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不法占領下の日々  作者:
第一章:占領開始
15/20

可愛い子に旅をさせる



 文吾は重い口で部下に指示を出し、自らも直江家から立ち去るために玄関の方へと歩く。

 優秀な部下達は、初めから文吾の行動をある程度予測していたのか、ミニガンも既に車に積み込まれ、あれだけ文吾が怒りにまかせて撃ちまわったBB弾も綺麗に回収され、あれだけの騒ぎにも拘らず周辺の住民は部下たちの事情説明で警察への通報はおろか野次馬にさえ来ていない。

 来た時と同じように綺麗な玄関を潜り、来た時と同じように静かな外へ出た。



 外は、静まり返った闇。体をゆっくりと冷やす空気。寂しげな風の音。

 しかし、見上げれば満天の星空が文吾の目に飛び込んだ。きっと明日は晴れだろう。



 気分は良くない。寧ろ最悪だった。

 ついさっき、娘が家を出た。家出娘を連れ帰ろうとミニガンを携えてやって来てみれば、娘に追い返された。

 玄関を出て立ち止まる文吾の後ろを、部下達が心配そうな顔で伺う。

 しかし、今の文吾は会社の責任者というよりは一人の父親として沈んでいる。



「お帰りですか」


 不意に、文吾の後ろから声がする。玄関の中からだ。

 一瞬愛娘の声かと期待した気持ちは、その声が男の声であると理解した瞬間に更に気分を悪くさせた。

 音量こそ大きくないものの、張りのある精悍な声。意思のハッキリした声。

 文吾がゆっくりと振り向き、険のある眼差しを向けると、そこには一人の少年が立っていた。

 直江春馬。この家に一人で暮らしている少年で、先ほど娘を自分から預かった男だ。

 敵意のある鋭い口調を隠そうともせず、文吾は春馬に言う。


「あぁ、娘が帰りたくないと言うものでな…俺は帰る」


「そうですか」


 皮肉を言おうとして、そして今の自分には皮肉を言う気力もないことを悟った文吾は、疲れたように呟いた。

 それにそっけなく返す春馬には、テーブルに座っていた時の様な軽薄な印象は既になく、ただ無表情に文吾を見ていた。


「…俺には娘の気持ちが分からん」

 

 スルリと、文吾は自分でも驚くほど自然に愚痴を溢していた。

 その相手が自分よりも一回りも二回りも年下であるのにも関わらず、文吾は自分の胸の内を吐露する。


「何故ここまでして…親に歯向かってまで自分が不自由になる道を選ぶのか…歪な形の場所へ行くのか」



 いびつ

 正しくない形。

 親の保護の下で暮らす、ごく一般的な家庭から、わざわざ男の一人暮らしに転がり込む、歪な環境へ何故行くのか。

 それが文吾には分からない。それに何のメリットがあるのか理解できない。


「それも含めて、アイツが選んだ道ですよ。それをアイツはアナタに望んだ」


 少年が文吾の問いに答える。しかし、実際には答えになっていない。

 だが、春馬という少年は、文吾よりも揚羽の事を理解しているような口調で文吾の問いに答える。それが文吾の勘に触るが、直ぐに自分の情けなさに直結してまた沈む。

 そんな文吾の様子を察してか、春馬はおどけた調子で話し始めた。


「親子だからと言って、お互いの気持ちが完璧に分かるはずなんてありません。寧ろ、親が子供を愛して子供の幸せを願うほどに、お互いの気持ちは分からなくなるんじゃないでしょかね」


 親が子を思い、子が親を思う。

 しかし、だからと言って、その気持ちが必ずしも良い結果に結びつくということはない。

 愛する我が子を思っての行動が、逆に子供の足枷になった例など星の数ほどにあるだろう。

 親子愛のジレンマ。


「俺の親は今イタリアに居るんですけどね。最初は俺もイタリアに連れて行く予定だったらしいんです。俺にイタリアで一緒に暮らそうって言ってくれました」


 両親はお互いラブラブで、その愛をしっかりと息子である春馬にも注いでくれた。

 春馬も親を愛していたし、こうして育ててくれたことに感謝している。

 しかし、春馬は親の申し出を断った。春馬の事を思って、親子でイタリアで暮らそうと言ってくれる両親の思いをキッパリと断った。


「日本には隼人がいるし、飛沫が居るし、他にも色んな知り合いが居ましたから。…俺は日本が好きだったんです」


 そのことは後悔していない。一人暮らしが寂しくないと言えば嘘になるが、春馬は自分の意思が間違っていたとは思わない。

 しかし、両親の申し出も間違っているとは思わない。イタリアで暮らしていれば、また違った人生が得られたんだろう。

 結局、春馬はどちらも間違ってなどいないと思っている。

 ただ春馬がこの場所に居ることを選んだだけ。


「アイツも一緒ですよ。ただ自分で選んだだけです。きっとアナタの用意した道に行っても、悪い結果にはならなかったでしょうし…寧ろ、そっちを選んだ方が幸せだったのかも」


 正確には分からない。それはただのifだから。

 今あるのは揚羽が直江家という場所を選んだという事実だけ。


「アナタも間違ってないし、揚羽も間違ってない。でも揚羽は自分で決めたルートを選んだ。ただそれだけです」



 そうして人は、道を選んで歩く。







「そう、か…」


 呟いた文吾は、暫く夜空を見上げて、夜風に体を預ける。

 そして、自分の胸ポケットを探ると、煙草の小箱を取出しトントンと叩いて一本抜き取る。

 ゴソゴソと他のポケットを探って火を探していると、気を利かせた部下の一人が懐からジッポを取り出して文吾に差し出す。

 「すまんな」と咥えた煙草を差し出して、火をつけて貰う。

 ふと部下を伺うと、全員が気まずそうな顔をしながら手持無沙汰に立っていた。


「お前ら、先に車に行っていてくれ」


「…よろしいので?」


「あぁ、俺はコイツともう少し世間話に興じておく、エンジン温めといてくれ」


 文吾の支持に、部下達が車の方へと歩いてゆく。

 それを見送りながら、文吾は吸い込んだ煙を肺の中で味わうと、ゆっくりと空中に紫煙をくゆらせた。

 ピリピリと舌を刺激する苦い味が、次第に無意識に全身に入っていた力を解きほぐす。

 玄関で二人きりになった文吾と春馬。煙草の苦い香りが辺りに漂う。


「お前も吸うか?」


「未成年ですよ」


 文吾の気軽な問いに春馬は苦笑する。どうやら苦手なワケではないらしい。

 そういえば、揚羽が煙草が苦手だとかで久しく吸っていなかったな。と文吾は愛娘の影響で自然と禁煙していた自分を改めて自覚し、苦笑する。

 禁煙の理由が自分の健康ではなく揚羽の健康であった所など、まさしく親ばかだ。


「二つだけ、聞いていいか?」


「えぇ…どうぞ」


 ゆっくりと、苦い煙草を味わう文吾は唐突に切り出した。

 春馬に背を向けて夜空を眺める文吾は、煙草の先から灰を落としながら問う。


「アイツが…揚羽がお前に、家に置いて欲しいって頼んだ時。何でお前はその頼みを受けたんだ?」


 敵意は感じられない。純粋に疑問だけが春馬に向けて問われる。

 

「確か「美少女と暮らせるのに断る奴なんか居ない」って言ってたが、本心じゃないんだろう? 俺が来る前には強引な手段で脅迫されて、お前も抵抗していたって隼人からは聞いたが…」


 文吾は実際に見ていないが、甥の隼人から聞いた限りでは、とても春馬が揚羽の味方になるような事は考え得られないほど、揚羽は強引に家に上り込んで、滅茶苦茶な要求を叩きつけて、あげく親子喧嘩に春馬を巻き込んでいる。

 同じ状況を文吾が味わうとすれば、「サッサとこのイカれ女と連れて行ってくれ」と叫ぶだろう。

 自分もミニガンを乱射しておいてなんだが、他人の家でありえない暴挙の数々である。


 しかし、春馬はほとんど躊躇なく、笑みさえ浮かべて、揚羽の頼みを聞いた。


「お前が揚羽を引き取ったとして、お前に発生するメリットは…揚羽の言った通りほぼゼロだ。例えメリットがあったとしても、同時に発生するデメリットと合わせれば簡単にマイナスに転ぶ」


 利益はない。面倒なことばかりの面倒事だ。

 ただご近所の猫を預かるのとはワケが違う。ただ普通の女の子を預かるのともワケが違う。

 春馬もしっかり体験している通り、揚羽は普通の女の子というカテゴリーには含まれない。我が儘で自己中でお金持ちの箱入り娘で銃器持ちで短気で直ぐ暴れる。

 そんな女の子を、一切の躊躇なく自分の家に迎え入れることがなぜできるのか。

 善意という言葉が通じる境界線は、過ぎている。


「お前の、理由はどこにある?」


 吐き出した紫煙が、冷えた空気の中へ溶けてゆく。

 夜空を見上げていた文吾が、振り返って春馬の方を向くと、春馬は苦笑いをしていた。

 痛い所を突かれた、とでも言いたげな表情で春馬はポリポリと頭をかく。


「それは、俺の困った性分でしてね」


「性分?」


「えぇ。親の変な教育方針のおかげで、変な性分が俺にはあるんですよ」


 イタリアに居る親の変な教育方針が、今の春馬を作っている。


「俺が巻き込まれた面倒事の中で、誰かが助けを求めてたら、助けずにはいられないんです。それが、自分にはあまり関係のないことでも、俺が助けれることなら、可能な限り助けないとストレスが溜まるんです」


 困っています。と春馬は苦笑する。

 それが春馬の厄介な性分。元々面倒事に巻き込まれやすいちょっぴり不幸体質にも拘らず、自分から面倒事に飛び込んでいくような事までしているので、相乗効果で春馬は面倒事の泥沼にはまっていく。

 今回のような事も、初めてではない。自分が被害者なのに、春馬が助けたいと思ってしまったから、加害者を助けたことなど沢山あった。


「だから、俺の自己満足なんですよ。俺は自己満足のために揚羽に手を貸したんです。揚羽が自分の道を選べるように、アイツの頼みを聞いてやったんです」


 大した理由はない。

 大仰な思想があるワケでも、利益で選んでいるワケでもない。

 ただの自己満足。

 

「揚羽が自分の道を選んだように、俺も手を貸すことを選んだだけです。理由なんて言葉も大仰に聞こえるぐらい、くだらない理由ですよ」


 そう言ってまた苦笑する春馬に、文吾は微妙な表情を作る。

 納得すればいいのか。笑えばいいのか。怒ればいいのか。判断がつかない。

 人の行動に、そんな簡単に介入しようとするこの少年を怒ればいいのか、自分の価値観に従って人を助けようとする少年に納得すればいいのか。それとも、変な性分だと笑えばいいのか。

 揚羽以上に、この少年の思考が理解できない。


「…難儀だな」


「ははは…」


 微妙な文吾の言葉に、微妙な乾いた笑い声で春馬は返す。

 春馬自身もよく分からない性分なのだから、文吾が理解するのは些か難易度が高すぎるだろう。



「まぁ理解は出来んが、そういうことだとしておこう」


「そうですね。そうしてください」

 

 理解できないことを、理解しないまま丸投げした文吾。

 そういう人間が春馬なのだとしておけば、問題はないと判断する。


「では最後にもう一つ」


 切り替えた文吾は、口に咥えた煙草を指でつまむ。

 フィルター近くまで迫ってきた火を見て、最後に一吸いした後革靴の裏でもみ消した。吸い殻はそのまま手に持って持ち帰ることとする。


「何故俺を挑発した?」


 端的に、単刀直入に、文吾は問う。

 先ほどのリビングで、春馬が文吾に分かりやすいように軽薄で癇に障る表情を浮かべた、あの時の事である。

 まるで、疾しいことで頭を一杯にしている頭の悪い若者のような、軽薄な笑み。

 そして同時に、油断のならない悪党を相手にしているような、ザラザラと肌をなでる不快な眼差し。

 何故一介の高校生がそんな表情を作れるのか。複雑に感情をからませた負の笑みを。

 そして、何故それを文吾に見せつけるのか。


「俺とて会社の重役を担う人間だ。お前が俺をわざと挑発していることぐらい分かる。だが、何故あのタイミングで俺の神経を逆撫でするような事をしたのかが分からない」


 普通ならば、黙って無表情を貫いていても良かった場面である。文吾との交渉は揚羽にまかせておいて、自分は軽く揚羽に味方する姿勢を見せるだけでも良い場面であった。

 春馬が気づいているかは分からないが、揚羽が真っ向から自分の気持ちをぶつけてきた時点で文吾の心は、許可の方向へ傾いており、そのまま春馬に娘を頼むと告げて立ち去るぐらいのことを考えていた。

 しかし、春馬が軽薄で邪悪な笑みを浮かべた瞬間、文吾の親の本能が警鐘を鳴らした。「こんな男の所に、娘を置いて良いのか?」と。直観的に否定的な意見が飛び出して、文吾の気持ちが許可から拒否へと傾いた。


「あの笑みの意味はなんだ? どういった意図を、俺に向けた」


 結果として文吾は許可を出したものの、春馬のあの笑みが不安材料として残る。

 「娘さんは僕が守ります」と大袈裟に言い放つ痛い発言をしろとまでは言わないが、文吾には春馬の笑みがいつまでも不安材料として焼き付いて安心できない。

 

「きっとアナタが今抱いている感情のためですよ」


 春馬の口元が、薄く軽く吊り上る。

 それは、先ほどリビングで見た癇に障る笑み。瞼の裏に張り付いて、まるで春馬が揚羽に毒牙を向けることを連想させるような、邪悪な笑みだ。

 笑いながら春馬は軽い調子で話し始めた。


「俺を信用されては困ります。俺を信頼して、揚羽を任せる、なんて言われては困るからですよ」


 クスリと春馬は笑う。

 文吾は春馬を信用してはならない。文吾にとって、春馬がどこの馬の骨とも知れない男である、つまり赤の他人だと言うことを忘れてはならない。間違っても、娘を任せてもいい男、として見てはならない。

 それを印象つけるための、笑み。


「俺だって男です。女が好きだし、女の体に欲情するし、本能的に女を求めます。それは揚羽でも例外じゃないのは、分かって頂けますよね?」


 文吾の眉間に皺が寄る。春馬の言葉に納得できないのではなく、娘のことを仮にとはいえ欲情の対象にされたためだ。しかし、自分も男としてと言う意味で、春馬の問いに頷く。

 揚羽は美少女である。まだ高校一年生にも関わらず、母親の良い造形を引き継いで可憐な容姿を既に持っている。

 その美少女と一つ屋根の下で暮らすという意味は、軽々しいものではない。

 ルームシェアと言えば聞こえはいいが、要は同棲だ。同時に間違いが起こる可能性も発生する。安っぽいライトノベルじゃあるまいし、何の制限もない男女を同じ家に放り込めば、どうなるかは想像に難くない。

 春馬は暗に、それを言及する。


「それでアナタが、俺を信用してしまえば、俺は俺でも自分を押し留めておけるかは保障できません」


 春馬が軽い人間と言っているワケではない。

 ただ制約の無くなった状態は、文吾は娘の貞操を春馬の理性に頼らざるを得なくなるというだけだ。

 性欲は悪ではない。言い換えれば生殖本能であり、種の保存のために必要不可欠なことだ。

 それを春馬は自分の理性で抑える必要があるが、男女が一緒に生活する上で、そういったことを意識する場面が起きない筈はない。

 春馬は自分ですら疑う。一度揚羽を預かると決めた手前、無責任な言葉を吐くわけにはいかない。


「ですから、宇佐見さんは俺を疑ってください。信用しないでください」


 春馬は文吾をまっすぐに見る。

 しかし、薄暗い周りと、玄関からの逆光で、文吾は春馬の瞳の色から感情を読み取ることが出来ない。


「俺が愛娘を襲う可能性を危惧してください。それが起こらないように、最大限、打てるだけの釘を俺に刺してください」


 制約を春馬に課すことが、唯一安定した生活を送るための方法。

 核という抑止力を用意することで世界が安定するように、制約によって初めて直江家は安定する。

 文吾が打てるだけの釘を打つことによって、結局は春馬が自分を御する理由を得ることが出来る。

 お互いを信頼するのではなく、疑うことで安定を得る。



「俺はアナタの愛娘を奪った、憎むべき敵ですよ。いかに俺から娘を守るかが、アナタの親としての役目です」



 春馬は笑う。軽薄に、邪悪に。

 その笑みが文吾の脳裏に焼き付くことが、直江家の仮初の安定を実現させるのだ。



「おまえは…」


 文吾は絞り出すように苦しい口調で呟く。

 敵意を向けることさえ忘れて、ただただ純粋に、直江春馬という少年を見る。

 何故ここまでの事を、ただの高校生が出来るのか。

 若者らしく後先の考えない、責任のない言葉を言わないのか。

 何故慣れたように、文吾に言い放つことが出来るのか。




 ―――――――――お前は何者だ?

 そう、文吾が続けようとした言葉は、しかし、別の声によって遮られる。




「叔父さん。お帰りですか?」


 春馬の後ろから、隼人が歩いてきてそのまま外へ出る。

 丁度文吾の言葉を遮るような都合のいいタイミングの登場に文吾は怪訝な顔を浮かべるが、問いたかった言葉もそこまで重要な案件ではなかったのでそのまま保留となった。

 頭の端では隼人が玄関より後ろで先程の春馬と自分の会話が聞かれていた可能性を考えているが、しかし、隼人に聞かれたからといって疾しい会話では無かったので、あまり深く考えずに思考を止めた。

 玄関先に、隼人、春馬そして文吾が居る形となった。


「あぁ。色々と迷惑を掛けたな隼人」


「いえ、僕よりも春馬に言ってやってください」


「…あぁそうだな。色々迷惑を掛けて済まなかったな、春馬君」


「いえいえ」


 謙遜する春馬は、いつも通りの笑みを浮かべる。

 その笑みは何の変哲もないただの高校生の笑みで、歳に合った屈託のなさが伺える。

 その笑みに目を細めながら、しかし、わざと気にしないように文吾は隼人に話しかけた。


「夜ももう遅い。俺が車で家まで送ってやろう」


「いえ、お気遣いに対して申し訳ないですが、僕は一人で帰れますので」


「そう言うな。せめてもの詫びだ」


 そう言うと豪快に笑って見せる文吾に、隼人は少し困った顔をする。


「そうですか…ではお言葉に甘えます」


 丁寧に頭を下げる隼人にうむと文吾が頷く。

 


 その時、丁度春馬の影の辺りから、少し小柄な体躯をした人影が飛び出す。

 意を決して飛び出してきた人影は、慌てたように文吾の前までやってくると、腰を九十度に曲げて深く頭を下げた。



「お、お父さん。ありがとうございました!!」



 その人影、宇佐見揚羽は頭を下げたまま大きな声で話す。

 


「我が儘言ってごめんなさい。家が嫌いなワケじゃないんです。だから…たまにはちゃんと帰ります」


 しどろもどろになりながらも、揚羽は目一杯の言葉を文吾にぶつけていた。

 そんな娘の姿を眺めながら、文吾はフゥとため息をつくと、口を開いた。


「揚羽ちゃん」


 ビクンと揚羽の肩が揺れる。

 しかし、文吾の声は優しく。子供を愛する親の声をしていた。


「お前の家ならいつでもある。だから、いつでも帰ってきなさい」


 そのままゆっくりと手を伸ばし、無骨な手で揚羽の綺麗な髪をなでた。

 この子が行きたい道ならば、その道を進ませてやりたい。だが、その道で起こる不幸は娘には味わってほしくない。と思うのは強欲だろうか。傲慢だろうか。

 どちらでも構わない。子の幸せを祈るのが親の務めだ。


「それと」


 ついでに文吾は口を開く。

 下げていた頭を上げさせて、揚羽に笑いかけた。


「俺は”お父さん”よりも”パパ”の方が好きだ。だからパパと呼んでくれ」


「…善処します」


 断言しないのが、文吾の娘のしっかりした所か。

 パパと呼ぶのが嫌そうな娘に寂しい気持ちになりながら、文吾は今度は春馬と揚羽の二人に視線を交互に向ける。


「また金銭面やら通学やら色々と話し合いが必要だろう。また後日尋ねさせてもらうぞ」


「はい」


 しっかりとした返事をしたのは春馬で、揚羽は無言でうなずく。

 そうして言うべきことを全て言った文吾は、部下たちの待つ車の方へ隼人を連れて歩き出す。

 それなりに時間が経っているので、今頃部下たちは車の中で首を長くして待っているだろう。

 私用に駆りだした部下には特別手当が必要だな。と頭の端で考えながら、車の方へ歩く文吾は、途中でふと思い出したように振り返った。

 


「春馬君」


「はい?」


 チョイチョイと、手招きをした文吾に近づく春馬。

 そして近くまで来た春馬に、更に自分から近づいていった文吾はお互いの距離が限りなく近づくと、その大柄な体躯で春馬を包み込むように顔を近づけると、娘に聞こえないように呟く。





「娘に手を出したら、殺す」



 ザラリと肌を逆撫でするような鋭利で凶悪な低い声が、春馬の耳を緩やかに貫く。

 春馬の数倍長く人生を生き、社会を体験した文吾のドスの効いた呟きは、明らかな殺意をチラつかせながらも、どこか余裕の感じられる慣れた口調であった。年季が違うと言いたげな重低音の声は、気の弱い者ならば簡単にすくみ上ってしまうような覇気をふんだんに含んでいる。

 そして、春馬の耳元で呟いた後、文吾の口元は吊り上る。

 先ほどの春馬の軽薄な笑みとは比べ物にならない。何十倍も凶悪で、何十倍も鋭利な笑みを浮かべる。



「娘に不利益になる何をしても、お前を殺そう。お前が間違いを犯したその瞬間、宇佐見家の財力は悉くお前に牙を剥く」



 ポンと、春馬の肩に文吾の無骨な手が置かれる。

 これは文吾の刺す釘。まるで呪いの人形に刺す釘のように、憎悪を込めて春馬に刺す。

 もし春馬が過ちを犯せば、たちまちに春馬の人生を狂わせることの出来る宇佐見家の財力を用いた、文吾の呪い。

 この言葉が枷となり、そして春馬が自分を御する理由とする。



「胸に刻め、肝に銘じろ。決して、忘れるな」



 忘れた時が、お前の人生の終わりだ。


 そう言って、文吾は春馬から離れる。そのまま振り返り、車の方へと歩いてゆく。

 途中で待っていた隼人を連れて、車に乗り込もうとする前に、もう一度振り返って手を振った。

 どこの馬の骨とも知れない男の家で今日から生活すると言う愛娘に、優しい笑顔を浮かべて。



「じゃあな揚羽ちゃん。達者で暮らせ」

 







 


 

  


 








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