EP03-4 壊れた世界で、まだ笑っている
2035年11月。
冬の匂いが、街の隅々にまで沈んでいた。
研究棟の医療フロア。
“スタッフ用フェーズ経過観察室”。
白い天井は、今日も無表情だ。
ベッドの上で、リクは上向きに寝ていた。
腕には点滴。
モニターには心拍とフェーズ値。
フェーズ値は「3」の手前で揺れている。
「……やっぱり、この天井、嫌いだな。」
隣の椅子に座るジンが、視線を天井へ向けたまま答える。
「なんで。」
「“何人送ったかわからない天井”って感じ、しません?」
「……少し、わかる。」
無機質な音が、ゆっくりと室内を満たしていく。
それでも、リクは笑う。
口元だけを使って、壊れないように笑う。
「ジンさん。」
「ん。」
「俺さ……ちゃんと、やれてましたかね。」
「何を。」
「“サラがいない世界を、少しでもマシにする”ってやつ。」
胸の奥に、ひりつく痛み。
どれほど世界を走っても、この痛みだけは消えなかった。
ジンはすぐには答えない。
モニターに映る数字が、静かに揺れている。
「お前がいなかったら、もっと悪かった。」
静かな声だった。
「それだけは、確かだ。」
リクの目が、大きく見開かれる。
「……珍しく、ストレートに。」
「一度しか言わない。」
「やっぱ録音すればよかった……。」
ふたりとも笑った。
その笑いは、ほんの少しだけ部屋を温めた。
「ジンさん。」
「なんだ。」
「悪いな。“残り”、投げて。」
ジンはリクの横顔を見つめた。
そこには、空洞ではなく、まだ“誰かを救いたい”と願う光があった。
「俺がもっと早く気づいてたら……こんな世界、避けられたのかなって、たまに思うんですよ。」
「それは違う。」
ジンは即答した。
「世界規模の歪みだ。お前ひとりでどうにかなるもんじゃない。」
「……ですよね。わかっては、いるんです。」
「でも。」
「でも……心だけが、追いつかない。」
リクは喉を震わせた。
それでも笑顔は崩さない。
崩したら、本当に終わってしまう気がした。
「だからさ。」
それは、丘の上で続かなかった言葉の“答え”だった。
「もし、やり直せる世界線があるならさ。」
目を閉じたまま絞り出す。
「今度こそ、サラも、世界も、ジンさんも……全部、救ってきてください。」
ジンは、静かにその言葉を受け止めた。
「……勝手に決めるな。」
「ひど。」
「俺は万能じゃない。」
「そういうとこ、好きだって言ってますよ。」
「誰が。」
「サラも、きっとそう言う。」
リクは、小さく息を吐いた。
心拍のリズムが、少し乱れ、また戻る。
「ジンさん。」
「なんだ。」
「最後に、一個だけ命令していいですか。」
「命令?」
「はい。」
後輩から、先輩への。
最初で、最後の。
子どものような、弱々しい声の。
命令。
「“ちゃんと、生きてください。”」
その瞬間。
モニターが、音を失った。
世界から、音が消えた。
ジンは叫ばない。
揺らさない。
ただ、握った手の温度が失われていくのを感じるだけ。
沈黙が、部屋の隅々まで満ちる。
――その静寂の奥で。
世界の“膜”のようなものが、ゆっくりときしむ。
ひびが入るように、境界がわずかに揺れる。
突然、まぶたが重く沈む。
視界がゆっくりと暗く染まり、
深い水に沈むように、世界が遠のいていく。
自分の呼吸音すら聞こえない。
ただ、黒が溶け広がる。
そして――
その黒の底に、ただひとつだけ、声が落ちてきた。
『ちゃんと、生きてください。』
◇
まぶたが軽くなる。
光が、静かに差し込んでくる。
蛍光灯ではない。
柔らかな、太陽の光。
耳に飛び込んできたのは、機械音ではなかった。
車の走る音。
人の笑い声。
怒鳴り声。
子どもの泣き声。
風のざわめき。
世界が、生々しく息づいていた。
ジンは、ゆっくりと周りを見渡した。
手の中には、古いスマホが握られている。
画面を点ける。
日付が表示される。
『2030年4月7日』
呼吸が止まる。
目の前には、まだ壊れていない街。
フェーズモニターはなく。
AIの管理音声もない。
誰も、歩幅を揃えていない。
誰も、感情を抑えていない。
胸の奥で、何かが大きくうねった。
「……は?」




