Beyond the Curtains
他人を理解するとは、どういうことなのだろう。
哲学者エマニュエル・レヴィナスは、他者を自分の理解や価値観の中に完全に収めることはできないと考えた。他人は、自分の知識だけでは捉えきれない、独立した存在だからだ。
私たちは、誰かの言葉や表情、何気ない仕草から、その人の心を想像する。そして、想像したものを、いつの間にか相手の本心だと思い込んでしまうことがある。
けれど、理解できないことと、理解できるまで知ろうとすることは、同じではない。
相手の心がわからないとき、私たちはそのわからなさを受け入れられるだろうか。それとも、自分が納得できる答えを見つけるまで、相手の内側を覗こうとしてしまうのだろうか。
これは、他人の心を理解しようとした、ある一人の人間の話である。
他人の心を、本当の意味で理解することなんて、できるんだろうか。
どれだけ親しい人間だって、その人が見ている景色を自分がそのまま見ることはできない。相手が赤だと言う色が、自分の見ている赤と同じかなんて、確かめる方法はない。そう考えると、僕たちは毎日、互いに分かり合えているふりをしているだけなのかもしれない。
夜に歩くのが習慣になったのは、大学に入ってからだ。眠るにはまだ早いし、かといって何かをするには遅すぎる、そんな中途半端な時間を持て余していた。住宅街の舗道を歩く。自販機の白い光。塀の上に並んだ植木鉢。どこかの家から聞こえてくる、食器が触れ合う音。そういうものをぼんやり眺めながら、僕はよくくだらないことを考えていた。人間って、よくわからないものをわかったつもりになって生きている。たとえば、他人の心のこととか。
いつもの散歩道の途中に、幼なじみの家があった。
あいつの顔は丸みを帯びていて、頬は柔らかく、顎の線はなんとなくなだらかだった。少し垂れた目はいつも眠そうで、こっちが話を聞いているときも、なんだか別のことを考えているように見えた。前髪が目にかかると、彼女は指先でそれを無造作に横へ払う。髪型にも服装にも頓着しなくて、休日は家でずっと映画を見て過ごすようなやつだった。昔から、外に出るより家にこもっているほうが好きだったらしい。
彼女は妙に落ち着いていた。僕がベラベラ話しているあいだも、急かしたり、無理に同意したりしない。短く相槌を打つだけで、たまに、こっちが全く予想していなかったような球を投げてくる。
「他人の心って、本当の意味で理解できると思う?」
ある日、そう尋ねたら、彼女はスマホから顔を上げた。
「また変なこと考えてるね」
「変じゃないよ。ただ、答えがないだけでさ」
「それを変って言うんじゃないの」
彼女はふっと少しだけ口元を緩めた。
「わからないなら、本人に聞けばいいじゃん」
「聞いたって、本当のこと言うとは限らないだろ」
「じゃあ、どうしたってわからないじゃん」
「まあ、そうなるね」
「じゃあ、もういいんじゃない?」
それきり、彼女はスマホに目を戻してしまった。
僕はその言葉を、帰り道ずっと考えていた。彼女の家の二階には、いつもクリーム色のカーテンが掛かっていた。夜、その窓に明かりがついていることがある。カーテンの向こうに、ぼんやりと人影が見えることもあった。不思議なことに、僕がその家の前を通りかかると、すっとカーテンが閉められることが続いた。最初は偶然だと思った。二度目も、三度目も。でも、さすがに偶然で片付けるには、何回か多すぎた。あいつは、僕が歩いてくるのに気づいているんだろうか。そう思って、すぐに自分で打ち消した。仮に気づいていたとして、それが何だっていうんだ。夜の道を誰が歩いていようと、自分の部屋のカーテンを閉めるのはそのやつの勝手だ。僕たちは、他人の行動に意味を持たせすぎる。LINEの返事が遅いこと。目を合わせてくれなかったこと。別れ際に声が少し低かったこと。そういう些細なことに理由を探して、見つからないと自分で勝手にストーリーを作り上げる。あいつのカーテンについても、きっとそれと同じだ。そう思えば、何も不自然なことはなかった。それでも、カーテンが閉まる瞬間を見るたび、妙にあいつの顔が頭に浮かんだ。あの眠たげな目。話を聞き終えたあと、何を言うべきか少しだけ迷うように止まる唇。そういう細かい部分だけ、やけにはっきりと覚えている。
ある晩のことだった。その窓には明かりがついていなかった。カーテンも開いたままだった。ガラスには街灯の光が白く映り込んでいて、その奥の部屋はただ黒く沈んでいた。僕は思わず足を止めた。あいつは、いなかった。少なくとも、見えるところには。しばらくじっと窓を見つめていると、ガラスに自分の顔がぼんやりと映っていることに気づいた。街灯のせいで輪郭は溶けていて、自分が今どんな顔をしているのか、自分でもよくわからなかった。僕はその頼りない顔をしばらく眺めた。
人間なんて、自分のことすら正確には把握できていない。だったら、他人になおさらわかるわけがない。あいつが何を考えていたのか、あの窓の向こうで何を見ていたのか、結局僕には何もわからない。ただ、あいつはカーテンを閉めた。僕が通るたびに。
それから、どれくらいの時間が経ったんだろう。僕の毎日は、いつの間にか外の景色を失っていた。窓のない、コンクリート色の壁に囲まれた部屋。消灯の合図が鳴ったあとに聞こえるのは、自分の頼りない呼吸音だけだ。目を閉じると、あの夜の冷たい住宅街がフラッシュバックする。街灯の光。植木鉢が並んだ窮屈な玄関。そして、二階の窓。クリーム色のカーテンが、音もなく、ゆっくりと閉じていく。僕は目を閉じたまま、暗闇の中でそれを思い描いている。
私がこういう文を書き始めて初期ぐらいの作品です。楽しんでいただけたでしょうか。
人は、わからないものに意味を与えたがる生き物なのかもしれません。
誰かの沈黙に理由を探し、何気ない仕草に意味を見つけ、自分なりの答えを作り上げていく。
けれど、その答えが相手の本心である保証はどこにもありません。
この物語が描きたかったのは、他人を理解することの難しさだけではなく、理解したいという思いが、いつしか別のものに変わってしまう怖さです。
最後の一文を読み終えたとき、もう一度、物語の最初を思い出していただけたらと思います。




