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今日もまた、コインロッカーで叫んでいる

作者: 一等ダスト
掲載日:2026/06/22

 地下鉄のコインロッカーに背中を丸めて顔をつっ込んでいる人がいた。


 地面に置かれた鞄の上でだらしなく手をぷらりと揺らし、糊のきいたスーツの首から先を400円で借りられるロッカーの中に入れていた。


 プラットフォームからは電車が通過するけたたましい音が普段通り鳴り響き、無数の人々がその勢いに押されるように忙しなく歩いている。


 いつも通りの光景。いつも通りの人の波。


 だからこそ殊更それが目立っていた。


 きっと、誰もが気付いていたはずだ。けれど、その人物に声をかける者は一人もいない。皆、変なものを見るように眉根を寄せ、関わりたくなさそうに歩き去って行く。


 かく言う残業帰りの私も、その中の一人だった。痛む背中を椅子の背に預け、コインロッカーに頭をつっ込んでいる人を呆れたように見つめていた。


 ……生きては、いるのだろう。時折、身じろぎしている。スーツの皺を伸ばすように、手が動く。でも、いつまで経っても顔はコインロッカーから出てこない。


 涙を隠しているのか。何か小さなものがロッカーの奥に滑ってしまったのか。


 ぼんやりとした頭で考えていると、次の電車がやってきたのだろう。どこかで聞いたことのある、鋭い音が耳を劈いた。


 プラットホームを見る。だが電車の姿はない。どころかライトすら見えない。あまりの騒音に耳に手を充てながら電光掲示板を見やったが、到着時刻はまだまだ先だ。


 ならこれは……一体何の音なんだ?


 耳をすませるうちに、その不快な音が微かに上ずったことに気が付いた。


 機械的ではない、生々しく絞り出された不協和音だ。


 線路の先からじゃない。もっと近くだ。


 叫びだ。


「ああああああああああああぁぁぁああ!!」


 一度それを声だと思うと、音は言葉になった。でも、意味はない。


 これは叫んでいる。ただただ声を吐き出している。


 いまや誰もが音の中心を見ていた。コインロッカーに、一斉に顔を向けていた。


 少しして、数多の視線の中を駅員が慌てて駆け抜けてくる。ロッカーに顔をつっ込んでいる人を掴んで、そこから引きはがそうとする。


 するり、と。随分と呆気なく、コインロッカーの中から顔が現れた。


 男だった。隈の深い、疲れた目をした青白くこけた男だ。


 疲れきった表情のせいで一瞬だけ年上に見えたが、私より若いのは間違いない。就職したばかりの一心不乱だったその頃は、私も彼とそれほど違わない顔色だったかもしれない。


 いや、きっと今だってそうだ。


 私を含めて同じように疲れた人々が深夜間近の駅にはたくさんいる。


 それでも皆、じっと座って耐えていると言うのに。


 その男と不意に目が合って。そいつは人ごみの中で確かにこちらに笑いかけて来た。


 唇を異様に歪ませた、気味の悪い笑顔。


 いや、確かにその笑顔は気持ち悪かったが、それよりも何故か腹立たしかったのは眼だ。


 胡乱で、でも勝ち誇ったように細まった双眸。優越感に浸っているような恍惚が、二つの焦げ茶色の奥に垣間見えたのだ。


 けれどそれはほんの一瞬のことで、男はすぐに身なりを正すと礼儀正しく駅員に頭を下げた。


 とても流麗で慣れた動作だった。


 同時に、電車の到着を告げる音声案内がプラットホームに響き渡った。


 電車に乗り込み座席に腰を下ろす。


 始発でさえ時たま人で一杯になる電車内。それでもこの時間帯は比較的空いている。その光景に、私は思わず安堵の息を吐き出した。

 いつも通りだ。


 鞄を膝に乗せ、僅かに顔を上げる。と、駅員に連れていかれる男が窓越しに見えた。


 見るべきではなかったかもしれない。電車は出発し、あのプラットホームと出来事はすぐに私とは関係のないものになっていく。


 それでも優越感に満たされたあの眼を、通り過ぎる夜闇の中に思い浮かべてしまう。


 どれだけ電車が加速しても、頭の中からは離れそうになかった。




 始発はやはり混んでいた。


 人に挟まれ身を捩るのは気分が良いものではない。けれど私も仕方なく誰かを挟んでいる。誰かを不快にさせている。


 嫌な気分だった。こんなこと、いつもは考えない。


 ただ昨日の若者の迷惑行為が、あの叫びと瞳が頭の中で反響している。眠りが浅かったせいで、昨日と今日を切り離せていないのかもしれない。


 あの男が叫んだプラットホームで降りた私は、ロッカーを一瞥した。幾人かがロッカーを利用していたが、男の姿はそこにはない。


 当然だ。昨日駅員から注意を受けただろうし、もしかすると警察や会社に連絡されて自らの迷惑行為の後始末をしているかもしれない。


 近頃はちょっとしたことでもニュースになる。小さなことでも取り上げられる道具や場所があって、それを見たい人もいる。昨日の若者の叫びも、もしかするとその一つになっているかもしれない。


 何となく気になって私はスマートフォンを取り出した。赤信号で足を止められている間に、軽く検索にかけてみる。


 もしかしたらと思っていたが、昨日の出来事は本当にネットニュースに掲載されていた。


 ただそれは、私が思っていたのと違う見出しだった。


『地下鉄で絶叫した男性が消失 現場に残された音声とは【動画あり】』

『絶叫後に消失した男の正体は SNSで憶測広がる』

『拡散動画はフェイクか本物か 専門家が解析した結果は?』


 ……何だこれは?


 信号は青になっていた。動き出す人々の邪魔にならないようにスマートフォンを仕方なくしまい、人の流れを追いかけるように歩き始める。


 消失?昨日の男が、あの後で消えたのか?だとすると、昨日見たのは幽霊だったとでも言うのか?


 あの男が相応の報いを受けていれば良いと思っていただけなのに、私は自分の中の納得をどこにも預けられなかった。


 あれが霊だったとしたら、私があのとき男に覚えた感情を何にぶつければいいんだ?


 背筋を真っすぐに伸ばす気力も起きずに、鞄をぶらりと揺らす。とても仕事をする気分ではなかったが、そうしなければならない。


 入り口はもう、見えている。



 昼休み、そして残業の僅かな気分転換の間、私は噂になっている動画を何度か再生してみた。


 新品みたいにぴっしりとしたスーツ、疲れた顔、茶色の鞄。腹立たしいことに私に見せた笑顔も優越感も浮かべてはいなかったが、間違いなく昨日の男だった。


 動画は短い。中肉中背の背中を丸めた男が駅員と一緒にプラットホームを歩いている。近くで明滅する自動販売機が一瞬暗くなった途端に突然、男だけ切り取られたみたいに音も前兆もなく姿を消す。駅員の驚愕の声が響き渡り、録画映像が大きくゆれて動画は終わる。


「……編集だろ」


 私はそう言葉にした。言葉にして、氷みたいに固めておきたかった。


 頭はぐるぐると廻っている。しかし、納期は待ってくれない。ミスした後で一足先に帰りやがった上司に、遅くまでお疲れ様でしたの言葉を苛立たし気にぶつけるだけで精一杯だ。


 叫ぶ霊なんかよりも、聞く耳を持ってくれない上司の方がよっぽど厄介だ。


 プレゼン資料を作成し終えた私はようやく退社して地下鉄の階段を下っていく。終電間際のプラットホームは他の時間帯より閑散としていて、それが僅かな癒しの時間だった。同じように疲弊した人間同士が、静寂を求めて生み出すあの静けさ。いつも騒がしい場所が普段とは違う様相を見せるのは、気分が良い。


 一息つける小さな居場所。そんなちっぽけな楽しみしかないとも言えるのは、悲しいことだけれど。


 しかし今日のプラットホームは想像とは違っていた。明らかに人が多く、熱気すら感じる。昨日の男の叫びにも負けない騒がしさが、冷たい夜の空気を耳障りに切り裂いていく。


 あるはずの静寂は、撮影機材を持つ多くの人々によって破れていた。


 頭が痛くなる。


 撮影機材を持った人々の多くが、昨日男が首をつっ込んでいたロッカーを見つめていた。空いている椅子を探したが、恐らく噂の動画の真偽を確かめに来た人々によって多くの席が埋まっていた。撮影機材や道具を乗っけている奴さえいる。


 駅員の注意もどこ吹く風だ。


 昨日のあの男の笑顔や優越感に満ちた双眸を見たくはない。だから駅につく前の私は、人間でも霊でも何でもいいからもう出ないでくれ、と願っていた。だが今や、出てきてほしくはない理由はそれだけではなくなってしまった。


 毎度毎度仕事を終える度にこの人ごみの一部になるのは、まっぴらごめんだ。


 スーツが汚れることを恐れて壁に背を預けることも出来ない。仕方なく直立したまま、それでもうとうとしていた私の体が、思わず縮こまった。


 耳を貫く大きなざわめき。


 眼を見開くと、プラットホームに居た人々の視線は一つの場所に集まっていた。


 男がいる。昨日と同じような姿勢で首から先をコインロッカーに預けている。磨かれた黒の革靴を履いた足は微動だにもせず、手だけがぷらぷらと揺れている。


 不気味だが昨日と全く変わりがない姿。思ったよりも冷めた気持ちで、私はそれを見ていた。


 フラッシュの光や機材が起動する音が一斉に放たれる。それでも男に反応はない。


 私はすぐに耳を塞いだ。肺一杯の空気を絞り出すような叫びを、二度とそのまま聞きたくなかった。


 程なく、絶叫が木霊する。


「ああああああああああああぁぁぁああ!!」


 ほんの少し、可笑しく思った。この男が本当に霊か何かの超常の類だとしたら、手で耳を塞ぐだけでなんとかなるもんなんだろうか。霊ってのはもっと理不尽なものだと思っていたのに。


 この場に私一人だったらこんな風に考えられなかったかもしれない。でも今ここには大勢の人が居る。今も、男を夢中で撮り続けている。


 昨日より少しだけ長く、叫びは続いた。しかしそれもやがて止み、代わりに電車の到着を告げる音声が響き渡った。


 私は男を見ずに、電車の中へと素早く移動した。その男の正体が何なのか、気にならないわけではない。ただ、この人込みと騒ぎから自分を切り離したかった。


 座席の僅かな弾力に身を預けると、腰や背が熱を帯びる。このまま誰も居ない家に帰って、数時間もしないうちにまた出社するのだ。せめて今は、目を閉じて心地いい熱の中に浸っていたい。


 電車が出発と同時にガタンと揺れる。咄嗟に、目を開けてしまった。


 見ていた。


 窓越しに、男は私を見ていた。昨日と寸分違わない表情と目で。


 嫌いなものを最後に残してしまった時のように。後味の悪さが、心地いい熱の中に沈殿していく。


 私は目を閉じた。そうするしか、ない。



 どうやら数週間のうちに、世間はあの男を本物の霊だと認めたようだ。


 代表的な動画共有プラットホームでは連日映像が拡散され、海外でも話題になっているらしい。政府でさえも、霊が実在するという見解を完全には否定しなくなった。


 仕事に忙殺されていた私でもそういったことを自然と耳にしてしまうほどに、世間を賑わせている。


 男が頭を入れるロッカーから何も見つからないこと。別のプラットホームにも現れるようになったこと。ここぞとばかりにオカルトの専門家を名乗る者が調査をしているが、憶測以外の何の進展もないこと。


 同僚たちが何度も会社で話すから、そんなことまでをも覚えてしまった。


 ただ、男の霊がいつものプラットホーム以外にも現れるようになったのは幸運だ。どの駅に現れるか分からない一体の霊を追いかける人々は各駅に散らばり、私の通勤経路はある程度落ち着きを見せた。


 それでも、仕事終わりの唯一の安息所であった頃と比べると見る影もない。


 全く、勘弁して欲しいものだ。霊に遭ったから、人ごみが邪魔だから遅刻しました、は通じない。


 はぁ……。


 ……たまに、たまにあの霊と出くわすと、あいつは叫んだ後でいつも私を見つめている気がする。


 見てはいない。すぐに電車に乗って、目を閉じる。二回続いたことで私が過敏になっているだけかもしれない。


 ただその感覚だけは、こぼした絵の具を拭いて伸びた線のように残っていた。



 またも名ばかりの休日だった。昼前に会社からの呼び出しに応じて出勤し、通常勤務より少しだけ早くマンションに戻る。部屋は暗かったが、見慣れたものだ。素早く明かりをつける。


 皺にならないように気を付けながら、スーツをハンガーに掛ける。近くにある埃を被った家庭用ゲーム機のコンセントを挿したのは、どれくらい前だったか。


 別に、ゲームに興味があるわけではない。アリバイを作るように、何となく買っただけだった。今では型落ちしているんだろうか?


 そう、何となく。


 家に帰ると、いつもそうだ。唯一、テレビを付けることだけは習慣と言えるかもしれない。


 カップ麺に沸かした湯を注ぐ。栄養や味よりも、空いた時間の方がありがたい。かと言ってすることはないが、癖のようなものだ。


 そうして箸を取り出すと同時に、速報が飛び込んできた。


『速報です。会社員の男性が、上司と思われる男性を刃物で刺しました。襲われた男性は重体のようです』


 アナウンサーの粛々とした声を聴いて、ぼんやりとテレビを見つめる。


 正直、気持ちが分からなくはない。でも上司だって多分、同じように疲労しているだろうから我慢するしかない。一人で会社のやり方を変えることも出来やしない。


 カップ麺の蓋を開ける前に、私は何となくチャンネルを変えようとした。


 だけど。


 手から、箸がこぼれ落ちていく。からんと落ちた音は、耳朶にも伝わらなかった。


 目だ。あの、優越感に満ちた二つの瞳だ。


 こっちを見ている。


 ……いや、違う。そうじゃない。たまたま、カメラが男を正面から捉えただけだ。


 だから、分かった。


 警察車両の窓越しに映る、あの顔。


 コインロッカーに顔をつっ込む霊と同じだ。


 どういうことなんだ……?


 箸を拾い上げた私は、それを濯ぎに行く気力も沸かなかった。だけどテレビは流れ続ける。


 その会社員の男性のことを、伝え続ける。


『やりたくてやったわけじゃない。でも、誰も助けてくれないから、そうするしかなかった』


 そう供述していることを。


 あの叫ぶ男は霊ではなくて、実在していたんだろうか。


 それとも、ただそっくりなだけなんだろうか。


 分からない。でも、分かる必要はあるんだろうか?


 箸を拾い上げ、カップ麺を啜る。慣れた味は記憶に残らない。食べたことさえ忘れてしまう時がある。


 霊だとしても、実在していたとしても、明日会社が休みになるだろうか。あの笑いを、目を、忘れることが出来るだろうか?


 それはきっと、無理だ。



 400円を入れる。カラン、と何かが落ちる乾いた音がしてから、私は取手に手を当てた。


 開いて見えたのは、横幅数十センチ、奥行き数十センチの無機質なちっぽけな空間だ。


 どこからか、バタン、と音が重なって。でもそれは、開けたのか閉めたのか分からない。


 あの男と霊だと思われていた叫ぶ男の容姿がそっくりであることは、当然話題となった。連日連夜様々な媒体で取り上げられ、無数の憶測が飛び交った。


 上司からパワハラを受けていた。身寄りがいなかった。公園で寝泊まりしていた。給料をせびられていた。


 そんなありそうな背景から。


 双子の弟と代わる代わる働いていた。超能力を持っていた。刺したのは霊で、本人は何もしていない。コインロッカーに、良心を預けてしまった。


 そんな、物語や空想じみたものまで。


 ……馬鹿らしい。考えて、何になるのだろう。


 男が捕まってからふた月が経ったが、事件自体に大きな進展はない。むしろ人々の想像やコンテンツの中で、あの男は肥大化し続けていた。


 ただあれから、プラットホームにあの男は現れなくなった。


 それだけは、確かだ。


 だが。


 反対側のホームを見る。そこにも、コインロッカーを前にして立ちすくむ数人の姿があった。


 いや、違う。きっちり、並んでいる。


 並んで、この小さな空間の中に首から先を預けている。


 一斉に叫んでいる。


 小さな……。


 いや、この小さな空間と私のマンションに何の違いがあるのだろう。すぐに何かを預けられるだけ、閉じ込めて隠せるだけ、コインロッカーの方が便利じゃないだろうか。


 預けようと思っていた鞄は思いっきり押し込んでも中には納まりきらず、はみ出した。


 400円は無駄になったようだ。


 仕方なく私は鞄を背負い、ポケットから耳栓を取り出した。今やこの道具は、どこの店でも品切れだ。


 様々な憶測が広まってから数日のうちに、首から先をコインロッカーにつっ込むものは当然のように現れ、その数は少しずつ増えていっている。


 真剣にこの叫びを聞く奇特な人間は誰も居ないだろう。コインロッカーを全ての駅から撤去するべきだ、と真面目に議論されているくらいだ。


 ……それで本当に、解決するんだろうか。この叫びが聞こえなくなるんだろうか。叫ぶ何かが居なくなるんだろうか。


 何故、叫んでいるだろうか。


 無関心に通り過ぎる人々の波を掻き分け、私はプラットホームの椅子に座った。隣の若者は音楽を聞きながら体をリズミカルに揺らしていて、椅子が嫌に弾む。


 文句を言う気力も起きず、重い溜息が自然と飛び出た。


 ……耳を塞いでも、どこからか叫びが聞こえる。目を閉じても、あの目が浮かぶ。これから先、私が深夜間際の駅で焦がれたあの静けさが訪れることは、もうないのだろう。


 電車が来る。私は残業の疲れを背負ったまま、座席にぐったりと座り込んだ。




 電車が揺れる。速度を上げる。人の形をした何かの叫び声が、一斉に止まった。


 束の間の静寂が訪れる。


 その中の一人がロッカーから顔を出した。


 それは、疲れた顔で電車に乗り込んだ男とそっくりだった。

書いた後で夏のホラー企画を知りました。一応叫びを音としてこれに投稿した方が良かったかな……。

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