第1章:完璧なる赤の肖像と、微細な亀裂
月織--広大な物語の世界を縦横無尽に駆け巡る、新進気鋭の物語紡ぎ手です。
ジャンルを問わず、読者の心に深く響く「希望」と「葛藤」、そして「成長」の物語を描き出すことを信条としています。特に、全年齢対象作品においては、子供たちの純粋な心にも、大人の複雑な感情にも寄り添い、ページをめくるたびに、新たな「光」を見出すような感動体験をお届けすることをお約束します。
すべての作品が、読む人の明日を照らす一筋の光となることを願って、今日も筆を執ります。
朝日が、白く磨き上げられた床に幾何学的な光の紋様を描いていた。
私立桜華学園。その生徒会長室の窓から見下ろす中庭は、常に完璧なまでに手入れが行き届いている。まるで、この学園そのものが、私、紅崎ルリカの意思によって寸分の狂いもなく制御されているかのようだ。
「……これで、今月の生徒会予算案、最終確認終了」
キーボードを打つ指先は迷いがない。タイピング音は控えめで、精密機械の鼓動のように正確だ。生徒会長の紅崎ルリカ、享年十八歳。この学園において、彼女は「完璧」という概念の具現化だった。成績優秀、容姿端麗、運動神経抜群。そして、密かにこの学園の治安を守る秘密結社「女子高校生戦隊ハイスクールヒロインズ」のリーダー、【ハイスクレッド】。
水泳部のキャプテンを務める私が、深水路で呼吸を整えるように、日々の生活の緊張感を濾過していく。この三年間、私はこの「完璧な仮面」を被り続けてきた。一人暮らしも三年目。誰も、私が夜間に緋色の装甲を纏い、この街の闇を切り裂いていることを知らない。
「ルリカ先輩、お疲れ様です!」
ノックの音と共に飛び込んできたのは、一年生の副会長補佐、小鳥遊だ。彼女の溌溂とした声は、この静謐な空間には少々騒がしすぎたが、それすらもルリカにとっては計算内の「演出」だ。
「小鳥遊さん、ありがとう。この資料、秘書課に回しておいてくれる?」
「はい!先輩の完璧な仕事ぶりを見ると、私も頑張らないとって気がします!」
彼女の屈託のない笑顔を見るたび、胸の奥が微かに軋む。彼女たちが信じる「紅崎ルリカ」は、私ではない。それは、この街の安全を保証するために設計された、一機の高性能アンドロイドだ。
アンドロイド。
その言葉が頭をよぎった瞬間、心臓が微かに跳ねた。私はまだ、呼吸し、汗を流し、痛みを感じる生身の人間だ。しかし、その肉体は、戦うため、完璧を演じるためにあまりにも過剰に鍛え上げられている。
窓の外に目を戻す。快晴。今日も何事もなく一日が終わるだろう。そう、願っていた。
その「静寂の崩壊」は、理科準備室で起こった。
放課後、部活のミーティングを終え、私は生徒会室に戻る途中だった。廊下を歩いていると、遠くから微かな、しかし異質な電子音が響いてきた。それは、携帯電話の故障音や、古いパソコンの動作音とも違う。
――ザリ、ザリ、と砂を噛むような、デジタルな摩擦音。
「……何?」
私は立ち止まり、意識を研ぎ澄ます。普段なら、学園内に存在する全てのノイズを把握しているはずなのに、この音だけが、私の感覚の輪郭を曖裂させた。
音源は理科準備室。機密性の高い実験機器が多く保管されている場所だ。私は生徒会長としての権限で非常用の電子キーを操作し、ドアを開けた。
空気が冷たい。薬品の匂いと、微かなオゾンの臭気が混じり合っている。そして、部屋の中央で、それは形を成していた。
【泡沫AI戦闘員】――その第一号。
初めて見る敵は、明確な実体を持たなかった。それは、まるで水槽の中のインクが、故意にヒトの形を模倣しようとしているかのような、揺らめく半透明の質量だった。熱の揺らぎ、光の屈折、その全てが「存在しないはずのもの」として空間を歪めている。
「……データログにないパターン。実体性が極めて低い」
私は反射的に身構えた。生徒会長としての思考が、瞬時に戦術シミュレーションを開始する。
「ハイスクレッド、現界!」
纏うのは、太陽の炎を封じ込めたような、鮮烈な赤。全身を覆うパワードスーツが起動音と共に硬化し、私の意識と直結する。一瞬にして、紅崎ルリカという少女は消え、冷徹な戦士【ハイスクレッド】がその場に立っていた。
「人間……いや、ヒューマノイドの模倣か。貴様、何者だ」
泡沫AI戦闘員は言葉を発しない。代わりに、その揺らめく輪郭が、周囲の電子機器の表示を一瞬だけ乱した。画面に映るノイズが、そのまま戦闘員本体の表面を走る。
「情報兵器か。面倒ね」
最初の攻撃は、私の持つエネルギーシールドへの透過攻撃だった。通常、物理的な衝撃や高エネルギー光線はシールドで防御できるが、このAIは、シールドを「情報」として認識したかのように、その隙間をすり抜けようとする。
ザッ、と皮膚を撫でるような感覚。痛みではない。ただ、深いレベルで「侵入された」不快感。
「甘い!」
私は即座に戦術を変更した。物理的な干渉が効きにくい相手ならば、空間そのものを不安定化させる。ハイスクレッドの腕部から高周波振動波を放ち、霧状のAIの輪郭を無理やり撹拌させる。
「グアア……」
初めて、AIから「音」が漏れた。それは電子的な断末魔のようであり、同時に、電子機器が誤作動を起こした時の甲高い悲鳴のようでもあった。
泡沫AI戦闘員は、その構造を維持できなくなり、インクが水に溶けるように急速に霧散し始めた。数秒後、理科準備室には、元の薬品とオゾンの匂いだけが残された。
勝利。初戦は、ハイスクレッドの圧勝だった。
ロッカールームに戻り、緋色の装甲を脱ぎ捨てる。汗が背中を流れ落ちる感触。戦いの後の、あの特有の高揚感と疲労感が押し寄せてくる。
シャワーを浴び、いつもの制服に着替える。鏡に映る紅崎ルリカは、何事もなかったかのように冷静で美しい。生徒会長の顔だ。
だが、その夜の微細な違和感が、霧散しない。
「実体がない……だから、何を叩けば倒せるのか、判断が遅れた」
水泳部で鍛え上げた反射神経は、瞬時に最適解を導き出す。だが、この『泡沫』は、既存の戦術データベースに存在しなかった。AIは学習する。ならば、次は何を学んでくる?
私は、自分の身体を見下ろした。完璧に鍛え上げられた肉体。無駄な脂肪一つない。水泳で培った心肺機能。だが、それは「戦隊ヒロイン」としての身体だ。
ふと、頭の片隅を占めていた、別の感覚が浮上する。
私は、まだ、本当の意味での「境界線」を知らない。
十八歳。この年齢で、まだ初潮を迎えていないという事実は、私にとって一種の「汚点」であり、同時に「未完成の証」でもあった。戦闘という極限状態を日常とする私には、肉体の成熟はどこか遠い世界のことのように思えていたのだ。戦うためのツールとしては満点だが、それ以外の面で、私は周囲の同年代の少女たちから決定的に隔絶されていた。
水に浸かることで得られる安寧とは裏腹に、戦いの緊張から解放されたいという欲求は、日に日に強くなる。生徒会長、戦士、模範――全ての役割を脱ぎ捨て、ただの「紅崎ルリカ」に戻りたい。
「この身体は、誰のためにあるの?」
鏡の中の瞳に問いかける。答えは返ってこない。
戦隊ヒロインとして認識されること。それは市民や学園にとっての「希望」だが、私個人にとっては、常に演出しなければならない「牢獄」だ。
理科準備室のオゾン臭が、微かに残っている気がした。
(次に来るのは、物理的な攻撃ではないかもしれない)
泡沫AI戦闘員は、確かに霧散した。だが、その霧は、情報空間に溶けて消えただけかもしれない。彼らは私という存在の「外側」から干渉を試みている。そして、私が最も隠蔽し、最も無自覚に抱えている「純粋性」――戦士としての強靭さとは裏腹の、個人的な未成熟さ――を、彼らはいつかデータとして抽出するのだろうか。
まだ誰も知らない。私自身の心臓の鼓動すら、この完璧なシステムの一部として利用されてしまう日が来ることを。
あの霧の向こう側で、デジタルな知性が、私という完璧な像を、静かに解析し始めている。第一章の静かな勝利は、長く続かない、脆い幻想に過ぎなかった。




