ドアの前 :約2000文字
夜。帰宅途中、アパートの廊下を歩き、玄関ドアの前まで来た男は、思わず声を漏らした。
はっとして口をつぐみ、周囲を見回す。階段の陰、植込みの奥、駐車場の暗がり――物陰という物陰に目を凝らしたが、あたりはしんと静まり返っており、遠くで車の走り去る音が聞こえるばかりだった。
男はゆっくりと視線を足元へ落とすと、ドアの前にぽつりと置かれた“それ”に近づき、指先でそっと摘み上げた。
まじまじと見つめる。作り物ではない。脚は内側に折り畳まれ、抜け殻のように軽いが、光沢のある黒い背中と全身に生えた体毛――間違いなく本物のカブトムシだった。
――またか。これはおそらく……。
始まりは昨日の夜だった。
男は同じように玄関ドアの前に何かが落ちていることに気づいた。近づいて覗き込むと、それはよく熟れたまん丸の桃だった。ほんのりと甘い香りがする、いい出来だった。落とし物だろうと考えた男は、うきうきしながらそのまま持ち帰った。
――だが、あれも意図的に置かれたものだったのだ。このカブトムシと同様に……。
これは泥棒の手口。
まずターゲットの家のドアの前に珍しい物を置く。すると、その住人は面白がって写真を撮り、SNSに投稿する。そこからアカウントが特定され、生活圏や帰宅時間、在宅状況――そういった情報が知らないうちに泥棒へ伝わってしまうのだ。
以前どこかで耳にしたその話が蘇り、男は思わず声を上げてしまったのだった。
男はカブトムシを摘んだまま、そっとその場を離れた。近くに怪しい者が潜んでいないか、目を光らせながら歩く。だが幸か不幸か誰一人見つからず、結局男はそのまま帰宅した。
服を着替え、一息ついたものの、眉間の皺は消えない。
……泥棒、か。よく考えたら桃が落ちているのも変だった。しかし、まずいことになったぞ。SNSには投稿していないが、目をつけられた可能性は高い。おれが通報したところで、実害がなければ警察はまともに動かないだろう。今は警戒を強めるしかないか……。
男はそう考え、腹を括った。
だが翌晩、玄関ドアの前で男は思わずたじろいだ。今度は蟹が置かれていたのだ。
――泥棒め、反応がないと見て奮発したな。まあ、これも盗品かもしれないが……。
男は顔をしかめつつ蟹を回収し、家に持ち帰った。
そして、さらに翌晩――。
男はバットケースを背負い、いつもより早い時間に帰路についていた。先回りし、泥棒を捕まえようと考えたのだ。
玄関ドアの前へ行き、まだ何も置かれていないことを確認すると、男はアパートの端へ身を潜めた。ケースからバットを取り出し、両手でぐっと握りしめた。
足音が近づくたびに息を殺し、耳を澄ませる。だが現れるのは、帰宅してきた他の住人たちで、そのたびに深く息をついた。
――まあ……毎晩来るとは限らないしな。
そう思い、ふと玄関のほうを見た、その瞬間だった。
「ある……」
男はぽつりと呟き、足早にドアの前へ駆け寄った。手にしていたバットを放り出し、“それ”へと手を伸ばす。そこに置かれていたのは――
「えっ!」
背後から声が響き、男はびくりと振り返った。そこに立っていたのは、一人の女。口元を手で覆い、目を大きく見開いたまま硬直していた。
女は震えながら口を開いた。
「あ、あの……うちの前で何してるんですか? それって、あたしの……? もしかして、あなたが? 最近なくなってたの……」
「違うよ?」
男は目を見開き、唇を震わせた。
「ほら、よく見て。君、この色は持ってないでしょ? 薄いピンクが好きなんだもんね。知ってるよ。あっ、それとも新しく買ったの? うーん、でも君にはちょっと似合わないんじゃないかな。やっぱり白かピンクが一番――」
そのとき、男はふいに何かの気配を感じた。
言葉は途切れ、はっと視線を塀のほうへ向けた。そして、ぽつりと呟いた。
「お前だったのか……」
そこには一匹のハクビシンがじっと男を見つめていた。
なるほどな……。これは何かの恩返しだったのかもしれない。彼女はとても優しい人だから、きっとどこかで助けたことがあったんだろう。彼女は大学生で駅前のコンビニで働いていて、勤務態度も良く、他の客からも評判が良くて、でもおれにだけ特別な視線を向けてくれて、この前も――。
カラッと乾いた金属音が響いた。
男は反射的にそちらを向く。
次の瞬間、女の振り下ろしたバットが容赦なく男の頭に叩きつけられた。




