になったから。この屋敷にいてゆっくり話が出来るのは、あなたくらいだし。侍従長に場所聞いたら、ここだって。それで、これがあの『聖なる炎』? 初めて見たけれど、意外と地味ね」
この壷の中で燃えているのは、霊鳥の炎であると伝承される『聖なる炎』だ。その鳥がこの集落を去る際、寒くならないようにと残していったものである。以来、屋敷の中で消えないようにずっとくすぶり続けている。
この集落に存在する火は全てここからもたらされたものだ。かつてはもう少し大きく燃やされていたが、過去に屋敷が半焼する火事があり、資源を節約するためにも普段は火を小さくして交代で保っている。火を分ける必要がある時だけ、このように薪で大きくするのだ。
ポーラはシオンの隣にしゃがみ込んだ。
「私、火は苦手だけど、やっぱり暖かいのは落ち着くね」
「ええ、寒い中を歩き回ってきた彼らを暖かい部屋で迎えなければなりませんからね」
二人はしばらくその場でじっとしていた。やがてシオンは火箸で炭になった薪をいくつかつまみ、膝元の火鉢に入れた。そして種火の中にまた薪を二本新しく入れると、火鉢を持って立ち上がる。
「さあポーラさん、行きましょうか」
「ええ。手ぶらだと悪いから、薪くらい持って行った方が良いかしらね」
大広間に行くと何人かの女中が待ち構えていて、二人の姿を見て驚いた。無理もないだろう、ポーラは本来こういった雑用はしないのだ。幸いにもここには、彼女をとがめられる数少ない一人の侍従長はいなかった。
「シオン」と銀色の羽を持つ女性が言った。「今、ラザル様や奥様は、祭の準備で屋敷の外。他の女中たちは調理場、キャンサーとリゲル様も出払っている。つまりこの屋敷には、私達しかいないの」
「……ポーラさん?」
シオンには、その言葉の意味が分からなかった。自分を含めこの大部屋に六人しかいないことが、一体何だというのだろう。
「あなた、何を知ってるの。隠したって無理。私には分かるよ、何か隠してる。テルには話さなかったみたいだけど、私になら、言えるでしょ」
それは決して脅迫ではない。ないのだが、シオンにはそう思えなかった。彼女にとってポーラは上司に当たるが、さらにその上に立つリゲルに対する疑心を吐くことは許されない。彼女はどうしようもなく、自分だけの秘密を抱えて生きるしかないのである。黙る彼女に強要する者はいなかった。
その夕方、一行が帰ってきた。女中らはまず玄関で彼らを出迎える。その中にポーラがいたのを認めたテルは、彼女に近づいた。
「何故お前がこんな仕事を」
「兵隊が出払えば、私の仕事はなくなってしまいますからね。それに、私があなたを出迎える用意をして、何が悪いのです?」
リゲルはシオンに上着を渡しながらその光景を見ていた。女中にあれは誰かと尋ねると、
「ポーラさんと言って、テルさんの婚約者であり、副侍従長のお方です」
それからシオンらは手はず通り、暖かい広間と温かい食事でリゲルらを迎え入れた。程なくして、リゲルも同席する兵団の食事会が始まる。
リゲルの位置は当然のように入り口から遠い上座で、周囲とは距離を置いていた。シオンはずっと彼の傍にいたにもかかわらず、結果については全く触れない。返ってくる答えが分かっているからである。テルがそれにしびれを切らした。
「リゲル様、村の視察はどうでしたか?」
シオンが遮ろうとするが、テルの睨むような視線に射すくめられてしまう。リゲルはそうだな、と言葉尻を濁す。とそこへ、
「テル、あなた、他人の恋路が気になるのですか」
フィアンセの腕に自分の細腕を絡ませながら、ポーラが顔を出した。その顔は少し赤らんでいる。
「そうじゃなくてだな――」
「ああそうだ、挨拶がまだでしたね、リゲル様。はじめまして、私は――」
「バカ!」
振る舞いを正さず自己紹介しようとしたポーラの口が塞がれた。視線を上げてテルの目を見る。すぐさま、彼がそうした意図がほろ酔いの頭でも分かった。ポーラにとって「リゲル」は初めて会った男でありそうではないのだ。
テルは、今の会話が誰にも聞こえていないか見渡した。心配には及ばなかったようなのでポーラを解放すると、彼女は失礼しましたと言って頭を下げた。
「……酔っ払うと何するか危なっかしくて見てられん。行くぞ。失礼します、リゲル様」
テルに手を引かれる千鳥足のポーラは、酒のせいか、どこか嬉しそうだった。テルがいなくなったことでリゲルの緊張の糸が解け、思わず溜め息が漏れる。
「リゲル様、お気持ちはお変わりありませんか」
「当然だよ、むしろ何とかしなきゃって思った」
言いながら、杯をシオンに差し出す。女中はそれに酒をつぎ足した。
「と、おっしゃいますと?」
「俺にしかできないことがあるんじゃないか……何となくだけどそう感じたんだよ」
シオンはそれを、村長の息子としての自覚が芽ばえたのだと受け取った。
「では、明日もまたお見合いの席を設けさせていただきますね」
リゲルはやや迷った末に、頼むよと言った。するとシオンはそれを上司に伝えるべく彼の側を離れた。彼はシオンを視線で追う。彼女が広間の出入り口を開けたところには、厚着をした女性と思しき人物が立っていた。女中は先にその女性を通してから退出する。
すると紫のコートを着、フードをかぶったその女性は、躊躇いもなくリゲルの横に座り込み、嘗めるようにリゲルの顔をじろじろと見た。金色のファーがついたフードを脱ぐと、化粧で彩られたきらびやかな顔が露わになった。
凛としながら丸みを帯びたその輪郭、艶めかしく柔らかそうなその唇、挑発的なその目、それらが彼女の成熟した美しさを強調していた。
「ふうん、なかなかいい顔してるじゃない」
と言ってその女性は妖しく笑みかける。幸助とて、その美貌に揺るがない男ではない。
「……何者なんですか、あなた」
「何って、客よ客。ちゃんと村長には許可取ってあるわよ」
と言うとその客人は近くにいた召使いを呼び止め、「酒持ってきなさーい!」と叫びながら腕を振り上げた。と同時にクセのある跳ねた紫の髪が舞い、柔らかい匂いがリゲルの鼻に届いた。
「もしかしてもう酔ってます?」
「いいえ。ところで、事情は聞いてるよ、リゲル君。大変なことに巻き込まれたみたいね?」
女性は口元に手を当てながら、そう囁いた。
「それ、秘密にしろって言われなかったんですか」
「だからこうして小声なんじゃないの」
リゲルは言葉を返そうとしたが、別の女中がとっくりのようなものを持ってきたので黙る。それがいなくなると、
「それで、何を聞きたいんです」
しかし問われた方は答えず、持ってこられた酒をそのまま一気にあおって飲み干した。
「これからどうするの? まさか、このまま村長になって一生を終えるつもりじゃ?」
「まさか。何とかしていずれはここから……」
「ふうん。じゃあ、親父さんに牙をむくのね?」
「まあ……必要とあらば、そうするかも知れませんね。親父と言っても他人ですから」
「そう」
すると客人は再び女中に酒を要求した。
「ところで、あなたは何者なんですか?」
「ああ、名乗るのが遅れたわね。私はマチルド。旅の商人よ」
「行商人ですか。この村にはよく来るんですか?」
「いいえ、二回目。前に来たのは三十日前かしら。この時期に祭をやるって聞いてたから、麓で取引をしてから戻ってきたわけ。お祭を見たらすぐ帰るつもりだったけれど、なんか面白いことが起こりそうね?」