細胞との共生
現代人にとってヒトが細胞の集合体であることは周知の事実である。細胞の中には遺伝子があり、遺伝子が細胞全体の統一を担っている。一見、ばらばらである細胞ではあるが、常に遺伝子により再生産されることによって、ヒトという個体は維持されているのだ。
そんな多数の細胞によって培われているヒトの体ではあるが、ヒトの意識、つまりは動物の意識が連続していることが、不思議である。ここで考える自分、そして、それに続く自分が同一なものか、さらにその複数の自分(時間軸という意味で)が連続しているものなのか、という問題は今に至っても解決されてはいない。
しかし、ひとりのヒトが健忘症に至り、過去の自分とは連続していない自分を自覚したとき、それは自分あるいは意識を形而上学的にではなく、物理的に捉えるとどうなるのであろうか?
つまり、
「意識の改変、いや、記憶の捏造というところだろうな」と、昔の自分が語る。これを意識 A と呼ぼう。
「いや、捏造というのは言い過ぎだろう。新たな記憶の付与というのが正しいかもしれない。そもそも、記憶自体は磁気テープのように保存されているものだから、それが改竄されるのは、その磁気テープが書き変えられたのと同じだよ。不可抗力みたいなものだ」、と今の自分が語る。これを意識 B と呼ぼう。
「それは、記憶がランダムに変わるということだろう? 頭の中にメモリがあるとして、それを取り出すには何等かの規則がある。記憶が変わったときには、記憶そのものが変わったのか、取り出すときの規則が変わったのか判別がつかないんじゃないのか? 意識的にだ、つまり、取り出すときの規則自体が変わってしまうことだってあり得る。それは、捏造というものだろう?」
「いやいや、捏造ってのは意識的なものが関わっているのだから、実際にはエラー処理みたいなものじゃないか。記憶そのものや、規則そのものが両方とも変わる可能性はたかい。昔に見た記憶が頭の中のメモリに蓄積される。そのときは、一定の規則によって蓄積されるわけだ。もちろん、書き込むときの規則もメモリ上にある。ちょうどプログラムが動作するようなものだな。その蓄積されている記憶を同じ規則で取り出せば、もともとの自分の記憶を取り出すことができるのだが、規則自体が変わっている場合には、それは同じとは言えない。それが変わっていることは、意識的にやっているわけではなくて、単なるエラーだ。捏造しているとすら、自分で自覚することはできないだろう?」
「記録の改竄と、規則の改竄とは違うということ?」
「そういうことだね。記憶の改竄ってのは、メモリを切り替えてしまうとか、メモリを部分的に書き変えてしまうことだから、意外と簡単にできる。SF だって電脳化されたメモリを外部から書き変えてしまう例だってよくある話じゃないか。メモリの配置さえわかってしまえば、そこをピンポイントに書き変えてしまうことも可能だろう。いや、記憶自体を消してしまうことならば、もっと簡単だ。記憶を保持しているメモリ、つまり細胞の塊を焼き切ってしまえば、そこから何かを取り出すことはできなくなる。つまりは、思い出すことができなくなるということだな。しかし、ヒトの中で記憶というものが改竄されない、いや、記憶が残るという前提があるから、昔の記憶を思い出す、つまりは過去の自分の行動を思い出すというのは当たり前の前提条件としてあるわけだ。過去を思い出すことはそれこそ自然であるということだね。だから、むしろ、思い出せないほうがエラーになるわけで、思い出そうとして思い出せないというエラーがでてしまうと、そのエラーを補うために思い出せない記憶を偽装しはじめる。表面上思い出せた、という正常な動作に寄せるということがヒトの頭の中で起こっていると考えられる」
「それを記憶の改竄や捏造とはいわないのかい?」
「いや、記憶自体が欠落しているし、取り出すときのエラーを補っているから、改竄とまで言えないだろうさ。むしろ、エラーを取り除こうとする正常処理とも言える。フェールセーフという機能さ。思い出せないことを、思い出せないまま精神に異常をきたすよりは、思い出すことがらを作ってしまうほうが楽なんだ。しかしだよ、それは、記憶自体が欠落してしまったときだ。もうひとつのほうの、取り出しの規則が変わってしまう場合もあるだろう。つまりは、メモリに書き込むときの規則と、読み取るときの規則が変わってしまう場合だ。同じ記憶を持っているとしても、読み取りの方式によって変わってしまうわけだから、それは新しい解釈とか成長とか言えるものだろう」
「なるほどね。事実は変わらないけど、解釈次第でどうにでもなるという感じかい?」
「まあ、そんなところだろうさ。時間を遡行しても事実は変わらない。それこそタイムマシーンがない限り過去を変えることはできない。もちろん、メモリを消してしまって電子文書を消すようにきれいさっぱりに無いものとして考えることもできるが、どうかな、それだと頭の中のリスクが高い。余分なところも消しかねない。健忘症になりかねない。しかしだ、同じ過去の事実であっても取り出すときの規則やルールを変えてしまえば、それは別な "過去の事実" として浮かび上がるわけだよ。それは一般的に解釈と呼ばれるものだけど、過去の書き込みのルールが稚拙だったわけでもない。過去の事実を改変しているわけでもない。むしろ、過去の事実はまったく変わらずに記憶として残っているわけだよ」
「そうだな、そのあたりの取り出しの規則を...」
ぷち、ぷち。
俺はにきびを2つ潰した。
「ああ、早く受験が終わらないかなぁ。この三角形の公式がなかなか覚えられないんだよな。書いても書いてもすぐに忘れてしまう。なぜだろう?」
あともう少しだ、頑張れ受験生!
【完】




